墨田区

2020年6月26日 (金)

再び北斎通り!

錦糸町へ買い物に、帰りは「北斎通り」を歩き両国へ、両国では久しぶりにガラガラ空き空きの江戸東京博物館に立ち寄り、浅草橋の我が家まで歩いて帰る。



●うんこオブジェ! ・・・・・・・・・JR総武線「錦糸町駅」北口を出ると、目の前のロータリー中央に、ワイヤーで吊るされた大きな輪っかのオブジェが目に飛び込んでくる。 普段は通り過ぎるだけのオブジェだが、今日はチョイト興味を持ち、正体を調べてみた!、、、、説明板によると、これは「“ECHO”エコー」と名付けられ、ヘ音記号を2つ組み合わせたものなんだとか。 へー、屁音記号だったのか、どうりで“うさんくさいオブジェだ”。 さらにオブジェを吊るすワイヤーは五線譜をあらわしている。 墨田区は昭和62年(1987)、「音楽都市」をめざして街づくりをすることを宣言し、北口再開発事業で交通広場の吸気・排気塔を利用して、音楽都市を象徴するモニュメントを設置することにした。 その結果、平成9年(1997)に、米国の作家:ローレン・マドソンの作品“ECHO”を設置した。、、、、このモニュメント、巷では色・形状を見て、“うんこオブジェ”と云うそうだ、同じ墨田区には、アサヒビールの“うんこビルもある。

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●マスク邪魔だ! ・・・・・・・駅前の“ECHO”モニュメント北側の通りが「北斎通り」である。 度々歩いているこの道を、今日も両国駅方向に歩く。、、、、日中は30℃超の気温、暑い暑い、コロナ予防に熱中症予防、マスクの中はムレムレ!

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・・・・・・・・・・・・駅前からチョイト西側にズレるとスカイツリーを正面に望む通りがある。、、、、今日は青空も見え、視界良好!

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・・・・・・・・・・・・駅前から300m程西へ歩くと、かつて津軽藩下屋敷内にあった「津軽稲荷神社」がある。、、、、神社のあるこの一帯はその昔、津軽為信の時代に1万坪の下屋敷があったそうだ。 明治以降は管理ままならず、明治43年(1910)の大水害後に地元町会に払い下げられた。 関東大震災と米軍の空爆で2度焼失したものの、昭和35年(1960)に拝殿・社務所・会館、同44年(1969)に鳥居が再建・復興した。、、、、赤い幟がなびく参道の先に、戦後に造られた鉄筋コンクリート造の社がある。 

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・・・・・・・・・・・・津軽稲荷神社から50m程、西へ歩くと「大横川親水公園」がある。 「北斎通り」から公園に入る処に、2基の親柱とトラス形状の鉄骨で造られたモニュメントがある。 かつて、ここに架かっていた「長崎橋」を記念したものだ!、、、、ここにあった長崎橋は、元禄10年(1697)当時の本所奉行鈴木兵九郎、島屋久五郎両名によって、墨田区亀沢4丁目より錦糸1丁目に架けられた。 最初は長さ10間(18m)、幅2間半(4.5m)の木橋でしたが、その後何回となく架け替えられ、昭和4年6月には鋼製トラス橋になった。 この橋は、大横川親水河川整備事業によりその役目を終えて撤去された。 橋の名前は、当時西側に隣接した本所長崎町の地名に因んで長崎橋と名付られ、永い間親しまれた。、、、、北の津軽に、南の長崎、錦糸町には各地の侍が住んでいたようだ!

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・・・・・・・・・・・・北斎通りを西へ 、、、、 そろそろ名残りのアジサイか

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・・・・・・・・・・・「野見宿禰神社」、すみだ北斎美術館の前を行く。

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●北斎通りはココまで! ・・・・・・・北斎通りは、江戸東京博物館前で清洲通りにぶつかり、ハイ・ココまでヨ~~。

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・・・・・・・・・・・・今日は江戸東京博物館の中を拝見することにした。、、、、巨大な建物は、建築家:菊竹清訓の設計により、平成4年(1992)に竣工した、地上7階建ての博物館。 高さは約62m程あり、高い! 竣工時は建物のデザインに批判的な人もいたようだ。、、、、巨大な吹き抜け部分の空間、毎度思うのだが『我が家が何戸ぐらい入るスペースだ?』 優に500戸分以上ありそうだ!

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・・・・・・・・・・・・老人割引のチケット(300円)買って、マスクをさせられ、長いエスカレーターで3階から6階へ。 マスク美人のおねえさんが、『手の消毒お願いします!』、、、、入場者より、博物館関係者の方が多い館内は、ガラガラ、『ご自由に、好きなだけ見てください』と云う感じだ!  何度か訪れている博物館だが、展示室に入り、大きな模型、実物大の家屋など、その大きさに今回も圧倒された。

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●以下省略! ・・・・・・この後、両国橋を渡り、浅草橋の我が家へ帰る!

2020年6月 5日 (金)

向う両国

我が家(浅草橋)から両国橋を渡り、回向院・江島杉山神社に参り新大橋で再び隅田川を越えて浜町に入り浅草橋へ、1万2千歩の散歩です。 




●両国とは? ・・・・・・・・隅田川に架かる両国橋は、あまりにも有名で知らぬは外人だけ! 今は、東詰めは東京都墨田区両国1丁目、西詰は東京都中央区東日本橋2丁目。、、、、江戸時代の両国橋は、現在の両国橋より少々下流に架かっていた。 当時の橋の東詰めは下総国、西詰は武蔵国で、両方の国の境に架かる橋で「両国橋」 解りやすい! もちろん江戸時代の橋は木橋で、流出や焼落、破損により何度も架け替えられた。 木橋としては明治8年(1875)の架け替えまで続いたそうだ。 この明治の木橋も明治30年(1897)8月の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず欄干が崩落してしまった。 木橋の終焉である。、、、、現在の両国橋は鉄橋の2代目で、関東大震災後の昭和7年(1932)の竣工、構造は3径間ゲルバー式鋼鈑桁橋、施工は石川島造船所/間組、 総工費 987,500円也。 約100万円で橋が架けられた時代は昔の話となった! 

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・・・・・・・・・・・・両国橋の東側(墨田区両国)には古き歴史を語る説明板、石碑などが多い。、、、、まずは、東詰めにある「両国橋児童遊園」と表示された広場。 一面に砂利がひき詰められ、公衆便所と3本程の桜の若木、そして日露戦争の忠魂碑、赤穂浪士の一人:大高源吾の句碑、さらに観光用と思われる周辺の案内図などがある。 “児童遊園”なのに、子供向けの設備・遊具は何もない、どうなってんだ!

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・・・・・・・・・・・・両国橋児童遊園の隣りにある建築史上貴重な建物は、「岡田商事」の社屋。 戦前に建てられたものでアールデコ調の美しい建築。、、、、今日は改修工事か? 外壁に足場が架けられていた。 (夕暮れの写真は、2018年10月撮影) 

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・・・・・・・・・・・・岡田商事の建物の隣り、駐車場のフェンスに3枚の説明板がある。 駐車場のこの辺りに「両国橋広小路」があった。、、、、江戸時代の両国橋は現在の橋より50mほど下流に架かっていた。 橋の西側、つまり中央区側の広小路(火避地)は「両国広小路」、東側(墨田区側)を江戸の人は「向う両国」と呼んだ。 西側は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が立ち並び、東側は、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街となりました。 寛保2年(1742)頃には1日に20,000人以上が往来したそうだ。

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・・・・・・・・・・・・そして、もう一枚の説明板「赤穂浪士休息の地」によると、元禄15年(1702)12月14日、赤穂浪士の討ち入り後、泉岳寺への引き上げ前に休息したのがここにあった向う両国の広小路です。吉良家への応援に駆けつけて来るであろう上杉家の家臣たちを迎え撃つ心算であったとの説もあります。休息後、大名との無益な衝突を避けるため、登城路になる旧両国橋を通らず、一之橋、永代橋を経由して、泉岳寺へと引き揚げました。、、、、今の世であれば、地元の町内会で甘酒・汁粉を作ってふるまったかもね! また、野次馬が集まりサインを求めたと思うよ!

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●本当に義賊か? ・・・・・・・・両国にきたら、チョイト回向院鼠小僧次郎吉に手を合わせて行こう!、、、、ところで、鼠小僧次郎吉は俗名中村治郎吉。 実在した人物だそうだ、しかし義賊と云うのはあやしいらしい、盗んだ金は全てパチンコに使い、懐はいつもスッカラカンのステテコテンだったという説もある。 さらに、鼠小僧が生きていたと言われている当時は、犯罪者は墓が建てられないので墓があること自体あり得ない。 墓が建てられたとすれば明治以後のことで、墓自体もあやしいものらしい。、、、、いつの頃からか鼠小僧の墓石のかけらを持っていると、勝負師には「賭け事に勝つ」「運がつく」など、受験生には「するりと入れる」と言われて、墓石を欠き取る人が絶えないらしい。 

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●縦に流れる堅川! ・・・・・・・両国橋の下流200m程の処から、東に向かいほぼ一直線に旧中川まで堅川が流れている。 竪川は、万治2年(1659)に掘られた運河で、当時、江戸城からみて縦に通じているところから竪川と称したそうだ。 竪川の最初の目的は排水のためであったが、のちに隅田川と中川とを連絡する水路として輸送に大いに利用され、河岸には材木屋も多く木場の続きともなっていた。 一之橋はその堅川で隅田川寄りに最初に架かる橋である。、、、、現橋は3径間鋼桁で、橋長36.9m、昭和54年(1979)に竣工した。 隅田川寄りに、昭和35年(1960)に竪川水門がある。 また頭上には、首都高速7号小松川線が横切る。 チョイト、風情の無い景色となっている!

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●蛇の洞窟は怖い! ・・・・・・・一之橋を渡ると、江島杉山神社がある。 江島杉山神社は、鍼術の神様・杉山和一(1610~1694)が五代将軍綱吉から、神社のある本所一ツ目に約1万2千㎡の土地を拝領し総録屋敷を建て、その西隣に弁才天の一社を建立したのが、江島杉山神社の始まりです、神奈川県藤沢市の江ノ島弁財天と、杉山和一総検校が祀られています。 和一は、現在の三重県津市の出身で幼いころに失明し、江戸に出て鍼術を学び、江ノ島弁天の岩屋にこもり鍼術の一つである管鍼術を授かった。 その後、京都でも鍼術を学び、再び江戸に戻り鍼の名人として活躍した。 この和一の名声を聞いた綱吉は和一を「扶持検校」として召し抱え、日夜自分の治療に当たらせた。、、、、神社は昭和20年(1945)の米軍の空襲で焼失したが、昭和27年(1952)に再建された。 また、境内の奥には、江ノ島の岩屋を模した洞窟があり、中には、杉山検校石像、人頭蛇尾の宇賀神石像が祀ってある。 蛇が大嫌いな私には、チョイト気味の悪い洞窟だ!

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●モダンな橋! ・・・・・・・・隅田川に架かる新大橋を渡り、中央区日本橋浜町に入る。、、、、現在の橋、構造形式は2径間連続斜張橋、橋長 170.0m、昭和52年(1977)に石川島播磨重工業の施行で竣工した。 黄色の主塔が印象的!、、、、最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1694年)である、隅田川3番目の橋で「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられた。 江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたと伝えられている。

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●ただいま~ ・・・・・・・新大橋を渡ると、浜町公園・清正公寺・薬研堀不動院をとおり、浅草橋へお帰り!

2020年5月29日 (金)

水戸街道

気も緩みっぱなしで、『いよいよ、規制解除が近づいた!』と自分で判断し、今日は散歩の足慣らし。 妻と我が家(浅草橋)から水戸街道を北上し京成立石駅まで歩いてきた。 8.5km、1万6千歩の散歩。




●浅草橋! ・・・・・・・浅草橋駅前から水戸街道(国道6号)を歩く、今日は晴天だ。 三密を避け、マスクをつけ、直射日光を浴びて歩きはじめる!

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・・・・・・・・・・・・街道に面して商売する老舗のつくだ煮屋さん鮒佐 文久2年(1862)の創業、浅草橋の地で5代、150年の歴史。、、、、江戸っ子の味は、チョイト濃いめかな? 文句なしに美味い!

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・・・・・・・・・・・・・・ビル(浅草橋3)の前に「メタセコイア」の木が、青空に向かい高くまっすぐ伸びている。 このビルを建てた記念に植えられたものだそうだ。 ビルの階数から推定すると、木の高さは30mぐらいありそうだ、“都内最大級”らしい。

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●蔵前! ・・・・・・・・江戸通り(=水戸街道)と蔵前橋通りが交差する蔵前一丁目交差点の角(浅草橋3-20)、植え込み前に説明板がある。 説明板には『 天文台跡   台東区浅草橋三丁目   この地点から西側、通りを一本隔てた区画(浅草橋3丁目21・22・23・24番の全域及び19・25・26番の一部)には、江戸時代後期に、幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として、天文台がおかれていた。天文台は、司天台(してんだい)、浅草天文台などと呼ばれ、天明二年(1782)牛込藁店(わらだな 新宿区袋町)から移転、新築された。正式の名を「頒暦所御用屋敷」という。その名の通り、本来は暦を作る役所「天文方」の施設であり、正確な暦を作るためには観測を行う天文台が必要であった。 その規模は、「司天台の記」という史料によると、周囲約93.6m、高さ約9.3mの築山の上に、約5.5m四方の天文台が築かれ、43段の石段があった。また、別の史料「寛政暦書」では、石段は2ヶ所に設けられ、各50段あり、築山の高さは9mだったという。・・・・・・・』と標されている。、、、、天文台は明治2年まであったそうだ、浅草橋は天文学拠点だった。 悲しいかな、今は望遠鏡で隣の家を覗く住人ばかりなり!

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●駒形! ・・・・・・・・厩橋交差点の「東京厚生信用組合 浅草支店」(台東区駒形1)は、昭和5年(1930)に竣工したチョイト歴史ある建物。

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・・・・・・・・・・・・浅草駒形の老舗駒形どぜう」(台東区駒形1)の創業は1801年。 徳川11代将軍、家斉公の時代。 水戸街道は今も昔も、浅草寺にお参りする参詣ルートのメインストリートであり、多くの参拝客が立ち寄った店である。 今は、コロナ対応で「柳川弁当」、「蒲焼き弁当」などを店頭販売している。 もちろん店内では通常の料理を食すこともできる。、、、、只今11時、チョイト昼食には早すぎる、又の機会にする。 

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・・・・・・・・・・・・駒形橋から望むスカイツリー、、、、青空に映える雄姿!

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●通過! ・・・・・・・・浅草駅・浅草寺・雷門周辺はこのブログでも毎度おなじみ、今日はスタコラサッサと通過する。

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●言問! ・・・・・・・・・・正面にスカイツリーを眺め言問橋を渡る。、、、、頭上、真上からの直射日光は私達夫婦の顔を一遍に日焼けさせ、赤ら顔となる。 暑い、暑い!

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・・・・・・・・・・・・言問橋の東詰めに牛嶋神社(墨田区向島1)がある。 前を素通りするわけにはいかず、チョックラお立ち寄り。、、、、昭和7年(1932)、関東大震災後の隅田公園の整備にて、桜橋近くの隅田川東岸にあった神社を公園の北側に移された。 昭和20年(1945)の東京大空襲により神楽殿は焼けたが、本堂はじめその他の建物は一部被害を受けたものの無事で,昭和7年移転以来のものである。、、、、境内の撫牛は、江戸時代から知られているもので、自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおると言われている。 牛島神社の撫牛は体だけではなく、心も治るそうだ。 私は白内障の目を撫で、手術後の心臓付近を撫で、妻はなぜか頭を真剣に撫でた?

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●向島! ・・・・・・水戸街道は向島の町を北上する。 向島五丁目交差点の近くに、秋葉神社(墨田区向島4)がある。 こちらにもお立ち寄り。 社伝によれば、正応2年(1289)五百崎〔いおさき〕の千代世〔ちよせ〕の森と呼ばれていた当地に千代世稲荷大明神を祀ったことを創祀とするという。 元禄年間(1688~1704)、葉栄という修験者が霊告によってこの社に参詣し、霊験を得た。 そこで寺社奉行に願い出、元禄15年(1702)、上野国沼田城主・本多正永の寄進によって社殿を造営し、秋葉稲荷両社と称するようになったそうだ。 江戸時代以来の火伏せの信仰を今に伝える神社でもある。

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・・・・・・・・・・・・水戸街道を東武伊勢崎線が高架で越える。 その高架橋の下には「東武博物館」がある。、、、、今日は入館しないが、大人でも楽しい鉄道博物館だ。

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●四ツ木大橋! ・・・・・東向島を過ぎると墨田区と葛飾区の境:荒川四ツ木橋で越える。 全長:507.4mの橋で、昭和27年(1952)に竣工した。、、、、橋の上は、風は爽やか、気温は暑い! コロナは居そうにない! マスクなしで歩いても平気の平左衛門!

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・・・・・・・・・・・・四つ木橋を渡り、葛飾区に入り本田広小路交差点まで来た。 ここで我が妻はギブアップ! 水戸街道に別れ、京成立石駅へ向かうことにした。

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●立石! ・・・・・・・・京成立石駅周辺は押上線高架化工事と再開発がはじまり、数年後が楽しみだ!

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2019年12月16日 (月)

排水機場は只今工事中

中川は、荒川(旧荒川放水路、昭和5年(1930)完成)の開削によって、JR総武線、京成押上線それぞれの荒川橋梁に挟まれた中間地点で流路が分断された。 荒川の西側に分断された中川(右岸は墨田区・江東区、左岸は江戸川区)は旧中川と名を変えた。 その旧中川の上流端、荒川に分断された位置に、木下川排水機場がある。、、、、今日の散歩は、『なぜ、旧中川の最上流部に排水機場があるのか?』と疑問がわき、答えを探しに行った。、、、、京成押上線八広駅から、総武線平井駅まで、1万1千歩の散歩です。




●墨田区の荒川駅? ・・・・・・荒川橋梁を挟み、葛飾区側の四ツ木駅と結ぶ、墨田区側の八広駅。 荒川の土手に至近で、ホームからは荒川橋梁も見える。、、、、駅名は大正12年(1923)の開業時から荒川駅と名乗っていた。 荒川放水路開削工事は、大正13年(1924)の岩淵水門完成によって上流から下流までが繋がり、通水が行われた。 さらにその後、関連する工事が進められ、昭和5年(1930)に荒川放水路は完成した。 つまり、駅は荒川放水路が完成する以前から「荒川駅」を名乗っていたのである。 昭和7年、荒川区が誕生した時には、“墨田区にあって荒川とは”何ぞや! チョイトもめたようだ。 その後、平成6年(1994)に地元の地名を採用し「八広駅」に変えた。

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●神社を見下ろす土手! ・・・・・・八広駅から荒川土手沿いに下流方向へ歩くと、日枝神社がある。 慶長19年(1614)に鎮座し、この辺りを開墾した元木之下村の氏神様である。 境内には摂社として木下稲荷神社が祀られている。

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・・・・・・・・・・・・境内に、この地が0メートル地帯であることを示す表示があった。 神社の前は荒川土手、チョイト上ってみたら、3階建ての家を見下げるほどの高さ、高~~い! 自分は高所恐怖症、チョイト足がすくむ高さだ!

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・・・・・・・・・・・・・・対岸の葛飾区東四つ木を結ぶ木根川橋。 両端とも主要道と接続していない木根川橋は地元密着型の橋で、大型車両は通らず、都心に在って他と違う雰囲気がある。

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●只今工事中! ・・・・・・・荒川右岸の土手上から見える木下川排水機場(きねがわはいすいきじよう )。 毎度のことだが、木下川排水機場の下調べもせずに飛び出してきたので、排水機場は只今、耐震工事の真っ最中で立ち入り禁止。 工事関係者以外は誰も居らず、排水機場の機能・能力などを説明は河川事務所(江東区大島)に行って聞いてくれとの返事。 どうやら、自分の知りたかった『なぜ、旧中川の上流部に排水機場があるのか?』の疑問に応えてくれる人はいないようだ!、、、、帰宅後、自分の調べでは、、、、旧中川は墨田区・江東区の0メートル地帯にあり、この地は戦後急激に地盤沈下し、現在では海水面より低くなっている。 そのため、周囲を流れる荒川・隅田川の水位に比べると、一番低い処にあるのが旧中川だ。 0メートル地帯に降った雨は旧中川に流れ込む、しかし旧中川の水は外に流れる出ることがないため、強制的に24時間ポンプで排水を行い、東京湾の干潮位より1m低い水位を保っているらしい。 また、旧中川とそれに繋がる、小名木川・横十間川などの運河は、勾配がなく巨大な池のようでもある。 つまり、旧中川には上流も下流もないから、荒川に近いこの位置(旧中川の上流端)で排水を行っている。 下流端には荒川ロックゲートと云う大きな閘門がある。
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・・・・・・・・・・・・・・木下川排水機場前の荒川土手には木下川排水樋門がある。 木下川排水機場から荒川に排水する出口である。、、、、対岸には、中川が荒川開削事業で分断された位置付近に、中川水門が見える。、、、、【蛇足】「木下川」は“川”の名ではなく、昔の村名である。

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●川の中に建つ住宅! ・・・・・・木下川排水機場の南側、分断された旧中川の跡地に建てられた平井住宅。 昭和58~59年(1983~1984)に建てられた、7棟(210戸)の公務員用集合住宅である。 川の蛇行に合わせ、建物も緩やかにカーブしている。 ちなみに、建物の標高は海抜0m。

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●癒されるね! ・・・・・・・穏やかに流れているのか? それとも、流れは止まっているのか? 静かな水面に水鳥が遊ぶ旧中川。 川の両岸は公園として下流へ続く。、、、、今日の天気の下で、両岸とも心地よく歩ける遊歩道となっている。 私も、平井橋まで川沿いを歩いてきた。

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●お帰りは平井から! ・・・・・・旧中川の平井橋からは総武線平井駅はスグソコ!、、、、電車に乗ってしまえば、我が家までは15分。

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2019年12月13日 (金)

スタコラ、京葉道路

台東区浅草橋の我が家から中央区の浅草橋交差点に出て、京葉道路をひたすら東へ墨田区、江東区を抜け、江戸川区の中央二丁目交差点で曲がり、近くの大杉小学校前バス停まで、1万5千歩、約10kmの散歩です。




●何処も彼処も“浅草橋”  ・・・・・・我が家から徒歩45秒、浅草橋一二丁目交差点に台東区のコミュニティバス乗り場「浅草橋駅北」がある。、、、、ここから徒歩2分で江戸通りの下を走る都営地下鉄浅草線の「浅草橋駅」、そこから徒歩40秒JR総武線の「浅草橋駅」東口。、、、、さらに徒歩1分で神田川に架かり台東区浅草橋と中央区日本橋馬喰町を結ぶ橋「浅草橋」がある。 「浅草橋」は、江戸通り(=水戸街道)が神田川を渡る橋で、橋の全長と同じくらいの幅員を持つ幅広の橋梁である。 江戸時代初期この場所は、奥州方面から江戸中心部への入口となるため、江戸城の見附「浅草橋御門」が設置され、同時に見附橋としての木橋「浅草橋」が架けられた。 最初の橋は寛永13年(1636)頃の架橋と伝えられている。(私が誕生する以前の話で、本当かどうか知らない!) 現在の橋は大正12年(1923)の架橋で、私の母と同年で、今年で96年目(橋も母も、いまだ健在!)、、、、中央区に側に、京葉道路、靖国通り、江戸通り、清杉通りが交差する「浅草橋交差点」がある。

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●京葉道路をスタコラサッサ! ・・・・・・・・今日は10時半までの間、京葉道路をひたすら歩区ことにした。 “10時半”とは、我が家を出てから約3時間、私に疲れが出る頃だ! そして、あまり長く歩くと、靴底の減りも早く、また高価な靴を買うことになるので!

・・・・・・・・・・・・中央区の浅草橋交差点は、新宿から伸びてきた靖国通りの終点で、その延長上を東に向かう京葉道路の始点である。

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・・・・・・・・・・・・両国橋で隅田川を越える。 橋の東詰(墨田区側)には、明日(12月14日)に義士祭が行われる赤穂浪士の一人:大高源吾の「日の恩やたちまちくだく厚氷」の句碑がある。 この句は、討ち入りの夜、向島に住む俳句の師匠宝井其角と両国橋で出会い詠んだものといわれている。 句碑は昭和3年(1928)に建立されたもの。

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・・・・・・・・・・・・・・・両国3丁目の京葉道路の歩道上に建っている「本所松坂町跡」の碑。 もともとこの周辺は、吉良邸のあった本所松坂町と呼ばれていたが、関東大震災後の区画整理により町名が消えた。 この碑は「松坂町」を偲んで、昭和7年(1932)に住民によって建立された。、、、近くには、明日の義士祭・吉良祭のポスターもある。 チョイトついでに、吉良邸跡の本所松坂町公園にお立ち寄り!

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・・・・・・・・・・・・清澄通り三ツ目通り江東橋と通り過ぎ、錦糸町駅前は我が家を出てから1時間後に通過。

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・・・・・・・・・・・・・・錦糸町と亀戸の間を流れる運河:横十間川を昭和44年(1969)に完成した松代橋で越えて、墨田区から江東区に入る。 亀戸駅の手前で越中島支線(JR貨物)のガードをくぐり、亀戸駅前では歩道橋で交差点を横断し、亀戸七丁目交差点で丸八通りと交差する。

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・・・・・・・・・・・・・中川新橋(平成15年完成)で旧中川を越える。 この橋を渡ると江東区亀戸から、江戸川区平井・小松川に入る。、、、、中川新橋では、大勢のユリカモメが私を歓迎してくれた。

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・・・・・・・・・・・・・・旧中川の次は、荒川越えだ! 小松川橋で荒川と中川を一挙に越える。 全長約500mの小松川橋を渡りきるのに15分を要した、長い橋だ! 歩く先には首都高が、振り返ればスカイツリーが見える。、、、、渡り終わると時計の針は10時を回っていた!

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・・・・・・・・・・・・・・署員数480名の大きな小松川警察署の前を通り、境川橋を渡る。 境川橋はその名のごとく境川に架かる橋で、昭和15年(1940)に完成した。 只今、橋の下の親水公園と共に修復中。 東小松川交差点の角には、宝くじが良く当たると評判の宝くじセンターがある。 年末ジャンボの時期である、10億円ゲットするには何処で買うか迷うね?

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・・・・・・・・・・・・・・今日の散歩は、京葉道路の「中央二丁目交差点」(江戸川区)までとする。 時刻は10時半を過ぎ、お帰りの時刻となった。、、、、交差点角のチョイト裏側(江戸川区松江3-31)に、昭和初期に建てられたと思われる同潤会の木造住宅が、朽ちて残っている。 おそおらく、いずれ取り壊されると思うね!

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●ラッキー! ・・・・・・お帰りは、何処から乗るか? 新小岩方面に歩くと、「大杉小学校前」バス停にバスが来た。 ラッキー、これで新小岩駅に出ることにした。

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2019年11月10日 (日)

厳重警戒を避け下町へ

「祝賀御列の儀」が執り行われる今日は、都内の警備は厳重と思われる。 警備も手薄でブラブラ歩いても怪しまれないよう下町へ。 京成押上線・都営浅草線の押上駅からJR総武線平井駅まで歩いてきた。 1万2千歩。




●チョイト、どいて! ・・・・・・・京成押上線と都営浅草線が乗り入れている押上駅から、散歩を始める。、、、、京成押上線の開業は大正元年(1912)11月3日。 昭和35年(1960)12月4日に都営地下鉄1号線(現:浅草線)が地下化した押上駅に開業し、京成押上線と相互直通運転を行う。、、、、現在の押上駅は島式ホーム2面4線で、それぞれのホームは上り下り別に使用。 地下ホームを造った昭和30年代にはスカイツリー建設の話は当然なく、今の賑わいは想定外だったようだ、日中の観光客が多くホームは日常的に手狭となっている。、、、、キャリーバッグを持った外人観光客が多く、『チョイト、どいてくれ!』と言いたくなるが、悲しいかな日本語しか喋れない、通じない。 ここは、ニッコリ笑って会釈して『お・も・て・な・し』

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・・・・・・・・・・・・・・京成・都営の改札を出ると、スカイツリーへの入口、その先に東武・東京メトロの押上駅改札と続く。

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・・・・・・・・・・・・・・地上に出れば、もちろんスカイツリーの足下だ!

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●地蔵さんの還暦? ・・・・・・押上駅から四ツ目通り(都道465号)を歩き、東武亀戸線の踏切を越えると木造家屋の密集する京島地区。 今日は裏道・路地に深入りせず、サラリと通り抜ける。、、、、踏切を抜ける2両編成の亀戸線、、、、遊園地のビックリハウスを思い出させる傾いた家屋、、、、玄関軒下の赤い電球と大きな看板がチョイト懐かしい医院、、、、木造の長屋はこの町ではまだ多い、、、、緊急車両も入れない路地、、、、徐々に区画は整理され、不燃建築で建て替えられた、、、、リヤカーは健在か?

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・・・・・・・・・・・・・・京島地区南端に近い原公園の中央に、「財がたまる」・「幸のたまる」田丸稲荷神社がある。、、、、公園の隣りには、京島地区のメインストリートである下町風情溢れるキラキラ橘商店街がある、賑やかな公園だ。 しかし、この公園は、昭和20年(1945)3月10日のアメリカ軍の空襲で亡くなった364名の犠牲者を仮埋葬した場所である。 平成元年(1989)3月、原公園の改修では遺骨や毛髪が出土したそうだ。 警察の鑑識により、戦後改葬されたはずの戦没者のものと判明し、慰霊堂へ合祀された。、、、、戦後間もなく地元有志により田丸稲荷神社の横に地蔵尊が建てられた。、、、、スカートはいて、赤いちゃんちゃんこを着て赤の大黒頭巾をかぶった、チョイト派手な地蔵尊。 ひょっとすると建立から60年の還暦かもね?

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●アレ!お巡りさんがいない ・・・・・・・今日の祝賀御列の儀には、全国から26,000人の警察官が警備に動員されたそうだ。 ここ向島警察署からも大勢の警察官が警備に当たっていたのであろう。 普段は玄関前に立っているお巡りさんが今日はいない! 多分、動員され日曜出勤したのであろう、ご苦労様です。

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●外廊下に弱いのだ! ・・・・・・旧中川に近い都営立花六丁目アパートに、チョイトおじゃましてみた。 昭和51年(1976)に建てられた、2棟(411戸)の都営住宅。、、、、上層階に上がってみたが、高所恐怖症の私は、エレベーターをおりるや、共用部分の外廊下に水勾配がついているのを足裏で感じ取り、チョイト、ゾク・ゾク~~としたら、もうダメ怖い~~! 早々と、階段で1階まで駆け降りた。

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・・・・・・・・・・・・・・アパートから見る北の方向。 写真中央のはるか奥に葛飾区東四つ木で、綾瀬川に架かる首都高環状線の「かつしかハープ橋」が写っているのが判るかな? 手前の川は旧中川。

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●お後は、こちら! ・・・・・・この後、北向地蔵尊平井橋平井諏訪神社燈明寺と巡り、最後は平井駅

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2019年10月23日 (水)

OFF LIMITS の街

今朝、秋晴れの下、草加方面を散歩する予定で家を出た。 朝8時、自分の乗った電車が曳舟駅に着いたら、動かない? 15分後、駅アナウンスで『西新井駅で人身事故が発生しました。 振替輸送を行っております。』 「アリャリャ、自分は何処へ振替輸送してくれるんだ?」 SUICAで乗車し、行先は明示されていない、振り替えも何もない! とりあえず改札へ向かうと、『遅延証明書』を貰う人で行列ができている。 「コリャマタ・タマゲタ、自分は証明書貰っても持っていく先がない!」 大勢の通勤客と同じ行動ができない自分に、チョッピリ寂しさを感じながら駅をでる。

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駅前で「さて、東西南北どっちへ歩くかな?」 「東南北(=シャーない=しょうがない)、西へ歩いてみよう!」 出てきた処は国道6号水戸街道)に面した、出桁造り商家「萬屋糸店」の前。 萬屋さんは、糸・毛糸・寝具・洋品とタバコを扱う地元の老舗。、、、、こちらの向かい側には鳩の街通り商店街の入口がある。 今日の散歩は、久しぶりに鳩の街の周辺を探訪することにした。

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●「鳩の街」は、現在の墨田区向島と東向島の境界付近にあった赤線地帯。 地理的に私娼街「玉の井」と近く、1kmほどの距離である。 太平洋戦争末期に、空襲で焼け出された玉の井の銘酒屋(銘酒を売る看板を上げ、飲み屋を装い、私娼を抱えて売春した店)が何軒か、この地で開業したのが始まり。 終戦直後は、米兵の慰安施設として出発したが、兵士が性病に感染することが多いため、昭和21年(1946)に米兵の立ち入りが“off limits”となった。 その後は日本人相手の赤線として発展したが、昭和33年(1958)の売春防止法の完全施行で、店は廃業となる。 店は警察の指導でカフェー風に造られ、一目でその手の店と識別できたそうだ。 昭和27年(1952)頃は、108軒の店に、298人の娼婦がいたらしい。、、、、戦後生まれの自分は、当時は赤子。 知っていれば一度は行って見たかった!
 
●一本道の商店街 ・・・・・・・現在は「鳩の街通り商店街」として、国道6号(水戸街道)と都道461号(墨堤通り)を結んでいる商店街。 昭和3年(1928) 「寺島商栄会」としてスタートし、戦後になると隣接する赤線「鳩の街」に因み、「鳩の街商栄会」と名乗る。

・・・・・・・・・・・・・・水戸街道側の入口。 入口のポールには、商店街の名は見えず、あるのは、デザインされたハトだけ。 「鳩の街」の名を伏せたいのか?

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・・・・・・・・・・・・・・でも、案内板・立て看板・店舗名に“鳩の街”がある。

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・・・・・・・・・・・・・・ほぼ真直ぐな道の商店街。 しかし、開いてる店舗は半数もない。 チョイト寂しいが、只今、商店街活性化の最中で効果が出ているそうだ。 モダンな店舗もオープンしている。 数年後には、元気な商店街の復活も夢ではない! 

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・・・・・・・・・・・・・・昭和2年(1927)に建てられた木造の薬屋さんをリノベーションしたカフェ「こぐま」。 あいにく、火曜・水曜は定休日。 オリジナルカップで出されるコーヒーは美味しいそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・・・商店街の中程には保育園(写真:右)もある。 この保育園がある場所は、『鳴門秘帖』を書いた作家:吉川英治の旧居跡。、、、、吉川英治は明治25年(1892)横浜生まれ、小学校を中退し、職を転々としながら、朝から晩まで働き通した18歳の時、上京。 大正6年(1917)、25歳の時、下谷の花街で知り合った赤沢やすと、寺島村1820(東向島1丁目)のこの辺りの家で同棲を始め、母たちを近くの借家に呼んだといわれている。 30歳で『親鸞記』を初めて新聞連載し、以後、雑誌「キング」に『剣難女難』、大阪毎日新聞に『鳴門秘帖』を連載し、国民文学作家としての大成した。

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・・・・・・・・・・・・・・チョイト懐かしい雰囲気の元理髪店もある。 数年前に廃業した。

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・・・・・・・・・・・・・・墨堤通り側の商店街入口(出口かな?) コチラにも商店街の名はみえない、ポールの上には鳩が止まっている。

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●向島の路地裏の建物 ・・・・・・・鳩の街通りの東側、赤線があったと思われる裏道の一帯を歩いてみた。 

・・・・・・・・・・・・・・この辺りは救急車両が入れない木造家屋密集地区であるが、
最近建て替えられた建物では建て替えに伴い前面道路を広く確保している。 赤線Ⓙ時代の路地裏のゴチャゴチャ感は無くなってきた。

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・・・・・・・・・・・・・・・裏道に、赤線当時の名残と思われる建物が数棟ある。 いずれも、外装にタイルを使用し、丸みを帯びた柱・コーナー部・庇などがあり、出入口が狭いなど共通する。

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・・・・・・・・・・・・・・10年程前まで残っていた“OFF LIMITS”(立入禁止)、、、、外壁の窓下に、白ペンキで書かれていた。 既に、この建物は取り壊された。 (2010年撮影)

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・・・・・・・・・・・・・・鳩の街通り商店街の墨堤通り側の入口から東へ100m程歩くと、文豪幸田露伴が明治41年(1908)から大正13年(1924)まで蝸牛庵と名付けて親しんだ住居の跡である、児童公園:「露伴児童遊園」がある。 

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・・・・・・・・・・・・・・チョイト、おまけで鳩の街通り商店街の西側の裏道にある、榎本武揚居住跡に寄ってみた。、、、、武揚は幕末に徳川軍の海軍奉行に就き、戊辰戦争では五稜郭にて戦い、その後明治政府の文部大臣・外務大臣に就いた。 引退後は、この地(現:墨田区向島5-13)に住んでいた。、、、、“旧居跡”というと、都心ではだいたいマンションに変わっている処が多い。 ここも、そうだ。なんだか、実感が沸かないね!

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●・・・・・・・この後、押上まで歩き、今日の散歩は1万2千歩。   【蛇足】押上で電車に乗ったら、ホームに止まったまま20分経過。 その後、『信号装置のトラブルにより、この電車は回送となります』のアナウンスあり。 今日は最悪の日、方角が悪かったのか?

2019年10月20日 (日)

端から端まで橋の梯子

台風19号とその後の雨などで、散歩の機会を逸した十日間程である。 今日は、スカイツリーの下を流れる北十間川沿いに、両端の隅田川から旧中川まで歩いてきた。 1万3千歩

・・・・・・・・・・・・・・北十間川とは、墨田区の中央部(スカイツリーの足下)で、隅田川と旧中川を結ぶ総延長3.24kmの運河である。 川の名は、本所の“北”を流れる幅“十間”程の川に由来する。(幅18mの北十間川は墨田区では一番狭い川である) かつては大横川の分流点より西側(隅田川寄り)を源森川、東側(旧中川寄り)を北十間川と称していたが、現在は両方合わせて北十間川と呼んでいる。 源森川は材木を運ぶための掘割で、万治年間(1659~)に業平橋の北から隅田川までを繋げて堀り進めた。 しかし、隅田川の洪水で大横川沿岸が度々水害に遭うため、寛文12年(1672)には早々に堤を築いて大横川への流れを遮断した。 しかし明治になって再び水を通しています。現在は源森川は北十間川の一部です。 東部の(旧)北十間川は、農業用水として寛文3年(1663)に開削された。、、、、現在は、観光スポットのスカイツリー人気により観光客も増え、北十間川は各所で遊歩道の整備・橋の改修工事が行われている。

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●ゼロメートル地帯を守る水門 ・・・・・・・北十間川の隅田川との合流点は、水上バス浅草乗船場の前から対岸の墨田区役所の方を眺めると、首都高の下に源森川水門が見える。 この水門が北十間川の入口だ。、、、、源森川水門は、平常時、ゲートは開放されているが、台風が接近し高潮・洪水などが予測される場合は閉められ、いわゆるゼロメートル地帯に居住する住民の生命・財産を守る為に造られている。 墨田区・江東区の大部分はゼロメートル地帯で、この源森川水門、木根川水門、新小名木川水門、竪川水門、大島川水門の5つの水門で高潮・洪水から守られている。、、、、水門は、高さ7.5m、昭和34年(1959)に竣工した。 平成28年(2006)には耐震化工事も完了し、これで安心できるかな?

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●枕一つで二人寝た?  ・・・・・源森川水門の東側、墨堤通りに架かる枕橋。 昭和3年(1928)に架けられた震災復興橋。北十間川 、、、、寛文2年(1662)、中之郷(現:吾妻橋)から向島に通じる源森川に源森橋が架けられた。 またその北側にあった水戸屋敷内(現:隅田公園)に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、ここに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。 この二つの橋は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称された。 その後、堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅した。 明治8年(1875)、残った源森橋は正式に枕橋と呼ばれることとなった。、、、、現在の枕橋は昭和3年(1928)に架け替えられた震災復興橋。 コンクリート製のアーチデザインの橋であるが、石橋のように見える、デザインが素敵な橋。 街灯のレトロ感もいいね!

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・・・・・・・・・・・・・・枕橋からスカイツリーにかけて、北十間川沿いに親水テラス東武鉄道伊勢崎線の高架下には店舗・船着場を整備中。 来年のオリンピック前にはオープンするかも?

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●お名前、拝借! ・・・・・・・枕橋の次は、水戸街道に架かる源森橋。 創架年は不詳であるが、現橋は平成19年(2007)に架けられた比較的新しい橋です。 名前は明治8年に西隣りの源森橋が枕橋と改称されたのにともない、「源森橋」の名をチョイト拝借したそうだ。、、、、全長16m、幅35mの橋。

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●お口の恋人、ロッテの小梅ちゃん? ・・・・・・源森橋の東隣は小梅橋なのだが、“小梅ちゃん”は只今工事中。、、、、昭和4年(1929)に架けられた震災復興橋なのだが、昭和28年(1953)に架け替えられた。 この橋の北側と、現在の業平橋駅一帯が小梅瓦町、小梅村とそれぞれ呼ばれていた処で、旗本の隠居所や富商の妾宅があったのはこの辺りだったのか(?)、、、、現在行われている架け替え工事では、車道幅員を7mから11.8mに広げ、これまで無かった歩道を両側に整備するそうだ。 令和2年(2020)竣工予定。

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・・・・・・・・・・・・・・小梅橋の東隣(旧中川寄り)に北十間川樋門がある。 昭和53年(1978)に竣工したこの水門は、水位を調整するとともに、水質浄化もしている。 ここから大横川が分岐し、南に流れていた。、、、、現在、この樋門も耐震化工事中で、近づくことも出来ず。

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●東武の跡地にペンギンが入居! ・・・・・・スカイツリーの街の西側に架かる東武橋。 その名の通り、スカイツリーが建つ前までは、業平橋駅(現:東京スカイツリー駅)前の東武鉄道本社前に架かっていた橋。 現在の東武鉄道本社は400m程東に移転し、跡地にはスカイツリータウン(水族館)が建っている。、、、、東武橋は昭和初期に架けられたが、現在の橋は昭和63年(1988)に架け替えられた全長19.7m、幅22mの橋。

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●インスタ映えする撮影スポット! ・・・・・・・北十間川に架かる最も新しい橋は、スカイツリーの直下に架かる「おしなり橋」。 車は通行できない(自転車は可)人道橋。 スカイツリー開業時の付近の再開発事業で誕生した、長さ18.2mの橋。 橋上から見上げて見るスカイツリーはド迫力である。 それゆえ、橋上は観光客の撮影スポット。

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●京成の本社は都落ち? ・・・・・・スカイツリーの街の東側に架かる京成橋。 こちらは、スカイツリータウンの東側で、押上駅の出口前に京成電鉄本社ビル(現:京成ビル、ホテル、スーパーなどが入居)があった。 スカイツリーの完成に合わせ本社は本八幡(千葉県市川市)に移転した。 その旧京成電鉄本社前に架かる橋が京成橋。 昭和4年(1929)の架橋。、、、、この橋も只今補修工事中。

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●静かになった橋の上 ・・・・・・・・・・・・・京成橋からさらに東へ行く、西十間橋がある。 長さ21m、幅10m、平成元年(1989)7月竣工。、、、、スカイツリー工事中の時は、この西十間橋と次の十間橋は逆さツリーが撮れる格好の撮影スポットで、連日、アマチュアカメラマンで橋の上はイッパイであった。 時の経つのは早いもので、スカイツリーが完成して既に7年経過、橋の上にはあの当時の賑わいはなし。

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●634×2=1268m? ・・・・・・西十間橋の次は十間橋。 業平5丁目と文花1丁目を結ぶ橋で、昭和14年(1939)に架けられた橋。、、、、橋の上では、日本人ではなく外人がスカイツリーを撮っていた。、、、、工事中の頃は、実物と川面に移るスカイツリーが一つの写真に写り込んだが、今は広角レンズでないと撮れない、チョン切れ写真となってしまう。 高さ634m×2倍=1268mの撮影は無理だ! 

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・北十間川はこの橋のすぐ東で、写真左へ流れる横十間川とつながっている。

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●見晴らし良し! ・・・・・・横十間川との分岐部の東に、北十間川と浅草通りに架かる大きな歩道橋がある、その名は柳島歩道橋。 ここからの景色は絵になるね!、、、、写真は、歩道橋全景、歩道橋から隅田川(スカイツリー)方向を見る、同じく旧中川方向を見る。   

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●殺人事件の現場か? ・・・・・江東区亀戸3丁目と墨田区文花1丁目・2丁目を結ぶ境橋。 長さ17m、幅8mの橋で、昭和49年(1974)竣工。

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・・・・・・・・・・・・・・・境橋の南詰に小さな祠:祐天堂がある。 祐天堂は、元禄時代、祐天上人が旅の途中で、堂の後ろに流れる北十間川を見ると多くの水死者があり、その屍を救い上げこの場所に葬り供養し堂をたてたと言われている。、、、、なぜ、多くの水死者が出たのか不明だ! 大量殺人事件かも?

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●ふりむいてほしいね! ・・・・・・・・墨田区文化2丁目、石鹸の「花王すみだ事業所」の近くに福神橋が架かっている。 橋上は明治通りが通る。 橋長21.30m、幅22.00m、昭和58年(1983)竣工。

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・・・・・・・・・・・・・・橋上からスカイツリーを見ると、いいね! 写真右端の建物は「花王」。、、、、“花王”といえば、エメロンシャンプー。 エメロンシャンプーといえば、ハニー・ナイツが歌たうCMソング「ふりむかないで」。 この歌、昭和40年代の歌、私の好きな歌。 歌詞 ♪♪ 泣いているのか 笑っているのか うしろ姿の すてきなあなた ついてゆきたい あなたのあとを ふりむかないで 東京の人 ♪♪ 歌は最高、CMに登場した女性は可愛い娘だった! 時代は変わり、今では物陰で、ストーカーの歌と噂されているらしい。 

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●チョイトだけよ! ・・・・・・北十間川を渡る亀戸線の橋梁。 只今、隣りの小原橋が工事中で、東武亀戸線北十間川橋梁の全景が見えず、残念!、、、、昨年撮影した北十間川橋梁はコチラ!

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●端の橋で終わり! ・・・・・・・東武亀戸線北十間川橋梁のすぐ横に、小原橋があるが、只今架け替え工事中。 その頭上には丸八通りの新小原橋(車道専用)が通っている。、、、、ここが、北十間川で最も旧中川寄りの橋。

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・・・・・・・・・・・・・・旧中川と北十間川の合流点。 左から北十間川、右から旧中川が流れてくる。

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2019年9月 6日 (金)

新装開店の閘門

先日、荒川ロックゲートという閘門を見てきた、今日は小名木川にある扇橋閘門を見てきた。 JR総武線錦糸町駅から歩いて扇橋閘門へ行き、じっくり見た後は、暑さに負けバスで錦糸町へ戻り帰宅。 9千歩




●錦糸町は牛乳の産地! ・・・・・・・明治27年(1894)12月9日に総武鉄道(私鉄)の本所駅として開業。 明治40年(1907)に国有化。 大正4年(1915)に錦糸町駅に改称。 島式ホーム2面4線の高架駅で、現在は両国駅をしのぐターミナル駅。、、、、私の知る、昭和30年代の錦糸町駅は木造駅舎の地上駅で、ホーム北側には留置線などがあり、その北側には駄菓子問屋、花火・玩具問屋があったように記憶している。 現在の北口ロータリー周辺のこと。 南口には江東楽天地と映画館街(洋画に邦画、チャンバラ、西部劇、ピンク、何でもあった)があり、都電も走っていた、半世紀前の古い話だ。 昭和36年(1961)には、南口に駅ビルテルミナが開業した。

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・・・・・・・・・・・・・・南口駅前のバス乗り場の中に、明治から大正に活躍した歌人で、小説『野菊の墓』の作者:伊藤佐千夫が搾乳業を営んだ「伊藤左千夫牧舎兼住居跡 」の説明板がある。、、、、伊藤左千夫は、元治元年に上総国武射郡殿台村(現:千葉県山武市)の農家の四男として生まれた。 18歳の時上京して明治法律学校(明治大学:私の先輩になる)に入学したが、眼病のため中退し農業に従事した。 22歳の時再び上京、神田の牛乳店に勤めた。 その後、26歳のとき、この地に牧舎つき住居を購入して独立、牛乳搾取業を始めたそうだ。 30歳で、同業の伊藤並根に茶の湯、短歌を学ぶ。 明治33年正岡子規の門に入り、作歌に励みます。 子規歿後は、根岸派の機関誌『馬酔木』『アララギ』により活発に作歌を続け、多くの著名な歌人を育てた。 大正2年(1913)転居先の江東区大島で脳溢血のため急逝した、享年50歳。、、、、この地で搾乳していたなんて、想像できないね!  もし、今でも牧場を持っていれば、凄い大地主だ。

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●牡丹は散った! ・・・・・・錦糸町駅前から南に歩き、首都高7号小松川線の下に、埋め戻され公園・駐輪場となった堅川に架かっていた牡丹橋の親柱が残されている。、、、、ここに架かっていた牡丹橋は長さ35.29m、幅員11.00mの鋼橋(3径間鋼板ゲルバー指橋)で、関東大震災の復興事業により、昭和4年(1929)に架けられた。 橋名は橋の南側にあった「牡丹園」に由来する。 牡丹園は明治にオープンした、季節になると花を観ようと多くの見物客で賑わったそうだ。 関東大震災で焼失し、その名だけを橋名にとどめた。 粋な名の橋だが、その姿は無く、川も暗渠となり、チョイト寂しいね!

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・・・・・・・・・・・・・・旧牡丹橋が架かっていた牡丹橋通り(錦糸町駅前から新大橋通りまで南北に伸びる道路)は、振り返り北を見るとスカイツリーが道路の先によく見える!

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●薬師寺の聖観音? ・・・・・・・牡丹橋通りがぶつかる新大橋通りを横断し、さらに南へ向かい小松橋通りを歩く。 江東区猿江1丁目で重願寺前に出る。 重願寺浄土宗寺院で不虚山当知院と号す。 天正18年(1590)千葉邦胤の娘、不虚大禅尼によって日本橋郡代屋敷に草創、寛永6年(1629)本蓮社願譽是哲上人が開山した。 寛政7年(1795)に現在地の猿江に移転した。、、、、ここの山門の柱は、奈良の薬師寺の講堂に使用されていた木材で作られているそうだ。 平成16年(2004)の建立という新しいもの。、、、、本堂は鉄筋コンクリート造りの2階建てのビルで、平成29年(2017)に竣工した。

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・・・・・・・・・・・・・・本堂左に立つ「みまもり観音」は、関東大震災や東京大空襲などで殉難された多くの人々の冥福を祈り、天災や戦争のもたらす悲惨さと平和の尊さを後世に伝えるため、檀信徒をはじめ、猿江地区6ヶ町内有志を中心に、昭和56年(1981)造立された。、、、、「みまもり観音」の名称には、観音の限りない大慈悲によって亡き人々、いま生きる我々を日々に「見守り給え」という祈りが込められているそうだ。 その像は、奈良薬師寺東院堂の本尊である国宝「聖観音像」を原型に拝借、実写して二・二倍にして鋳造された。 つまりは、奈良に行かずとも聖観音像が拝める

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●化粧直しした閘門 ・・・・・・・重願寺から南へ200m程、小名木川に架かる小松橋に出る。 小松橋と西側の新扇橋の間に、今日の散歩の目的地、橋閘門がある。 次の写真は、2014年1月の扇橋閘門。 (昨年、小松橋、新扇橋、扇橋閘門について、こちらで説明している)


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・・・・・・・・・・・・・・・新装開店の扇橋閘門。 今年の春、姿を現した耐震補強工事が完了した扇橋閘門。 取付護岸の補強工事が終わり、閘門の支柱は鉄筋補強され、ゲートは新品に交換、上部の機械室はシースルーのスケスケ、管理棟は耐震補強し綺麗になった外装。

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●暑い暑い! ・・・・・・扇橋閘門に着いた頃は、気温は30℃を超え、汗びっしょり。 パンツの中も汗でムレムレ。 熱中症が恐くなり、閘門を見たら帰ることにした。、、、、扇橋一丁目バス停から錦糸町駅行で帰路につく。

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2019年8月15日 (木)

貨物も計画運休?

台風10号は九州と四国の間を器用にすり抜け、山口県岩国付近に上陸したそうだ。 大きな強風域で東京にも影響があると思われるが、天気予報では午前中は雨も降らず、どうにか散歩もできそうな空模様。 南千住駅から歩きはじめ、水神大橋で隅田川を越え、東武の鐘ヶ淵駅前を通り、京成曳舟駅まで、1万4千歩の散歩です。




●頑張れ、都バス! ・・・・・・我が家のある浅草橋駅前をとおる都電(市電)は、大正時代から運行されていた。 大正初期には南千住~雷門間の運転だったが、大正10年頃に南千住~浅草~浅草橋~本石町(現:本町三丁目)~日本橋~銀座四丁目~新橋~芝橋(現:東京港口)まで延伸された。 戦時中は南千住~新橋間に短縮され、昭和20年4月には東京大空襲の影響で、さらに南千住~浅草橋・日本橋間に短縮された。 しかし、2か月後の6月には南千住~新橋間が復活した。 戦後は昭和42年(1967)まで、南千住~新橋間を都電22系統として運行していたが残念なことに都電廃止となった。 その代替バスとして、新橋~銀座間は切り捨て、南千住~日本橋~東京駅八重洲口間に都バス[東42甲]が運行された。 以来約50年、バス路線は大きくは変わらず運行されている。 市電時代から数えると約100年間、南千住~浅草橋~日本橋間には、市電・都電・都バスが住民の足として走ってきたことになる。、、、、乗客の減った都バスは、いつまで走り続けることができるのか? 私が敬老パスを利用している間は、頑張って欲しいね。

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貨物駅は、盆休み?計画運休? ・・・・・・JR南千住駅の東側に広がる、JR貨物とJR東日本が所管する貨物専用の隅田川駅。 いつもは、機関車の汽笛が聞こえ、貨車の入れ替え作業が見られ、コンテナを運ぶトラックが行き交い、フォークリフトがチョコマカ動いているのだが、全ては静寂の中にあり、整然と置かれている、動くものが見えない! 貨物駅も盆休みか? それとも、台風による計画運休か?

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●サバサバした味気ない町! ・・・・・・隅田川駅とその北から東へ流れる隅田川の間に、総面積約49ヘクタールの再開発地域:「汐入地区」がある。 かつて、1500世帯が住んでいた木造家屋の密集する街をいったん壊し、平成の時代にスーパー堤防を備えた災害に強い、タワーマンション等が並ぶ、新しい都市へ生まれ変わった。 町の中央には防災拠点として汐入公園が造られ、災害時には12万人を収容できる広域避難場所でもある。、、、、近代的でカッコイイ町か? 私は、路地裏のない、この手の町には住みたくないね!

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●荒川区にトンネルがある! ・・・・・・・荒川区汐入地区と隅田川を挟み対岸の墨田区東白鬚地区(両地区とも防災拠点)を結び水神大橋がある。 この橋の西詰(汐入地区)に、胡録トンネルと瑞光トンネルの2つのトンネルがある。 共に、汐入地区のスーパー堤防の下を走る都道314号のトンネル。 半円形の断面の胡禄トンネルは全長150m、矩形断面の瑞光トンネルは全長80m。、、、、荒川区にトンネルがあるのを知る人は少ないと思う。 コリャ、クイズになるね!  

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●旧防潮堤は華奢だった! ・・・・・・・水神大橋(すいじんおおはし)は、隅田川にかかる東京都道461号吾妻橋伊興町線支線の橋。 西岸は荒川区南千住八丁目(汐入地区)、東岸は墨田区堤通二丁目(東白鬚地区)。 橋は東岸にある「隅田川神社(水神宮)」に因み命名された。 竣工は平成元年(1989)。 形式は3径間連続ニールセンローゼ桁橋、橋長157.0m、幅員17.0m。 この橋は、組み立てを陸上で行い、橋桁を台船に乗せて干満の差を利用して橋脚に乗せるという工法を採用した。、、、、面白い工法での工事、見たかった! 

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・・・・・・・・・・・・・・水神大橋から下流を望む
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・・・・・・・・・・・・・・橋の下、スーパー堤防に残されている「隅田川旧防潮堤」、、、、昭和32年から昭和50年にかけて造られた防潮堤の一部が残されている。 周りのスーパー堤防と比較すると、高さは数メータ低く、堤防としては華奢に感じる。
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●盆休みの商店街! ・・・・・・・水神大橋を渡ると、防災拠点でもある白鬚東アパートがある。 ここから、東武伊勢崎線鐘ヶ淵駅前を通り、シャッターの下りた商店街を抜け、京成押上線八広駅付近の水戸街道(国道6号)に出る。、、、、この間はコチラを見てね!

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●高架になって早や6年! ・・・・・水戸街道からは京成押上線の高架下を歩き京成曳舟駅に出る。、、、、京成曳舟駅は、6年前の平成13年8月24日に初めて上り線が高架駅となった。 下り線は2年後の平成15年8月22日に高架となる。、、、、駅周辺には民家が密集しゴチャゴチャした雰囲気があった地上駅の頃が懐かしく感じるね!

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