江東区

2024年4月25日 (木)

梅、桜の次は藤

梅はとっくに、桜も終わり、つつじに藤の時期となった。 今が見ごろと聞いて亀戸天神の「藤まつり」に行ってきた。



・・・・・・・・・・ 午前中から亀戸天神に向かう人で、神社前の蔵前橋通りはチョイト歩きにくいね!

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・・・・・・・・・・ 正保年間(1644~1647)、菅原道真の末裔であった九州の太宰府天満宮の神官:菅原大鳥居信祐は、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもって諸国を巡った。 そして寛文元年(1661)、江戸は本所亀戸村にたどり着き、元々あった天神の小祠に道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが、亀戸天神の始まりとされる。 当時、明暦の大火による被害からの復興を目指す江戸幕府は復興開発事業の地として本所の町をさだめ、四代将軍徳川家綱はその鎮守神として祀るよう現在の社地を寄進した。 そして寛文2年(1662)、地形を初め社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋などが太宰天満宮に倣い造営された。古くは総本社に当たる太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」「本所宰府天満宮」と称されていたが、明治6年(1873)に府社となり亀戸神社、昭和11年(1936)に現在の亀戸天神社となった。 創建から300年超、歴史ある天神様だ!、、、、亀戸天神と藤の結びつきは? 江戸時代、亀戸は湿地で初代宮司が水を好む藤を社殿に植えたことが始まりらしい。 江戸の名所として五代将軍綱吉、八代将軍吉宗が訪れた記録もあり、多くの浮世絵などの題材にも取り入れられている。 将軍吉宗は白馬にまたがり江戸城から花見に訪れたのか?



・・・・・・・・・・ 境内は大勢の見物客と初夏の陽気で、気持ちはイライラ、気温はポカポカ。 色鮮やかに咲き誇る藤を見上げて首が疲れる。

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・・・・・・・・・・ 参拝する人は、正月の初詣の如く長い列。 孫の学業成就、宝くじ一等当選を祈願し、二礼・二拝・一礼、『よろしく!』。 

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・・・・・・・・・・ ポスターには『藤まつり 4月6日~4月30日』と記されていたが、ゴールデンウイークまではもちそうだ! ぜひ、みなさんお誘い合わせて藤を見に来てはいかが。 帰りの土産は船橋屋の『くず餅』をぜひ!

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2024年2月19日 (月)

意地で1万3千歩

最近歩く機会が少なく、体力が落ちてきたかも?? 今朝、食事をしながら『チョイト、歩いてくるね』 TVの天気予報は、文京区の椿山荘からLIVE中継。 『アレ、傘さしてる!』 食事が済んで外を見ると、我が家の周辺は濡れているが、雨は止んでる。 妻『傘を持って行ってね!』 私『雨は降らない、もし降ったらすぐに帰って来る。 男の散歩に傘は邪魔だ!』 傘を持たずに飛び出した。




● 家を出たが、さてさて何処へ行こうかな? 家を出て1分『アレ、雨粒が落ちてきた。 コリャ、遠くに行けないな』 本降りになっても、すぐにバスに乗って帰れるように浅草方面に歩きだす。 我が家と同じ町にある「須賀神社」に手を合わせ、『雨がやみますように!』と神頼み。

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蔵前一丁目交差点に来ると、傘をさす人も多い。 ココまで、我が家から真直ぐ歩いて、徒歩8分。 いまさら、我が家に戻って『散歩は止めた!』と妻に言うのは男として情けない! もう少し歩いて、本降りになったら帰ることにしようと決める。、、、、『この雨、本降りになるかも?』チョイト、不安がよぎる。 『そうだ、川向こうの東京都慰霊堂に行こう!』雨が降っても雨宿りできる。 これより、蔵前橋通りを歩く。

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● 小雨がパラパラ。 カメラが濡れるのを拭きながら蔵前橋を渡る。

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東京都慰霊堂に来ると、傘をさす学生も少ない。 雨は霧雨となった。 これなら、もうチョイト歩いて見よう!

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石原三丁目交差点まで来ると、雨は止んだ。 服は湿っぽくなったが、『ヨシ、もう少し散歩を続けよう!』 

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法恩寺橋を渡る頃には、道は乾き、雨は完全に止んだ。 これで、今日散歩に出た、男の面目が立った!

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錦糸町駅近くを通過。 傘をさす人はいない。

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天神橋を渡り、くず餅屋さん亀戸天神前を通過。 男の意地で小岩駅まで歩くつもり。

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東武亀戸線を越える頃、チョイト足が痛くなってきた。 アリャ、コリャ、歳だな、脚力が弱くなったか?、、、、江東新橋を渡り、江戸川区に入る。

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● 江戸川区に入り、平井駅前のタワマン工事現場まで来ると、足の疲れが出た! 我が家の家訓(?)、“年寄りの 無理は禁物”を思い出し、今日の散歩はここ平井駅までとする。 小岩まで歩くつもりが平井でギブアップ、1万3千歩の散歩でした。

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2024年2月10日 (土)

天神で観梅

今週は久々に雪の東京で、寒さもひとしお。 でも、ニュースを見てると、あっちで咲いた、こっちで咲いたと、ウメとサクラの話題が出てくる時期となった。 今日は夫婦で亀戸天神の梅を観てきた。

亀戸天神は、正保年間(1644~1647)、菅原道真の末裔であった九州の太宰府天満宮の神官、菅原大鳥居信祐は、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもち、諸国を巡った。そして寛文元年(1661)、江戸の本所亀戸村にたどり着き、元々あった天神の小祠に道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが始まりとされる。 当時、明暦の大火による被害からの復興を目指す江戸幕府は復興開発事業の地として本所の町をさだめ、四代将軍徳川家綱はその鎮守神として祀るよう現在の社地を寄進した。そして寛文2年(1662)、地形を初め社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋などが太宰天満宮に倣い造営された。 古くは総本社に当たる太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」「本所宰府天満宮」と称されていたが、明治6年(1873)に府社となり亀戸神社、昭和11年(1936)に現在の亀戸天神社となった。、、、、“亀戸天神社”などの言い方は聞いたことがない、江戸っ子は“亀戸天神”で誰もが判る!




● 駅から天神までの商店街は、『梅まつり』の旗を飾って盛り上げる。(午前10時半、これから店開きの商店もあり、人影はまばら)
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天神様にやって来た。 中高年の参拝客が目立つ。 太鼓橋から境内を眺めると、参拝客も多そうだ、拝殿前は行列ができてる。

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● 梅が咲いてた、5分咲きぐらいかな? 境内には300本の梅の木があるそうだ(数えたことはないが)、、、、「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春をわするな」菅原道真が太宰府への左遷直前に詠んだ和歌

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日光猿軍団は商売・商売・出張商売! 境内で、日光から上京した猿が、一芸を披露!

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● 今日は散歩日和であった。 そこで一句思い出す、、、、松尾芭蕉の弟子、服部嵐雪の詠んだ有名な句「梅一輪 一輪ほどの 暖かさ

2024年1月31日 (水)

梅は咲いたか

京成曳舟駅から墨田区京島・文花、江東区亀戸の町を歩き亀戸駅まで、1万歩の散歩です。




● 我が家のある浅草橋駅から都営浅草線に乗り5駅目(駅から駅まで約10分)、スカイツリーのある押上駅の次が京成曳舟駅。、、、、京成曳舟駅は平成25年(2013)頃までは地上駅であったが、平成27年(2015)には上下線の高架化が完了した。 高架化後は相対式ホーム2面2線を有する高架駅となり、駅前のロータリーも整備され、周囲には数棟のタワマンも建ち並んでる。 1日平均乗降人員は約18,000人で、大きな駅ではないが、“やぼったい京成らしさ”が抜け落ち、明るいスマートな駅に変わった。

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● 駅前から南に歩く。 駅の南に広がる京島地区は、第二次世界大戦による戦災から免れた地域で、戦後は緊急車両も通れない木造密集地区として重点的に整備が行われてる。、、、、京島地区には大正時代からの昭和初期の長屋などが現存し、古い家屋と町工場が混在し、東京でも下町の古い街並みが色濃く残っている地域である。 一方で狭い路地による車の通行の問題や、大規模地震などの災害時の対策も課題となっていた。 最近では、整備の効果が徐々に出始めており、救急車、消防車が通れなかった道も幅を広げ、少しづつ通れるようになってきた。 古い木造住宅は耐火建築に建て替えが進んでる。 小道の要所要所(小公園など)には、消防用の貯水槽、ポンプも設置されてる。

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● 京島地区を抜け向島警察署を過ぎると、東武亀戸線小村井(おむらい)駅がある。 駅前の踏切を渡り、墨田区文花2丁目に入る。

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● 小村井駅の南西200m程の処に、旧小村井村の鎮守で、平安時代末期、下総国香取郡から開拓のために移住してきた6軒の人々が香取神宮の御分霊を勧請したと言われてる、小村井香取神社がある。、、、、現社殿は昭和29年(1954)の建立で、本殿は流れ造り、拝殿は入母屋造りの総檜造りである。、、、、
江戸時代、当社の東側には江戸近郊の梅の名所として知られた小村井梅園があった。「梅屋敷」と呼ばれた敷地は約3千3百坪で、築山・池・多数の名石を組んだ庭園に紅梅白梅が咲き乱れ、毎年梅の盛りには将軍の御成りもあったそうだ。 しかし残念なことに明治43年(1910)の大水で廃園となった。 平成6年(1994)には、境内に「香梅園」が開設された。 梅の季節には80余種・約120本の梅が咲き、梅祭りが開催される予定だ! 今日、境内の梅は既に開花してた! 来週あたりは見ごろかも?

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● 小村井香取神社の斜め向かいに「都営文花一丁目第二アパート」がある。 昭和47年(1972)に建てられた、12階建て、235戸が入る大きなアパート。、、、、チョイト最上階から、青空に伸びるスカイツリーに向かってパチリ! 

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● 小村井香取神社から300m程歩くと北十間川が流れてる。 この川を越えると墨田区文花から江東区亀戸に入る。

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● 亀戸天神はまたの機会として、今日は亀戸香取神社に寄って行く。、、、、由緒では、『その昔、亀戸は亀の形をした小さな島で、亀島とか亀津島と呼ばれていたという。 社伝によれば、天智天皇4年(665)藤原鎌足が東国へ降った際、この島に香取大神を勧請し、太刀一振りを奉納して旅の安全を祈願した。これが当社の起源であるという。 承平天慶の乱に際し、平将門の追討に向かった藤原秀郷は、戦勝祈願のために当社に参籠した。乱の鎮定後、奉賽として弓矢を奉納し、勝矢と命名した。5月5日に行われる勝矢祭は、この故事に因むものである。このような由緒や武道の神として崇敬された香取大神の神徳に因み、現在ではスポーツ振興の神として広く崇敬を集めているとのことである。 明治5年(1872)村社に列格。昭和20年(1945)空襲で社殿が焼失し、同23年(1948)再建。現在の社殿は同63年(1988)に落成したものである』、、、、池江璃花子、内村航平と書かれた灯篭が参道にあった。 祈願に来たのかな?、、、、亀戸香取神社は桜でも有名な神社だが、『梅は咲いたか 桜はまだっかいな』 『まだまだですよ!』

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● 総武線の亀戸駅に到着、、、、今日は歩きやすい陽気だった! まだまだ歩く体力が残ってる!

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2023年10月17日 (火)

砂町は砂村町

東京メトロ東西線南砂町駅から北に向かって、JR総武線亀戸駅まで、1万2千歩の散歩です。




● 東京メトロ東西線の南砂町駅(全て音読みで“みなみ すな まち”です、訓読みにして“なん さ ちょう”とは読まないで!)は、昭和44年(1969)3月29日に開業した。 島式ホーム1面2線の地下駅。、、、、コロナ前の東西線は、千葉方面からのアクセスが良く、年々利用客が増加し、一時期一日利用者数が150万人近くに達し、朝の通勤ラッシュ時間帯の混雑率が200%前後となった。 そこで南砂町駅では、ホームを1面増やし2面3線構造とし、駅の混雑緩和をはかる改良工事に着手した。 ところがドッコイ、コロナで利用者が減り、着工前の段階では2020年度完成予定となっていた工事は、その後2027年度完成予定へ大きく変更された。

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・・・・・・・・・・ 南砂町駅に到着した都心方面に向かう三鷹行きの電車は満員、東西線の混雑緩和は急務だ!

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明治通り(=都道306号)に沿って北上する

・・・・・・・・・・ マンションの前にはゴミの山、、、、収集したゴミを焼却するのは大変な仕事だ!

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・・・・・・・・・・ 南砂の中心(?)、明治通りと葛西橋通りが交差する「南砂四丁目交差点

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・・・・・・・・・・ “砂町”という地名の謂れは、江戸時代「宝六島」と呼ばれていた地を砂村新左衛門一族が開拓したことにより「砂村」という地名が付き、大正10年(1921)7月の町制施行とともに「砂町」となった。 ところで、“砂村”は一族名で、“砂”の“村”ではない。 町制施行では、“砂村”に“町”を足して“砂村町”とするのが正しかった(?)。 砂町は現在の北砂、南砂、東砂、新砂にあたる。



・・・・・・・・・・ 仙台堀川公園(川の多くを埋め立てた親水公園)を横切る

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・・・・・・・・・・ 北砂2丁目の志演尊空神社(しのぶそんくうじんじゃ)に立ち寄る。、、、、志演尊空神社は、志演神社と、尊空神社が昭和22年(1947)に合併して志演尊空神社となった。 志演神社は、当地八右衛門新田村を開拓した際に菅原長寛が稲荷神を勧請して創建した。 後に、徳川綱吉が鷹狩りの際に志演神社と命名した。 尊空神社は、伏見宮家・守理法親王の御子で知恩院第三六世門主だった尊空親王を奉斎していた神社である。、、、、社号の“しのぶそんくう”は難読だ!

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・・・・・・・・・・ 数ある商店街の中で戸越銀座商店街と肩を並べて全国的に有名な商店街、その名は「砂町銀座」。、、、、戦前は30軒位の普通の商店街であった。 昭和7年10月1日、当時の商店会の記念式典で城東区選出の東京市会議員宇田川氏により『この通りが早く砂町銀座と呼ばれるような一大繁華街となられん事を望む云々』の祝辞を受け、その晩早速役員会を開き通りの名を砂町銀座にしてしまったそうだ。、、、、今日、立ち寄った時刻は9時前、店の多くは開店準備中。 商店街の途中から裏道に入る。

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・・・・・・・・・・ 砂町銀座の北側、100m程の距離で平行する裏通りに「こうづけ堀通り」の道路名。 名前の脇に「吉良上野介下屋敷堀跡」と記されてた。 周囲をキョロキョロ探すが、極々普通の裏通り、それらしき遺構もない。、、、、討ち入りしたのは、本所松坂町の吉良邸だ。

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● これより、小名木川、中央銀座商店街、大島6丁町目団地、昭和橋通りの順で、2020/8/2の散歩コースを逆さに歩いて亀戸駅へ到着。

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2023年7月14日 (金)

東武亀戸線

朝の天気予報では、今日の東京は最高気温29℃で曇りであった。 『久しぶりの30℃割れ、しかも曇り空なら、熱中症の心配も薄らいだ。 ヨシ、歩いてくる!』と、自分に言い聞かせ、東武亀戸線の全駅制覇に出立。


東武亀戸線の歴史は ・・・・・・ 東京と関東北部を結ぶ東武鉄道は、明治30年(1897)に設立された。 当初、起点を東京湾に近い越中島とする予定で免許を申請したが、越中島~北千住間は審査に時間を要し、すぐには免許が下りなかった。 そこで、日本鉄道(現:JR常磐線)の北千住駅を起点に久喜駅までを東武鉄道の最初の区間として、明治32年(1899)に開業した。 明治35年(1902)には北千住駅から吾妻橋駅(後に浅草駅、業平橋駅と改称し、現在はとうきょうスカイツリー駅)まで延伸された。 越中島~北千住間の免許は明治32年(1899)に認可され、明治37年(1904)4月5日には、その一部である亀戸~曳舟間が開業した。 この開業と同時に、東武鉄道は総武鉄道(現:JR総武本線)亀戸~両国橋(現:両国)間へ乗り入れ、直通運転を行う。 また、東武鉄道の吾妻橋~曳舟間は廃止され、亀戸~曳舟間が本線格の扱いとなった。 明治40年(1907)乗り入れ先の総武鉄道が国有化されるが、引き続き東武鉄道の乗り入れは継続する。 東武鉄道は、ターミナルを開業当時の吾妻橋駅に戻すことになり、明治41年(1908)に吾妻橋~曳舟間が貨物線として再開する。 明治43年(1910)3月に吾妻橋駅を浅草駅に改称、そして浅草~曳舟間の旅客営業を再開。 これにて、亀戸~曳舟間は支線となる。 また、同年8月には、亀戸~越中島間の免許は失効した。



・・・・・・・・・・ 今日は東武鉄道亀戸線(全長3.4km)に、廃止、統合、現営業中を含め、10駅が存在した。 起点の曳舟駅から終点の亀戸駅まで全駅を歩いて来たので、順に紹介する。



曳舟駅 ・・・・・ 曳舟駅は明治35年(1902)4月1日、吾妻橋~北千住間開業時にできた駅。 明治37年(1904)4月5日、亀戸~曳舟間が開業。、、、、現在は東武伊勢崎線、亀戸線の停車場で、ホームは高架複合式3面5線構造。 伊勢崎線が発着する1~4番線(島式ホーム2面)と、亀戸線が発着する5番線(短い片面ホームが1面)から成っている。 2両編成の亀戸線が10分間隔で運行している。 通勤通学客で満員だ!

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・・・・・・・・・・ 亀戸線の使用車両は、8000系が中心。 昭和30年代の塗装を再現したリバイバルカラーとして朱色や緑色に塗られたものも存在し、来る列車、来る列車毎に色が変わる。

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虎橋通駅跡 ・・・・・ 現存の曳舟駅と小村井駅の間に、かつては虎橋通駅(とらばしどおりえき )と十間橋通駅(じゅっけんばしどおりえき)があった。 その一つ、虎橋通駅は墨田区京島2の住宅と線路の間の狭い処にあった。 開業は昭和3年(1928)4月15日、廃止は昭和20年(1945)3月10日である。、、、、駅跡に何か残ってないか? キョロキョロ探すと、線路脇に並ぶコンクリート土台(?)跡があった。 おそらく70数年前に廃止となったホームの基礎部分であったと思う。 

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十間橋通駅跡 ・・・・・ 次は、
十間橋通駅(じゅっけんばしどおりえき)の跡。 駅は、十間橋通と交差する踏切の北側(墨田区京島2)の線路脇にあった。 下町の元気な商店街:キラキラ橘商店街の入口に近い処だ! 開業は昭和3年(1928)4月15日、廃止は昭和33年(1958)10月22日である。、、、、線路脇には曳舟起点9㎞ポストがあった。 その周囲のバラストの中にコンクリート構造物が見える、ここもホームの基礎部分が埋まっているのか?

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天神駅跡 ・・・・・ 曳舟駅、虎橋通駅跡、十間通駅跡とみて、次は、小村井駅の手前にある天神駅跡を探す。、、、、天神駅(てんじんえき)は、かつて東京都墨田区文化に存在した亀戸線の廃駅。 天神駅は、明治37年(1904)4月5日に開業し、昭和32年(1957)5月20日に廃止された。、、、、曳舟たから通りに面する「
iU 情報経営イノベーション専門職大学(墨田区文化1)」の建物の東側あたりに天神駅はあったと思われる。 この付近の線路敷きは、気持ち分だけ幅広になっており、ここに駅があったのかも(?) 線路敷きの両側は建物が並んでおり、線路内に立ち入って詳細に見ることはできず諦める。、、、、駅名の“天神”は亀戸天神のことだが、ここから亀戸天神までは1㎞以上あり、歩いて20分はかかるであろう。

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小村井駅 ・・・・・ 曳舟駅から1.4㎞にある小村井駅(おむらいえき)は、相対式ホーム2面2線を有する地上駅。 駅舎は曳舟方面ホームの東あずま寄りにあり、上下線ホーム間を連絡する地下通路が設置されている。 開業は昭和3年(1928)4月15日、、、、都会の中の小さな駅で、“ローカル”、“昭和レトロ”、“のんびり”などの言葉が合う駅だ! 駅名はチョイト読みづらいかな?

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東あずま駅・・・・・小村井駅の次は東あずま駅。 駅名は付近一帯がかつて吾嬬町(あづまちょう)だったことに由来し、周辺の東吾嬬小学校、第一吾嬬小学校などの学校や吾嬬神社にその地名が残っている。 本来は「東あづま」と表記すべきところ「東あずま」となった。 その理由は不明だが、たぶん誰かが“づ”を“ず”と間違えたのだろう!、、、、昭和3年(1928)4月15日 、平井街道駅として開業。 昭和20年(1945)5月20日、平井街道駅廃止。 昭和31年(1956)5月20日、東あずま駅として再開業、、、、相対式ホーム2面2線を有する地上駅。 駅舎は丸八通り(=都道476号)に面す、各ホーム間の連絡は構内踏切を利用。

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北十間駅跡 ・・・・・ 曳舟から亀戸へ向かい北十間川を越えた所(橋の南詰)、マンション脇のチョイ広の線路敷きに北十間駅があったと思われる(?) 開業は昭和3年(1928)4月15日、廃止は昭和21年(1946)12月5日。 70数年前の廃駅は何も残っていないようだ! 

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亀戸水神駅 ・・・・・ 現在の亀戸水神駅は北十間駅と旧亀戸水神駅を統合して、両駅の中間に昭和21年12月5日に移転した。、、、、“亀戸水神”は“亀戸天神”と紛らわしいが、全く別物で
駅の西方にある亀戸水神宮に由来する駅である。 お間違いなきよう!、、、、相対式ホーム2面2線の地上駅。 ホーム間には構内踏切あり。

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旧亀戸水神駅跡 ・・・・・ 亀戸へ向かう電車は、亀戸水神駅を出て右に大きくカーブする、そのカーブ地点の線路脇にキレイに並ぶコンクリート造の遺構がある。、、、、旧亀戸水神駅は昭和
3年(1928)4月15日に開業。 昭和20年には戦災を受け、昭和21年(1946)12月5日に北十間駅と統合し、現在の亀戸水神駅へ移転した。

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亀戸駅 ・・・・・ そして亀戸線の終点は亀戸駅。、、、、島式ホーム1面2線を有する地上駅。 改札は駅ビル「アトレ亀戸」内にある。 ちょこっとスロープを上ればホーム。 この構造はまさに都会のローカル線!

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● 東武鉄道亀戸線はコチラも見てね!・・・・・・・・・・ 昼の亀戸線(1918/6/25) ・・・・ 夜の亀戸線(1920/8/17)

 

 

● 東武鉄道亀戸線の全駅を歩いた、1万2千歩。 時刻は10時だが、すでに全身は汗でビショビショ。 やはり、真夏の散歩はチョイト、キツイね!

2023年4月20日 (木)

藤まつり

昼から妻と、「藤まつり」の亀戸天神に行ってきた。 亀戸天神の境内には約50株以上の藤の木があり、一斉に咲いた景色は素晴らし、都会の中の藤の名所である。 今日は、天気は上々、花は満開、人出はまあまあ、絶好の花見だ!、、、、みなさん、写真撮影で忙しそう!

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・・・・・・・・・・ 花見のあとは、甘味処でクリームみつ豆でひと休み。

2021年10月 7日 (木)

浅草橋へ戻る

今日の散歩は西大島駅から浅草橋の我が家まで、1万3千歩です。




● 都営新宿線「西大島駅」は、昭和53年(1978)12月21日、新宿線の最初の開業区間である岩本町~東大島間の開業時に設けられた駅である。、、、、西大島駅は、地下1階がコンコース・改札口、地下2階が島式ホーム1面2線の地下駅である。 一日の乗降者数は、コロナ禍の昨年実績で2万人強で多くはないが、来る電車は満員でここから通勤する人は座れないね!

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・・・・・・・・・・・・西大島駅出口前の植え込みに「五百羅漢跡」の石柱が建っている、、、、横断歩道脇の植込みに石柱が建っている。碑の両側面と裏面には、『元禄八年この付近に黄檗宗松雲禅師作の羅漢像五百体を安置する広壮な羅漢寺が創立せられ五百らかんという名所として知られてきたが羅漢寺は明治二十年に墨田区へさらに同四十二年目黒区へ移転したが、なお当時の羅漢像の多くを残している 昭和三十三年十月一日 江東区第18号』と記されている。、、、、ここは、目黒の羅漢寺があった処、五百羅漢像も目黒へ引っ越した!

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・・・・・・・・・・・・駅前の新大橋通りを挟み石柱の前に、オヤ!「羅漢禅寺」がある、、、、明治38年(1905)に都下氷川村に曹洞宗祥安寺として創立、昭和11年(1936)現在地(江東区大島3)に移転してきて、元あった羅漢寺を名乗ったもので、五百羅漢寺とは関係がない。 『チョイトお名前拝借か!』

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● 西大島駅前の「新大橋通り」を西へ歩く、、、、駅前で交差する明治通りを北へ歩けば亀戸駅に出る。

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・・・・・・・・・・・・越中島貨物線の「幹線29号架道橋」の下を西へ、、、、架道橋の設置年代は不明だが、貨物線の開通は昭和4年(1929)なのでその近辺か?

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・・・・・・・・・・・・ 「本村橋」は新大橋通りを通し、東詰めの江東区大島と西詰の江東区毛利・住吉を結び横十間川に架かる橋。 昭和4年に初代の本村橋が震災復興橋として架けられ、三代目の現橋は昭和52年(1977)に架替られた。、、、、橋の上からはスカイツリーが良く見える。

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●  本村橋の西側に広がる「猿江恩賜公園」の中をブラブラ、、、、猿江恩賜公園は、その名のごとく江東区猿江にある都立公園。 開園は昭和7年(1932 と古く、昔から貴重な緑地として周辺住民に知られていた。 元々この地は、江戸時代から続く徳川幕府による貯木場であった。 その後、明治政府御用達の貯木場になり、関東大震災後その一部が埋め立てられ「猿江恩賜公園」となった。 公園の北側の地区は、戦後しばらく貯木場として使用されていたが、貯木場は江東区潮見に移転し、昭和56年(1981)に追加開園した。、、、、広い公園で都会のオアシス! 今日はのんびりと公園を通り抜ける。

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● 猿江恩賜公園を抜けるとJR錦糸町駅までは600m程、近い!、、、、錦糸町駅・京葉道路の南側、場外馬券売り場の裏に、小さな寺、天台宗の五徳山江東寺がある。 江東寺は、昭和15年(1940)に坂東16番札所水澤観世音(伊香保町)の別院として創建された。 本尊は千手観世音で、境内には清昌稲荷、出世弁財天、水洗観音、地蔵尊、馬頭観音、戦災慰霊碑など、いろいろと祀られている。、、、、本堂は昭和55年(1980)に鉄筋コンクリート造で再建された。

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● 錦糸町駅前からは京葉道路(=国道14号)を歩く。 この道は、両国を通り浅草橋まで一直線。、、、、これより先は、歩く方向は逆さまだけど、こっち見て!

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● 両国橋を渡り、柳橋を渡ると台東区にはいる。 もう地元だ!

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・・・・・・・・・・・・地元でも、“知ってるようで 知らない 隣の家”、、、、柳橋の町に小さな古本屋「古書 みつけ」が、明日(10/8)オープンするようだ! 浅草橋(柳橋の隣り町)に生まれ育って70余年、柳橋に可愛らしい本屋ができるのは初めて、びっくりしたけど、多いに期待しよう!

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・・・・・・・・・・・・「浅草橋駅」に到着、、、、駅から我が家は300m、『ただいま!』

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2021年10月 5日 (火)

今はなき小名木川駅

東西線南砂町駅から明治通り沿いの裏道にチョコチョコ入り、北へ向かって都営新宿線西大島駅まで、1万3千歩の散歩です。




● 東西線「南砂町駅」は昭和44年(1969)に営団地下鉄東西線東陽町~西船橋間延伸時に開業した。、、、、当時、ホームがある位置には洲崎川という運河があり、南砂町駅は洲崎川の川底にトンネルを沈め、トンネル内にホームを造ることとなった。 トンネルは、陸上で13個に分割して作った鉄筋コンクリート製のトンネル筐体を川底に沈め、さらにトンネル筐体の下部を掘削して地中に沈め込む「ケーソン工法」にて建設された。 川底の軟弱地盤に造られた駅・ホームは狭い空間で、1面2線の島式ホーム両端に1か所ずつ改札口(出口)があるのみだった。、、、、開業後50年を経過した現在、乗降客も増え駅構内の混雑も激しく、ホームの拡張が求められてきた。 そこで、現在のホームの隣りに、島式ホームを増設し、2面3線の島式ホーム構造に改良することとなった。 現在のホーム前の壁の向こうでは新しいホームが造られているそうだ。 工事の完成はまだ数年先となるらしい。 (注:現在は洲崎川は埋め立てられ道路に変わっている)

・・・・・・・・・・・・朝、西船橋方面に向かう列車は空いている、都心に向かう列車は混んでいる。

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・・・・・・・・・・・・ホーム前の壁はコンクリートがむき出しとなり、その壁の向こう側では新ホームを増設中。

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・・・・・・・・・・・・3機の自動改札がある西側の改札口。 その先、地上への出口は1か所のみ。 出口を出ると、そこは工事現場の中!

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● 南砂町駅を出て、「永代通り」と「明治通り」が交差する「日曹橋交差点」から、明治通り沿いに北上する。

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・・・・・・・・・・・・明治通りの東側(南砂3)に7棟の集合住宅一列に並んだ、総戸数175戸の「都営南砂3丁目第2アパート」がある。 この向かい側に小ぢんまりしたお稲荷さん「仙気稲荷大明神」がある。、、、、仙気稲荷大明神は江戸百稲荷の一つで、江戸時代から「砂村疝気(せんき)稲荷」として名高く参詣者が多く繁栄していた。 砂村稲荷神社は、昭和20年(1945)の米軍の無差別空爆により全焼、その後仮社殿が建てられたものの、昭和42年に千葉県習志野市谷津に移転した。 神社の跡地には都営住宅が建てられ、その一隅に昔の名前を留める小祠が仙気稲荷大明神だ。、、、、大明神は文化文政の頃から、“疝気”という、大小腸・子宮などの下腹部が痛む病気に、霊験あらたかだった。 現代は、胃腸の痛みにはラッパのマークの『正露丸』(我が家の常備薬)

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● 仙気稲荷大明神から北へ約250m、「葛西橋通り」と「明治通り」が交差する「南砂四丁目交差点」を通過。

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・・・・・・・・・・・・南砂四丁目交差点からチョイトばかり北へ歩くと、明治通りが仙台堀川を越える処に「弾正橋跡」がある。、、、、「弾正橋」は大正時代に城東電機鉄道の鉄道橋として砂町運河に架設され、その後明治通りの道路整備に伴い、昭和5年に道路及び鉄道橋として鋼橋に生まれ変わった。 橋の名前の由来は、元々境川(葛西橋通り)に架っていた橋(境川交差点のところ)の名前だったが、大正13年(1924)からの震災復興事業のため境川が埋立てられて撤去されたことを惜しみつけられたもの。 今は、橋名板、レリーフを残すのみ。、、、、仙台堀川は「仙台堀川公園」として親水公園に生まれ変わってる。

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● 明治通りを北へ歩く、「清州橋通り」と交差する「境川交差点」に出る。

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・・・・・・・・・・・・交差点の近くに、「志演尊空神社(しのぶそんくうじんじゃ)」がある。、、、、志演神社は寛永元年(1624)に創建され、菅原道真の末裔の菅原長寛が稲荷神を勧請した。 その後、徳川綱吉が当社を参拝し「志演神社」と命名した。 その後、昭和31年(1956)になると、近くの尊空稲荷神社を合併し、社名は現在の志演尊空神社となる。、、、、歴史ある神社のようだ、しかし、歴史を感じさせるものが少ないね!

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・・・・・・・・・・・・志演尊空神社から一軒飛んで西隣に日蓮宗寺院「妙久寺」がある。、、、、妙久寺は天霊山と号す。 小湊誕生寺16世日領上人(慶安元年1648年寂)が寛永7年(1630)に創建したと伝えられている。、、、、こちらに、横綱:大鵬の墓があるそうだ。 手を合わせてきたかった!、、、、古くはないが木造の楼門が印象に残る寺。

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● 妙久寺の西側に「越中島貨物線」が通っている。 越中島貨物線は総武線小岩駅と越中島貨物駅を結ぶJR東日本の貨物支線である。 現在は平日に3往復の貨物列車が運行され、越中島の東京レールセンターにレールを運んでいる。、、、、妙久寺の北側にある複合商業施設「アリオ北砂」は、平成12年(2000)まで運営していたJR貨物の小名木川駅の跡地である。

・・・・・・・・・・・・妙久寺側から北を望む。、、、、写真右端のマンションの後ろに「アリオ北砂」がある。また手前の公園も小名木川駅の跡地である。 公園にはモニュメントとして小名木川駅の歴史を語る車輪が置かれている。 道路奥の線路が越中島貨物線。

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・・・・・・・・・・・・小名木川駅の建物が線路脇に残っている(写真中央) 現在は駅名を表示したものはなく、JR貨物の関係会社が使用中。 この建物は「小名木川駅統合詰所」であった。

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・・・・・・・・・・・・妙久寺の西側を越中島貨物線が通っているが、寺の横から南の越中島方面に線路に沿って「南砂線路公園」と名付けられた遊歩道がある。 運が良ければ一日3往復する貨物列車を見ることができるかも?

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● 越中島貨物線沿いに北へ向かうと小名木川に架かる「小名木川橋梁がある。、、、、小名木川橋梁は、可愛らしい白いトラス橋なのだが、今日は錆に汚れてチョイト可哀そう! 本橋梁は複線対応であるが、レール自体は単線のみの敷設されている。 鉄道省の設計、東京石川島造船所の橋桁製作により、昭和4年(1929)に竣工した。、、、、鉄道遺産でもあり、文化財に指定し保存してほしいね!

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● 再び明治通りを歩き、都営新宿線「西大島駅」に着いた。 今日の散歩はココまで! 帰ろ!

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2021年10月 3日 (日)

食用蛙供養塔?

長かった長かった、やっと解除です、待ちに待った緊急事態宣言が解除された! これで、自由になるかと思いきや、まだマスクを着用する、まだアクリル板越しに会食する、まだ他県への移動は自粛するなど、引き続きの感染対策が求められているのです。 でも、気持ちは緩み、行動もコロナ以前の状態に戻ってきたようだ!、、、、これから“秋”を堪能したいね!

今日は、都営新宿線一之江駅から東西線西葛西駅を目指して歩いたが、体力に余裕があり、葛西橋を渡り東西線南砂町駅まで歩いた。 1万6千歩。




● 日曜の早朝、ガラガラ電車で「一之江駅」に到着。 通勤・通学客もおらず、ホームも空き空き。、、、、今日は、一之江駅から南西方向に東西線の西葛西駅を目指し駅前を出発!

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● 一之江駅前の「環七通り」を南へ300m程歩くと「新大橋通り」との交差点がある。 この交差点から裏通りを西へしばらく歩く。

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・・・・・・・・・・・・二之江町で、地元のお年寄りによって、綺麗に清掃し整備された「一之江境川親水公園」に出た。 コイやカメが泳ぐ小川の両側が歩道となっている親水公園沿いに、南西に向かって歩く。

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● 一之江境川親水公園沿いの江戸川区船堀6丁目には、船堀日枝神社、光明寺、法龍寺の順に一社二寺が並んでいる。 チョイトお立ち寄り!

・・・・・・・・・・・・まずは「船堀日枝神社」に参拝。、、、、 旧船堀村東組の鎮守。 祭神は国常立尊、左右相殿に春日大明神と稲荷大明神を合祀している。 慶長19年(1614)、船堀新田開発の際に守護神として山王権現を祀ったのが始まりらしい。 別当寺は隣接の光明寺で、明治6年に日枝神社と改称しました。、、、、本殿脇には、旧船堀村の登山講の人たちが、明治25年(1892)に築いた、高さ約2mの「船堀の富士塚」がある。 この富士さんは誰れでも登山可能で、今だ遭難者はいないらしい!

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・・・・・・・・・・・・船堀日枝神社の隣りには、真言宗豊山派寺院の「光明寺」がある。、、、、光明寺は、稲香山横道院と号す。 光明寺は、覚仙上人が開山となり慶長19年(1614)に創建した。 当寺本尊の不動明王は、門前の道が横丁に入る通路となっていたことから、 「横道の不動様」とも呼ばれ、眼病に御利益があるといい、成田山へ向かう人も参詣したと言われているそうだ。(初めて聞いた!)

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・・・・・・・・・・・・光明寺の隣りは「法龍寺」、、、、浄土宗寺院の法龍寺は、幸雲山道観院と号す。 法龍寺は、幸蓮社雲誉道観法龍上人(元和2年1616年寂)が開山となり慶長年間に創建したという。、、、、古びた山門前には舟形の月日青面金剛三猿の庚申塔や、珍しい「食用蛙供養塔」(写真:右端)が建っていた。 食用蛙は昭和の初め頃から区内に生息し、蓮田や水田が多かったので、自然繁殖を続け、輸出するほど捕れたそうだ。 終戦後は蛙を捕え、加工業者に渡し、生計を保つものも現れ、供養塔は「東京都食用蛙組合」(こんな組合があったのか!)によって、昭和27年(1952)に建てられた大変珍しい供養塔。

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● 中川と旧江戸川を結ぶ人工河川(運河)の「新川(しんかわ)」を「新渡橋(しんわたりはし)」で越える。、、、、新川は桜の名所で、川沿いに「新川千本桜」が植えられている。 一度見てみたい!

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・・・・・・・・・・・・新川を渡ると「宇喜田町」に入る、、、、宇喜田町の町名が気になるね! そこで、チョイト由来を調べると、、、、“宇喜田”は、“田川兵衛新”を略したもので宇喜多秀家とは無縁である。 なお、江戸川区の隣り浦安市には、宇喜田姓が多くあり、浦安の宇喜田姓は、八丈島に流されていた秀家の子孫が、明治になって本土定住を許されて移り住んだ先だったそうだ!

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・・・・・・・・・・・・宇喜田町の南隣の北葛西に、都立宇喜田公園江戸川区立行船公園が広がっている。 どちらも広い敷地で、都立公園はスポーツ施設、区立公園は庭園と自然動物園を主体としており、コロナで疲れた若者、親子の多くが利用していた。

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・・・・・・・・・・・・公園を抜けると、西葛西駅までは約700m。 今日は、『まだ歩ける!』ので、予定変更し葛西橋を渡って南砂町駅まで歩くことにした!




葛西橋は荒川および中川にかかる橋で、都道10号東京浦安線と都道475号永代葛西橋線(葛西橋通り)を通す。、、、、旧葛西橋は昭和3年(1928)に架けられたが昭和25年(1950)に崩壊、その後、木製の橋が架けられたが、今の橋が出来ると解体された。、、、、現在の葛西橋は、橋長 727.4m、幅員15m、補剛ゲルバー桁(最大支間長142m)、総事業費は19億3200万円で昭和38年(1963)完成。

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● 葛西橋を渡ると、東西線「南砂町駅」は近い、、、、昭和44年(1969)3月29日に開業した、島式ホーム1面2線の地下駅。、、、、混雑度の高い東京メトロ東西線、その南砂町駅では、島式ホーム2面3線に改良する工事が進められている。 総事業費は300億円程が見込まれているそうだ。 完成すると、ホーム/線路が増え、朝の都心方面行の列車の運行がスムースにでき、混雑緩和、遅延防止が図られると言われている。、、、、まだ工事完了までの時間はかかるが、完成が待ち遠しい人も多いと思う!

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