墨田区

2025年10月28日 (火)

墨田の寺

東武の堀切駅で下車し、墨田区の北部:墨田地区の4カ寺をめぐり、京成曳舟駅まで、1万歩の散歩です。



● 今日は、足立区と墨田区の境に位置する東武伊勢崎線の堀切駅から南の墨田区墨田の町を散歩する。、、、、、堀切駅は、明治35年(1902)の吾妻橋(現:とうきようスカイツリー)~北千住間開業時にできた駅であるが、開業当時の堀切駅は今よりやや東で、ちょうど荒川のど真ん中付近にあった。 開業当時はまだ現在の荒川がなかったためで、荒川放水路(現:荒川)開削に伴って堀切駅が現在の位置に移転してきたのは大正12年(1923)7月1日のことである。 駅の東側は荒川が流れ、西側も400m程歩くと隅田川にぶつかる。 川と川に挟まれくびれた所に堀切駅はある。 1日平均乗降人員は約4000人で、都会の中の秘境駅である。、、、、、下町情緒漂う、静かな雰囲気の駅。 改札を出るとすぐ首都高が見え、荒川土手もあり、散歩の起点としては、いいね!
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● 堀切駅から荒川沿いに600m程歩くと、真言宗智山派寺院の「多聞寺」(墨田区墨田5)がある。、、、、、多聞寺は隅田山吉祥院と号す。 創建年代は不詳だが、天徳年間(957~960)には現隅田川神社付近にあり、大鏡山明王院隅田寺と称していたとのこと。 天正年間(1573~1591)に本尊を毘沙門天として隅田山吉祥院多聞寺と改称した。 寺の前の道は古代から続く街道の名残らしい
。 木造茅葺(かやぶき)の山門は切妻造四脚門の様式をとるもので、多聞寺に残る唯一の江戸期木造建築である。 享保3年(1718)に焼失し、現在のものはその後に再建されたもの。 江戸時代の風情を残す寺だ!、、、、、本尊の毘沙門天は、隅田川七福神の一つとなっている。 まもなく来る正月は、“七福神巡り”でご本尊の出番となり、大忙しとなるだろう!
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・・・・・・・・・・ 山門前の阿弥陀如来像寛文4年(1664)造立。 隣には子安地蔵が並んでる。、、、、、また、本堂手前の六地蔵座像は、都内でも珍しい座像形態の尊像である。 仏教における地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道のどこにいても救いの手をさしのべてくれるという地蔵尊。 造立は正徳3年(1713)~享保元年(1716)と刻まれている。
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● 
多聞寺門前の古くは街道の面影残る道を南に歩くと、チョイと趣のある建物が目に入る。、、、、、「成田山隅田参拝講事務所」の看板を掲げてる出桁造の建物、、、、、住宅の並ぶ町中にひっそりと祀られている稲荷神社。 石造りの鳥居は年季もの?、、、、、以前は蕎麦屋であった、今は民泊kisoba」。玄関には「生蕎麦」という古い看板が残されている。
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● 多聞寺からは南へ500m程、鐘ヶ淵駅からは北西に150m程、曹洞宗の醍醐山円徳寺がある。 、、、、、慶長18年(1613)に文京区駒込にある吉祥寺の和尚が開山した。 本尊は薬師如来。、、、、、朱塗りの山門が目立ち、赤門寺とも呼ばれているそうだ。 “赤門”の謂れが判らず、なんとなく特徴をつかみずらい寺だ!
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・・・・・・・・・・ 境内に祀られている大きな舟型の庚申塔は、蓮華座に薬師如来を配し台座に三猿を掘った見ごたえあるものだ。 寛文12年(1672)の銘あり。
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● 墨田2丁目の真言宗智山派寺院の正福寺は、月光山薬王院と号す。 正福寺は、慶長7年(1602)に創建されたと伝えられている。 建物は新しく近年建て替えられたと思う。
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・・・・・・・・・・ 寺内にある首塚地蔵尊は首から上の病気にご利益ありと言われ、多くの参詣者があるそうだ。、、、、、天保4年(1833)洪水の危険をふせぐため、隅田川橋場附近の川浚い工事において、川床より多くの頭骨が発掘された。 当時の正福寺の和尚は、この地に合葬、碑をたてて「首塚」といったと伝えられている。 この縁で、首から上の病いに功験があるからと、参詣の香華がたえないそうだ。、、、、、首から上の病とは? ボケ、ハゲ、蓄膿、顔面神経麻痺、ブス、白内障、私のつたない知識で思いついたまま書いてみた。
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● 墨田の町から東向島の町に入り向島百花園の脇をとおり都立墨田川高等学校の前に出ると、真言宗智山派寺院の蓮花寺(墨田区東向島3)がある。、、、、、創建の経緯については諸説あるが、一説には寛元4年(1246)、北条時頼の開基である。時頼の兄の北条経時の菩提を弔うために、鎌倉佐介谷(現・神奈川県鎌倉市佐助)に創建されたという。 その後、経時の子の頼助によって、弘安3年(1280)に現在地に移転した。 蓮花寺の本尊は空海自筆の弘法大師画像と伝えられている。、、、、、当寺は「寺島(昔の地名)大師」とも呼ばれ、川崎大師、西新井大師とともに「江戸三大師」と呼ばれていたそうだ。(ゴメン、そんなこと知りませんでした!)
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・・・・・・・・・・ 蓮花寺門前に二基の道標がある。 かつて「寺島大師」として、江戸三大師の一つとして栄えていた頃、ここにある道標は大師参りの人々の為に建てられたものである。 川崎大師、西新井大師への道しるべである。
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水戸街道(=国道6号)を横断し、京成曳舟駅から帰る。
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2025年10月17日 (金)

横十間川

JR総武本線の錦糸町駅から、横十間川沿いに歩いて東西線の東陽町駅まで、1万1千歩の散歩。



錦糸町駅は、昔のターミナル駅:両国駅の隣り、私の住む浅草橋駅から2駅目、オタクの秋葉原駅からは3駅目、総武本線のターミナル駅である。、、、、、明治27年(1894)12月9日に総武鉄道の本所駅(ほんじょえき)として開業。 明治40年(1907)に国有化される。 大正4年(1915)、錦糸町駅に改称。 現在は、東京メトロ半蔵門線も乗り入れてる。、、、、、駅周辺は、ショッピングモールや飲食店それに映画館もある、JRAの場外馬券売場、ラブホ街もあり、人出も多くいつも賑やかだ。 それゆえ、駅はチョッピリ混雑する。 特に朝晩の通勤時間帯は、通勤通学客でホームだけでなく、駅前のバス乗り場などに、人の多さを感じる。
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● 錦糸町駅南口から、江東区を南北に流れる横十間川に沿って南へ歩く。 駅から東南に600m程、江東区を東西に流れる堅川が横十間川にぶつかる処に、昭和4年(1929)に架けられた関東大震災の復興橋「松本橋」がある。 旧地名の松代町と本村町を結んだので松本橋と名付けられたトラス橋。 
橋長35.52m、幅11mの橋である。、、、、、歴史を感じるトラス橋だが、頭上には高速道路が走っており、橋下の堅川は埋め立てられ、橋の本来の役割は終えたようだ。 橋の手入れも十分行われていないようで、全体に錆が出ている姿は痛々しい。 メンテナンスし、重要文化財にでも登録してほしいね!
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● 松本橋を渡ると、正面に「猿江恩賜公園
(さるえおんしこうえん)」がある。 猿江恩賜公園は、江東区猿江にある都立公園である。 野球場、日本庭園のある落ち着いた雰囲気の南園(江東公会堂も含む)とテニスコート、広場、遊具のある開放的な北園に分かれている。、、、、、公園の歴史は、享保18年(1733)に江戸幕府公認の貯木場として開かれたことから始まる。 大正13年(1924)皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の成婚を記念して、猿江貯木場の一部を東京市に下賜(現在の南園部分)。 昭和7年(1932)には南園部分が、猿江恩賜公園として開園した。 昭和20年(1945)には、東京大空襲の焼死者の仮埋葬地となる。 昭和47年に現在の北園部分にあった猿江貯木場が廃止され、東京都が跡地を買収する。 昭和56年(1981)、北園の一部が開園。 昭和58年(1983)に北園が完成し現在の公園が全面開園された。 公園の面積は14.5ha(東京ドーム約3個分)。 、、、、、雨上がりの今朝は、ジョギング・太極拳する人が数人、散歩する人も少なく、のんびりゆっくり歩いてきた。 紅葉にはまだ早いようだ!
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● 猿江恩賜公園の東側に流れる横十間川。 横十間川は江東区亀戸と墨田区業平の境界で北十間川から分かれ南へ流れる。 途中で堅川、小名木川、仙台堀川と交差し、江東区東陽で大横川に合流する。 この川は万治2年(1659、江戸時代)に徳山重政・山崎重政両名(翌年本所奉行に任命)によって開削された運河である。 江戸城に対して横に流れ、川幅が十間(18m)あったことから「横十間川」と命名された。、、、、、江戸時代はのどかな田園の中を流れる川であったと思うが、今は両岸にマンションが並ぶ中を流れる川となった。
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 横十間川と小名木川が十字に交差する地点に、X型に架かる歩行者自転車専用橋の「小名木川クローバー橋」がある。 平成6年(1994)に架けられた、橋長 140.5m、幅員 4.8~12.8mの1径間鋼製箱桁橋である。、、、、、川の中央部で十字に交差し、四方へ向かうことができるためか、自転車の交通量は多く、ヨタヨタのお年寄りはチョイと怖いかも。
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● 小名木川クローバー橋から大横川に合流する地点までの区間は埋め立てられ、総延長は1970mの大規模な横十間川親水公園として整備された。 公園は昭和59年(1984)に開園。 園内にはボート乗り場や、和船乗船体験ができる施設もあり、川を身近に感じることのできる親水公園となっている。、、、、、園内の草藪に「ヘビに注意」の貼紙があった。 こんな都会の公園にヘビが出るとは、ヘビが大嫌いな私は恐る恐る歩くことになった。 さらに熊も出たら、『こんな公園絶対に二度と来ない!』と叫ぶであろう!
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東陽町駅に到着! 中柱のある相対式ホーム2面を有する地下駅。 おや?電車が停まっているが走らない? 事故があったようだ、イライラして待つこと10分、『お待たせしました、発車します』のアナウンス。 やっと我が家に帰れる、一安心!
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2025年10月 2日 (木)

八広の裏道

70代後半になり、医者通いも多くなってきた。 先日、区から新型コロナ(2,500円)とインフルエンザ(無料)の予防接種の案内が来たので、昨日、内科の定期診断のついでに接種してきた。 右肩にインフルエンザ、左肩にコロナのワクチン接種したら、昨夜から両肩が痛く、横向きに寝ることができず、『アリャリャ 困ったな、二・三日の辛抱か!』 先週の長谷寺詣で、リックを背負って歩いたせいで、脚も腰も痛く。 アッチャコッチャ・痛いところだらけで、ここ数日は年齢を強く感じる生活になりそうだ。 
今日の散歩は京成曳舟駅で下車し、明治通りの東側、墨田区の八広、東墨田、立花の町を歩いて、東あずま駅まで。 脚・腰の痛みは隠し、元気な年寄を演じながらの9千歩の散歩です。


京成曳舟駅けいせいひきふねえき)は東京スカイツリーのある押上駅の隣駅。 京成押上線の押上~曲金(現:京成高砂)~伊予田(現:江戸川)間が大正元年(1912)11月3日に開業した時に、曳舟駅(現:京成曳舟駅)も同時開業した。 平成25年(2013)8月までは地上駅であった。 それ以降、上り線、下り線の順に高架化され、現在は相対式ホーム2面2線の高架駅。 一日平均乗降人員は約20,000人程である。、、、、、駅周辺は、有名な大規模施設などが近くに無いが、入り組んだ細い裏通りに木造住宅が密集する昭和レトロな下町である。、、、、、今日は明治通り側の出入口に出た! 
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・・・・・・・・・・ 駅前に出ると高校生が明治通りを横断し、八広の町の裏通りに入っていく。 『どこの学校の生徒かな?』 私も学生の後について八広の町を歩くことにした。
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● 学生は、駅からスグの「都立日本橋高等学校」の生徒さんであった。、、、、、ここは墨田区八広、墨田区には“日本橋”なる地名・橋名は無い、中央区“日本橋”とは隅田川を挟みチョイと遠い! なぜここに、“日本橋”高等学校が? その答えは、昭和15年(1940)に葛飾区亀有にて設立した府立十七中学校が前身で、昭和17年(1942)に墨田区向島に移転(この時、校名は府立葛飾中学)。 昭和19年(1944)に中央区日本橋箱崎に移転。 昭和22年(1947)、箱崎の葛飾中学は都立日本橋中学と改称。 昭和23年(1948)に都立日本橋新制高等学校に改称。 昭和25年(1950)に都立日本橋高等学校に改称(この時まで所在地は中央区日本橋箱崎である)。 平成11年(2009)に現在地墨田区八広に移転した。(校名はそのまま持参) 『沿革は判った!』だけど、場所も名前もチグハグで、どうなってるの? “都立八広高等学校”にしたら地名と一致するのだが、“日本橋”の方がカッコ良く、知名度も高いからか!
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● 八広2丁目・3丁目の裏道をブラブラ、真っ直ぐな道がなく、勝手気ままに右左! 家の中から機械油の匂いがする町。
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● 東墨田の町に入ると、高い煙突が見える。 あの煙突は、何の煙突? それは、それは、墨田清掃工場の煙突 墨田清掃工場は建設費333億円で平成10年1月に竣工した、全連続燃焼式火格子焼却炉(設計最高発熱量:13,000KJ/kg 規模(炉基数):600トン/日)の清掃工場である。 煙突の高さは150mと高い!、、、、、工場の隣には温水を利用した「すみだスポーツ健康センター」がある。 
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● 墨田区立花の町を抜けると、東武亀戸線の「東あずま駅がある。 足が痛い! 今日の散歩はここまで、亀戸経由で帰ろう!、、、、、駅名は付近一帯がかつて吾嬬町(あづまちょう)だったことに由来し、周辺の東吾嬬小学校、第一吾嬬小学校などの学校や吾嬬神社にその地名が残っている。 本来は「東あづま」となるはずなのに「東あずま」となったのだが、理由は不明。(単なる書き間違えが原因では!)
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2025年9月 1日 (月)

震災記念堂

9月1日は「防災の日」であるが、私は「震災記念日」と言う方がピンとくる。  私の生まれは戦後の昭和21年、場所は当時の浅草区福井町(現:台東区浅草橋)。 私が小学生の頃、9月1日は夏休み明けの最初の登校日、前日の夜までに仕上げた工作と絵日記・ドリルを持って行く日である。 全校集会で校長先生の話を聞いて、教室では夏休みの成果物を提出し、明日からの授業の話を聞いて、初日は給食が無いのでお開きとなる。 家に帰ると、母から『震災記念堂に行くよ』と言われ、隅田川に架かる蔵前橋を渡り、横網町公園(元陸軍被服廠があった場所)にある震災記念堂(現:東京都慰霊堂)に行くのが例年の行事であった。 横網町公園の周辺には多くの露店が店を出し、ヨーヨー、金魚、電電太鼓、竹製の水鉄砲、花火、キリギリス、カブトムシ、べっこう飴、カルメ焼き、綿あめ、ベビーカステラ、等々、買ってもらうのが楽しみであった。・・・・・以来、毎年9月1日は震災記念日で震災記念堂に行くようになった。 今日は散歩の再開と足慣らしを兼ねて、妻と蔵前橋を渡り、震災記念堂で手を合わせ、両国駅経由で歩いてきた。 (7千歩)



● 35℃超えの猛暑日となりそうなので、朝7時半に家を出て慰霊堂には8時に到着。 『アリャリャ、もう警察が来てる!』 例年、秋篠宮御夫妻も出席されて法要が営まれるためと、慰霊堂の脇にある追悼碑の前では「朝鮮人虐殺」の犠牲者を悼む式も開かれるため、慰霊堂周辺は黒服のSP、青い制服は機動隊?、ワイシャツ姿の地元警察?、怖そうな警察犬など、警備に多くの警察官が配されている。 そのため、私達は慰霊堂内には入れず、扉の前で手を合わせてきた。
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東京都慰霊堂は墨田区横網町公園内にある三重塔つきの寺院建築の慰霊施設。 昭和5年(1930)に関東大震災の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を祀る震災記念堂として創建され、昭和23年(1948)より東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を合祀して、昭和26年(1951)に現在の姿となった。、、、、、東京都慰霊堂がある横網町公園は元陸軍被服廠があった場所である。 この地にあった被服廠は大正8年(1919)に赤羽に移転し、その後公園予定地として更地になっていた。 大正12年(1923)9月1日、関東大震災が起きると、この場所は多くの罹災者の避難場所になった。多くの家財道具が持ち込まれ、立錐の余地もないほどであったが、周囲からの火災が家財道具に燃え移り、また火災旋風が起こったため、この地だけで東京市全体の死亡者の半数以上の(推定)3万8000人程度が死亡したとされる。 震災後、死亡者を慰霊し、このような災害が二度と起こらないように祈念するための慰霊堂を建てることになり、官民協力のもと、広く浄財を求められた。東京震災記念事業協会によって昭和5年9月に「震災記念堂」として創建された。、、、、、その後、第二次世界大戦においては、昭和19年・20年の一連の空襲により7万7000人あまりが死亡した。 昭和23年(1948)より、各地に仮埋葬された身元不明の遺骨を納骨堂に改葬し、戦災者整葬事業が完了した1951年に「東京都慰霊堂」と改称した。、、、、、本堂は伊東忠太設計、戸田組の施工によるもので、寺院風の建築となっている。200坪の講堂を持ち、三重塔がその奥にある。三重塔は高さ約41mで、基部は納骨堂となっている。講堂には祭壇があり、震災死亡者、空襲死亡者の霊をそれぞれ合祀した巨大な位牌が2基祀られている。

2025年4月 7日 (月)

散り始めた桜

そろそろ桜も散る頃と思い、今日は隅田公園を抜けて、向島方面に歩いて見た。 しかし運悪く、向島あたりから霧雨が、小粒の雨となりポツリポツリと落ちてきた。 『コリャダメだ! 散歩は中止!』で、京成曳舟駅に駆け込み電車でGO! 浅草橋駅に着いた頃には、『雨、いつ降ったの?』と聞きたくなる晴天。



隅田公園(台東区)で、そろそろ散り始めた桜とスカイツリーを眺め、桜橋を渡り墨田区に入る。、、、、桜の下の花見は、昨日で最後か(?)、今日は人出も少なく、場所取りする人もいない。 足元の花びらを踏みながらの散歩である。
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● 向島では、黄檗宗の弘福寺にお立ち寄り。、、、、延宝元年(1673)黄檗宗の僧鉄牛道機の開山、稲葉正則の開基により香積山弘福寺を現在地に移して建てられた寺院である。 江戸時代には鳥取藩池田氏の菩提寺であった。 関東大震災で罹災したが、本堂である大雄宝殿は昭和8年(1933)に再建された。 寺は黄檗宗特有の唐風結構で、特に本堂の両翼にある円窓、堂前の月台、処々柱に掛かる聯額(れんがく)等、他の寺院建築に余り例を見ない特異なもの。 私好みの寺院建築である。
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・・・・・・・・・・ 黄檗宗
は禅宗の中でも中国色の強い宗派として知られ、当寺に布袋尊の御像が安置されたのも、実はその黄檗宗の性格にかかわるのである。 布袋尊は唐時代の実在の禅僧である。常に大きな布の袋を持ち歩き、困窮の人に会えば袋から財物を取り出しては施し、しかも袋の中身は尽きるころがなかった。 その無欲恬淡として心の広い人柄は、真の幸福とは欲望を満たすことだけではないことを、身をもって諭した有徳として、世人の尊崇を受け、七福神の一神としても敬われたのである。
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・・・・・・・・・・ 境内には、風外和尚禅師(寛永年中の人)自刻の父母の石像があります。 風外禅師は相州真鶴(神奈川県真鶴町)山中の一洞穴で求道生活をしていましたが、自ら刻んだ父母の像に、朝夕の孝養を怠らなかったといわれています。その後小田原城主の当山開基稲葉正則公が、風外和尚の温情に胸打たれて、江戸下屋敷にて供養をしておりましたが、同公の転封に伴い、菩提所である弘福寺に祀られたものだある。 風外和尚の「風邪の外」の文字より風邪除けのご利益があろうと民間信仰を集めてる。 人呼んで「咳の爺婆尊(せきのじじばばそん)」と称し、口内にやむものは爺に、咳をやむものは婆に祈願し、全快の祈り、煎り豆に番茶を添え供養する習わしがある。、、、、風邪が治った私は、再発せぬようねんごろに手を合わせてきた。
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● 料亭の玄関先に咲く枝垂れ桜も散り始めた。
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● 『アレ! 霧雨だ、チョイト神社で雨宿り!』と、国道6号線から少し入った住宅街の中に鎮座する秋葉神社にお立ち寄り。、、、、社伝によれば、正応2年(1289)五百崎〔いおさき〕の千代世〔ちよせ〕の森と呼ばれていた当地に千代世稲荷大明神を祀ったことを創祀とするという。 江戸時代の初め、善財という霊僧が秋葉大神の神影を刻んで社殿に納めたとされる。 元禄年間(1688~1704)、葉栄という修験者が霊告によってこの社に参詣し、霊験を得た。 そこで寺社奉行に願い出、元禄15年(1702)、上野国沼田城主・本多正永の寄進によって社殿を造営し、秋葉稲荷両社と称するようになった。 また、別当として千葉山満願寺を建立した。以来、鎮火・産業・縁結びの霊験により、庶民から大名まで広く信仰を集めた。享保2年(1717)には神祇管領より正一位の宣旨を受けている。 明治初めの神仏分離により、秋葉神社と称するようになり、別当の満願寺は廃寺となった。 大正12年の関東大震災、昭和20年の東京大空襲の被害を受け、現在の社殿は昭和41年(1966)に再建されたものである。、、、、霧雨が小粒の雨に変わってきた。 アリャリャ、困ったね傘は無い、服は濡れ始めた。
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・・・・・・・・・・ 京成曳舟駅へ駆け込み帰宅することにした。 地下鉄の浅草橋駅に着くと、日差しは強く、晴天だ! 
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2025年3月17日 (月)

おや! 城がある

今日は、浅草橋の我が家から、両国橋を渡り、両国国技館をとおり本所の町を抜け、東京スカイツリーの押上駅まで歩いてきた。 1万1千歩



● まだ眠い人もいる朝の7時40分、散歩に出る。 妻が玄関で『今日は、何処へ行くの?』と聞いてくる。 応えは『まだ決めてない、駅に行くまでに考えるよ! だけど、近場がいいな!』 妻が『隣の駅、両国なら近いよ』 その一言がヒントになり、両国橋を渡り、押上まで歩くことにした。、、、、浅草線の浅草橋駅前柳橋をとおり、両国橋隅田川を越える。
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・・・・・・・・・・ 総武線隅田川橋梁の西詰(台東区柳橋)に「石塚稲荷神社」がある。 かつて、石塚神社から50m程歩いた川岸に銭湯があり、柳橋芸妓組合(見番)があった。 戦後生まれの私は、我が家に内風呂が無く、近くの銭湯を利用していたが、その内の一軒が柳橋の銭湯だった。 昭和30年・40年頃の柳橋は、まだ華やかな花柳界であった。 夜は、人力車・黒塗りの車が料亭前にズラリと停まり、銭湯に来るたびに“何だか知らぬが凄いな~”と思う光景が印象に残ってる。 当時の料亭の名が今も残る玉垣は、私に半世紀以上昔の華やかであった柳橋を思い出させる。、、、、石塚稲荷神社の創建年代は不詳だが、浅草御蔵前元旅籠町の居住者有志が創建したといい、元禄元年(1688)当地へ移転したと言われてる。
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● 両国駅前をとおる。 両国駅も私の幼き頃を思い出させる駅である。 昭和30年・40年頃の両国駅は房総方面に向かう列車(蒸気機関車が牽引)の始発駅であった。 私の父方の本家が外房にあり、幼少の私は、夏・冬には両国から汽車に乗って連れて行ってもらった。、、、、現在ある両国駅は昭和4年(1929)12月30日に営業を開始した駅舎である。 開業当時は頭端式ホーム2面4線の構造であった。 当時は乗車口と降車口が分離されており、外から駅舎に向かって左側に乗車口、右側に降車口があったそうだ。 駅舎の竣工:昭和4年(1929)、設計:鉄道省建築課、施工:銭高組、構造:鉄筋コンクリート造2階建て。
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両国国技館東京都慰霊堂を横目で眺め、今日は前を素通りする。
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● 隅田区石原1丁目の裏通りに、小さな「徳之山稲荷神社」がある。、、、、本所築地奉行徳山五兵衛重政の屋敷跡の屋敷跡。 五兵衛は掘割の開拓や湿地の埋め立て、道路整備と市街地の造成などで、今の本所の基礎を作り上げ、その功績により、この地に屋敷を賜った。 五兵衛の死後、屋敷内に祀られていた稲荷と五兵衛の御霊が合祀され、徳山稲荷神社となった。、、、、また、孫の徳山五兵衛(秀榮)は、火付盗賊改方の在任中、歌舞伎の白波五人男の一人、日本駄衛門のモデルになった盗賊、日本左衛門らを捕えたことで有名である。 境内には、その「日本左衛門首洗い井戸跡之碑」なんてのも残ってる。
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● 本所2丁目には、都心の公園としてはチョイト広い「墨田区立若宮公園」がある。 その公園の一画に「牛嶋神社」が鎮座する。、、、、神社の鳥居前、木陰に隠れるように「満州事変忠魂碑」がある。 昭和6年(1931)に始まった満州事変では700余名が戦死し、その霊を祀り昭和10年(1935)に遺族が碑を建てたらしい。 塔頂部は満州らしい七重塔となっている。、、、、きっと戦前は、木陰でなく、もっと目立つところに堂々と置かれていたものと思われる。 戦後、公園の整備に合わせ移動されたのではないか(?) 
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● 東京スカイツリーを見上げる墨田区業平1に『おや、こんなところに城がある。 業平城かな?』、、、、昭和8年(1933)創業以来、昔ながらの伝統ある菓子作りをしている「お城森八本舗」である。 売れ筋の商品は「大粒栗最中」らしい、まだ営業前なので店は閉まっており、買うことはできなかった、残念!
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東京スカイツリーの膝下を歩き押上駅に向かう。 スカイツリーを撮るのだが、縦に長すぎて、素直にカメラに映らなくなってきた。(見上げる首もいたくなってきた!)
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● 東京スカイツリーの地下にある、浅草線の押上駅から電車で帰る。

2025年2月23日 (日)

寒い 寒い 大寒い!

大寒波の襲来。 連日の寒さは年寄りには辛い、腰痛は激しくリハビリも効果なし。 家でゴロゴロ、外出する気になれぬ!

連日、日本海側の大雪情報を見てると、平成25年(2013)1月14日の大雪を思い出す。 東京もかなりの積雪量であった。 当時の浅草橋・柳橋・両国の写真がある、見てね!  
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2025年2月 6日 (木)

寒い 寒い 大寒い!

2月に入り、最強・最長寒波の到来。 この寒さで、私は予約したクリニックには行かざるえないが、あとは終日家に籠ってテレビにゲーム。 家に籠っていては体力が落ちると思い、今朝は散歩に出てみた。、、、、京成押上線の高砂方面に向かうつもりで家を出たが、今朝の外気は気温2℃風も吹き付け、寒い寒い大寒い! 遠くに行くのは止めた! 京成曳舟で降り亀戸まで、寒中の散歩。 9千歩



● 朝8時、通勤通学客がゾロゾロ歩く京成曳舟駅で乗り降りする。 『この寒い日に通勤通学は大変だ、ズル休みしちゃいなよ!』と声をかけたくなるね。、、、、駅の上下線の高架化が完成したのは平成27年(2015)、10年前に高架駅となったが、いまだ駅前の整備は終わっておらず、広い駐車場となっている。
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● 京成曳舟駅から、木造住宅密集地域として名を馳せた京島地区を、北から南へクネクネと曲がり抜ける2車線道路を歩く。、、、、駅へ向かう人の姿は寒そうだ。 若いカップルも手はつないでいるが、無口、早足。 
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・・・・・・・・・・ もちろん早朝なので営業はしていないが、墨田区京島3丁目に「電気湯」という名の銭湯がある。 大正11年(1922)の創業だそうで、今年で103年目、銭湯の老舗である。 開業当時は電気で沸かしていたから「電気湯」というらしい。 今はガスで沸かしている「電気湯」。、、、、営業してれば、チョイト温まってゆきたいこの寒さ!
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・・・・・・・・・・ 下町の元気な商店街「キラキラ橘商店街」をとおる。 この商店街は90店舗程が営業している、その中でも食料関係の店が多く、地域の台所となっている。 関東大震災・東京大空襲等の被害から奇跡的に難を逃れた為、古くから地域の皆様に愛される商店街である。、、、、朝8時、商店街は通学路。
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東武亀戸線の小村井(おむらい)の踏切を渡り、「香取神社」へ向かう。、、、、2両編成の電車は通勤通学客で混んでいる。
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・・・・・・・・・・ 小村井の「香取神社」は旧小村井村の鎮守で、平安時代末期、下総国香取郡から開拓のために移住してきた6軒の人々が香取神宮の分霊を勧請したと言われてる。 経津主大神を祭神とする。 現在の社殿は、昭和29年(1954)の建立で、本殿は流れ造り、拝殿は入母屋流れ造りの総桧造り。、、、、江戸時代、当神社の東側には江戸近郊の梅の名所として知られた小村井梅園があった。敷地は約3,300坪で、築山・池・多数の名石を組んだ庭園に紅梅白梅が咲き乱れ、毎年梅の盛りには将軍の御成りもあったという。しかし、残念なことに明治43年(1910)の大水で廃園となった。 この小村井梅園を偲び、平成6年(1994)境内に梅が植えられ小さな梅園が開設された。 既に一部の木には花が咲いてる。 節分も過ぎ、まもなく春だ!
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● 明治通りに架かる
福神橋」(昭和58年架橋)を渡る。 橋は全長21.3m、幅22mで、墨田区立花と江東区亀戸を結ぶ。、、、、橋から東京スカイツリーが良く見える!、、、、空は青空、風はビュービュー、寒い寒い!
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●明治通りを歩きJR総武線亀戸駅に到着。 今日は寒い、早く帰って暖まろう!
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2024年11月26日 (火)

隅田公園から三囲神社へ

隅田公園から向島の三囲神社まで歩いてきた。



● 東武鉄道浅草駅の前から隅田公園(台東区)に入り、朝の公園をブラブラ。

・・・・・・・・・・ 朝日に輝く隅田川 チョイトまぶしい!
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・・・・・・・・・・ 秋らしい色に染まってきた公園
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・・・・・・・・・・ 公園の中には、多くの石碑・歌碑・説明板がある。 その内の一つ、昭和25年(1950)から昭和35年(1960)の間、隅田公園(言問橋西詰)周辺には、「アリの街」と呼ばれ、戦災で家や家族を失った人々が廃品回収を生業に働き共同生活する場が存在していた。 現在は整備され当時の様子を物語るものは残っていないが、数年前台東区により、その場所に案内板が設置された。、、、、説明板には『昭和25年(1950)、この地に戦災で家や家族を失った人々が廃品回収を生業に働き共同生活する場が誕生しました。 人々はアリのように勤勉に働き、助け合って生活したことから、アリの街と呼ばれました。 「アリの街のマリア」として知られる北原怜子は、全国の戦争孤児の救済に尽力したポーランド人のゼノ・ゼブロフスキー修道士に導かれ、裕福な家庭の出身ながら、病に冒され二十八歳の短い生涯を閉じるまで、アリの街に移り住み、子ども達を支え続けました。 昭和35年(1960)、アリの街は東京都の要請により江東区に移転されました。 北原怜子の活動は後に映画や舞台化もされ、平成27年(2015)にカトリック教会から日本人女性としてはただ一人「尊者」の称号を得ました。』
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・・・・・・・・・・ 言問橋と桜橋の中間、待乳山聖天と三囲神社を結ぶように、渡し船「竹屋の渡し」があった。 渡しの創設年は不明だが、文政年間(1818~1830)には既にあったそうだ。 昭和3年(1928)言問橋の架設によって、渡しは廃止となったらしい。
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・・・・・・・・・・ 江戸時代、隅田川から遊里「
吉原」へ通う猪牙船(ちょきぶね)が往来した山谷堀。 その山谷堀の最下流(現在の台東リバーサイドスポーツセンタ付近)に架けられた橋が「今戸橋」である。 今戸橋が最初に整備された時期は不明だが、江戸時代に橋を架け渡すという記載が文献に残っているそうだ。 この橋の下を吉原通いの船が通った頃には、その船を親不孝舟などといったといい、「今戸橋上より下を人通る」というほどのにぎわいだったと言われている。 現存する欄干は、大正15年(1926)に竣工した橋の欄干で、山谷堀の埋立てに伴い、昭和62年(1987)現在のような形となった。 
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・・・・・・・・・・ 隅田公園にあった石碑、もう一つ紹介する。 言問橋西詰の公園内に「東京大空襲戦災犠牲者追悼碑」がある。、、、、第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。 その亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。 台東区では、戦後40年(昭和61年)に、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、忘れることが無きよう、この地に碑を建立した。(合掌)
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● ただいま補修工事中の言問橋を渡り、台東区から墨田区へ入る。、、、、朝8時過ぎ、まだ人の動きも少なく静かだ! 
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● 言問橋を渡ると、東詰交差点の手東詰「見番通り」と表示された裏通りに入る。 この道を200m程歩くと向島の花街に「三囲神社(みめぐりじんじゃ)」がある。、、、、宇迦之御魂命を祭神とする囲神社の創建年代は不詳であるが、文和年間(1353~1355)に、近江三井寺の僧源慶が東国遍歴の際に社を改築したと云われている。 その改築をするとき、土を掘ると壺が出土し、白狐にまたがる老翁の像が出てきた。 すると、どこからか白狐が現れ、像の周りを三回回った死んだ、三囲神社の名はこの話に由来するそうだ。、、、、、三井家(越後屋=三越)が江戸に進出すると、社号に使われる文字「」が、三井の「」に塀を張り巡らせて守っているように見えることから、三井家の守護神として崇敬された。 今でも三井家と三井系企業に信仰されている三井家御用達の神社。

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・・・・・・・・・・ 三囲神社のシンボルか? 享和2年(1802)に奉納された、目尻のさがった温和な表情の神狐
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・・・・・・・・・・ 境内には多くの境内社と、歴史を感じさせる歌碑・塚などがある。 その中には三井家に関連する物も多い。、、、、三越呉服店の会長であった日比翁助(ひびおうすけ)の石垣の歌碑『いしがきの 小石大石持合ひて 御代はゆるがぬ 松ヶ枝の色』、、、、三越池袋店のライオン像、、、、明治時代になって拠点を京都から東京に移した呉服商の三井家は、養蚕の神=木嶋神社(京都太秦)を崇敬していた、境内にある三柱鳥居は木嶋神社の鳥居を模して建てられた。
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● 三囲神社をあとにして見番通りを北へ200m程歩くと「向嶋墨堤組合」の建物がある。 ここが、向島芸者の総まとめ「見番(けんばん)」だ!、、、、向嶋墨堤組合は、料亭、置屋、芸妓衆など花街の統括管理が主な業務で、現在、10軒の料亭が加盟し、120名を越える芸妓衆が登録している。規模は都内随一で、作法、所作に始まり、お座敷でのおもてなしの心を身につけるために、西川流や猿若流などの日本舞踊の他、鳴物、清元、長唄、常磐津、笛を専属の師匠について日々修練しているそうだ。、、、、自分の若い頃、一度は行ってみたかった芸者遊び、今は「遊んでみたいが  体力なし」
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● 見番通りをさらに北へ100m、黄檗宗の寺院「牛頭山 弘福寺」がある。、、、、弘福寺は延宝元年(1673)黄檗宗の鉄牛和尚の開山、稲葉正則の開基により香積山弘福寺を現在地に移して建てられた寺院。 江戸時代には鳥取藩池田氏の菩提寺であった。 関東大震災で罹災したが、昭和8年(1933)に、中国の黄檗寺にならって、本堂が大明式建築で再建された。 山門も、昭和8年の再建で、前に控柱が4本あり、門の中央部が2階建てとなっている。、、、、
建物に中国の名残が強く、どこか異国情緒が感じられる、都内でも数少ない黄檗宗の寺院だ!
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● 桜橋を渡り、再び隅田公園に入り、浅草橋の我が家に戻る。 1万歩

2024年10月21日 (月)

八広から東あずま

京成押上線の八広駅から、東武亀戸線の東あずま駅まで、9千歩の散歩です。



● 墨田区の北、荒川沿いにある京成押上線の八広駅は、大正12年(1923)7月11日、「荒川駅」として開業した。 開業当初の駅は荒川(当時は荒川放水路)土手上に位置していたことから、“荒川駅”を名乗っていたが、昭和7年(1932)に墨田区の西側に接する「荒川区」が成立し、紛らわしい状況が続いた。 平成6年(1994)4月1日、紛らわしかった駅名を、当時地名から「八広駅」に変更した。、、、、荒川区は、現在の荒川(=荒川放水路)に接しておらず、区の周囲半分は隅田川に接している。 現在の荒川が荒川の本流となる以前は隅田川が荒川の本流であった。 つまり、荒川区は荒川(=現:隅田川)沿いあったが、荒川放水路が荒川と名乗ったため、“荒川”から離れた。 荒川区には、“荒川”は流れておらず“荒川駅”も無く、“荒川”を名乗るは都電荒川線と荒川遊園地だけだ、寂しいね! 
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・・・・・・・・・・ 八広駅は相対式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線の構造である。 相対式ホーム(1番線)は上り線用、島式ホーム(2、3番線)は下り線用であるが、平日の7時9分発から9時16分発の上り電車は全て島式ホームの2番線から発車する。 相対式ホームは閉鎖され、1番線は優等列車の通過線専用となる。 2番線は上り各駅停車の待避線となる。、、、、島式ホームから人影が見えない相対式ホームを眺め、満員の普通電車を待つ心はイライラ、ムカムカしてるかも?
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● 八広駅から押上方面に向かう八広中央通りにでると、八広5丁目の交差点裏で、紫地色に「八広庚申堂」と染め抜いた旗がコッチャコ~イとなびいてる。 ホイホイつられて庚申堂へ向かう。、、、、庚申堂の門柱脇に櫛型角柱型の馬頭観音がある。右側面に「天下泰平」左側面に「村内安全」とあり、裏面に紀年らしき彫りがあるが読めない。、、、、正面には、3基の石仏を祀った庚申堂がある。 堂内には、左に享保5年(1720)造立の舟型光背型の地蔵菩薩。 中央は元禄2年(1689)造立の駒型庚申塔。 右には造立年代不詳の観音菩薩像が祀られている。、、、、境内の右端には、大師堂があり弘法大師の座像が祀られている。これはこの場所が、南葛八十八ヶ所の第54番札所だったから。
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● 八広中央通りを押上方向に歩いてゆくと、東京朝鮮第五初中級学校の正門前に「八広四丁目交番」がある。 交番横の植込みに隠れるように道標が1基ある。 道標には、「右 や久しみち」「左 ゑとみち」と記されてる。、、、、“やくし道(薬師道)”というのはかつてこの近くにあった木下川薬師を指すようだ。 その木下川薬師は、荒川放水路(現:荒川)の開削工事によって川の中央に水没するため、荒川の向こう岸にある浄光寺とともに移転した。 浄光寺(葛飾区東四つ木1)は青竜山薬王院浄光寺という天台宗の寺院で、現在も木下川薬師を配してる。、、、、植え込みの道標は尖頭角柱型で、やくし=木下川薬師、ゑと=江戸である。 造立年は不詳であるが、享保年間(1716~1735)のものと言われてる。 植込みで見えない側には「大畑村講中」とあるらしい。 江戸幕府八代将軍徳川吉宗の時、吉宗公が木下川薬師に参詣することになり、その道標として大畑村の村民が要所に道標を建立したものの一基であるとされている。(嘘か、真か、わしゃ知らぬ?)
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● 薬師道の道標から20m程南へ歩くと信用金庫の前に、彫刻家:池田宗弘による作品「旅人ー仲間と」がある。 墨田区の景観施策の一環である「まちかどアート」という取り組みで、平成6年(1994)度に設立されたそうだ。 池田宗弘は「真鍮直付け彫刻」という独自の技法で作品を製作するのが特徴だそうだ。、、、、私にはよくわからないが、街角で見かけるような情景で面白そうな作品である。
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● 八広中央通りをさらに歩き、真言宗智山派正覚寺の横を入ると「三輪里稲荷神社」(八広3)がある。、、、、三輪里稲荷神社は、慶長19年(1614)出羽国湯殿山の大日坊長が大畑村(八広、東墨田、立花の一部)の総鎮守として羽黒大神の分霊を勧請し三輪里稲荷大明神として鎮座した。 通称の「こんにゃく稲荷」と呼ばれ、初午の日に授与される「こんにゃくの護符」は、のどや風邪などの病に効くといわれている。、、、、、政界用語では“こんにゃく”は100万円の札束を言う。 裏金として“こんにゃく1丁”なら100万円、2丁なら200万円。 私なら1丁と言わず、2丁でも、3丁でも貰うのだが、万病に効きそうな“こんにゃく”だからね!
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● 三輪里稲荷神社に参った後は、裏道に入り八広中央通りから外れてしまった。 八広はなみずき通りを横断し、さらに裏道を歩くと、東武亀戸線と平行する都道476号(=丸八通り)に出た。
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東武亀戸線の「東あずま駅に到着、今日の散歩はここまでとする。、、、、昭和3年(1928)4月15日、平井街道駅として開業したが、昭和20(1945)平井街道駅は廃止された。 昭和31年(1956)5月20日、東あずま駅として再開業した。
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