墨田区

2024年11月26日 (火)

隅田公園から三囲神社へ

隅田公園から向島の三囲神社まで歩いてきた。



● 東武鉄道浅草駅の前から隅田公園(台東区)に入り、朝の公園をブラブラ。

・・・・・・・・・・ 朝日に輝く隅田川 チョイトまぶしい!
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・・・・・・・・・・ 秋らしい色に染まってきた公園
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・・・・・・・・・・ 公園の中には、多くの石碑・歌碑・説明板がある。 その内の一つ、昭和25年(1950)から昭和35年(1960)の間、隅田公園(言問橋西詰)周辺には、「アリの街」と呼ばれ、戦災で家や家族を失った人々が廃品回収を生業に働き共同生活する場が存在していた。 現在は整備され当時の様子を物語るものは残っていないが、数年前台東区により、その場所に案内板が設置された。、、、、説明板には『昭和25年(1950)、この地に戦災で家や家族を失った人々が廃品回収を生業に働き共同生活する場が誕生しました。 人々はアリのように勤勉に働き、助け合って生活したことから、アリの街と呼ばれました。 「アリの街のマリア」として知られる北原怜子は、全国の戦争孤児の救済に尽力したポーランド人のゼノ・ゼブロフスキー修道士に導かれ、裕福な家庭の出身ながら、病に冒され二十八歳の短い生涯を閉じるまで、アリの街に移り住み、子ども達を支え続けました。 昭和35年(1960)、アリの街は東京都の要請により江東区に移転されました。 北原怜子の活動は後に映画や舞台化もされ、平成27年(2015)にカトリック教会から日本人女性としてはただ一人「尊者」の称号を得ました。』
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・・・・・・・・・・ 言問橋と桜橋の中間、待乳山聖天と三囲神社を結ぶように、渡し船「竹屋の渡し」があった。 渡しの創設年は不明だが、文政年間(1818~1830)には既にあったそうだ。 昭和3年(1928)言問橋の架設によって、渡しは廃止となったらしい。
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・・・・・・・・・・ 江戸時代、隅田川から遊里「
吉原」へ通う猪牙船(ちょきぶね)が往来した山谷堀。 その山谷堀の最下流(現在の台東リバーサイドスポーツセンタ付近)に架けられた橋が「今戸橋」である。 今戸橋が最初に整備された時期は不明だが、江戸時代に橋を架け渡すという記載が文献に残っているそうだ。 この橋の下を吉原通いの船が通った頃には、その船を親不孝舟などといったといい、「今戸橋上より下を人通る」というほどのにぎわいだったと言われている。 現存する欄干は、大正15年(1926)に竣工した橋の欄干で、山谷堀の埋立てに伴い、昭和62年(1987)現在のような形となった。 
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・・・・・・・・・・ 隅田公園にあった石碑、もう一つ紹介する。 言問橋西詰の公園内に「東京大空襲戦災犠牲者追悼碑」がある。、、、、第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。 その亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。 台東区では、戦後40年(昭和61年)に、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、忘れることが無きよう、この地に碑を建立した。(合掌)
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● ただいま補修工事中の言問橋を渡り、台東区から墨田区へ入る。、、、、朝8時過ぎ、まだ人の動きも少なく静かだ! 
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● 言問橋を渡ると、東詰交差点の手東詰「見番通り」と表示された裏通りに入る。 この道を200m程歩くと向島の花街に「三囲神社(みめぐりじんじゃ)」がある。、、、、宇迦之御魂命を祭神とする囲神社の創建年代は不詳であるが、文和年間(1353~1355)に、近江三井寺の僧源慶が東国遍歴の際に社を改築したと云われている。 その改築をするとき、土を掘ると壺が出土し、白狐にまたがる老翁の像が出てきた。 すると、どこからか白狐が現れ、像の周りを三回回った死んだ、三囲神社の名はこの話に由来するそうだ。、、、、、三井家(越後屋=三越)が江戸に進出すると、社号に使われる文字「」が、三井の「」に塀を張り巡らせて守っているように見えることから、三井家の守護神として崇敬された。 今でも三井家と三井系企業に信仰されている三井家御用達の神社。

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・・・・・・・・・・ 三囲神社のシンボルか? 享和2年(1802)に奉納された、目尻のさがった温和な表情の神狐
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・・・・・・・・・・ 境内には多くの境内社と、歴史を感じさせる歌碑・塚などがある。 その中には三井家に関連する物も多い。、、、、三越呉服店の会長であった日比翁助(ひびおうすけ)の石垣の歌碑『いしがきの 小石大石持合ひて 御代はゆるがぬ 松ヶ枝の色』、、、、三越池袋店のライオン像、、、、明治時代になって拠点を京都から東京に移した呉服商の三井家は、養蚕の神=木嶋神社(京都太秦)を崇敬していた、境内にある三柱鳥居は木嶋神社の鳥居を模して建てられた。
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● 三囲神社をあとにして見番通りを北へ200m程歩くと「向嶋墨堤組合」の建物がある。 ここが、向島芸者の総まとめ「見番(けんばん)」だ!、、、、向嶋墨堤組合は、料亭、置屋、芸妓衆など花街の統括管理が主な業務で、現在、10軒の料亭が加盟し、120名を越える芸妓衆が登録している。規模は都内随一で、作法、所作に始まり、お座敷でのおもてなしの心を身につけるために、西川流や猿若流などの日本舞踊の他、鳴物、清元、長唄、常磐津、笛を専属の師匠について日々修練しているそうだ。、、、、自分の若い頃、一度は行ってみたかった芸者遊び、今は「遊んでみたいが  体力なし」
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● 見番通りをさらに北へ100m、黄檗宗の寺院「牛頭山 弘福寺」がある。、、、、弘福寺は延宝元年(1673)黄檗宗の鉄牛和尚の開山、稲葉正則の開基により香積山弘福寺を現在地に移して建てられた寺院。 江戸時代には鳥取藩池田氏の菩提寺であった。 関東大震災で罹災したが、昭和8年(1933)に、中国の黄檗寺にならって、本堂が大明式建築で再建された。 山門も、昭和8年の再建で、前に控柱が4本あり、門の中央部が2階建てとなっている。、、、、
建物に中国の名残が強く、どこか異国情緒が感じられる、都内でも数少ない黄檗宗の寺院だ!
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● 桜橋を渡り、再び隅田公園に入り、浅草橋の我が家に戻る。 1万歩

2024年10月21日 (月)

八広から東あずま

京成押上線の八広駅から、東武亀戸線の東あずま駅まで、9千歩の散歩です。



● 墨田区の北、荒川沿いにある京成押上線の八広駅は、大正12年(1923)7月11日、「荒川駅」として開業した。 開業当初の駅は荒川(当時は荒川放水路)土手上に位置していたことから、“荒川駅”を名乗っていたが、昭和7年(1932)に墨田区の西側に接する「荒川区」が成立し、紛らわしい状況が続いた。 平成6年(1994)4月1日、紛らわしかった駅名を、当時地名から「八広駅」に変更した。、、、、荒川区は、現在の荒川(=荒川放水路)に接しておらず、区の周囲半分は隅田川に接している。 現在の荒川が荒川の本流となる以前は隅田川が荒川の本流であった。 つまり、荒川区は荒川(=現:隅田川)沿いあったが、荒川放水路が荒川と名乗ったため、“荒川”から離れた。 荒川区には、“荒川”は流れておらず“荒川駅”も無く、“荒川”を名乗るは都電荒川線と荒川遊園地だけだ、寂しいね! 
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・・・・・・・・・・ 八広駅は相対式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線の構造である。 相対式ホーム(1番線)は上り線用、島式ホーム(2、3番線)は下り線用であるが、平日の7時9分発から9時16分発の上り電車は全て島式ホームの2番線から発車する。 相対式ホームは閉鎖され、1番線は優等列車の通過線専用となる。 2番線は上り各駅停車の待避線となる。、、、、島式ホームから人影が見えない相対式ホームを眺め、満員の普通電車を待つ心はイライラ、ムカムカしてるかも?
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● 八広駅から押上方面に向かう八広中央通りにでると、八広5丁目の交差点裏で、紫地色に「八広庚申堂」と染め抜いた旗がコッチャコ~イとなびいてる。 ホイホイつられて庚申堂へ向かう。、、、、庚申堂の門柱脇に櫛型角柱型の馬頭観音がある。右側面に「天下泰平」左側面に「村内安全」とあり、裏面に紀年らしき彫りがあるが読めない。、、、、正面には、3基の石仏を祀った庚申堂がある。 堂内には、左に享保5年(1720)造立の舟型光背型の地蔵菩薩。 中央は元禄2年(1689)造立の駒型庚申塔。 右には造立年代不詳の観音菩薩像が祀られている。、、、、境内の右端には、大師堂があり弘法大師の座像が祀られている。これはこの場所が、南葛八十八ヶ所の第54番札所だったから。
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● 八広中央通りを押上方向に歩いてゆくと、東京朝鮮第五初中級学校の正門前に「八広四丁目交番」がある。 交番横の植込みに隠れるように道標が1基ある。 道標には、「右 や久しみち」「左 ゑとみち」と記されてる。、、、、“やくし道(薬師道)”というのはかつてこの近くにあった木下川薬師を指すようだ。 その木下川薬師は、荒川放水路(現:荒川)の開削工事によって川の中央に水没するため、荒川の向こう岸にある浄光寺とともに移転した。 浄光寺(葛飾区東四つ木1)は青竜山薬王院浄光寺という天台宗の寺院で、現在も木下川薬師を配してる。、、、、植え込みの道標は尖頭角柱型で、やくし=木下川薬師、ゑと=江戸である。 造立年は不詳であるが、享保年間(1716~1735)のものと言われてる。 植込みで見えない側には「大畑村講中」とあるらしい。 江戸幕府八代将軍徳川吉宗の時、吉宗公が木下川薬師に参詣することになり、その道標として大畑村の村民が要所に道標を建立したものの一基であるとされている。(嘘か、真か、わしゃ知らぬ?)
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● 薬師道の道標から20m程南へ歩くと信用金庫の前に、彫刻家:池田宗弘による作品「旅人ー仲間と」がある。 墨田区の景観施策の一環である「まちかどアート」という取り組みで、平成6年(1994)度に設立されたそうだ。 池田宗弘は「真鍮直付け彫刻」という独自の技法で作品を製作するのが特徴だそうだ。、、、、私にはよくわからないが、街角で見かけるような情景で面白そうな作品である。
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● 八広中央通りをさらに歩き、真言宗智山派正覚寺の横を入ると「三輪里稲荷神社」(八広3)がある。、、、、三輪里稲荷神社は、慶長19年(1614)出羽国湯殿山の大日坊長が大畑村(八広、東墨田、立花の一部)の総鎮守として羽黒大神の分霊を勧請し三輪里稲荷大明神として鎮座した。 通称の「こんにゃく稲荷」と呼ばれ、初午の日に授与される「こんにゃくの護符」は、のどや風邪などの病に効くといわれている。、、、、、政界用語では“こんにゃく”は100万円の札束を言う。 裏金として“こんにゃく1丁”なら100万円、2丁なら200万円。 私なら1丁と言わず、2丁でも、3丁でも貰うのだが、万病に効きそうな“こんにゃく”だからね!
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● 三輪里稲荷神社に参った後は、裏道に入り八広中央通りから外れてしまった。 八広はなみずき通りを横断し、さらに裏道を歩くと、東武亀戸線と平行する都道476号(=丸八通り)に出た。
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東武亀戸線の「東あずま駅に到着、今日の散歩はここまでとする。、、、、昭和3年(1928)4月15日、平井街道駅として開業したが、昭和20(1945)平井街道駅は廃止された。 昭和31年(1956)5月20日、東あずま駅として再開業した。
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2024年9月 5日 (木)

鳳凰堂を模した燈明寺

昨日は爽やかな風が吹く一日であった。 今日も秋風を期待し早朝の散歩に出た。 私の住む浅草橋からJR総武線で千葉方向に4駅目「平井駅」で下車し、スカイツリーのある押上まで歩いてきた。 ただし、持参したカメラのバッテリーが切れ、写真は途中の小村井駅まで、チョイト残念!




平井駅(江戸川区)は明治32年(1899)4月28日に総武鉄道(私鉄)の駅として開業。 明治40年(1907)には総武鉄道が鉄道国有法により買収、国有化され、官設鉄道の駅となる。 中央・総武線各駅停車しか停車しない浅草橋駅と同様に都心の冴えない駅である。 1日平均乗車人員は約3万人である。

・・・・・・・・・・ 朝8時頃、乗る人、降りる人、通勤通学客で駅は混んでる。 お勤め、ご苦労様です! 
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・・・・・・・・・・ 平井駅に到着する千葉方面から都心に向かう電車は、既に満員状態。 乗れない人もいるようだ、可哀そうに遅刻しちゃうぞ!

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・・・・・・・・・・ まだまだ夏の名残り、暑い暑い!

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・・・・・・・・・・ 駅北口の真ん前に建築中のタワマン、もうすぐ出来上がり! ちなみにネットを見ると、29階・3LDK(120.59m2 )で、価格は約2億5千万円也。 チョイト、私には買えないね!

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● 平井駅から北西に歩いて徒歩10分、旧中川の近くに「燈明寺」がある。 燈明寺は、新義真言宗に属し明雅山明王院と称し、本尊の不動明王(私は拝見したことがないが)は身長1丈3勺(3.9m)で胎内に弘法大師1刀3札の不動明王を安置してるそうだ。 燈明寺の創建年代については不詳であるが、元暁という僧により開山されたそうだ。 江戸時代中期の寛延2年(1749)に示寂した恵祐がこの寺を中興して聖天を勧請して堂を建て、以後「平井聖天」として有名になった寺である。
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・・・・・・・・・・ 燈明寺は、安政の地震(1855)で堂宇を損傷、関東大震災(1923)では本堂全壊という災禍にあう。 当時の関澄道貫主(26世)によって京都宇治平等院風の三屋根造りの優雅で荘厳な本堂が建立された。 昭和4年(1929)に起工し同19年(1944)に完成した。 建物は総高14.4m、幅17.1m、奥行27mの金堂造りである。、、、、たしかに、平等院鳳凰堂を模したという本堂は、近建築でありながら風格ある佇まいだ! (平等院鳳凰堂を知らない人は10円硬貨をよく見てチョ!)

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・・・・・・・・・・ 燈明寺の別堂である聖天堂は「平井聖天」といわれ、昔から待乳山聖天、妻沼聖天とならぶ関東三聖天の一つである。 江戸時代には歴代将軍の鷹狩の時、聖天に参詣され、また御膳所にもなっていた。 この聖天堂は、里見八犬伝の物語や桧山騒動の相馬大作の祈願したことなどでもその名を知られ、昔から多くの人の信仰を集めている。 毎年節分会に柴燈護摩(火渡り)を行っているそうだ。、、、、大根と巾着など、聖天さまと縁のあるものを探して見たら、賽銭箱に大根の文様があった! 

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● 燈明寺の隣りには「平井諏訪神社」がある。 創建年代は享保年間(1716~1736) 祭神は建御名方命で、信濃国一ノ宮諏訪神社の分社である。 享保年間に燈明寺の恵祐法印が、自分が生まれた国である信州の諏訪大明神の神霊をここに祀ったのが始まりと言われてる。 境内の中央の現社殿は昭和44年(1969)に新築。 再来週は例大祭なので、準備が進められている。、、、、広い境内ではないが、よく整備され気持ちよく参拝できる。

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● 平井諏訪神社の西側、旧中川に「平井橋」が架かっている。 江戸川区平井と墨田区立花を結ぶ長さ55.4mの橋である。 昔はここに平井の渡しがあり、行徳、船橋へとつないでいた。
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● 平井橋から1㎞程西へ歩くと、東武鉄道亀戸線の小村井駅(おむらいえき)がある。 小村井駅は、墨田区文花2丁目にある駅で、昭和3年(1928)4月15日に開業した。 相対式ホーム2面2線の地上駅。 駅舎は曳舟方面ホームの東あずま寄りにあり、上下線ホーム間を連絡する地下通路が設置されている。、、、、小さな駅舎、2両編成の列車が停まる短い地上ホーム、昭和の香りが漂う大都会のローカル駅。
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● ここで、カメラのバッテリー容量が無くなっていることに気づき、撮影中断、残念無念!

2024年2月19日 (月)

意地で1万3千歩

最近歩く機会が少なく、体力が落ちてきたかも?? 今朝、食事をしながら『チョイト、歩いてくるね』 TVの天気予報は、文京区の椿山荘からLIVE中継。 『アレ、傘さしてる!』 食事が済んで外を見ると、我が家の周辺は濡れているが、雨は止んでる。 妻『傘を持って行ってね!』 私『雨は降らない、もし降ったらすぐに帰って来る。 男の散歩に傘は邪魔だ!』 傘を持たずに飛び出した。




● 家を出たが、さてさて何処へ行こうかな? 家を出て1分『アレ、雨粒が落ちてきた。 コリャ、遠くに行けないな』 本降りになっても、すぐにバスに乗って帰れるように浅草方面に歩きだす。 我が家と同じ町にある「須賀神社」に手を合わせ、『雨がやみますように!』と神頼み。

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蔵前一丁目交差点に来ると、傘をさす人も多い。 ココまで、我が家から真直ぐ歩いて、徒歩8分。 いまさら、我が家に戻って『散歩は止めた!』と妻に言うのは男として情けない! もう少し歩いて、本降りになったら帰ることにしようと決める。、、、、『この雨、本降りになるかも?』チョイト、不安がよぎる。 『そうだ、川向こうの東京都慰霊堂に行こう!』雨が降っても雨宿りできる。 これより、蔵前橋通りを歩く。

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● 小雨がパラパラ。 カメラが濡れるのを拭きながら蔵前橋を渡る。

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東京都慰霊堂に来ると、傘をさす学生も少ない。 雨は霧雨となった。 これなら、もうチョイト歩いて見よう!

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石原三丁目交差点まで来ると、雨は止んだ。 服は湿っぽくなったが、『ヨシ、もう少し散歩を続けよう!』 

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法恩寺橋を渡る頃には、道は乾き、雨は完全に止んだ。 これで、今日散歩に出た、男の面目が立った!

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錦糸町駅近くを通過。 傘をさす人はいない。

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天神橋を渡り、くず餅屋さん亀戸天神前を通過。 男の意地で小岩駅まで歩くつもり。

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東武亀戸線を越える頃、チョイト足が痛くなってきた。 アリャ、コリャ、歳だな、脚力が弱くなったか?、、、、江東新橋を渡り、江戸川区に入る。

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● 江戸川区に入り、平井駅前のタワマン工事現場まで来ると、足の疲れが出た! 我が家の家訓(?)、“年寄りの 無理は禁物”を思い出し、今日の散歩はここ平井駅までとする。 小岩まで歩くつもりが平井でギブアップ、1万3千歩の散歩でした。

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2024年2月13日 (火)

八広から南千住

天気予報では、暖かくなり散歩日和となるそうだ。 今日は、京成押上線の八広駅で降り、東武伊勢崎線の鐘ヶ淵駅前をとおり、南千住駅まで1万歩の散歩です。



● 関東大震災があった大正12年(1923)9月1日より2カ月程前の、7月11日に「荒川駅」として開業したが「八広駅」の始まりである。 荒川駅は荒川(当時は荒川放水路)の土手上に位置していたことに由来している。 駅名は平成6年(1994)4月1日に「八広駅」に改称したが、駅の位置は変わっておらず、ホームの先には荒川橋梁がある。、、、、駅名の「八広」は町名の八広に由来する。 町名の「八広」は、昭和40年(1965)の住居表示実施に伴い寺島町6・8丁目、隅田町4丁目・吾嬬町西5~9丁目の8地区が合併して成立したため、「八」の字を採り、その字体から「末広がり」の縁起を担いで命名された。、、、、駅の高架化が完成した平成11年(1999)からは、ホームは3階となり、1番線が片面、2・3番線が島式の2面3線構造。 朝ラッシュ時には1番線が通過列車専用となり、2番線が上り、3番線が下りホームとなる。 改札は2階で1ヶ所のみ。

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・・・・・・・・・・ 駅周辺には大きなスーパーは無く、駅前の喫茶店は無く、パチンコ屋も無く、カラオケも無く、下町の家並みだけが目に入る!

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● 八広駅から鐘ヶ淵駅に向かう、鐘ヶ淵通り(都道:補助第120号線)の拡幅工事が始まっている。 現在は「Ⅰ期区間」として、墨田区墨田3丁目~東向島5丁目の約370mの幅員を20~23m(既存の道路幅の倍以上)に拡幅してる。 拡幅の目的は、防災拠点への避難路(補助120号線)の整備と沿道の不燃化促進による延焼遮断帯の形成を目指し、街路整備と沿道まちづくりの一体的な整備を行っているそうだ。、、、、いずれ起きると思われる、大震災に向けての対策か? 整備を着実に進めて欲しいね。

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鐘ヶ淵駅前を歩く。 この駅前踏切を見ると、必ず“自らの脱臼事件”を思い出し、以来、踏切の横断、写真撮影などに注意するようになった。、、、、思い出多い踏切である。

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● 隅田川に架かる「水神大橋」を渡り、墨田区堤通から荒川区南千住の町に入る。、、、、水神大橋(すいじんおおはし)の橋名は東岸の墨田区堤通2にある「隅田川神社(水神宮)」に因む。 橋が架けられたのは平成元年(1989)3月で、隅田川の橋としては新しい方だ。 工事は橋の組み立てを陸上で行い、橋桁を台船に乗せて干満の差を利用して橋脚に乗せるという方法を利用した。、、、、両岸の汐入公園(荒川区)、東白鬚公園(墨田区)は東京都の防災拠点として位置づけられており、そのため双方を繋ぐ連絡橋として千住汐入大橋と共に計画された。 当初は歩行者専用橋で、接続する道路の整備が完了した平成8年(1996)より自動車道路供用が開始された。、、、、橋の諸元は、種別:鋼道路橋、形式:3径間連続ニールセンローゼ桁橋、橋長:157.0m、最大支間:102.0m、幅員:17.0m、着工:昭和59年(1984)、竣工:平成元年(1989)

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● 水神大橋の上から汐入公園の方を見ると、川岸に「隅田川旧防潮堤」の一部が残されている。 公園が整備される以前は、この防潮堤が川の両岸に構築され、高度成長期の“どぶ川”として隅田川は親しみある川ではなかった。 今は、川下の中央区まで「隅田川テラス」が整備され親しみやすい川となった。

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● 汐入公園を抜けると、JR南千住駅の東側に広がるJR貨物の隅田川駅がある。 フェンスの隙間から覗きながら南千住駅へ向かう。 電気機関車が並んでる、鉄道オタクにはたまらん光景!

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南千住駅に到着。 駅前に、東京駅行きのバスが停車してる。 『ラッキー このバスは浅草橋駅前を通る しかも敬老パスで料金は払わずOK』 我が家までのんびりバスに揺られて帰ることにした。

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2024年1月31日 (水)

梅は咲いたか

京成曳舟駅から墨田区京島・文花、江東区亀戸の町を歩き亀戸駅まで、1万歩の散歩です。




● 我が家のある浅草橋駅から都営浅草線に乗り5駅目(駅から駅まで約10分)、スカイツリーのある押上駅の次が京成曳舟駅。、、、、京成曳舟駅は平成25年(2013)頃までは地上駅であったが、平成27年(2015)には上下線の高架化が完了した。 高架化後は相対式ホーム2面2線を有する高架駅となり、駅前のロータリーも整備され、周囲には数棟のタワマンも建ち並んでる。 1日平均乗降人員は約18,000人で、大きな駅ではないが、“やぼったい京成らしさ”が抜け落ち、明るいスマートな駅に変わった。

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● 駅前から南に歩く。 駅の南に広がる京島地区は、第二次世界大戦による戦災から免れた地域で、戦後は緊急車両も通れない木造密集地区として重点的に整備が行われてる。、、、、京島地区には大正時代からの昭和初期の長屋などが現存し、古い家屋と町工場が混在し、東京でも下町の古い街並みが色濃く残っている地域である。 一方で狭い路地による車の通行の問題や、大規模地震などの災害時の対策も課題となっていた。 最近では、整備の効果が徐々に出始めており、救急車、消防車が通れなかった道も幅を広げ、少しづつ通れるようになってきた。 古い木造住宅は耐火建築に建て替えが進んでる。 小道の要所要所(小公園など)には、消防用の貯水槽、ポンプも設置されてる。

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● 京島地区を抜け向島警察署を過ぎると、東武亀戸線小村井(おむらい)駅がある。 駅前の踏切を渡り、墨田区文花2丁目に入る。

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● 小村井駅の南西200m程の処に、旧小村井村の鎮守で、平安時代末期、下総国香取郡から開拓のために移住してきた6軒の人々が香取神宮の御分霊を勧請したと言われてる、小村井香取神社がある。、、、、現社殿は昭和29年(1954)の建立で、本殿は流れ造り、拝殿は入母屋造りの総檜造りである。、、、、
江戸時代、当社の東側には江戸近郊の梅の名所として知られた小村井梅園があった。「梅屋敷」と呼ばれた敷地は約3千3百坪で、築山・池・多数の名石を組んだ庭園に紅梅白梅が咲き乱れ、毎年梅の盛りには将軍の御成りもあったそうだ。 しかし残念なことに明治43年(1910)の大水で廃園となった。 平成6年(1994)には、境内に「香梅園」が開設された。 梅の季節には80余種・約120本の梅が咲き、梅祭りが開催される予定だ! 今日、境内の梅は既に開花してた! 来週あたりは見ごろかも?

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● 小村井香取神社の斜め向かいに「都営文花一丁目第二アパート」がある。 昭和47年(1972)に建てられた、12階建て、235戸が入る大きなアパート。、、、、チョイト最上階から、青空に伸びるスカイツリーに向かってパチリ! 

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● 小村井香取神社から300m程歩くと北十間川が流れてる。 この川を越えると墨田区文花から江東区亀戸に入る。

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● 亀戸天神はまたの機会として、今日は亀戸香取神社に寄って行く。、、、、由緒では、『その昔、亀戸は亀の形をした小さな島で、亀島とか亀津島と呼ばれていたという。 社伝によれば、天智天皇4年(665)藤原鎌足が東国へ降った際、この島に香取大神を勧請し、太刀一振りを奉納して旅の安全を祈願した。これが当社の起源であるという。 承平天慶の乱に際し、平将門の追討に向かった藤原秀郷は、戦勝祈願のために当社に参籠した。乱の鎮定後、奉賽として弓矢を奉納し、勝矢と命名した。5月5日に行われる勝矢祭は、この故事に因むものである。このような由緒や武道の神として崇敬された香取大神の神徳に因み、現在ではスポーツ振興の神として広く崇敬を集めているとのことである。 明治5年(1872)村社に列格。昭和20年(1945)空襲で社殿が焼失し、同23年(1948)再建。現在の社殿は同63年(1988)に落成したものである』、、、、池江璃花子、内村航平と書かれた灯篭が参道にあった。 祈願に来たのかな?、、、、亀戸香取神社は桜でも有名な神社だが、『梅は咲いたか 桜はまだっかいな』 『まだまだですよ!』

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● 総武線の亀戸駅に到着、、、、今日は歩きやすい陽気だった! まだまだ歩く体力が残ってる!

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2023年12月23日 (土)

両国ブラブラ

我が家(浅草橋)から両国橋を渡り、国道14号(京葉道路)の南側をブラブラ歩き錦糸町駅まで、1万2千歩の散歩です。




● 今朝はこの冬一番の寒さ、午前8時の気温は2.5℃。 『チョイト、散歩してくる』と言い残し家を出たが、“寒~い”、遠出は避けて近場で手打ち!、、、、今日は浅草橋駅から電車に乗らず、浅草橋・両国橋を渡り隅田川を越えて両国の町に入る。 今日の散歩は“両国の町”にしよう。

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● 両国橋東詰(墨田区両国)に、赤穂浪士の俳人:大高源吾の句碑と、大きな日露戦争時の忠魂碑がある。

・・・・・・・・・・ 向島の俳諧師:宝井其角の弟子であった赤穂浪士の一人:大高源吾の句 「日の恩やたちまちくだく厚氷」の碑。 この句は討ち入りの夜、師匠宝井其角に両国橋で出会い詠んだものといわれている。 碑は昭和3年(1928)に作られたそうだ、、、、宝井其角が「年の瀬や水の流れと人の身は」と一句詠み、それに応えて源吾が「明日待たるゝその宝舟」と返す、討ち入り前日の其角と源吾のやり取りは忠臣蔵の名場面だ!の一つになっている。 私の好きな場面でもある。

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・・・・・・・・・・ 大高源吾の句碑の後ろにある巨大な忠魂碑。 これは、明治37年・38年の戦役での戦病死者、すなわち日露戦争で出征し、護国の為に身命を捧げた英霊に、陸軍元帥大山巌(旧薩摩藩士、満州軍総司令官)筆による表忠碑。 明治40年(1907)の建立。、、、、大きく、立派な碑だ。

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● 両国橋東詰の老舗:イノシシ料理の「もゝんじや」は、享保3年(1718)の創業という。 この両国界隈は江戸の頃より軍鶏や獣肉の店で知られていた。 イノシシ料理の店は「山くじら」という看板を出していた。 獣肉は御法度だったので、“山の鯨だ”と言って商売していたという。 店先に本物のイノシシが吊るしてあることもあった。、、、、只今、店主が病気で休業中。 早く完治し店を再開させて欲しいね!

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● 「もゝんじゃ」の斜め横に建つ、年代はよくわからないがレトロな建物は鉄工関係の「岡田商会」、、、、大正ロマンや昭和モダンあふれる建物で、屋内の電灯もまた、その雰囲気をかもしだしている。(今日は土曜でお休みか?暗いね! 電灯が灯る5年前の写真を添付)

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● 「もゝんじゃ」から南へ150m程、相撲の春日野部屋がある。 本日玄関も閉まり、力士も外に出ていない。 

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● 国道に出ると回向院(墨田区両国2)がある。、、、、回向院の正称は諸宗山無縁寺回向院。 振袖火事と呼ばれる明暦の大火(1657年(明暦3年))の焼死者10万8千人を将軍徳川家綱の命によって葬った万人塚が始まり。 後に安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬する。 あらゆる人、動物、生あるものを供養するという理念から、犬猫などの墓も多数ある。 著名人の墓として、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉などの墓もある。、、、、参拝客のために両国橋が架けられた天明元年(1781)以降には、境内で勧進相撲が興行された。 これが今日の大相撲の起源となり、明治42年(1909)旧両国国技館が境内に建てられるに至った。昭和11年(1936)には大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を建立した。

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・・・・・・・・・・ 鼠小僧次郎吉の墓と力塚

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● 両国3丁目19番の京葉道路に面した歩道角に、「本所松坂町址」の碑が建っている。 もともとこの周辺は、本所松坂町と呼ばれていたが、関東大震災後の区画整理により町名が変更された。 碑は、赤穂浪士が討ち入った吉良邸があったこの地「松坂町」を偲んで、昭和7年6月に建立された。、、、、吉良邸はここ本所松坂町1、2丁目(現:両国2、3丁目)にあり、約8,400㎡を占める広大な屋敷だった。

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・・・・・・・・・・ 本所松坂町跡の碑を前にして、右に曲がって行くと、なまこ壁で囲まれた小さな本所松坂町公園(吉良邸跡)がある。、、、、吉良上野介の屋敷は、はじめ鍛冶橋(現:中央区)の屋敷を拝領していたが、刃傷事件のあと、赤穂浪士が吉良屋敷に討入るという噂があり、周囲の大名屋敷から苦情が出て、元禄14年8月御用地として幕府に召し上げられ、一時、子の上杉弾正大弼の屋敷に身を寄せ、その後、同年9月、ここ本所松坂町の松平登之助の屋敷を拝領し移り住んだ。 この吉良邸は、広大で東西約132m、南北約62m、約8,400㎡(2,550坪)の広大な敷地であった。 討ち入り後の吉良邸は、元禄16年2月4日に没収されたそうだ。、、、、現在の「吉良邸跡」として残る本所松坂町公園は、29.5坪(約98㎡)で、当時の86分の1に過ぎない。 これは昭和9年(1934)地元両国3丁目町会有志が発起人となって、邸内の「吉良公 御首級(みしるし)洗い井戸」を中心に土地を購入し、東京市に寄付し、貴重な旧跡が維持された。 昭和25年(1950)に、土地は区に移管された。、、、、小さな公園内には、吉良上野介の座像、御首級洗い井戸などがある。 チョイト小さくて残念だけど、忠臣蔵の話を偲ぶ上では貴重なものだ!

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両国小学校(両国4)の敷地の角に、「芥川龍之介文学碑」と「駆逐艦「不知火」の錨」がある。

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・・・・・・・・・・ 両国小学校の創立百十五周年を記念して建てられた文学碑で、碑面には童話雑誌「赤い鳥」で発表された小説「杜子春」の一節が刻まれています。 芥川龍之介は明治25年(1832)年に東京市京橋区(現:中央区)で生まれた。 家庭の事情によって幼くして母の実家の芥川家に預けられた。 現在の墨田区両国にある芥川家は代々、江戸城の御数寄屋衆を勤めた旧家である。 龍之介が幼少の頃を過ごした墨田区両国(本所松坂町址の碑の道路向かい側)に「芥川龍之介生育の地」の碑が立っている。、、、、小学校とは無関係?

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・・・・・・・・・・ 芥川龍之介文学碑の隣りには、駆逐艦「不知火(しらぬい)」の錨がある。、、、、駆逐艦「不知火」は明治32年(1899)、イギリスのソーニクロフト社で竣工し、明治33年(1900)に軍艦に編入された。 明治37年(1904)に日露戦争が始まり、旅順口攻撃、黄海海戦、日本海海戦、樺太の戦いなどに参戦する。 その後は第一線を退き、特務艇(掃海艇)として活躍したが、大正14年(1925)に廃船となる。 この錨は廃船の解体作業を行った、鉄鋼業者(岡田商会)が昭和の初年に江東(現両国)小学校に寄贈したもの。
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● 両国小学校の東隣りに両国公園がある。 この地は勝海舟誕生地である。、、、、江戸城無血開城、咸臨丸による米国訪問で、知らない人はいない維新の英傑、勝海舟は、文政6年(1823)父方の実家男谷家(現:両国公園)で生まれた。 青年期までを墨田の地で過ごし、学問や剣術の修行に励んだそうだ。、、、、公園内には、「勝海舟生誕之地」の碑が建てられ、誰も座っていない椅子と刀が置かれてる。 椅子に座って記念撮影!

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● 再び国道(京葉道路)に出て、江東橋を渡る。、、、、大横川に架かる江東橋は明治31年(1898)創架で、現在の橋は平成7年(1995)に架け替えられた比較的新しい橋だ。  江東橋は、西岸の墨田区緑四丁目と東岸の墨田区江東橋一丁目を結ぶ。

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● 江東橋の東詰めに、都立両国高等学校がある。 “両国”の名がつくが、最寄り駅としては“錦糸町”の方が近い。、、、、現在は、附属中学校があり、高い難易度の中高一貫校として、大学進学率もトップクラスを誇る!、、、、芥川龍之介も当校の出身である。

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・・・・・・・・・・ 両国高校のフェンスの内側に、「国産マッチ発祥の地」と刻まれた 黒御影石の記念碑が建っている。 石川県金沢出身の 清水誠が設立した日本最初のマッチ製造企業である新燧社の敷地がほぼ当校に当たることから、昭和61年(1986)に校庭に建立された記念碑だ。 碑には 当時の新燧社のマッチ箱ラベルも描かれている。

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錦糸町駅にきた!、、、、錦糸町駅は明治27年(1894)12月9日、総武鉄道の本所駅として開業。 明治40年(1907)国有化される。、、、、島式ホーム2面4線の高架駅である。 令和4年度(2022)の1日平均乗車人員は87,590人である。 墨東の中心的な駅。 駅周辺は歓楽街として栄えてる。 飲む、打つ、買う全て揃っている!  

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2023年8月31日 (木)

夜明けの隅田川

毎日が猛暑・酷暑でドッコイショ! まだまだ日中は暑く、散歩に出る勇気なし! 今朝は4時前に起き、夜明けの散歩に行ってきた。 浅草橋の我が家から、鳥越神社 → 蔵前橋 → 東京都慰霊堂 → 刀剣博物館 → 隅田川テラス → 両国橋 → 柳橋 → 浅草橋駅と、ぐるりと回ってきた。 7千歩




● 昨夜は9時に眠りに入り、今朝は3時45分に目が覚める、眠り疲れたのでそのまま起床。 『そうだ、夜明けの散歩をしよう!』と家を出る。 夜空には星が輝き、まだ暗い。 ご近所さんは熟睡中、静かに我が家をあとにする。

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● 我が家から数分で鳥越神社に到着。 賽銭泥棒が活躍する時刻だ! 間違われないように賽銭を奮発し、堂々と参拝。

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蔵前一丁目交差点、東の空はチョイト明るくなった、そろそろ夜明けかな? 只今の時刻4時31分、国立天文台の計算値では今日の日の出は5時12分、東京の空は日の出の40分程前から明るくなるようだ!

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● 隅田川に吹く風がチョッピリ涼しげな蔵前橋を渡る。 橋から上流側には、夜明けの空にスカイツリーのシルエットが映る。

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● 明日は9月1日、震災記念日だ、『チョックラ、震災記念堂に寄って行こう!』 下町の年寄は“震災記念堂”、今の若い人は“東京都慰霊堂”と呼んでいる。 旧震災記念堂(現:東京都慰霊堂)には、震災、戦災合わせて約163,000体の御遺骨が安置されている。 明日は関東大地震から100年目、大勢の参拝が見込まれるので、私は今日手を合わせていく。 合掌

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・・・・・・・・・・ 東京都慰霊堂前、東の空は赤く染まってきた! 山頂とは違うので、御来光は見えないね!

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● 震災記念堂から隅田川へ出る道沿い(全て墨田区横網町)に、大きな建物がいくつか、、、、写真の順に、①国際ファッションセンタービル(地上25階、第一ホテルが入居)、②NTTドコモ墨田ビル(地上27階、遠くからでも目立つ背の高いビルです)、⓷アパホテル&リゾート 両国駅タワー (地上31階、客室数1111室)

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● 震災記念堂の西側に安田庭園があり、その一角に刀剣博物館がある。 私は、近くに住むからか(?)いまだ、内部見学してません、ゴメン!

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隅田川テラスとは、上流の北区から下流の江東・中央両区まで、隅田川岸両岸に整備された親水テラス(台風が来ると“浸水”テラスになる)、、、、両国国技館前のテラスを歩き、両国橋まで、、、、総武線隅田川橋梁では、5時チョウド浅草橋発の一番列車が通過する、、、、体操で鍛えるお年寄り

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● 今日の日の出時刻の5時15分、両国橋を渡る。 すでに空は明るい。 

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● 「贅沢な人の涼みや柳橋これは正岡子規の句。 チョイト昔は夏の夕涼みができた川岸も、今は日が落ちてもムシムシ、ダラダラ、ベトベトの熱帯夜。 モ~嫌!

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浅草橋駅の到着。 駅裏の銀杏岡八幡神社にも朝の御挨拶、『今日も一日平穏でありますように』、あたりさわりのない言葉で神頼み。、、、、5時35分、我が家に到着。

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2023年7月14日 (金)

東武亀戸線

朝の天気予報では、今日の東京は最高気温29℃で曇りであった。 『久しぶりの30℃割れ、しかも曇り空なら、熱中症の心配も薄らいだ。 ヨシ、歩いてくる!』と、自分に言い聞かせ、東武亀戸線の全駅制覇に出立。


東武亀戸線の歴史は ・・・・・・ 東京と関東北部を結ぶ東武鉄道は、明治30年(1897)に設立された。 当初、起点を東京湾に近い越中島とする予定で免許を申請したが、越中島~北千住間は審査に時間を要し、すぐには免許が下りなかった。 そこで、日本鉄道(現:JR常磐線)の北千住駅を起点に久喜駅までを東武鉄道の最初の区間として、明治32年(1899)に開業した。 明治35年(1902)には北千住駅から吾妻橋駅(後に浅草駅、業平橋駅と改称し、現在はとうきょうスカイツリー駅)まで延伸された。 越中島~北千住間の免許は明治32年(1899)に認可され、明治37年(1904)4月5日には、その一部である亀戸~曳舟間が開業した。 この開業と同時に、東武鉄道は総武鉄道(現:JR総武本線)亀戸~両国橋(現:両国)間へ乗り入れ、直通運転を行う。 また、東武鉄道の吾妻橋~曳舟間は廃止され、亀戸~曳舟間が本線格の扱いとなった。 明治40年(1907)乗り入れ先の総武鉄道が国有化されるが、引き続き東武鉄道の乗り入れは継続する。 東武鉄道は、ターミナルを開業当時の吾妻橋駅に戻すことになり、明治41年(1908)に吾妻橋~曳舟間が貨物線として再開する。 明治43年(1910)3月に吾妻橋駅を浅草駅に改称、そして浅草~曳舟間の旅客営業を再開。 これにて、亀戸~曳舟間は支線となる。 また、同年8月には、亀戸~越中島間の免許は失効した。



・・・・・・・・・・ 今日は東武鉄道亀戸線(全長3.4km)に、廃止、統合、現営業中を含め、10駅が存在した。 起点の曳舟駅から終点の亀戸駅まで全駅を歩いて来たので、順に紹介する。



曳舟駅 ・・・・・ 曳舟駅は明治35年(1902)4月1日、吾妻橋~北千住間開業時にできた駅。 明治37年(1904)4月5日、亀戸~曳舟間が開業。、、、、現在は東武伊勢崎線、亀戸線の停車場で、ホームは高架複合式3面5線構造。 伊勢崎線が発着する1~4番線(島式ホーム2面)と、亀戸線が発着する5番線(短い片面ホームが1面)から成っている。 2両編成の亀戸線が10分間隔で運行している。 通勤通学客で満員だ!

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・・・・・・・・・・ 亀戸線の使用車両は、8000系が中心。 昭和30年代の塗装を再現したリバイバルカラーとして朱色や緑色に塗られたものも存在し、来る列車、来る列車毎に色が変わる。

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虎橋通駅跡 ・・・・・ 現存の曳舟駅と小村井駅の間に、かつては虎橋通駅(とらばしどおりえき )と十間橋通駅(じゅっけんばしどおりえき)があった。 その一つ、虎橋通駅は墨田区京島2の住宅と線路の間の狭い処にあった。 開業は昭和3年(1928)4月15日、廃止は昭和20年(1945)3月10日である。、、、、駅跡に何か残ってないか? キョロキョロ探すと、線路脇に並ぶコンクリート土台(?)跡があった。 おそらく70数年前に廃止となったホームの基礎部分であったと思う。 

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十間橋通駅跡 ・・・・・ 次は、
十間橋通駅(じゅっけんばしどおりえき)の跡。 駅は、十間橋通と交差する踏切の北側(墨田区京島2)の線路脇にあった。 下町の元気な商店街:キラキラ橘商店街の入口に近い処だ! 開業は昭和3年(1928)4月15日、廃止は昭和33年(1958)10月22日である。、、、、線路脇には曳舟起点9㎞ポストがあった。 その周囲のバラストの中にコンクリート構造物が見える、ここもホームの基礎部分が埋まっているのか?

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天神駅跡 ・・・・・ 曳舟駅、虎橋通駅跡、十間通駅跡とみて、次は、小村井駅の手前にある天神駅跡を探す。、、、、天神駅(てんじんえき)は、かつて東京都墨田区文化に存在した亀戸線の廃駅。 天神駅は、明治37年(1904)4月5日に開業し、昭和32年(1957)5月20日に廃止された。、、、、曳舟たから通りに面する「
iU 情報経営イノベーション専門職大学(墨田区文化1)」の建物の東側あたりに天神駅はあったと思われる。 この付近の線路敷きは、気持ち分だけ幅広になっており、ここに駅があったのかも(?) 線路敷きの両側は建物が並んでおり、線路内に立ち入って詳細に見ることはできず諦める。、、、、駅名の“天神”は亀戸天神のことだが、ここから亀戸天神までは1㎞以上あり、歩いて20分はかかるであろう。

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小村井駅 ・・・・・ 曳舟駅から1.4㎞にある小村井駅(おむらいえき)は、相対式ホーム2面2線を有する地上駅。 駅舎は曳舟方面ホームの東あずま寄りにあり、上下線ホーム間を連絡する地下通路が設置されている。 開業は昭和3年(1928)4月15日、、、、都会の中の小さな駅で、“ローカル”、“昭和レトロ”、“のんびり”などの言葉が合う駅だ! 駅名はチョイト読みづらいかな?

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東あずま駅・・・・・小村井駅の次は東あずま駅。 駅名は付近一帯がかつて吾嬬町(あづまちょう)だったことに由来し、周辺の東吾嬬小学校、第一吾嬬小学校などの学校や吾嬬神社にその地名が残っている。 本来は「東あづま」と表記すべきところ「東あずま」となった。 その理由は不明だが、たぶん誰かが“づ”を“ず”と間違えたのだろう!、、、、昭和3年(1928)4月15日 、平井街道駅として開業。 昭和20年(1945)5月20日、平井街道駅廃止。 昭和31年(1956)5月20日、東あずま駅として再開業、、、、相対式ホーム2面2線を有する地上駅。 駅舎は丸八通り(=都道476号)に面す、各ホーム間の連絡は構内踏切を利用。

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北十間駅跡 ・・・・・ 曳舟から亀戸へ向かい北十間川を越えた所(橋の南詰)、マンション脇のチョイ広の線路敷きに北十間駅があったと思われる(?) 開業は昭和3年(1928)4月15日、廃止は昭和21年(1946)12月5日。 70数年前の廃駅は何も残っていないようだ! 

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亀戸水神駅 ・・・・・ 現在の亀戸水神駅は北十間駅と旧亀戸水神駅を統合して、両駅の中間に昭和21年12月5日に移転した。、、、、“亀戸水神”は“亀戸天神”と紛らわしいが、全く別物で
駅の西方にある亀戸水神宮に由来する駅である。 お間違いなきよう!、、、、相対式ホーム2面2線の地上駅。 ホーム間には構内踏切あり。

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旧亀戸水神駅跡 ・・・・・ 亀戸へ向かう電車は、亀戸水神駅を出て右に大きくカーブする、そのカーブ地点の線路脇にキレイに並ぶコンクリート造の遺構がある。、、、、旧亀戸水神駅は昭和
3年(1928)4月15日に開業。 昭和20年には戦災を受け、昭和21年(1946)12月5日に北十間駅と統合し、現在の亀戸水神駅へ移転した。

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亀戸駅 ・・・・・ そして亀戸線の終点は亀戸駅。、、、、島式ホーム1面2線を有する地上駅。 改札は駅ビル「アトレ亀戸」内にある。 ちょこっとスロープを上ればホーム。 この構造はまさに都会のローカル線!

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● 東武鉄道亀戸線はコチラも見てね!・・・・・・・・・・ 昼の亀戸線(1918/6/25) ・・・・ 夜の亀戸線(1920/8/17)

 

 

● 東武鉄道亀戸線の全駅を歩いた、1万2千歩。 時刻は10時だが、すでに全身は汗でビショビショ。 やはり、真夏の散歩はチョイト、キツイね!

2023年5月 6日 (土)

八広から平井

GW中は、観光地に行かず家でじっとしていようと思ったが、天気がいいと歩きたくなるね! 今日も天気が良さそうなので、人混みを避け、京成押上線の八広駅から、JR中央・総武緩行線の平井駅まで、人影少ない下町を歩いてきた。 1万1千歩




● 「八広駅」の乗降人員は京成線全69駅中34位。 押上線の駅では最も少ない一日当たり約5000人。 23区内の駅だが、残念ながら影の薄い駅。 おそらく都内在住の人でも、駅の所在を知らない人もいる、下車したことがない人も多そうだ。 高架駅のホーム先端からは荒川がスグ目の前に流れてる。 高架下の出口の前は下町の裏道だ! 駅の周辺には人を集める施設もなく、万年、静かな駅。

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● 八広駅から南東へ200m程、木根川橋の西詰に「日枝神社」が鎮座する。 400年程前の慶長19年(1614)の創建といわれ、歴史は古いが詳しい由緒は判らない。、、、、境内には人気無し、静かなGW!

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・・・・・・・・・・ 日枝神社の境内に、もう一社「木下稲荷神社(きのしたいなりじんじゃ)」が鎮座する。 こちらは、慶長19年(1614)の鎮座で元木之下村宝蔵寺境内にあって、日枝神社の摂社として創立された。 明治初年の改正により木下村に移転され、さらに大正8年(1919)に荒川放水路(現:荒川)の用地に入ったために現在の場所に移転した。

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八広から東墨田の町をブラブラ

・・・・・・・・・・ 八広の裏通り、、、、東京スカイツリーのお膝元

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・・・・・・・・・・ 吾妻西公園の戦災殉難者之精霊供養塔、、、、太平洋戦争当時ここの公園は空地だったため、東京大空襲の犠牲者250名程が仮埋葬された。 昭和23年頃から改葬のために遺体は火葬されて東京都慰霊堂に合祀されたが、これらの犠牲者の冥福を祈り慰霊するために、平和地蔵尊と墓誌(慰霊碑)が建立された。

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・・・・・・・・・・ 荒川土手の下を歩く、、、、もちろん海抜0m以下 歩く人がいない!

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・・・・・・・・・・ 東墨田の革工場もGWで仕事は休み 人影がない!

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・・・・・・・・・・ 東墨田の連結送水管の専門企業にズラリと並んだ、“まっ赤なポルシェ”とはちょいと違うがまっ赤なポンプ車。 ポンプ車もGWでひと休み!

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● 葛飾区を北から南に流れ東墨田の東側で荒川と平行に流れ下る中川。 その中川が荒川でちょん切られ、下流側(墨田区側)が「旧中川岸辺公園」として江東区まで続く。、、、、煙突は「墨田清掃工場

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● 旧中川の南は江戸川区、江戸川区平井に「平井天祖神社」が鎮座。 平井天祖神社の創建年代は不詳だが、貞和4年(1349)に再興した旨の棟札が、江戸時代には残されていたそうだ。 江戸時代には中平井村の鎮守で、明治7年(1874)に村社に列格した。 祭神は天照皇大御神、合殿に布都主命、武甕槌命を祀る。、、、、ここも、人の姿が見えず、今日はGWだ!

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● 蔵前橋通りを越えるとJRの「平井駅」 今日の散歩はココまで!

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