墨田区

2025年4月 7日 (月)

散り始めた桜

そろそろ桜も散る頃と思い、今日は隅田公園を抜けて、向島方面に歩いて見た。 しかし運悪く、向島あたりから霧雨が、小粒の雨となりポツリポツリと落ちてきた。 『コリャダメだ! 散歩は中止!』で、京成曳舟駅に駆け込み電車でGO! 浅草橋駅に着いた頃には、『雨、いつ降ったの?』と聞きたくなる晴天。



隅田公園(台東区)で、そろそろ散り始めた桜とスカイツリーを眺め、桜橋を渡り墨田区に入る。、、、、桜の下の花見は、昨日で最後か(?)、今日は人出も少なく、場所取りする人もいない。 足元の花びらを踏みながらの散歩である。
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● 向島では、黄檗宗の弘福寺にお立ち寄り。、、、、延宝元年(1673)黄檗宗の僧鉄牛道機の開山、稲葉正則の開基により香積山弘福寺を現在地に移して建てられた寺院である。 江戸時代には鳥取藩池田氏の菩提寺であった。 関東大震災で罹災したが、本堂である大雄宝殿は昭和8年(1933)に再建された。 寺は黄檗宗特有の唐風結構で、特に本堂の両翼にある円窓、堂前の月台、処々柱に掛かる聯額(れんがく)等、他の寺院建築に余り例を見ない特異なもの。 私好みの寺院建築である。
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・・・・・・・・・・ 黄檗宗
は禅宗の中でも中国色の強い宗派として知られ、当寺に布袋尊の御像が安置されたのも、実はその黄檗宗の性格にかかわるのである。 布袋尊は唐時代の実在の禅僧である。常に大きな布の袋を持ち歩き、困窮の人に会えば袋から財物を取り出しては施し、しかも袋の中身は尽きるころがなかった。 その無欲恬淡として心の広い人柄は、真の幸福とは欲望を満たすことだけではないことを、身をもって諭した有徳として、世人の尊崇を受け、七福神の一神としても敬われたのである。
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・・・・・・・・・・ 境内には、風外和尚禅師(寛永年中の人)自刻の父母の石像があります。 風外禅師は相州真鶴(神奈川県真鶴町)山中の一洞穴で求道生活をしていましたが、自ら刻んだ父母の像に、朝夕の孝養を怠らなかったといわれています。その後小田原城主の当山開基稲葉正則公が、風外和尚の温情に胸打たれて、江戸下屋敷にて供養をしておりましたが、同公の転封に伴い、菩提所である弘福寺に祀られたものだある。 風外和尚の「風邪の外」の文字より風邪除けのご利益があろうと民間信仰を集めてる。 人呼んで「咳の爺婆尊(せきのじじばばそん)」と称し、口内にやむものは爺に、咳をやむものは婆に祈願し、全快の祈り、煎り豆に番茶を添え供養する習わしがある。、、、、風邪が治った私は、再発せぬようねんごろに手を合わせてきた。
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● 料亭の玄関先に咲く枝垂れ桜も散り始めた。
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● 『アレ! 霧雨だ、チョイト神社で雨宿り!』と、国道6号線から少し入った住宅街の中に鎮座する秋葉神社にお立ち寄り。、、、、社伝によれば、正応2年(1289)五百崎〔いおさき〕の千代世〔ちよせ〕の森と呼ばれていた当地に千代世稲荷大明神を祀ったことを創祀とするという。 江戸時代の初め、善財という霊僧が秋葉大神の神影を刻んで社殿に納めたとされる。 元禄年間(1688~1704)、葉栄という修験者が霊告によってこの社に参詣し、霊験を得た。 そこで寺社奉行に願い出、元禄15年(1702)、上野国沼田城主・本多正永の寄進によって社殿を造営し、秋葉稲荷両社と称するようになった。 また、別当として千葉山満願寺を建立した。以来、鎮火・産業・縁結びの霊験により、庶民から大名まで広く信仰を集めた。享保2年(1717)には神祇管領より正一位の宣旨を受けている。 明治初めの神仏分離により、秋葉神社と称するようになり、別当の満願寺は廃寺となった。 大正12年の関東大震災、昭和20年の東京大空襲の被害を受け、現在の社殿は昭和41年(1966)に再建されたものである。、、、、霧雨が小粒の雨に変わってきた。 アリャリャ、困ったね傘は無い、服は濡れ始めた。
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・・・・・・・・・・ 京成曳舟駅へ駆け込み帰宅することにした。 地下鉄の浅草橋駅に着くと、日差しは強く、晴天だ! 
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2025年3月17日 (月)

おや! 城がある

今日は、浅草橋の我が家から、両国橋を渡り、両国国技館をとおり本所の町を抜け、東京スカイツリーの押上駅まで歩いてきた。 1万1千歩



● まだ眠い人もいる朝の7時40分、散歩に出る。 妻が玄関で『今日は、何処へ行くの?』と聞いてくる。 応えは『まだ決めてない、駅に行くまでに考えるよ! だけど、近場がいいな!』 妻が『隣の駅、両国なら近いよ』 その一言がヒントになり、両国橋を渡り、押上まで歩くことにした。、、、、浅草線の浅草橋駅前柳橋をとおり、両国橋隅田川を越える。
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・・・・・・・・・・ 総武線隅田川橋梁の西詰(台東区柳橋)に「石塚稲荷神社」がある。 かつて、石塚神社から50m程歩いた川岸に銭湯があり、柳橋芸妓組合(見番)があった。 戦後生まれの私は、我が家に内風呂が無く、近くの銭湯を利用していたが、その内の一軒が柳橋の銭湯だった。 昭和30年・40年頃の柳橋は、まだ華やかな花柳界であった。 夜は、人力車・黒塗りの車が料亭前にズラリと停まり、銭湯に来るたびに“何だか知らぬが凄いな~”と思う光景が印象に残ってる。 当時の料亭の名が今も残る玉垣は、私に半世紀以上昔の華やかであった柳橋を思い出させる。、、、、石塚稲荷神社の創建年代は不詳だが、浅草御蔵前元旅籠町の居住者有志が創建したといい、元禄元年(1688)当地へ移転したと言われてる。
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● 両国駅前をとおる。 両国駅も私の幼き頃を思い出させる駅である。 昭和30年・40年頃の両国駅は房総方面に向かう列車(蒸気機関車が牽引)の始発駅であった。 私の父方の本家が外房にあり、幼少の私は、夏・冬には両国から汽車に乗って連れて行ってもらった。、、、、現在ある両国駅は昭和4年(1929)12月30日に営業を開始した駅舎である。 開業当時は頭端式ホーム2面4線の構造であった。 当時は乗車口と降車口が分離されており、外から駅舎に向かって左側に乗車口、右側に降車口があったそうだ。 駅舎の竣工:昭和4年(1929)、設計:鉄道省建築課、施工:銭高組、構造:鉄筋コンクリート造2階建て。
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両国国技館東京都慰霊堂を横目で眺め、今日は前を素通りする。
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● 隅田区石原1丁目の裏通りに、小さな「徳之山稲荷神社」がある。、、、、本所築地奉行徳山五兵衛重政の屋敷跡の屋敷跡。 五兵衛は掘割の開拓や湿地の埋め立て、道路整備と市街地の造成などで、今の本所の基礎を作り上げ、その功績により、この地に屋敷を賜った。 五兵衛の死後、屋敷内に祀られていた稲荷と五兵衛の御霊が合祀され、徳山稲荷神社となった。、、、、また、孫の徳山五兵衛(秀榮)は、火付盗賊改方の在任中、歌舞伎の白波五人男の一人、日本駄衛門のモデルになった盗賊、日本左衛門らを捕えたことで有名である。 境内には、その「日本左衛門首洗い井戸跡之碑」なんてのも残ってる。
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● 本所2丁目には、都心の公園としてはチョイト広い「墨田区立若宮公園」がある。 その公園の一画に「牛嶋神社」が鎮座する。、、、、神社の鳥居前、木陰に隠れるように「満州事変忠魂碑」がある。 昭和6年(1931)に始まった満州事変では700余名が戦死し、その霊を祀り昭和10年(1935)に遺族が碑を建てたらしい。 塔頂部は満州らしい七重塔となっている。、、、、きっと戦前は、木陰でなく、もっと目立つところに堂々と置かれていたものと思われる。 戦後、公園の整備に合わせ移動されたのではないか(?) 
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● 東京スカイツリーを見上げる墨田区業平1に『おや、こんなところに城がある。 業平城かな?』、、、、昭和8年(1933)創業以来、昔ながらの伝統ある菓子作りをしている「お城森八本舗」である。 売れ筋の商品は「大粒栗最中」らしい、まだ営業前なので店は閉まっており、買うことはできなかった、残念!
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東京スカイツリーの膝下を歩き押上駅に向かう。 スカイツリーを撮るのだが、縦に長すぎて、素直にカメラに映らなくなってきた。(見上げる首もいたくなってきた!)
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● 東京スカイツリーの地下にある、浅草線の押上駅から電車で帰る。

2025年2月23日 (日)

寒い 寒い 大寒い!

大寒波の襲来。 連日の寒さは年寄りには辛い、腰痛は激しくリハビリも効果なし。 家でゴロゴロ、外出する気になれぬ!

連日、日本海側の大雪情報を見てると、平成25年(2013)1月14日の大雪を思い出す。 東京もかなりの積雪量であった。 当時の浅草橋・柳橋・両国の写真がある、見てね!  
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2025年2月 6日 (木)

寒い 寒い 大寒い!

2月に入り、最強・最長寒波の到来。 この寒さで、私は予約したクリニックには行かざるえないが、あとは終日家に籠ってテレビにゲーム。 家に籠っていては体力が落ちると思い、今朝は散歩に出てみた。、、、、京成押上線の高砂方面に向かうつもりで家を出たが、今朝の外気は気温2℃風も吹き付け、寒い寒い大寒い! 遠くに行くのは止めた! 京成曳舟で降り亀戸まで、寒中の散歩。 9千歩



● 朝8時、通勤通学客がゾロゾロ歩く京成曳舟駅で乗り降りする。 『この寒い日に通勤通学は大変だ、ズル休みしちゃいなよ!』と声をかけたくなるね。、、、、駅の上下線の高架化が完成したのは平成27年(2015)、10年前に高架駅となったが、いまだ駅前の整備は終わっておらず、広い駐車場となっている。
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● 京成曳舟駅から、木造住宅密集地域として名を馳せた京島地区を、北から南へクネクネと曲がり抜ける2車線道路を歩く。、、、、駅へ向かう人の姿は寒そうだ。 若いカップルも手はつないでいるが、無口、早足。 
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・・・・・・・・・・ もちろん早朝なので営業はしていないが、墨田区京島3丁目に「電気湯」という名の銭湯がある。 大正11年(1922)の創業だそうで、今年で103年目、銭湯の老舗である。 開業当時は電気で沸かしていたから「電気湯」というらしい。 今はガスで沸かしている「電気湯」。、、、、営業してれば、チョイト温まってゆきたいこの寒さ!
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・・・・・・・・・・ 下町の元気な商店街「キラキラ橘商店街」をとおる。 この商店街は90店舗程が営業している、その中でも食料関係の店が多く、地域の台所となっている。 関東大震災・東京大空襲等の被害から奇跡的に難を逃れた為、古くから地域の皆様に愛される商店街である。、、、、朝8時、商店街は通学路。
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東武亀戸線の小村井(おむらい)の踏切を渡り、「香取神社」へ向かう。、、、、2両編成の電車は通勤通学客で混んでいる。
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・・・・・・・・・・ 小村井の「香取神社」は旧小村井村の鎮守で、平安時代末期、下総国香取郡から開拓のために移住してきた6軒の人々が香取神宮の分霊を勧請したと言われてる。 経津主大神を祭神とする。 現在の社殿は、昭和29年(1954)の建立で、本殿は流れ造り、拝殿は入母屋流れ造りの総桧造り。、、、、江戸時代、当神社の東側には江戸近郊の梅の名所として知られた小村井梅園があった。敷地は約3,300坪で、築山・池・多数の名石を組んだ庭園に紅梅白梅が咲き乱れ、毎年梅の盛りには将軍の御成りもあったという。しかし、残念なことに明治43年(1910)の大水で廃園となった。 この小村井梅園を偲び、平成6年(1994)境内に梅が植えられ小さな梅園が開設された。 既に一部の木には花が咲いてる。 節分も過ぎ、まもなく春だ!
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● 明治通りに架かる
福神橋」(昭和58年架橋)を渡る。 橋は全長21.3m、幅22mで、墨田区立花と江東区亀戸を結ぶ。、、、、橋から東京スカイツリーが良く見える!、、、、空は青空、風はビュービュー、寒い寒い!
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●明治通りを歩きJR総武線亀戸駅に到着。 今日は寒い、早く帰って暖まろう!
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2024年11月26日 (火)

隅田公園から三囲神社へ

隅田公園から向島の三囲神社まで歩いてきた。



● 東武鉄道浅草駅の前から隅田公園(台東区)に入り、朝の公園をブラブラ。

・・・・・・・・・・ 朝日に輝く隅田川 チョイトまぶしい!
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・・・・・・・・・・ 秋らしい色に染まってきた公園
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・・・・・・・・・・ 公園の中には、多くの石碑・歌碑・説明板がある。 その内の一つ、昭和25年(1950)から昭和35年(1960)の間、隅田公園(言問橋西詰)周辺には、「アリの街」と呼ばれ、戦災で家や家族を失った人々が廃品回収を生業に働き共同生活する場が存在していた。 現在は整備され当時の様子を物語るものは残っていないが、数年前台東区により、その場所に案内板が設置された。、、、、説明板には『昭和25年(1950)、この地に戦災で家や家族を失った人々が廃品回収を生業に働き共同生活する場が誕生しました。 人々はアリのように勤勉に働き、助け合って生活したことから、アリの街と呼ばれました。 「アリの街のマリア」として知られる北原怜子は、全国の戦争孤児の救済に尽力したポーランド人のゼノ・ゼブロフスキー修道士に導かれ、裕福な家庭の出身ながら、病に冒され二十八歳の短い生涯を閉じるまで、アリの街に移り住み、子ども達を支え続けました。 昭和35年(1960)、アリの街は東京都の要請により江東区に移転されました。 北原怜子の活動は後に映画や舞台化もされ、平成27年(2015)にカトリック教会から日本人女性としてはただ一人「尊者」の称号を得ました。』
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・・・・・・・・・・ 言問橋と桜橋の中間、待乳山聖天と三囲神社を結ぶように、渡し船「竹屋の渡し」があった。 渡しの創設年は不明だが、文政年間(1818~1830)には既にあったそうだ。 昭和3年(1928)言問橋の架設によって、渡しは廃止となったらしい。
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・・・・・・・・・・ 江戸時代、隅田川から遊里「
吉原」へ通う猪牙船(ちょきぶね)が往来した山谷堀。 その山谷堀の最下流(現在の台東リバーサイドスポーツセンタ付近)に架けられた橋が「今戸橋」である。 今戸橋が最初に整備された時期は不明だが、江戸時代に橋を架け渡すという記載が文献に残っているそうだ。 この橋の下を吉原通いの船が通った頃には、その船を親不孝舟などといったといい、「今戸橋上より下を人通る」というほどのにぎわいだったと言われている。 現存する欄干は、大正15年(1926)に竣工した橋の欄干で、山谷堀の埋立てに伴い、昭和62年(1987)現在のような形となった。 
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・・・・・・・・・・ 隅田公園にあった石碑、もう一つ紹介する。 言問橋西詰の公園内に「東京大空襲戦災犠牲者追悼碑」がある。、、、、第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。 その亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。 台東区では、戦後40年(昭和61年)に、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、忘れることが無きよう、この地に碑を建立した。(合掌)
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● ただいま補修工事中の言問橋を渡り、台東区から墨田区へ入る。、、、、朝8時過ぎ、まだ人の動きも少なく静かだ! 
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● 言問橋を渡ると、東詰交差点の手東詰「見番通り」と表示された裏通りに入る。 この道を200m程歩くと向島の花街に「三囲神社(みめぐりじんじゃ)」がある。、、、、宇迦之御魂命を祭神とする囲神社の創建年代は不詳であるが、文和年間(1353~1355)に、近江三井寺の僧源慶が東国遍歴の際に社を改築したと云われている。 その改築をするとき、土を掘ると壺が出土し、白狐にまたがる老翁の像が出てきた。 すると、どこからか白狐が現れ、像の周りを三回回った死んだ、三囲神社の名はこの話に由来するそうだ。、、、、、三井家(越後屋=三越)が江戸に進出すると、社号に使われる文字「」が、三井の「」に塀を張り巡らせて守っているように見えることから、三井家の守護神として崇敬された。 今でも三井家と三井系企業に信仰されている三井家御用達の神社。

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・・・・・・・・・・ 三囲神社のシンボルか? 享和2年(1802)に奉納された、目尻のさがった温和な表情の神狐
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・・・・・・・・・・ 境内には多くの境内社と、歴史を感じさせる歌碑・塚などがある。 その中には三井家に関連する物も多い。、、、、三越呉服店の会長であった日比翁助(ひびおうすけ)の石垣の歌碑『いしがきの 小石大石持合ひて 御代はゆるがぬ 松ヶ枝の色』、、、、三越池袋店のライオン像、、、、明治時代になって拠点を京都から東京に移した呉服商の三井家は、養蚕の神=木嶋神社(京都太秦)を崇敬していた、境内にある三柱鳥居は木嶋神社の鳥居を模して建てられた。
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● 三囲神社をあとにして見番通りを北へ200m程歩くと「向嶋墨堤組合」の建物がある。 ここが、向島芸者の総まとめ「見番(けんばん)」だ!、、、、向嶋墨堤組合は、料亭、置屋、芸妓衆など花街の統括管理が主な業務で、現在、10軒の料亭が加盟し、120名を越える芸妓衆が登録している。規模は都内随一で、作法、所作に始まり、お座敷でのおもてなしの心を身につけるために、西川流や猿若流などの日本舞踊の他、鳴物、清元、長唄、常磐津、笛を専属の師匠について日々修練しているそうだ。、、、、自分の若い頃、一度は行ってみたかった芸者遊び、今は「遊んでみたいが  体力なし」
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● 見番通りをさらに北へ100m、黄檗宗の寺院「牛頭山 弘福寺」がある。、、、、弘福寺は延宝元年(1673)黄檗宗の鉄牛和尚の開山、稲葉正則の開基により香積山弘福寺を現在地に移して建てられた寺院。 江戸時代には鳥取藩池田氏の菩提寺であった。 関東大震災で罹災したが、昭和8年(1933)に、中国の黄檗寺にならって、本堂が大明式建築で再建された。 山門も、昭和8年の再建で、前に控柱が4本あり、門の中央部が2階建てとなっている。、、、、
建物に中国の名残が強く、どこか異国情緒が感じられる、都内でも数少ない黄檗宗の寺院だ!
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● 桜橋を渡り、再び隅田公園に入り、浅草橋の我が家に戻る。 1万歩

2024年10月21日 (月)

八広から東あずま

京成押上線の八広駅から、東武亀戸線の東あずま駅まで、9千歩の散歩です。



● 墨田区の北、荒川沿いにある京成押上線の八広駅は、大正12年(1923)7月11日、「荒川駅」として開業した。 開業当初の駅は荒川(当時は荒川放水路)土手上に位置していたことから、“荒川駅”を名乗っていたが、昭和7年(1932)に墨田区の西側に接する「荒川区」が成立し、紛らわしい状況が続いた。 平成6年(1994)4月1日、紛らわしかった駅名を、当時地名から「八広駅」に変更した。、、、、荒川区は、現在の荒川(=荒川放水路)に接しておらず、区の周囲半分は隅田川に接している。 現在の荒川が荒川の本流となる以前は隅田川が荒川の本流であった。 つまり、荒川区は荒川(=現:隅田川)沿いあったが、荒川放水路が荒川と名乗ったため、“荒川”から離れた。 荒川区には、“荒川”は流れておらず“荒川駅”も無く、“荒川”を名乗るは都電荒川線と荒川遊園地だけだ、寂しいね! 
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・・・・・・・・・・ 八広駅は相対式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線の構造である。 相対式ホーム(1番線)は上り線用、島式ホーム(2、3番線)は下り線用であるが、平日の7時9分発から9時16分発の上り電車は全て島式ホームの2番線から発車する。 相対式ホームは閉鎖され、1番線は優等列車の通過線専用となる。 2番線は上り各駅停車の待避線となる。、、、、島式ホームから人影が見えない相対式ホームを眺め、満員の普通電車を待つ心はイライラ、ムカムカしてるかも?
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● 八広駅から押上方面に向かう八広中央通りにでると、八広5丁目の交差点裏で、紫地色に「八広庚申堂」と染め抜いた旗がコッチャコ~イとなびいてる。 ホイホイつられて庚申堂へ向かう。、、、、庚申堂の門柱脇に櫛型角柱型の馬頭観音がある。右側面に「天下泰平」左側面に「村内安全」とあり、裏面に紀年らしき彫りがあるが読めない。、、、、正面には、3基の石仏を祀った庚申堂がある。 堂内には、左に享保5年(1720)造立の舟型光背型の地蔵菩薩。 中央は元禄2年(1689)造立の駒型庚申塔。 右には造立年代不詳の観音菩薩像が祀られている。、、、、境内の右端には、大師堂があり弘法大師の座像が祀られている。これはこの場所が、南葛八十八ヶ所の第54番札所だったから。
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● 八広中央通りを押上方向に歩いてゆくと、東京朝鮮第五初中級学校の正門前に「八広四丁目交番」がある。 交番横の植込みに隠れるように道標が1基ある。 道標には、「右 や久しみち」「左 ゑとみち」と記されてる。、、、、“やくし道(薬師道)”というのはかつてこの近くにあった木下川薬師を指すようだ。 その木下川薬師は、荒川放水路(現:荒川)の開削工事によって川の中央に水没するため、荒川の向こう岸にある浄光寺とともに移転した。 浄光寺(葛飾区東四つ木1)は青竜山薬王院浄光寺という天台宗の寺院で、現在も木下川薬師を配してる。、、、、植え込みの道標は尖頭角柱型で、やくし=木下川薬師、ゑと=江戸である。 造立年は不詳であるが、享保年間(1716~1735)のものと言われてる。 植込みで見えない側には「大畑村講中」とあるらしい。 江戸幕府八代将軍徳川吉宗の時、吉宗公が木下川薬師に参詣することになり、その道標として大畑村の村民が要所に道標を建立したものの一基であるとされている。(嘘か、真か、わしゃ知らぬ?)
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● 薬師道の道標から20m程南へ歩くと信用金庫の前に、彫刻家:池田宗弘による作品「旅人ー仲間と」がある。 墨田区の景観施策の一環である「まちかどアート」という取り組みで、平成6年(1994)度に設立されたそうだ。 池田宗弘は「真鍮直付け彫刻」という独自の技法で作品を製作するのが特徴だそうだ。、、、、私にはよくわからないが、街角で見かけるような情景で面白そうな作品である。
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● 八広中央通りをさらに歩き、真言宗智山派正覚寺の横を入ると「三輪里稲荷神社」(八広3)がある。、、、、三輪里稲荷神社は、慶長19年(1614)出羽国湯殿山の大日坊長が大畑村(八広、東墨田、立花の一部)の総鎮守として羽黒大神の分霊を勧請し三輪里稲荷大明神として鎮座した。 通称の「こんにゃく稲荷」と呼ばれ、初午の日に授与される「こんにゃくの護符」は、のどや風邪などの病に効くといわれている。、、、、、政界用語では“こんにゃく”は100万円の札束を言う。 裏金として“こんにゃく1丁”なら100万円、2丁なら200万円。 私なら1丁と言わず、2丁でも、3丁でも貰うのだが、万病に効きそうな“こんにゃく”だからね!
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● 三輪里稲荷神社に参った後は、裏道に入り八広中央通りから外れてしまった。 八広はなみずき通りを横断し、さらに裏道を歩くと、東武亀戸線と平行する都道476号(=丸八通り)に出た。
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東武亀戸線の「東あずま駅に到着、今日の散歩はここまでとする。、、、、昭和3年(1928)4月15日、平井街道駅として開業したが、昭和20(1945)平井街道駅は廃止された。 昭和31年(1956)5月20日、東あずま駅として再開業した。
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2024年9月 5日 (木)

鳳凰堂を模した燈明寺

昨日は爽やかな風が吹く一日であった。 今日も秋風を期待し早朝の散歩に出た。 私の住む浅草橋からJR総武線で千葉方向に4駅目「平井駅」で下車し、スカイツリーのある押上まで歩いてきた。 ただし、持参したカメラのバッテリーが切れ、写真は途中の小村井駅まで、チョイト残念!




平井駅(江戸川区)は明治32年(1899)4月28日に総武鉄道(私鉄)の駅として開業。 明治40年(1907)には総武鉄道が鉄道国有法により買収、国有化され、官設鉄道の駅となる。 中央・総武線各駅停車しか停車しない浅草橋駅と同様に都心の冴えない駅である。 1日平均乗車人員は約3万人である。

・・・・・・・・・・ 朝8時頃、乗る人、降りる人、通勤通学客で駅は混んでる。 お勤め、ご苦労様です! 
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・・・・・・・・・・ 平井駅に到着する千葉方面から都心に向かう電車は、既に満員状態。 乗れない人もいるようだ、可哀そうに遅刻しちゃうぞ!

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・・・・・・・・・・ まだまだ夏の名残り、暑い暑い!

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・・・・・・・・・・ 駅北口の真ん前に建築中のタワマン、もうすぐ出来上がり! ちなみにネットを見ると、29階・3LDK(120.59m2 )で、価格は約2億5千万円也。 チョイト、私には買えないね!

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● 平井駅から北西に歩いて徒歩10分、旧中川の近くに「燈明寺」がある。 燈明寺は、新義真言宗に属し明雅山明王院と称し、本尊の不動明王(私は拝見したことがないが)は身長1丈3勺(3.9m)で胎内に弘法大師1刀3札の不動明王を安置してるそうだ。 燈明寺の創建年代については不詳であるが、元暁という僧により開山されたそうだ。 江戸時代中期の寛延2年(1749)に示寂した恵祐がこの寺を中興して聖天を勧請して堂を建て、以後「平井聖天」として有名になった寺である。
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・・・・・・・・・・ 燈明寺は、安政の地震(1855)で堂宇を損傷、関東大震災(1923)では本堂全壊という災禍にあう。 当時の関澄道貫主(26世)によって京都宇治平等院風の三屋根造りの優雅で荘厳な本堂が建立された。 昭和4年(1929)に起工し同19年(1944)に完成した。 建物は総高14.4m、幅17.1m、奥行27mの金堂造りである。、、、、たしかに、平等院鳳凰堂を模したという本堂は、近建築でありながら風格ある佇まいだ! (平等院鳳凰堂を知らない人は10円硬貨をよく見てチョ!)

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・・・・・・・・・・ 燈明寺の別堂である聖天堂は「平井聖天」といわれ、昔から待乳山聖天、妻沼聖天とならぶ関東三聖天の一つである。 江戸時代には歴代将軍の鷹狩の時、聖天に参詣され、また御膳所にもなっていた。 この聖天堂は、里見八犬伝の物語や桧山騒動の相馬大作の祈願したことなどでもその名を知られ、昔から多くの人の信仰を集めている。 毎年節分会に柴燈護摩(火渡り)を行っているそうだ。、、、、大根と巾着など、聖天さまと縁のあるものを探して見たら、賽銭箱に大根の文様があった! 

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● 燈明寺の隣りには「平井諏訪神社」がある。 創建年代は享保年間(1716~1736) 祭神は建御名方命で、信濃国一ノ宮諏訪神社の分社である。 享保年間に燈明寺の恵祐法印が、自分が生まれた国である信州の諏訪大明神の神霊をここに祀ったのが始まりと言われてる。 境内の中央の現社殿は昭和44年(1969)に新築。 再来週は例大祭なので、準備が進められている。、、、、広い境内ではないが、よく整備され気持ちよく参拝できる。

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● 平井諏訪神社の西側、旧中川に「平井橋」が架かっている。 江戸川区平井と墨田区立花を結ぶ長さ55.4mの橋である。 昔はここに平井の渡しがあり、行徳、船橋へとつないでいた。
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● 平井橋から1㎞程西へ歩くと、東武鉄道亀戸線の小村井駅(おむらいえき)がある。 小村井駅は、墨田区文花2丁目にある駅で、昭和3年(1928)4月15日に開業した。 相対式ホーム2面2線の地上駅。 駅舎は曳舟方面ホームの東あずま寄りにあり、上下線ホーム間を連絡する地下通路が設置されている。、、、、小さな駅舎、2両編成の列車が停まる短い地上ホーム、昭和の香りが漂う大都会のローカル駅。
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● ここで、カメラのバッテリー容量が無くなっていることに気づき、撮影中断、残念無念!

2024年2月19日 (月)

意地で1万3千歩

最近歩く機会が少なく、体力が落ちてきたかも?? 今朝、食事をしながら『チョイト、歩いてくるね』 TVの天気予報は、文京区の椿山荘からLIVE中継。 『アレ、傘さしてる!』 食事が済んで外を見ると、我が家の周辺は濡れているが、雨は止んでる。 妻『傘を持って行ってね!』 私『雨は降らない、もし降ったらすぐに帰って来る。 男の散歩に傘は邪魔だ!』 傘を持たずに飛び出した。




● 家を出たが、さてさて何処へ行こうかな? 家を出て1分『アレ、雨粒が落ちてきた。 コリャ、遠くに行けないな』 本降りになっても、すぐにバスに乗って帰れるように浅草方面に歩きだす。 我が家と同じ町にある「須賀神社」に手を合わせ、『雨がやみますように!』と神頼み。

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蔵前一丁目交差点に来ると、傘をさす人も多い。 ココまで、我が家から真直ぐ歩いて、徒歩8分。 いまさら、我が家に戻って『散歩は止めた!』と妻に言うのは男として情けない! もう少し歩いて、本降りになったら帰ることにしようと決める。、、、、『この雨、本降りになるかも?』チョイト、不安がよぎる。 『そうだ、川向こうの東京都慰霊堂に行こう!』雨が降っても雨宿りできる。 これより、蔵前橋通りを歩く。

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● 小雨がパラパラ。 カメラが濡れるのを拭きながら蔵前橋を渡る。

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東京都慰霊堂に来ると、傘をさす学生も少ない。 雨は霧雨となった。 これなら、もうチョイト歩いて見よう!

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石原三丁目交差点まで来ると、雨は止んだ。 服は湿っぽくなったが、『ヨシ、もう少し散歩を続けよう!』 

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法恩寺橋を渡る頃には、道は乾き、雨は完全に止んだ。 これで、今日散歩に出た、男の面目が立った!

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錦糸町駅近くを通過。 傘をさす人はいない。

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天神橋を渡り、くず餅屋さん亀戸天神前を通過。 男の意地で小岩駅まで歩くつもり。

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東武亀戸線を越える頃、チョイト足が痛くなってきた。 アリャ、コリャ、歳だな、脚力が弱くなったか?、、、、江東新橋を渡り、江戸川区に入る。

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● 江戸川区に入り、平井駅前のタワマン工事現場まで来ると、足の疲れが出た! 我が家の家訓(?)、“年寄りの 無理は禁物”を思い出し、今日の散歩はここ平井駅までとする。 小岩まで歩くつもりが平井でギブアップ、1万3千歩の散歩でした。

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2024年2月13日 (火)

八広から南千住

天気予報では、暖かくなり散歩日和となるそうだ。 今日は、京成押上線の八広駅で降り、東武伊勢崎線の鐘ヶ淵駅前をとおり、南千住駅まで1万歩の散歩です。



● 関東大震災があった大正12年(1923)9月1日より2カ月程前の、7月11日に「荒川駅」として開業したが「八広駅」の始まりである。 荒川駅は荒川(当時は荒川放水路)の土手上に位置していたことに由来している。 駅名は平成6年(1994)4月1日に「八広駅」に改称したが、駅の位置は変わっておらず、ホームの先には荒川橋梁がある。、、、、駅名の「八広」は町名の八広に由来する。 町名の「八広」は、昭和40年(1965)の住居表示実施に伴い寺島町6・8丁目、隅田町4丁目・吾嬬町西5~9丁目の8地区が合併して成立したため、「八」の字を採り、その字体から「末広がり」の縁起を担いで命名された。、、、、駅の高架化が完成した平成11年(1999)からは、ホームは3階となり、1番線が片面、2・3番線が島式の2面3線構造。 朝ラッシュ時には1番線が通過列車専用となり、2番線が上り、3番線が下りホームとなる。 改札は2階で1ヶ所のみ。

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・・・・・・・・・・ 駅周辺には大きなスーパーは無く、駅前の喫茶店は無く、パチンコ屋も無く、カラオケも無く、下町の家並みだけが目に入る!

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● 八広駅から鐘ヶ淵駅に向かう、鐘ヶ淵通り(都道:補助第120号線)の拡幅工事が始まっている。 現在は「Ⅰ期区間」として、墨田区墨田3丁目~東向島5丁目の約370mの幅員を20~23m(既存の道路幅の倍以上)に拡幅してる。 拡幅の目的は、防災拠点への避難路(補助120号線)の整備と沿道の不燃化促進による延焼遮断帯の形成を目指し、街路整備と沿道まちづくりの一体的な整備を行っているそうだ。、、、、いずれ起きると思われる、大震災に向けての対策か? 整備を着実に進めて欲しいね。

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鐘ヶ淵駅前を歩く。 この駅前踏切を見ると、必ず“自らの脱臼事件”を思い出し、以来、踏切の横断、写真撮影などに注意するようになった。、、、、思い出多い踏切である。

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● 隅田川に架かる「水神大橋」を渡り、墨田区堤通から荒川区南千住の町に入る。、、、、水神大橋(すいじんおおはし)の橋名は東岸の墨田区堤通2にある「隅田川神社(水神宮)」に因む。 橋が架けられたのは平成元年(1989)3月で、隅田川の橋としては新しい方だ。 工事は橋の組み立てを陸上で行い、橋桁を台船に乗せて干満の差を利用して橋脚に乗せるという方法を利用した。、、、、両岸の汐入公園(荒川区)、東白鬚公園(墨田区)は東京都の防災拠点として位置づけられており、そのため双方を繋ぐ連絡橋として千住汐入大橋と共に計画された。 当初は歩行者専用橋で、接続する道路の整備が完了した平成8年(1996)より自動車道路供用が開始された。、、、、橋の諸元は、種別:鋼道路橋、形式:3径間連続ニールセンローゼ桁橋、橋長:157.0m、最大支間:102.0m、幅員:17.0m、着工:昭和59年(1984)、竣工:平成元年(1989)

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● 水神大橋の上から汐入公園の方を見ると、川岸に「隅田川旧防潮堤」の一部が残されている。 公園が整備される以前は、この防潮堤が川の両岸に構築され、高度成長期の“どぶ川”として隅田川は親しみある川ではなかった。 今は、川下の中央区まで「隅田川テラス」が整備され親しみやすい川となった。

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● 汐入公園を抜けると、JR南千住駅の東側に広がるJR貨物の隅田川駅がある。 フェンスの隙間から覗きながら南千住駅へ向かう。 電気機関車が並んでる、鉄道オタクにはたまらん光景!

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南千住駅に到着。 駅前に、東京駅行きのバスが停車してる。 『ラッキー このバスは浅草橋駅前を通る しかも敬老パスで料金は払わずOK』 我が家までのんびりバスに揺られて帰ることにした。

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2024年1月31日 (水)

梅は咲いたか

京成曳舟駅から墨田区京島・文花、江東区亀戸の町を歩き亀戸駅まで、1万歩の散歩です。




● 我が家のある浅草橋駅から都営浅草線に乗り5駅目(駅から駅まで約10分)、スカイツリーのある押上駅の次が京成曳舟駅。、、、、京成曳舟駅は平成25年(2013)頃までは地上駅であったが、平成27年(2015)には上下線の高架化が完了した。 高架化後は相対式ホーム2面2線を有する高架駅となり、駅前のロータリーも整備され、周囲には数棟のタワマンも建ち並んでる。 1日平均乗降人員は約18,000人で、大きな駅ではないが、“やぼったい京成らしさ”が抜け落ち、明るいスマートな駅に変わった。

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● 駅前から南に歩く。 駅の南に広がる京島地区は、第二次世界大戦による戦災から免れた地域で、戦後は緊急車両も通れない木造密集地区として重点的に整備が行われてる。、、、、京島地区には大正時代からの昭和初期の長屋などが現存し、古い家屋と町工場が混在し、東京でも下町の古い街並みが色濃く残っている地域である。 一方で狭い路地による車の通行の問題や、大規模地震などの災害時の対策も課題となっていた。 最近では、整備の効果が徐々に出始めており、救急車、消防車が通れなかった道も幅を広げ、少しづつ通れるようになってきた。 古い木造住宅は耐火建築に建て替えが進んでる。 小道の要所要所(小公園など)には、消防用の貯水槽、ポンプも設置されてる。

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● 京島地区を抜け向島警察署を過ぎると、東武亀戸線小村井(おむらい)駅がある。 駅前の踏切を渡り、墨田区文花2丁目に入る。

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● 小村井駅の南西200m程の処に、旧小村井村の鎮守で、平安時代末期、下総国香取郡から開拓のために移住してきた6軒の人々が香取神宮の御分霊を勧請したと言われてる、小村井香取神社がある。、、、、現社殿は昭和29年(1954)の建立で、本殿は流れ造り、拝殿は入母屋造りの総檜造りである。、、、、
江戸時代、当社の東側には江戸近郊の梅の名所として知られた小村井梅園があった。「梅屋敷」と呼ばれた敷地は約3千3百坪で、築山・池・多数の名石を組んだ庭園に紅梅白梅が咲き乱れ、毎年梅の盛りには将軍の御成りもあったそうだ。 しかし残念なことに明治43年(1910)の大水で廃園となった。 平成6年(1994)には、境内に「香梅園」が開設された。 梅の季節には80余種・約120本の梅が咲き、梅祭りが開催される予定だ! 今日、境内の梅は既に開花してた! 来週あたりは見ごろかも?

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● 小村井香取神社の斜め向かいに「都営文花一丁目第二アパート」がある。 昭和47年(1972)に建てられた、12階建て、235戸が入る大きなアパート。、、、、チョイト最上階から、青空に伸びるスカイツリーに向かってパチリ! 

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● 小村井香取神社から300m程歩くと北十間川が流れてる。 この川を越えると墨田区文花から江東区亀戸に入る。

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● 亀戸天神はまたの機会として、今日は亀戸香取神社に寄って行く。、、、、由緒では、『その昔、亀戸は亀の形をした小さな島で、亀島とか亀津島と呼ばれていたという。 社伝によれば、天智天皇4年(665)藤原鎌足が東国へ降った際、この島に香取大神を勧請し、太刀一振りを奉納して旅の安全を祈願した。これが当社の起源であるという。 承平天慶の乱に際し、平将門の追討に向かった藤原秀郷は、戦勝祈願のために当社に参籠した。乱の鎮定後、奉賽として弓矢を奉納し、勝矢と命名した。5月5日に行われる勝矢祭は、この故事に因むものである。このような由緒や武道の神として崇敬された香取大神の神徳に因み、現在ではスポーツ振興の神として広く崇敬を集めているとのことである。 明治5年(1872)村社に列格。昭和20年(1945)空襲で社殿が焼失し、同23年(1948)再建。現在の社殿は同63年(1988)に落成したものである』、、、、池江璃花子、内村航平と書かれた灯篭が参道にあった。 祈願に来たのかな?、、、、亀戸香取神社は桜でも有名な神社だが、『梅は咲いたか 桜はまだっかいな』 『まだまだですよ!』

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● 総武線の亀戸駅に到着、、、、今日は歩きやすい陽気だった! まだまだ歩く体力が残ってる!

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