墨田区

2020年9月 4日 (金)

また踏切が無くなる!

日本の上空は異常気象に覆われ、今日も猛暑! 「散歩は止めて、またごろ寝」と思ったら、妻からスカイツリーのある『ソラマチに行こう』とお誘い。 買い物とランチを兼ねて行ってきた。 買い物・食事も終え、折角来たからチョイト、スカイツリーの周辺をブラついてきた。




● 「ソラマチ」は、スカイツリーの足下に約300店の店舗で展開する商業施設。 オープン後、早8年、平成24年(2012)の開業である。 我が家からは、地下鉄で4駅目、片道15分程で行ける、便利なショッピングタウンである。、、、これまでは外人観光客が多く、人を掻き分け、煩わしい処であった。 只今は、日本人ばかりで、お店も空き・空き・空き、可愛い店員さんも大好き!

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● たまには、スカイツリーをじっくり撮ってみた!、、、、御存知、高さ634mはどこから見ても高い! 下から見上げる撮影はチョイトしんどいね! エスカレーターで同じ姿勢をしたら逮捕!

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● スカイツリーの脇には、東武伊勢崎線の「とうきょうスカイツリー駅」がある。、、、、とうきょうスカイツリー駅は、明治35年(1902)4月1日に吾妻橋駅として開業した。 昭和6年(1931)に、業平橋駅(なりひらばしえき)に改称。 平成24年(2012)、スカイツリーの開業に合わせ「とうきょうスカイツリー駅」に改称。 駅は、築堤上に島式ホーム1面2線を有する高架駅。


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・・・・・・・・・・・・ホーム東端の先では高架から地上に下り、本線の脇に数本の電留線がある。

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・・・・・・・・・・・・電留線の端部には、区道(桜橋通り)と交差する伊勢崎線第2号踏切がある。 この踏切は“開かずの踏切”まではいかないが、“重大事故の起きそうな踏切”である。

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・・・・・・・・・・・・東武鉄道、墨田区では、「とうきょうスカイツリー駅」から、伊勢崎線第2号踏の先まで高架化し、渋滞緩和することとした。 とうきょうスカイツリー駅を東へ約150m移設する工事を含めた高架化事業が、2024年度の完成を目指して着工した。 事業費315億円のうち東武が80億円、墨田区が国費と都費を含めて235億円を負担する。、、、完成すると、浅草駅から鐘ヶ淵駅手前までは高架となる。 踏切がまた無くなる、踏切好きの私にとっては、チョイト寂しいね!

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2020年8月30日 (日)

消えていく玉ノ井

立秋はとうに過ぎ、残暑の厳しさもおさまる処暑も過ぎた、二学期が始まるというのに、一向に秋風が吹いてこない、猛暑はいつまで続くのか? 連日、我が家でゴロゴロ・ごろ寝も、もう飽きた!、、、、今朝は、私の好きな堀切駅から、鐘ヶ淵駅、東向島駅と歩くつもりで、早朝に家を出た。 しかし、乗換の曳舟駅のホームに立つと、すでに日は昇り、ギラギラ太陽が眩しい。 『コリャ、散歩の途中で熱中症になるかも? 今朝、下着取り換えてこなかったので、病院に運ばれ看護婦さんに下着見られると恥ずかしい!』と、自問自答。 熱中症を避けて、急遽、堀切駅下車は止め、鐘ヶ淵駅から東向島駅までと短縮した。、、、、鐘ヶ淵駅から、かつての“玉ノ井”をブラブラ・ぶらつき、東向島駅まで、8千歩の散歩。


● 墨田区の最北端に位置する東武伊勢崎線の駅が、鐘ヶ淵駅である。 鐘ヶ淵駅は明治35年(1902)4月1日に開業した。 駅名の鐘ヶ淵は、近くの隅田川が大きく曲がる処を“曲ヶ淵(かねがふち)”と呼んでいたところから頂戴したらしい。、、、、中央の通過線2本を挟み、両側に相対式ホーム2面2線の地上駅。 両ホームの南端に、西口駅舎(下り線側)、東口駅舎(上り線側)がある。 ホームは大きくカーブして、電車の撮影には良いが、乗り降りには要注意!

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・・・・・・・・・・・・駅前には鐘ヶ淵通り(補助第120号線)がとおり、駅前踏切で伊勢崎線と平面交差している。 現在、1時間当たりの踏切の最大遮断時間が41分で、120号線の拡幅工事が進むと、交通量も増え、増々危険な踏切となる。 私自身も、この踏切で危険な思いをしたので“納得できる!” 地元では立体交差化を求めているそうだ。

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・・・・・・・・・・・・私が転んだ時、救急車を呼んでくれた踏切前(写真の三角地帯にあった)の交番も取り壊され、チョイト脇(三角地帯の後ろ)に移転した。

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・・・・・・・・・・・・拡幅される鐘ヶ淵通り。 既に更地となった商店もある。

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● 鐘ヶ淵駅から東向島駅までの間、今日は熱中症を意識して、裏道・路地を歩いてみた。 かつて「玉ノ井」と呼ばれた、戦後の私娼街(墨田3丁目の赤線)のあった処を歩いた。、、、、【基礎知識】 「玉ノ井」が私娼街であったことは、永井荷風の小説『墨東奇譚』、滝田ゆうの漫画『寺島町奇譚』に描かれている。 詳しく、興味深く、文学的に知りたい人は一読するとよい!(私は三読した。 しかし戦後生まれの私には、実体験の機会も無く、書物の知識だけではチョイトものたりない、残念無念!) ところで、「玉ノ井」の私娼街は、戦前には、現在の東向島5丁目(一部は6丁目にも)にあったが、東京大空襲で壊滅した。 当時を物語る建物・遺構などは何も残っていない。(あるのは写真だけ、想像するのみ) 戦前の「玉ノ井」で商売をしていた者は、戦後、近くの鳩の街(東向島1丁目付近)か、空襲で焼け残った墨田3丁目に移った。 「玉ノ井」の所在地は、戦前の「旧玉ノ井」(東向島5丁目)と戦後の「新玉ノ井」(墨田3丁目)に分けられ、別物である。 その東向島5丁目と墨田3丁目の境は、「いろは通り」と呼ばれる商店街である。

・・・・・・・・・・・・戦後75年、昭和32年(1957)の売春防止法施行、昭和33年(1958)の赤線廃止から62年、当時の建物はドンドン取り壊され、モダンな住宅、マンションに変わってきた。 狭かった道幅も、区の指導で徐々に広げられ車も通れるようになる。 (写真2枚目と3枚目は同じ通り。左側のそば屋の看板が同じ。商店街が消えた! 3枚目の写真は9年前に撮影)

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・・・・・・・・・・・・戦後の赤線時代の雰囲気を残す建物も少なくなったが、まだポツリ・ポツリと残っている。 どの店も、警察の指導により、強制的にカフェー風の店に改めさせられたそうだ! 当時の建物の特徴として、庇・柱などの出隅が丸みをあるデザインとなっている。 丸柱などもある。 建物の隅を切り欠いて、縦長の出入口が造られている。 タイル張りの意匠が多い。 (写真は全て墨田3丁目にて)

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・・・・・・・・・・・・新旧の玉ノ井を分ける「いろは通り」 通りの南側が旧玉ノ井のあった東向島5丁目、北側が新玉ノ井のあった墨田3丁目。、、、、商店街は、廃業した店も多そうだ。 また、商店街を歩いても、「玉ノ井」の名は街路灯の柱に残るだけとなった! 消えていく「玉ノ井」、寂しいね!
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● いろは通りを抜け東向島駅に着いた。 汗で、下着までビッショリ、搾ったら汗が水滴がして落ちるかも? これ以上歩くと、熱中症になること間違いなしと自己判断し、散歩は予定通り止め!、、、、東向島駅は明治35年(1902)4月1日、白鬚駅として開業。 明治38年(1905)には、白鬚駅の営業を休止し、明治41年(1908)に白鬚駅は廃止される。 大正13年(19024)10月1日、「玉ノ井駅」として営業を再開。 戦時中は、東京大空襲で被災し営業休止し、昭和24年(1949)に再び営業再開。 昭和62年(1987)12月21日、東向島駅に改称。、、、、玉ノ井駅改称後、23年経過したが、今でも駅名の表示では脇に小文字で「旧玉ノ井」と表示されている。 有名な私娼街「玉ノ井」に愛着があるのかも?、、、、駅ホームは相対式2面2線構造の高架ホーム。 改札口・出口は1階の1ヶ所のみ。

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2020年8月17日 (月)

夜の亀戸線

猛暑日が続き、熱中症が恐い! 感染者が連日100人超え、コロナが恐い! どちらに罹っても、多くの人に迷惑をかけるので、散歩を自粛していた。 しかし一週間、家でゴロゴロしていると、そろそろ限界に近づき歩きたくなった。 日中の散歩は怖いので、夕方6時過ぎに東武亀戸線沿いに、亀戸から曳舟まで歩いてきた。 1万1千歩の散歩。、、、、、亀戸線沿いの散歩はこれまで何度も歩いている。 こちらを見て!


● 亀戸駅・・・・・頭端式1面2線の地上ホームは、いつ来ても、何とも言えない雰囲気がある。 私の好きな駅の一つ。

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●隣駅「亀戸水神駅」に向かう・・・・・亀戸駅と亀戸水神駅の駅間距離はわずか0.7kmだが、亀戸水神駅は暗闇の中。 

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● 次の駅は「東あずま駅」・・・・・亀戸水神、東あずまの両駅には、珍しくなった構内踏切がある。 ローカル色が残る駅!

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● チョイト読みにくい「小村井駅」・・・・・“小村井”は“おむらい”と読む。 亀戸線の途中駅、全3駅で最も乗降客の多い駅、なんと一日当たり約12,000人が乗り降りする。、、、、駅舎は明治通りに面し、出入口は1か所のみ。 駅前で待ち合わせをしても、間違えることはない、安心!

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● スカイツリーの下を走って「曳舟駅」へ・・・・・2両編成の電車は亀戸~曳舟間を約10分間隔で行ったり来たり。 

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2020年6月26日 (金)

再び北斎通り!

錦糸町へ買い物に、帰りは「北斎通り」を歩き両国へ、両国では久しぶりにガラガラ空き空きの江戸東京博物館に立ち寄り、浅草橋の我が家まで歩いて帰る。



●うんこオブジェ! ・・・・・・・・・JR総武線「錦糸町駅」北口を出ると、目の前のロータリー中央に、ワイヤーで吊るされた大きな輪っかのオブジェが目に飛び込んでくる。 普段は通り過ぎるだけのオブジェだが、今日はチョイト興味を持ち、正体を調べてみた!、、、、説明板によると、これは「“ECHO”エコー」と名付けられ、ヘ音記号を2つ組み合わせたものなんだとか。 へー、屁音記号だったのか、どうりで“うさんくさいオブジェだ”。 さらにオブジェを吊るすワイヤーは五線譜をあらわしている。 墨田区は昭和62年(1987)、「音楽都市」をめざして街づくりをすることを宣言し、北口再開発事業で交通広場の吸気・排気塔を利用して、音楽都市を象徴するモニュメントを設置することにした。 その結果、平成9年(1997)に、米国の作家:ローレン・マドソンの作品“ECHO”を設置した。、、、、このモニュメント、巷では色・形状を見て、“うんこオブジェ”と云うそうだ、同じ墨田区には、アサヒビールの“うんこビルもある。

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●マスク邪魔だ! ・・・・・・・駅前の“ECHO”モニュメント北側の通りが「北斎通り」である。 度々歩いているこの道を、今日も両国駅方向に歩く。、、、、日中は30℃超の気温、暑い暑い、コロナ予防に熱中症予防、マスクの中はムレムレ!

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・・・・・・・・・・・・駅前からチョイト西側にズレるとスカイツリーを正面に望む通りがある。、、、、今日は青空も見え、視界良好!

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・・・・・・・・・・・・駅前から300m程西へ歩くと、かつて津軽藩下屋敷内にあった「津軽稲荷神社」がある。、、、、神社のあるこの一帯はその昔、津軽為信の時代に1万坪の下屋敷があったそうだ。 明治以降は管理ままならず、明治43年(1910)の大水害後に地元町会に払い下げられた。 関東大震災と米軍の空爆で2度焼失したものの、昭和35年(1960)に拝殿・社務所・会館、同44年(1969)に鳥居が再建・復興した。、、、、赤い幟がなびく参道の先に、戦後に造られた鉄筋コンクリート造の社がある。 

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・・・・・・・・・・・・津軽稲荷神社から50m程、西へ歩くと「大横川親水公園」がある。 「北斎通り」から公園に入る処に、2基の親柱とトラス形状の鉄骨で造られたモニュメントがある。 かつて、ここに架かっていた「長崎橋」を記念したものだ!、、、、ここにあった長崎橋は、元禄10年(1697)当時の本所奉行鈴木兵九郎、島屋久五郎両名によって、墨田区亀沢4丁目より錦糸1丁目に架けられた。 最初は長さ10間(18m)、幅2間半(4.5m)の木橋でしたが、その後何回となく架け替えられ、昭和4年6月には鋼製トラス橋になった。 この橋は、大横川親水河川整備事業によりその役目を終えて撤去された。 橋の名前は、当時西側に隣接した本所長崎町の地名に因んで長崎橋と名付られ、永い間親しまれた。、、、、北の津軽に、南の長崎、錦糸町には各地の侍が住んでいたようだ!

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・・・・・・・・・・・・北斎通りを西へ 、、、、 そろそろ名残りのアジサイか

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・・・・・・・・・・・「野見宿禰神社」、すみだ北斎美術館の前を行く。

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●北斎通りはココまで! ・・・・・・・北斎通りは、江戸東京博物館前で清洲通りにぶつかり、ハイ・ココまでヨ~~。

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・・・・・・・・・・・・今日は江戸東京博物館の中を拝見することにした。、、、、巨大な建物は、建築家:菊竹清訓の設計により、平成4年(1992)に竣工した、地上7階建ての博物館。 高さは約62m程あり、高い! 竣工時は建物のデザインに批判的な人もいたようだ。、、、、巨大な吹き抜け部分の空間、毎度思うのだが『我が家が何戸ぐらい入るスペースだ?』 優に500戸分以上ありそうだ!

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・・・・・・・・・・・・老人割引のチケット(300円)買って、マスクをさせられ、長いエスカレーターで3階から6階へ。 マスク美人のおねえさんが、『手の消毒お願いします!』、、、、入場者より、博物館関係者の方が多い館内は、ガラガラ、『ご自由に、好きなだけ見てください』と云う感じだ!  何度か訪れている博物館だが、展示室に入り、大きな模型、実物大の家屋など、その大きさに今回も圧倒された。

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●以下省略! ・・・・・・この後、両国橋を渡り、浅草橋の我が家へ帰る!

2020年6月 5日 (金)

向う両国

我が家(浅草橋)から両国橋を渡り、回向院・江島杉山神社に参り新大橋で再び隅田川を越えて浜町に入り浅草橋へ、1万2千歩の散歩です。 




●両国とは? ・・・・・・・・隅田川に架かる両国橋は、あまりにも有名で知らぬは外人だけ! 今は、東詰めは東京都墨田区両国1丁目、西詰は東京都中央区東日本橋2丁目。、、、、江戸時代の両国橋は、現在の両国橋より少々下流に架かっていた。 当時の橋の東詰めは下総国、西詰は武蔵国で、両方の国の境に架かる橋で「両国橋」 解りやすい! もちろん江戸時代の橋は木橋で、流出や焼落、破損により何度も架け替えられた。 木橋としては明治8年(1875)の架け替えまで続いたそうだ。 この明治の木橋も明治30年(1897)8月の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず欄干が崩落してしまった。 木橋の終焉である。、、、、現在の両国橋は鉄橋の2代目で、関東大震災後の昭和7年(1932)の竣工、構造は3径間ゲルバー式鋼鈑桁橋、施工は石川島造船所/間組、 総工費 987,500円也。 約100万円で橋が架けられた時代は昔の話となった! 

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・・・・・・・・・・・・両国橋の東側(墨田区両国)には古き歴史を語る説明板、石碑などが多い。、、、、まずは、東詰めにある「両国橋児童遊園」と表示された広場。 一面に砂利がひき詰められ、公衆便所と3本程の桜の若木、そして日露戦争の忠魂碑、赤穂浪士の一人:大高源吾の句碑、さらに観光用と思われる周辺の案内図などがある。 “児童遊園”なのに、子供向けの設備・遊具は何もない、どうなってんだ!

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・・・・・・・・・・・・両国橋児童遊園の隣りにある建築史上貴重な建物は、「岡田商事」の社屋。 戦前に建てられたものでアールデコ調の美しい建築。、、、、今日は改修工事か? 外壁に足場が架けられていた。 (夕暮れの写真は、2018年10月撮影) 

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・・・・・・・・・・・・岡田商事の建物の隣り、駐車場のフェンスに3枚の説明板がある。 駐車場のこの辺りに「両国橋広小路」があった。、、、、江戸時代の両国橋は現在の橋より50mほど下流に架かっていた。 橋の西側、つまり中央区側の広小路(火避地)は「両国広小路」、東側(墨田区側)を江戸の人は「向う両国」と呼んだ。 西側は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が立ち並び、東側は、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街となりました。 寛保2年(1742)頃には1日に20,000人以上が往来したそうだ。

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・・・・・・・・・・・・そして、もう一枚の説明板「赤穂浪士休息の地」によると、元禄15年(1702)12月14日、赤穂浪士の討ち入り後、泉岳寺への引き上げ前に休息したのがここにあった向う両国の広小路です。吉良家への応援に駆けつけて来るであろう上杉家の家臣たちを迎え撃つ心算であったとの説もあります。休息後、大名との無益な衝突を避けるため、登城路になる旧両国橋を通らず、一之橋、永代橋を経由して、泉岳寺へと引き揚げました。、、、、今の世であれば、地元の町内会で甘酒・汁粉を作ってふるまったかもね! また、野次馬が集まりサインを求めたと思うよ!

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●本当に義賊か? ・・・・・・・・両国にきたら、チョイト回向院鼠小僧次郎吉に手を合わせて行こう!、、、、ところで、鼠小僧次郎吉は俗名中村治郎吉。 実在した人物だそうだ、しかし義賊と云うのはあやしいらしい、盗んだ金は全てパチンコに使い、懐はいつもスッカラカンのステテコテンだったという説もある。 さらに、鼠小僧が生きていたと言われている当時は、犯罪者は墓が建てられないので墓があること自体あり得ない。 墓が建てられたとすれば明治以後のことで、墓自体もあやしいものらしい。、、、、いつの頃からか鼠小僧の墓石のかけらを持っていると、勝負師には「賭け事に勝つ」「運がつく」など、受験生には「するりと入れる」と言われて、墓石を欠き取る人が絶えないらしい。 

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●縦に流れる堅川! ・・・・・・・両国橋の下流200m程の処から、東に向かいほぼ一直線に旧中川まで堅川が流れている。 竪川は、万治2年(1659)に掘られた運河で、当時、江戸城からみて縦に通じているところから竪川と称したそうだ。 竪川の最初の目的は排水のためであったが、のちに隅田川と中川とを連絡する水路として輸送に大いに利用され、河岸には材木屋も多く木場の続きともなっていた。 一之橋はその堅川で隅田川寄りに最初に架かる橋である。、、、、現橋は3径間鋼桁で、橋長36.9m、昭和54年(1979)に竣工した。 隅田川寄りに、昭和35年(1960)に竪川水門がある。 また頭上には、首都高速7号小松川線が横切る。 チョイト、風情の無い景色となっている!

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●蛇の洞窟は怖い! ・・・・・・・一之橋を渡ると、江島杉山神社がある。 江島杉山神社は、鍼術の神様・杉山和一(1610~1694)が五代将軍綱吉から、神社のある本所一ツ目に約1万2千㎡の土地を拝領し総録屋敷を建て、その西隣に弁才天の一社を建立したのが、江島杉山神社の始まりです、神奈川県藤沢市の江ノ島弁財天と、杉山和一総検校が祀られています。 和一は、現在の三重県津市の出身で幼いころに失明し、江戸に出て鍼術を学び、江ノ島弁天の岩屋にこもり鍼術の一つである管鍼術を授かった。 その後、京都でも鍼術を学び、再び江戸に戻り鍼の名人として活躍した。 この和一の名声を聞いた綱吉は和一を「扶持検校」として召し抱え、日夜自分の治療に当たらせた。、、、、神社は昭和20年(1945)の米軍の空襲で焼失したが、昭和27年(1952)に再建された。 また、境内の奥には、江ノ島の岩屋を模した洞窟があり、中には、杉山検校石像、人頭蛇尾の宇賀神石像が祀ってある。 蛇が大嫌いな私には、チョイト気味の悪い洞窟だ!

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●モダンな橋! ・・・・・・・・隅田川に架かる新大橋を渡り、中央区日本橋浜町に入る。、、、、現在の橋、構造形式は2径間連続斜張橋、橋長 170.0m、昭和52年(1977)に石川島播磨重工業の施行で竣工した。 黄色の主塔が印象的!、、、、最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1694年)である、隅田川3番目の橋で「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられた。 江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたと伝えられている。

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●ただいま~ ・・・・・・・新大橋を渡ると、浜町公園・清正公寺・薬研堀不動院をとおり、浅草橋へお帰り!

2020年5月29日 (金)

水戸街道

気も緩みっぱなしで、『いよいよ、規制解除が近づいた!』と自分で判断し、今日は散歩の足慣らし。 妻と我が家(浅草橋)から水戸街道を北上し京成立石駅まで歩いてきた。 8.5km、1万6千歩の散歩。




●浅草橋! ・・・・・・・浅草橋駅前から水戸街道(国道6号)を歩く、今日は晴天だ。 三密を避け、マスクをつけ、直射日光を浴びて歩きはじめる!

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・・・・・・・・・・・・街道に面して商売する老舗のつくだ煮屋さん鮒佐 文久2年(1862)の創業、浅草橋の地で5代、150年の歴史。、、、、江戸っ子の味は、チョイト濃いめかな? 文句なしに美味い!

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・・・・・・・・・・・・・・ビル(浅草橋3)の前に「メタセコイア」の木が、青空に向かい高くまっすぐ伸びている。 このビルを建てた記念に植えられたものだそうだ。 ビルの階数から推定すると、木の高さは30mぐらいありそうだ、“都内最大級”らしい。

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●蔵前! ・・・・・・・・江戸通り(=水戸街道)と蔵前橋通りが交差する蔵前一丁目交差点の角(浅草橋3-20)、植え込み前に説明板がある。 説明板には『 天文台跡   台東区浅草橋三丁目   この地点から西側、通りを一本隔てた区画(浅草橋3丁目21・22・23・24番の全域及び19・25・26番の一部)には、江戸時代後期に、幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として、天文台がおかれていた。天文台は、司天台(してんだい)、浅草天文台などと呼ばれ、天明二年(1782)牛込藁店(わらだな 新宿区袋町)から移転、新築された。正式の名を「頒暦所御用屋敷」という。その名の通り、本来は暦を作る役所「天文方」の施設であり、正確な暦を作るためには観測を行う天文台が必要であった。 その規模は、「司天台の記」という史料によると、周囲約93.6m、高さ約9.3mの築山の上に、約5.5m四方の天文台が築かれ、43段の石段があった。また、別の史料「寛政暦書」では、石段は2ヶ所に設けられ、各50段あり、築山の高さは9mだったという。・・・・・・・』と標されている。、、、、天文台は明治2年まであったそうだ、浅草橋は天文学拠点だった。 悲しいかな、今は望遠鏡で隣の家を覗く住人ばかりなり!

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●駒形! ・・・・・・・・厩橋交差点の「東京厚生信用組合 浅草支店」(台東区駒形1)は、昭和5年(1930)に竣工したチョイト歴史ある建物。

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・・・・・・・・・・・・浅草駒形の老舗駒形どぜう」(台東区駒形1)の創業は1801年。 徳川11代将軍、家斉公の時代。 水戸街道は今も昔も、浅草寺にお参りする参詣ルートのメインストリートであり、多くの参拝客が立ち寄った店である。 今は、コロナ対応で「柳川弁当」、「蒲焼き弁当」などを店頭販売している。 もちろん店内では通常の料理を食すこともできる。、、、、只今11時、チョイト昼食には早すぎる、又の機会にする。 

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・・・・・・・・・・・・駒形橋から望むスカイツリー、、、、青空に映える雄姿!

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●通過! ・・・・・・・・浅草駅・浅草寺・雷門周辺はこのブログでも毎度おなじみ、今日はスタコラサッサと通過する。

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●言問! ・・・・・・・・・・正面にスカイツリーを眺め言問橋を渡る。、、、、頭上、真上からの直射日光は私達夫婦の顔を一遍に日焼けさせ、赤ら顔となる。 暑い、暑い!

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・・・・・・・・・・・・言問橋の東詰めに牛嶋神社(墨田区向島1)がある。 前を素通りするわけにはいかず、チョックラお立ち寄り。、、、、昭和7年(1932)、関東大震災後の隅田公園の整備にて、桜橋近くの隅田川東岸にあった神社を公園の北側に移された。 昭和20年(1945)の東京大空襲により神楽殿は焼けたが、本堂はじめその他の建物は一部被害を受けたものの無事で,昭和7年移転以来のものである。、、、、境内の撫牛は、江戸時代から知られているもので、自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおると言われている。 牛島神社の撫牛は体だけではなく、心も治るそうだ。 私は白内障の目を撫で、手術後の心臓付近を撫で、妻はなぜか頭を真剣に撫でた?

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●向島! ・・・・・・水戸街道は向島の町を北上する。 向島五丁目交差点の近くに、秋葉神社(墨田区向島4)がある。 こちらにもお立ち寄り。 社伝によれば、正応2年(1289)五百崎〔いおさき〕の千代世〔ちよせ〕の森と呼ばれていた当地に千代世稲荷大明神を祀ったことを創祀とするという。 元禄年間(1688~1704)、葉栄という修験者が霊告によってこの社に参詣し、霊験を得た。 そこで寺社奉行に願い出、元禄15年(1702)、上野国沼田城主・本多正永の寄進によって社殿を造営し、秋葉稲荷両社と称するようになったそうだ。 江戸時代以来の火伏せの信仰を今に伝える神社でもある。

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・・・・・・・・・・・・水戸街道を東武伊勢崎線が高架で越える。 その高架橋の下には「東武博物館」がある。、、、、今日は入館しないが、大人でも楽しい鉄道博物館だ。

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●四ツ木大橋! ・・・・・東向島を過ぎると墨田区と葛飾区の境:荒川四ツ木橋で越える。 全長:507.4mの橋で、昭和27年(1952)に竣工した。、、、、橋の上は、風は爽やか、気温は暑い! コロナは居そうにない! マスクなしで歩いても平気の平左衛門!

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・・・・・・・・・・・・四つ木橋を渡り、葛飾区に入り本田広小路交差点まで来た。 ここで我が妻はギブアップ! 水戸街道に別れ、京成立石駅へ向かうことにした。

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●立石! ・・・・・・・・京成立石駅周辺は押上線高架化工事と再開発がはじまり、数年後が楽しみだ!

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2019年12月16日 (月)

排水機場は只今工事中

中川は、荒川(旧荒川放水路、昭和5年(1930)完成)の開削によって、JR総武線、京成押上線それぞれの荒川橋梁に挟まれた中間地点で流路が分断された。 荒川の西側に分断された中川(右岸は墨田区・江東区、左岸は江戸川区)は旧中川と名を変えた。 その旧中川の上流端、荒川に分断された位置に、木下川排水機場がある。、、、、今日の散歩は、『なぜ、旧中川の最上流部に排水機場があるのか?』と疑問がわき、答えを探しに行った。、、、、京成押上線八広駅から、総武線平井駅まで、1万1千歩の散歩です。




●墨田区の荒川駅? ・・・・・・荒川橋梁を挟み、葛飾区側の四ツ木駅と結ぶ、墨田区側の八広駅。 荒川の土手に至近で、ホームからは荒川橋梁も見える。、、、、駅名は大正12年(1923)の開業時から荒川駅と名乗っていた。 荒川放水路開削工事は、大正13年(1924)の岩淵水門完成によって上流から下流までが繋がり、通水が行われた。 さらにその後、関連する工事が進められ、昭和5年(1930)に荒川放水路は完成した。 つまり、駅は荒川放水路が完成する以前から「荒川駅」を名乗っていたのである。 昭和7年、荒川区が誕生した時には、“墨田区にあって荒川とは”何ぞや! チョイトもめたようだ。 その後、平成6年(1994)に地元の地名を採用し「八広駅」に変えた。

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●神社を見下ろす土手! ・・・・・・八広駅から荒川土手沿いに下流方向へ歩くと、日枝神社がある。 慶長19年(1614)に鎮座し、この辺りを開墾した元木之下村の氏神様である。 境内には摂社として木下稲荷神社が祀られている。

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・・・・・・・・・・・・境内に、この地が0メートル地帯であることを示す表示があった。 神社の前は荒川土手、チョイト上ってみたら、3階建ての家を見下げるほどの高さ、高~~い! 自分は高所恐怖症、チョイト足がすくむ高さだ!

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・・・・・・・・・・・・・・対岸の葛飾区東四つ木を結ぶ木根川橋。 両端とも主要道と接続していない木根川橋は地元密着型の橋で、大型車両は通らず、都心に在って他と違う雰囲気がある。

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●只今工事中! ・・・・・・・荒川右岸の土手上から見える木下川排水機場(きねがわはいすいきじよう )。 毎度のことだが、木下川排水機場の下調べもせずに飛び出してきたので、排水機場は只今、耐震工事の真っ最中で立ち入り禁止。 工事関係者以外は誰も居らず、排水機場の機能・能力などを説明は河川事務所(江東区大島)に行って聞いてくれとの返事。 どうやら、自分の知りたかった『なぜ、旧中川の上流部に排水機場があるのか?』の疑問に応えてくれる人はいないようだ!、、、、帰宅後、自分の調べでは、、、、旧中川は墨田区・江東区の0メートル地帯にあり、この地は戦後急激に地盤沈下し、現在では海水面より低くなっている。 そのため、周囲を流れる荒川・隅田川の水位に比べると、一番低い処にあるのが旧中川だ。 0メートル地帯に降った雨は旧中川に流れ込む、しかし旧中川の水は外に流れる出ることがないため、強制的に24時間ポンプで排水を行い、東京湾の干潮位より1m低い水位を保っているらしい。 また、旧中川とそれに繋がる、小名木川・横十間川などの運河は、勾配がなく巨大な池のようでもある。 つまり、旧中川には上流も下流もないから、荒川に近いこの位置(旧中川の上流端)で排水を行っている。 下流端には荒川ロックゲートと云う大きな閘門がある。
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・・・・・・・・・・・・・・木下川排水機場前の荒川土手には木下川排水樋門がある。 木下川排水機場から荒川に排水する出口である。、、、、対岸には、中川が荒川開削事業で分断された位置付近に、中川水門が見える。、、、、【蛇足】「木下川」は“川”の名ではなく、昔の村名である。

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●川の中に建つ住宅! ・・・・・・木下川排水機場の南側、分断された旧中川の跡地に建てられた平井住宅。 昭和58~59年(1983~1984)に建てられた、7棟(210戸)の公務員用集合住宅である。 川の蛇行に合わせ、建物も緩やかにカーブしている。 ちなみに、建物の標高は海抜0m。

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●癒されるね! ・・・・・・・穏やかに流れているのか? それとも、流れは止まっているのか? 静かな水面に水鳥が遊ぶ旧中川。 川の両岸は公園として下流へ続く。、、、、今日の天気の下で、両岸とも心地よく歩ける遊歩道となっている。 私も、平井橋まで川沿いを歩いてきた。

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●お帰りは平井から! ・・・・・・旧中川の平井橋からは総武線平井駅はスグソコ!、、、、電車に乗ってしまえば、我が家までは15分。

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2019年12月13日 (金)

スタコラ、京葉道路

台東区浅草橋の我が家から中央区の浅草橋交差点に出て、京葉道路をひたすら東へ墨田区、江東区を抜け、江戸川区の中央二丁目交差点で曲がり、近くの大杉小学校前バス停まで、1万5千歩、約10kmの散歩です。




●何処も彼処も“浅草橋”  ・・・・・・我が家から徒歩45秒、浅草橋一二丁目交差点に台東区のコミュニティバス乗り場「浅草橋駅北」がある。、、、、ここから徒歩2分で江戸通りの下を走る都営地下鉄浅草線の「浅草橋駅」、そこから徒歩40秒JR総武線の「浅草橋駅」東口。、、、、さらに徒歩1分で神田川に架かり台東区浅草橋と中央区日本橋馬喰町を結ぶ橋「浅草橋」がある。 「浅草橋」は、江戸通り(=水戸街道)が神田川を渡る橋で、橋の全長と同じくらいの幅員を持つ幅広の橋梁である。 江戸時代初期この場所は、奥州方面から江戸中心部への入口となるため、江戸城の見附「浅草橋御門」が設置され、同時に見附橋としての木橋「浅草橋」が架けられた。 最初の橋は寛永13年(1636)頃の架橋と伝えられている。(私が誕生する以前の話で、本当かどうか知らない!) 現在の橋は大正12年(1923)の架橋で、私の母と同年で、今年で96年目(橋も母も、いまだ健在!)、、、、中央区に側に、京葉道路、靖国通り、江戸通り、清杉通りが交差する「浅草橋交差点」がある。

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●京葉道路をスタコラサッサ! ・・・・・・・・今日は10時半までの間、京葉道路をひたすら歩区ことにした。 “10時半”とは、我が家を出てから約3時間、私に疲れが出る頃だ! そして、あまり長く歩くと、靴底の減りも早く、また高価な靴を買うことになるので!

・・・・・・・・・・・・中央区の浅草橋交差点は、新宿から伸びてきた靖国通りの終点で、その延長上を東に向かう京葉道路の始点である。

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・・・・・・・・・・・・両国橋で隅田川を越える。 橋の東詰(墨田区側)には、明日(12月14日)に義士祭が行われる赤穂浪士の一人:大高源吾の「日の恩やたちまちくだく厚氷」の句碑がある。 この句は、討ち入りの夜、向島に住む俳句の師匠宝井其角と両国橋で出会い詠んだものといわれている。 句碑は昭和3年(1928)に建立されたもの。

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・・・・・・・・・・・・・・・両国3丁目の京葉道路の歩道上に建っている「本所松坂町跡」の碑。 もともとこの周辺は、吉良邸のあった本所松坂町と呼ばれていたが、関東大震災後の区画整理により町名が消えた。 この碑は「松坂町」を偲んで、昭和7年(1932)に住民によって建立された。、、、近くには、明日の義士祭・吉良祭のポスターもある。 チョイトついでに、吉良邸跡の本所松坂町公園にお立ち寄り!

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・・・・・・・・・・・・清澄通り三ツ目通り江東橋と通り過ぎ、錦糸町駅前は我が家を出てから1時間後に通過。

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・・・・・・・・・・・・・・錦糸町と亀戸の間を流れる運河:横十間川を昭和44年(1969)に完成した松代橋で越えて、墨田区から江東区に入る。 亀戸駅の手前で越中島支線(JR貨物)のガードをくぐり、亀戸駅前では歩道橋で交差点を横断し、亀戸七丁目交差点で丸八通りと交差する。

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・・・・・・・・・・・・・中川新橋(平成15年完成)で旧中川を越える。 この橋を渡ると江東区亀戸から、江戸川区平井・小松川に入る。、、、、中川新橋では、大勢のユリカモメが私を歓迎してくれた。

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・・・・・・・・・・・・・・旧中川の次は、荒川越えだ! 小松川橋で荒川と中川を一挙に越える。 全長約500mの小松川橋を渡りきるのに15分を要した、長い橋だ! 歩く先には首都高が、振り返ればスカイツリーが見える。、、、、渡り終わると時計の針は10時を回っていた!

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・・・・・・・・・・・・・・署員数480名の大きな小松川警察署の前を通り、境川橋を渡る。 境川橋はその名のごとく境川に架かる橋で、昭和15年(1940)に完成した。 只今、橋の下の親水公園と共に修復中。 東小松川交差点の角には、宝くじが良く当たると評判の宝くじセンターがある。 年末ジャンボの時期である、10億円ゲットするには何処で買うか迷うね?

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・・・・・・・・・・・・・・今日の散歩は、京葉道路の「中央二丁目交差点」(江戸川区)までとする。 時刻は10時半を過ぎ、お帰りの時刻となった。、、、、交差点角のチョイト裏側(江戸川区松江3-31)に、昭和初期に建てられたと思われる同潤会の木造住宅が、朽ちて残っている。 おそおらく、いずれ取り壊されると思うね!

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●ラッキー! ・・・・・・お帰りは、何処から乗るか? 新小岩方面に歩くと、「大杉小学校前」バス停にバスが来た。 ラッキー、これで新小岩駅に出ることにした。

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2019年11月10日 (日)

厳重警戒を避け下町へ

「祝賀御列の儀」が執り行われる今日は、都内の警備は厳重と思われる。 警備も手薄でブラブラ歩いても怪しまれないよう下町へ。 京成押上線・都営浅草線の押上駅からJR総武線平井駅まで歩いてきた。 1万2千歩。




●チョイト、どいて! ・・・・・・・京成押上線と都営浅草線が乗り入れている押上駅から、散歩を始める。、、、、京成押上線の開業は大正元年(1912)11月3日。 昭和35年(1960)12月4日に都営地下鉄1号線(現:浅草線)が地下化した押上駅に開業し、京成押上線と相互直通運転を行う。、、、、現在の押上駅は島式ホーム2面4線で、それぞれのホームは上り下り別に使用。 地下ホームを造った昭和30年代にはスカイツリー建設の話は当然なく、今の賑わいは想定外だったようだ、日中の観光客が多くホームは日常的に手狭となっている。、、、、キャリーバッグを持った外人観光客が多く、『チョイト、どいてくれ!』と言いたくなるが、悲しいかな日本語しか喋れない、通じない。 ここは、ニッコリ笑って会釈して『お・も・て・な・し』

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・・・・・・・・・・・・・・京成・都営の改札を出ると、スカイツリーへの入口、その先に東武・東京メトロの押上駅改札と続く。

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・・・・・・・・・・・・・・地上に出れば、もちろんスカイツリーの足下だ!

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●地蔵さんの還暦? ・・・・・・押上駅から四ツ目通り(都道465号)を歩き、東武亀戸線の踏切を越えると木造家屋の密集する京島地区。 今日は裏道・路地に深入りせず、サラリと通り抜ける。、、、、踏切を抜ける2両編成の亀戸線、、、、遊園地のビックリハウスを思い出させる傾いた家屋、、、、玄関軒下の赤い電球と大きな看板がチョイト懐かしい医院、、、、木造の長屋はこの町ではまだ多い、、、、緊急車両も入れない路地、、、、徐々に区画は整理され、不燃建築で建て替えられた、、、、リヤカーは健在か?

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・・・・・・・・・・・・・・京島地区南端に近い原公園の中央に、「財がたまる」・「幸のたまる」田丸稲荷神社がある。、、、、公園の隣りには、京島地区のメインストリートである下町風情溢れるキラキラ橘商店街がある、賑やかな公園だ。 しかし、この公園は、昭和20年(1945)3月10日のアメリカ軍の空襲で亡くなった364名の犠牲者を仮埋葬した場所である。 平成元年(1989)3月、原公園の改修では遺骨や毛髪が出土したそうだ。 警察の鑑識により、戦後改葬されたはずの戦没者のものと判明し、慰霊堂へ合祀された。、、、、戦後間もなく地元有志により田丸稲荷神社の横に地蔵尊が建てられた。、、、、スカートはいて、赤いちゃんちゃんこを着て赤の大黒頭巾をかぶった、チョイト派手な地蔵尊。 ひょっとすると建立から60年の還暦かもね?

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●アレ!お巡りさんがいない ・・・・・・・今日の祝賀御列の儀には、全国から26,000人の警察官が警備に動員されたそうだ。 ここ向島警察署からも大勢の警察官が警備に当たっていたのであろう。 普段は玄関前に立っているお巡りさんが今日はいない! 多分、動員され日曜出勤したのであろう、ご苦労様です。

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●外廊下に弱いのだ! ・・・・・・旧中川に近い都営立花六丁目アパートに、チョイトおじゃましてみた。 昭和51年(1976)に建てられた、2棟(411戸)の都営住宅。、、、、上層階に上がってみたが、高所恐怖症の私は、エレベーターをおりるや、共用部分の外廊下に水勾配がついているのを足裏で感じ取り、チョイト、ゾク・ゾク~~としたら、もうダメ怖い~~! 早々と、階段で1階まで駆け降りた。

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・・・・・・・・・・・・・・アパートから見る北の方向。 写真中央のはるか奥に葛飾区東四つ木で、綾瀬川に架かる首都高環状線の「かつしかハープ橋」が写っているのが判るかな? 手前の川は旧中川。

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●お後は、こちら! ・・・・・・この後、北向地蔵尊平井橋平井諏訪神社燈明寺と巡り、最後は平井駅

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2019年10月23日 (水)

OFF LIMITS の街

今朝、秋晴れの下、草加方面を散歩する予定で家を出た。 朝8時、自分の乗った電車が曳舟駅に着いたら、動かない? 15分後、駅アナウンスで『西新井駅で人身事故が発生しました。 振替輸送を行っております。』 「アリャリャ、自分は何処へ振替輸送してくれるんだ?」 SUICAで乗車し、行先は明示されていない、振り替えも何もない! とりあえず改札へ向かうと、『遅延証明書』を貰う人で行列ができている。 「コリャマタ・タマゲタ、自分は証明書貰っても持っていく先がない!」 大勢の通勤客と同じ行動ができない自分に、チョッピリ寂しさを感じながら駅をでる。

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駅前で「さて、東西南北どっちへ歩くかな?」 「東南北(=シャーない=しょうがない)、西へ歩いてみよう!」 出てきた処は国道6号水戸街道)に面した、出桁造り商家「萬屋糸店」の前。 萬屋さんは、糸・毛糸・寝具・洋品とタバコを扱う地元の老舗。、、、、こちらの向かい側には鳩の街通り商店街の入口がある。 今日の散歩は、久しぶりに鳩の街の周辺を探訪することにした。

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●「鳩の街」は、現在の墨田区向島と東向島の境界付近にあった赤線地帯。 地理的に私娼街「玉の井」と近く、1kmほどの距離である。 太平洋戦争末期に、空襲で焼け出された玉の井の銘酒屋(銘酒を売る看板を上げ、飲み屋を装い、私娼を抱えて売春した店)が何軒か、この地で開業したのが始まり。 終戦直後は、米兵の慰安施設として出発したが、兵士が性病に感染することが多いため、昭和21年(1946)に米兵の立ち入りが“off limits”となった。 その後は日本人相手の赤線として発展したが、昭和33年(1958)の売春防止法の完全施行で、店は廃業となる。 店は警察の指導でカフェー風に造られ、一目でその手の店と識別できたそうだ。 昭和27年(1952)頃は、108軒の店に、298人の娼婦がいたらしい。、、、、戦後生まれの自分は、当時は赤子。 知っていれば一度は行って見たかった!
 
●一本道の商店街 ・・・・・・・現在は「鳩の街通り商店街」として、国道6号(水戸街道)と都道461号(墨堤通り)を結んでいる商店街。 昭和3年(1928) 「寺島商栄会」としてスタートし、戦後になると隣接する赤線「鳩の街」に因み、「鳩の街商栄会」と名乗る。

・・・・・・・・・・・・・・水戸街道側の入口。 入口のポールには、商店街の名は見えず、あるのは、デザインされたハトだけ。 「鳩の街」の名を伏せたいのか?

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・・・・・・・・・・・・・・でも、案内板・立て看板・店舗名に“鳩の街”がある。

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・・・・・・・・・・・・・・ほぼ真直ぐな道の商店街。 しかし、開いてる店舗は半数もない。 チョイト寂しいが、只今、商店街活性化の最中で効果が出ているそうだ。 モダンな店舗もオープンしている。 数年後には、元気な商店街の復活も夢ではない! 

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・・・・・・・・・・・・・・昭和2年(1927)に建てられた木造の薬屋さんをリノベーションしたカフェ「こぐま」。 あいにく、火曜・水曜は定休日。 オリジナルカップで出されるコーヒーは美味しいそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・・・商店街の中程には保育園(写真:右)もある。 この保育園がある場所は、『鳴門秘帖』を書いた作家:吉川英治の旧居跡。、、、、吉川英治は明治25年(1892)横浜生まれ、小学校を中退し、職を転々としながら、朝から晩まで働き通した18歳の時、上京。 大正6年(1917)、25歳の時、下谷の花街で知り合った赤沢やすと、寺島村1820(東向島1丁目)のこの辺りの家で同棲を始め、母たちを近くの借家に呼んだといわれている。 30歳で『親鸞記』を初めて新聞連載し、以後、雑誌「キング」に『剣難女難』、大阪毎日新聞に『鳴門秘帖』を連載し、国民文学作家としての大成した。

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・・・・・・・・・・・・・・チョイト懐かしい雰囲気の元理髪店もある。 数年前に廃業した。

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・・・・・・・・・・・・・・墨堤通り側の商店街入口(出口かな?) コチラにも商店街の名はみえない、ポールの上には鳩が止まっている。

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●向島の路地裏の建物 ・・・・・・・鳩の街通りの東側、赤線があったと思われる裏道の一帯を歩いてみた。 

・・・・・・・・・・・・・・この辺りは救急車両が入れない木造家屋密集地区であるが、
最近建て替えられた建物では建て替えに伴い前面道路を広く確保している。 赤線Ⓙ時代の路地裏のゴチャゴチャ感は無くなってきた。

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・・・・・・・・・・・・・・・裏道に、赤線当時の名残と思われる建物が数棟ある。 いずれも、外装にタイルを使用し、丸みを帯びた柱・コーナー部・庇などがあり、出入口が狭いなど共通する。

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・・・・・・・・・・・・・・10年程前まで残っていた“OFF LIMITS”(立入禁止)、、、、外壁の窓下に、白ペンキで書かれていた進駐軍向けの“OFF LIMITS”。 既に、この建物は取り壊された。 (2010年撮影)

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・・・・・・・・・・・・・・鳩の街通り商店街の墨堤通り側の入口から東へ100m程歩くと、文豪幸田露伴が明治41年(1908)から大正13年(1924)まで蝸牛庵と名付けて親しんだ住居の跡である、児童公園:「露伴児童遊園」がある。 

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・・・・・・・・・・・・・・チョイト、おまけで鳩の街通り商店街の西側の裏道にある、榎本武揚居住跡に寄ってみた。、、、、武揚は幕末に徳川軍の海軍奉行に就き、戊辰戦争では五稜郭にて戦い、その後明治政府の文部大臣・外務大臣に就いた。 引退後は、この地(現:墨田区向島5-13)に住んでいた。、、、、“旧居跡”というと、都心ではだいたいマンションに変わっている処が多い。 ここも、そうだ。なんだか、実感が沸かないね!

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●・・・・・・・この後、押上まで歩き、今日の散歩は1万2千歩。   【蛇足】押上で電車に乗ったら、ホームに止まったまま20分経過。 その後、『信号装置のトラブルにより、この電車は回送となります』のアナウンスあり。 今日は最悪の日、方角が悪かったのか?

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