江東区

2023年7月14日 (金)

東武亀戸線

朝の天気予報では、今日の東京は最高気温29℃で曇りであった。 『久しぶりの30℃割れ、しかも曇り空なら、熱中症の心配も薄らいだ。 ヨシ、歩いてくる!』と、自分に言い聞かせ、東武亀戸線の全駅制覇に出立。


東武亀戸線の歴史は ・・・・・・ 東京と関東北部を結ぶ東武鉄道は、明治30年(1897)に設立された。 当初、起点を東京湾に近い越中島とする予定で免許を申請したが、越中島~北千住間は審査に時間を要し、すぐには免許が下りなかった。 そこで、日本鉄道(現:JR常磐線)の北千住駅を起点に久喜駅までを東武鉄道の最初の区間として、明治32年(1899)に開業した。 明治35年(1902)には北千住駅から吾妻橋駅(後に浅草駅、業平橋駅と改称し、現在はとうきょうスカイツリー駅)まで延伸された。 越中島~北千住間の免許は明治32年(1899)に認可され、明治37年(1904)4月5日には、その一部である亀戸~曳舟間が開業した。 この開業と同時に、東武鉄道は総武鉄道(現:JR総武本線)亀戸~両国橋(現:両国)間へ乗り入れ、直通運転を行う。 また、東武鉄道の吾妻橋~曳舟間は廃止され、亀戸~曳舟間が本線格の扱いとなった。 明治40年(1907)乗り入れ先の総武鉄道が国有化されるが、引き続き東武鉄道の乗り入れは継続する。 東武鉄道は、ターミナルを開業当時の吾妻橋駅に戻すことになり、明治41年(1908)に吾妻橋~曳舟間が貨物線として再開する。 明治43年(1910)3月に吾妻橋駅を浅草駅に改称、そして浅草~曳舟間の旅客営業を再開。 これにて、亀戸~曳舟間は支線となる。 また、同年8月には、亀戸~越中島間の免許は失効した。



・・・・・・・・・・ 今日は東武鉄道亀戸線(全長3.4km)に、廃止、統合、現営業中を含め、10駅が存在した。 起点の曳舟駅から終点の亀戸駅まで全駅を歩いて来たので、順に紹介する。



曳舟駅 ・・・・・ 曳舟駅は明治35年(1902)4月1日、吾妻橋~北千住間開業時にできた駅。 明治37年(1904)4月5日、亀戸~曳舟間が開業。、、、、現在は東武伊勢崎線、亀戸線の停車場で、ホームは高架複合式3面5線構造。 伊勢崎線が発着する1~4番線(島式ホーム2面)と、亀戸線が発着する5番線(短い片面ホームが1面)から成っている。 2両編成の亀戸線が10分間隔で運行している。 通勤通学客で満員だ!

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・・・・・・・・・・ 亀戸線の使用車両は、8000系が中心。 昭和30年代の塗装を再現したリバイバルカラーとして朱色や緑色に塗られたものも存在し、来る列車、来る列車毎に色が変わる。

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虎橋通駅跡 ・・・・・ 現存の曳舟駅と小村井駅の間に、かつては虎橋通駅(とらばしどおりえき )と十間橋通駅(じゅっけんばしどおりえき)があった。 その一つ、虎橋通駅は墨田区京島2の住宅と線路の間の狭い処にあった。 開業は昭和3年(1928)4月15日、廃止は昭和20年(1945)3月10日である。、、、、駅跡に何か残ってないか? キョロキョロ探すと、線路脇に並ぶコンクリート土台(?)跡があった。 おそらく70数年前に廃止となったホームの基礎部分であったと思う。 

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十間橋通駅跡 ・・・・・ 次は、
十間橋通駅(じゅっけんばしどおりえき)の跡。 駅は、十間橋通と交差する踏切の北側(墨田区京島2)の線路脇にあった。 下町の元気な商店街:キラキラ橘商店街の入口に近い処だ! 開業は昭和3年(1928)4月15日、廃止は昭和33年(1958)10月22日である。、、、、線路脇には曳舟起点9㎞ポストがあった。 その周囲のバラストの中にコンクリート構造物が見える、ここもホームの基礎部分が埋まっているのか?

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天神駅跡 ・・・・・ 曳舟駅、虎橋通駅跡、十間通駅跡とみて、次は、小村井駅の手前にある天神駅跡を探す。、、、、天神駅(てんじんえき)は、かつて東京都墨田区文化に存在した亀戸線の廃駅。 天神駅は、明治37年(1904)4月5日に開業し、昭和32年(1957)5月20日に廃止された。、、、、曳舟たから通りに面する「
iU 情報経営イノベーション専門職大学(墨田区文化1)」の建物の東側あたりに天神駅はあったと思われる。 この付近の線路敷きは、気持ち分だけ幅広になっており、ここに駅があったのかも(?) 線路敷きの両側は建物が並んでおり、線路内に立ち入って詳細に見ることはできず諦める。、、、、駅名の“天神”は亀戸天神のことだが、ここから亀戸天神までは1㎞以上あり、歩いて20分はかかるであろう。

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小村井駅 ・・・・・ 曳舟駅から1.4㎞にある小村井駅(おむらいえき)は、相対式ホーム2面2線を有する地上駅。 駅舎は曳舟方面ホームの東あずま寄りにあり、上下線ホーム間を連絡する地下通路が設置されている。 開業は昭和3年(1928)4月15日、、、、都会の中の小さな駅で、“ローカル”、“昭和レトロ”、“のんびり”などの言葉が合う駅だ! 駅名はチョイト読みづらいかな?

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東あずま駅・・・・・小村井駅の次は東あずま駅。 駅名は付近一帯がかつて吾嬬町(あづまちょう)だったことに由来し、周辺の東吾嬬小学校、第一吾嬬小学校などの学校や吾嬬神社にその地名が残っている。 本来は「東あづま」と表記すべきところ「東あずま」となった。 その理由は不明だが、たぶん誰かが“づ”を“ず”と間違えたのだろう!、、、、昭和3年(1928)4月15日 、平井街道駅として開業。 昭和20年(1945)5月20日、平井街道駅廃止。 昭和31年(1956)5月20日、東あずま駅として再開業、、、、相対式ホーム2面2線を有する地上駅。 駅舎は丸八通り(=都道476号)に面す、各ホーム間の連絡は構内踏切を利用。

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北十間駅跡 ・・・・・ 曳舟から亀戸へ向かい北十間川を越えた所(橋の南詰)、マンション脇のチョイ広の線路敷きに北十間駅があったと思われる(?) 開業は昭和3年(1928)4月15日、廃止は昭和21年(1946)12月5日。 70数年前の廃駅は何も残っていないようだ! 

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亀戸水神駅 ・・・・・ 現在の亀戸水神駅は北十間駅と旧亀戸水神駅を統合して、両駅の中間に昭和21年12月5日に移転した。、、、、“亀戸水神”は“亀戸天神”と紛らわしいが、全く別物で
駅の西方にある亀戸水神宮に由来する駅である。 お間違いなきよう!、、、、相対式ホーム2面2線の地上駅。 ホーム間には構内踏切あり。

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旧亀戸水神駅跡 ・・・・・ 亀戸へ向かう電車は、亀戸水神駅を出て右に大きくカーブする、そのカーブ地点の線路脇にキレイに並ぶコンクリート造の遺構がある。、、、、旧亀戸水神駅は昭和
3年(1928)4月15日に開業。 昭和20年には戦災を受け、昭和21年(1946)12月5日に北十間駅と統合し、現在の亀戸水神駅へ移転した。

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亀戸駅 ・・・・・ そして亀戸線の終点は亀戸駅。、、、、島式ホーム1面2線を有する地上駅。 改札は駅ビル「アトレ亀戸」内にある。 ちょこっとスロープを上ればホーム。 この構造はまさに都会のローカル線!

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● 東武鉄道亀戸線はコチラも見てね!・・・・・・・・・・ 昼の亀戸線(1918/6/25) ・・・・ 夜の亀戸線(1920/8/17)

 

 

● 東武鉄道亀戸線の全駅を歩いた、1万2千歩。 時刻は10時だが、すでに全身は汗でビショビショ。 やはり、真夏の散歩はチョイト、キツイね!

2023年4月20日 (木)

藤まつり

昼から妻と、「藤まつり」の亀戸天神に行ってきた。 亀戸天神の境内には約50株以上の藤の木があり、一斉に咲いた景色は素晴らし、都会の中の藤の名所である。 今日は、天気は上々、花は満開、人出はまあまあ、絶好の花見だ!、、、、みなさん、写真撮影で忙しそう!

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・・・・・・・・・・ 花見のあとは、甘味処でクリームみつ豆でひと休み。

2021年10月 7日 (木)

浅草橋へ戻る

今日の散歩は西大島駅から浅草橋の我が家まで、1万3千歩です。




● 都営新宿線「西大島駅」は、昭和53年(1978)12月21日、新宿線の最初の開業区間である岩本町~東大島間の開業時に設けられた駅である。、、、、西大島駅は、地下1階がコンコース・改札口、地下2階が島式ホーム1面2線の地下駅である。 一日の乗降者数は、コロナ禍の昨年実績で2万人強で多くはないが、来る電車は満員でここから通勤する人は座れないね!

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・・・・・・・・・・・・西大島駅出口前の植え込みに「五百羅漢跡」の石柱が建っている、、、、横断歩道脇の植込みに石柱が建っている。碑の両側面と裏面には、『元禄八年この付近に黄檗宗松雲禅師作の羅漢像五百体を安置する広壮な羅漢寺が創立せられ五百らかんという名所として知られてきたが羅漢寺は明治二十年に墨田区へさらに同四十二年目黒区へ移転したが、なお当時の羅漢像の多くを残している 昭和三十三年十月一日 江東区第18号』と記されている。、、、、ここは、目黒の羅漢寺があった処、五百羅漢像も目黒へ引っ越した!

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・・・・・・・・・・・・駅前の新大橋通りを挟み石柱の前に、オヤ!「羅漢禅寺」がある、、、、明治38年(1905)に都下氷川村に曹洞宗祥安寺として創立、昭和11年(1936)現在地(江東区大島3)に移転してきて、元あった羅漢寺を名乗ったもので、五百羅漢寺とは関係がない。 『チョイトお名前拝借か!』

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● 西大島駅前の「新大橋通り」を西へ歩く、、、、駅前で交差する明治通りを北へ歩けば亀戸駅に出る。

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・・・・・・・・・・・・越中島貨物線の「幹線29号架道橋」の下を西へ、、、、架道橋の設置年代は不明だが、貨物線の開通は昭和4年(1929)なのでその近辺か?

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・・・・・・・・・・・・ 「本村橋」は新大橋通りを通し、東詰めの江東区大島と西詰の江東区毛利・住吉を結び横十間川に架かる橋。 昭和4年に初代の本村橋が震災復興橋として架けられ、三代目の現橋は昭和52年(1977)に架替られた。、、、、橋の上からはスカイツリーが良く見える。

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●  本村橋の西側に広がる「猿江恩賜公園」の中をブラブラ、、、、猿江恩賜公園は、その名のごとく江東区猿江にある都立公園。 開園は昭和7年(1932 と古く、昔から貴重な緑地として周辺住民に知られていた。 元々この地は、江戸時代から続く徳川幕府による貯木場であった。 その後、明治政府御用達の貯木場になり、関東大震災後その一部が埋め立てられ「猿江恩賜公園」となった。 公園の北側の地区は、戦後しばらく貯木場として使用されていたが、貯木場は江東区潮見に移転し、昭和56年(1981)に追加開園した。、、、、広い公園で都会のオアシス! 今日はのんびりと公園を通り抜ける。

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● 猿江恩賜公園を抜けるとJR錦糸町駅までは600m程、近い!、、、、錦糸町駅・京葉道路の南側、場外馬券売り場の裏に、小さな寺、天台宗の五徳山江東寺がある。 江東寺は、昭和15年(1940)に坂東16番札所水澤観世音(伊香保町)の別院として創建された。 本尊は千手観世音で、境内には清昌稲荷、出世弁財天、水洗観音、地蔵尊、馬頭観音、戦災慰霊碑など、いろいろと祀られている。、、、、本堂は昭和55年(1980)に鉄筋コンクリート造で再建された。

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● 錦糸町駅前からは京葉道路(=国道14号)を歩く。 この道は、両国を通り浅草橋まで一直線。、、、、これより先は、歩く方向は逆さまだけど、こっち見て!

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● 両国橋を渡り、柳橋を渡ると台東区にはいる。 もう地元だ!

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・・・・・・・・・・・・地元でも、“知ってるようで 知らない 隣の家”、、、、柳橋の町に小さな古本屋「古書 みつけ」が、明日(10/8)オープンするようだ! 浅草橋(柳橋の隣り町)に生まれ育って70余年、柳橋に可愛らしい本屋ができるのは初めて、びっくりしたけど、多いに期待しよう!

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・・・・・・・・・・・・「浅草橋駅」に到着、、、、駅から我が家は300m、『ただいま!』

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2021年10月 5日 (火)

今はなき小名木川駅

東西線南砂町駅から明治通り沿いの裏道にチョコチョコ入り、北へ向かって都営新宿線西大島駅まで、1万3千歩の散歩です。




● 東西線「南砂町駅」は昭和44年(1969)に営団地下鉄東西線東陽町~西船橋間延伸時に開業した。、、、、当時、ホームがある位置には洲崎川という運河があり、南砂町駅は洲崎川の川底にトンネルを沈め、トンネル内にホームを造ることとなった。 トンネルは、陸上で13個に分割して作った鉄筋コンクリート製のトンネル筐体を川底に沈め、さらにトンネル筐体の下部を掘削して地中に沈め込む「ケーソン工法」にて建設された。 川底の軟弱地盤に造られた駅・ホームは狭い空間で、1面2線の島式ホーム両端に1か所ずつ改札口(出口)があるのみだった。、、、、開業後50年を経過した現在、乗降客も増え駅構内の混雑も激しく、ホームの拡張が求められてきた。 そこで、現在のホームの隣りに、島式ホームを増設し、2面3線の島式ホーム構造に改良することとなった。 現在のホーム前の壁の向こうでは新しいホームが造られているそうだ。 工事の完成はまだ数年先となるらしい。 (注:現在は洲崎川は埋め立てられ道路に変わっている)

・・・・・・・・・・・・朝、西船橋方面に向かう列車は空いている、都心に向かう列車は混んでいる。

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・・・・・・・・・・・・ホーム前の壁はコンクリートがむき出しとなり、その壁の向こう側では新ホームを増設中。

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・・・・・・・・・・・・3機の自動改札がある西側の改札口。 その先、地上への出口は1か所のみ。 出口を出ると、そこは工事現場の中!

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● 南砂町駅を出て、「永代通り」と「明治通り」が交差する「日曹橋交差点」から、明治通り沿いに北上する。

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・・・・・・・・・・・・明治通りの東側(南砂3)に7棟の集合住宅一列に並んだ、総戸数175戸の「都営南砂3丁目第2アパート」がある。 この向かい側に小ぢんまりしたお稲荷さん「仙気稲荷大明神」がある。、、、、仙気稲荷大明神は江戸百稲荷の一つで、江戸時代から「砂村疝気(せんき)稲荷」として名高く参詣者が多く繁栄していた。 砂村稲荷神社は、昭和20年(1945)の米軍の無差別空爆により全焼、その後仮社殿が建てられたものの、昭和42年に千葉県習志野市谷津に移転した。 神社の跡地には都営住宅が建てられ、その一隅に昔の名前を留める小祠が仙気稲荷大明神だ。、、、、大明神は文化文政の頃から、“疝気”という、大小腸・子宮などの下腹部が痛む病気に、霊験あらたかだった。 現代は、胃腸の痛みにはラッパのマークの『正露丸』(我が家の常備薬)

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● 仙気稲荷大明神から北へ約250m、「葛西橋通り」と「明治通り」が交差する「南砂四丁目交差点」を通過。

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・・・・・・・・・・・・南砂四丁目交差点からチョイトばかり北へ歩くと、明治通りが仙台堀川を越える処に「弾正橋跡」がある。、、、、「弾正橋」は大正時代に城東電機鉄道の鉄道橋として砂町運河に架設され、その後明治通りの道路整備に伴い、昭和5年に道路及び鉄道橋として鋼橋に生まれ変わった。 橋の名前の由来は、元々境川(葛西橋通り)に架っていた橋(境川交差点のところ)の名前だったが、大正13年(1924)からの震災復興事業のため境川が埋立てられて撤去されたことを惜しみつけられたもの。 今は、橋名板、レリーフを残すのみ。、、、、仙台堀川は「仙台堀川公園」として親水公園に生まれ変わってる。

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● 明治通りを北へ歩く、「清州橋通り」と交差する「境川交差点」に出る。

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・・・・・・・・・・・・交差点の近くに、「志演尊空神社(しのぶそんくうじんじゃ)」がある。、、、、志演神社は寛永元年(1624)に創建され、菅原道真の末裔の菅原長寛が稲荷神を勧請した。 その後、徳川綱吉が当社を参拝し「志演神社」と命名した。 その後、昭和31年(1956)になると、近くの尊空稲荷神社を合併し、社名は現在の志演尊空神社となる。、、、、歴史ある神社のようだ、しかし、歴史を感じさせるものが少ないね!

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・・・・・・・・・・・・志演尊空神社から一軒飛んで西隣に日蓮宗寺院「妙久寺」がある。、、、、妙久寺は天霊山と号す。 小湊誕生寺16世日領上人(慶安元年1648年寂)が寛永7年(1630)に創建したと伝えられている。、、、、こちらに、横綱:大鵬の墓があるそうだ。 手を合わせてきたかった!、、、、古くはないが木造の楼門が印象に残る寺。

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● 妙久寺の西側に「越中島貨物線」が通っている。 越中島貨物線は総武線小岩駅と越中島貨物駅を結ぶJR東日本の貨物支線である。 現在は平日に3往復の貨物列車が運行され、越中島の東京レールセンターにレールを運んでいる。、、、、妙久寺の北側にある複合商業施設「アリオ北砂」は、平成12年(2000)まで運営していたJR貨物の小名木川駅の跡地である。

・・・・・・・・・・・・妙久寺側から北を望む。、、、、写真右端のマンションの後ろに「アリオ北砂」がある。また手前の公園も小名木川駅の跡地である。 公園にはモニュメントとして小名木川駅の歴史を語る車輪が置かれている。 道路奥の線路が越中島貨物線。

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・・・・・・・・・・・・小名木川駅の建物が線路脇に残っている(写真中央) 現在は駅名を表示したものはなく、JR貨物の関係会社が使用中。 この建物は「小名木川駅統合詰所」であった。

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・・・・・・・・・・・・妙久寺の西側を越中島貨物線が通っているが、寺の横から南の越中島方面に線路に沿って「南砂線路公園」と名付けられた遊歩道がある。 運が良ければ一日3往復する貨物列車を見ることができるかも?

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● 越中島貨物線沿いに北へ向かうと小名木川に架かる「小名木川橋梁がある。、、、、小名木川橋梁は、可愛らしい白いトラス橋なのだが、今日は錆に汚れてチョイト可哀そう! 本橋梁は複線対応であるが、レール自体は単線のみの敷設されている。 鉄道省の設計、東京石川島造船所の橋桁製作により、昭和4年(1929)に竣工した。、、、、鉄道遺産でもあり、文化財に指定し保存してほしいね!

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● 再び明治通りを歩き、都営新宿線「西大島駅」に着いた。 今日の散歩はココまで! 帰ろ!

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2021年10月 3日 (日)

食用蛙供養塔?

長かった長かった、やっと解除です、待ちに待った緊急事態宣言が解除された! これで、自由になるかと思いきや、まだマスクを着用する、まだアクリル板越しに会食する、まだ他県への移動は自粛するなど、引き続きの感染対策が求められているのです。 でも、気持ちは緩み、行動もコロナ以前の状態に戻ってきたようだ!、、、、これから“秋”を堪能したいね!

今日は、都営新宿線一之江駅から東西線西葛西駅を目指して歩いたが、体力に余裕があり、葛西橋を渡り東西線南砂町駅まで歩いた。 1万6千歩。




● 日曜の早朝、ガラガラ電車で「一之江駅」に到着。 通勤・通学客もおらず、ホームも空き空き。、、、、今日は、一之江駅から南西方向に東西線の西葛西駅を目指し駅前を出発!

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● 一之江駅前の「環七通り」を南へ300m程歩くと「新大橋通り」との交差点がある。 この交差点から裏通りを西へしばらく歩く。

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・・・・・・・・・・・・二之江町で、地元のお年寄りによって、綺麗に清掃し整備された「一之江境川親水公園」に出た。 コイやカメが泳ぐ小川の両側が歩道となっている親水公園沿いに、南西に向かって歩く。

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● 一之江境川親水公園沿いの江戸川区船堀6丁目には、船堀日枝神社、光明寺、法龍寺の順に一社二寺が並んでいる。 チョイトお立ち寄り!

・・・・・・・・・・・・まずは「船堀日枝神社」に参拝。、、、、 旧船堀村東組の鎮守。 祭神は国常立尊、左右相殿に春日大明神と稲荷大明神を合祀している。 慶長19年(1614)、船堀新田開発の際に守護神として山王権現を祀ったのが始まりらしい。 別当寺は隣接の光明寺で、明治6年に日枝神社と改称しました。、、、、本殿脇には、旧船堀村の登山講の人たちが、明治25年(1892)に築いた、高さ約2mの「船堀の富士塚」がある。 この富士さんは誰れでも登山可能で、今だ遭難者はいないらしい!

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・・・・・・・・・・・・船堀日枝神社の隣りには、真言宗豊山派寺院の「光明寺」がある。、、、、光明寺は、稲香山横道院と号す。 光明寺は、覚仙上人が開山となり慶長19年(1614)に創建した。 当寺本尊の不動明王は、門前の道が横丁に入る通路となっていたことから、 「横道の不動様」とも呼ばれ、眼病に御利益があるといい、成田山へ向かう人も参詣したと言われているそうだ。(初めて聞いた!)

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・・・・・・・・・・・・光明寺の隣りは「法龍寺」、、、、浄土宗寺院の法龍寺は、幸雲山道観院と号す。 法龍寺は、幸蓮社雲誉道観法龍上人(元和2年1616年寂)が開山となり慶長年間に創建したという。、、、、古びた山門前には舟形の月日青面金剛三猿の庚申塔や、珍しい「食用蛙供養塔」(写真:右端)が建っていた。 食用蛙は昭和の初め頃から区内に生息し、蓮田や水田が多かったので、自然繁殖を続け、輸出するほど捕れたそうだ。 終戦後は蛙を捕え、加工業者に渡し、生計を保つものも現れ、供養塔は「東京都食用蛙組合」(こんな組合があったのか!)によって、昭和27年(1952)に建てられた大変珍しい供養塔。

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● 中川と旧江戸川を結ぶ人工河川(運河)の「新川(しんかわ)」を「新渡橋(しんわたりはし)」で越える。、、、、新川は桜の名所で、川沿いに「新川千本桜」が植えられている。 一度見てみたい!

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・・・・・・・・・・・・新川を渡ると「宇喜田町」に入る、、、、宇喜田町の町名が気になるね! そこで、チョイト由来を調べると、、、、“宇喜田”は、“田川兵衛新”を略したもので宇喜多秀家とは無縁である。 なお、江戸川区の隣り浦安市には、宇喜田姓が多くあり、浦安の宇喜田姓は、八丈島に流されていた秀家の子孫が、明治になって本土定住を許されて移り住んだ先だったそうだ!

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・・・・・・・・・・・・宇喜田町の南隣の北葛西に、都立宇喜田公園江戸川区立行船公園が広がっている。 どちらも広い敷地で、都立公園はスポーツ施設、区立公園は庭園と自然動物園を主体としており、コロナで疲れた若者、親子の多くが利用していた。

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・・・・・・・・・・・・公園を抜けると、西葛西駅までは約700m。 今日は、『まだ歩ける!』ので、予定変更し葛西橋を渡って南砂町駅まで歩くことにした!




葛西橋は荒川および中川にかかる橋で、都道10号東京浦安線と都道475号永代葛西橋線(葛西橋通り)を通す。、、、、旧葛西橋は昭和3年(1928)に架けられたが昭和25年(1950)に崩壊、その後、木製の橋が架けられたが、今の橋が出来ると解体された。、、、、現在の葛西橋は、橋長 727.4m、幅員15m、補剛ゲルバー桁(最大支間長142m)、総事業費は19億3200万円で昭和38年(1963)完成。

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● 葛西橋を渡ると、東西線「南砂町駅」は近い、、、、昭和44年(1969)3月29日に開業した、島式ホーム1面2線の地下駅。、、、、混雑度の高い東京メトロ東西線、その南砂町駅では、島式ホーム2面3線に改良する工事が進められている。 総事業費は300億円程が見込まれているそうだ。 完成すると、ホーム/線路が増え、朝の都心方面行の列車の運行がスムースにでき、混雑緩和、遅延防止が図られると言われている。、、、、まだ工事完了までの時間はかかるが、完成が待ち遠しい人も多いと思う!

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2021年5月29日 (土)

23区内最小の客数

予約しました 待つ日が長い 早く刺してよ 長い針、、、、まだワクチン接種していないので、不要不急の外出避けて、チョイト内緒で散歩する。

土曜の今日は電車もすいてるので、都営浅草線宝町駅から八丁堀、中央大橋(隅田川)、佃島、相生橋(隅田川)、東京海洋大学をとおり、JR京葉線越中島駅まで歩いてきた。 1万1千歩




● 前は東銀座、後ろは日本橋、中に挟まる「宝町駅」。 オフィス街の駅だが、今日は土曜日で、さらに在宅勤務もあり、乗降する人は少ない。、、、、改札から地上に出るまで、100段くらいありそうな真直ぐな階段を上る、息はゼイゼイ、辛い!!

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鍛冶橋通りを八丁堀へ向かう。

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・・・・・・・・・・・・頭上にも足下にも首都高、首都高に上下を挟まれた「弾正橋(だんじょう ばし)」。、、、、橋名の由来は、ここに江戸町奉行:島田弾正の屋敷があったことによる。、、、、明治時代まで、弾正橋は木橋であった。 明治11年(1878)、弾正橋は鉄橋に架け替えられることになった。 それが、我が国初の国産鉄骨橋梁で、当時の工部省赤羽製作所が製作した、全長 15.2m、全幅 3.0m の小さなトラス鉄橋であった。 しかし、これが日本の近代工業化の始まりを告げる橋となった。 その鉄橋は、深川富岡八幡宮の東側の遊歩道に、八幡橋と名を変え現存する。、、、、現在の弾正橋は、大正15年(1926)に鍛冶橋通りの拡幅開通に伴って架設された。

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・・・・・・・・・・・・中央区八丁堀の桜橋交差点角に立つビル(現在は小諸そば店)。 昭和5年(1930)の建築。 さりげなく静かに残っているという感じのシンプルなビル。 戦前は「櫻橋ビル」、戦後は「石井電気店」であった。

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・・・・・・・・・・・・こちらは、八丁堀3丁目に残る関東大震災の復興小学校である「旧東京市京華尋常小学校」。(ちなみに、雅万歩が卒業した「京華中学・高等学校」(文京区)とは無縁)、、、、曲面構造が印象的な建物で、昭和4年(1929)完成、設計は東京市、施工は銭高組。 現在は、「京華スクエア」として、早稲田大学の社会人学校になっている。、、、、捕物帖に登場する八丁堀の与力・同心が住んでいたのはこのあたりである。

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● 地名となった「八丁堀」は何処にある?、、、、残念ながら、昭和の時代(60年頃)に八丁堀と称していた桜川が全て埋め立てられ、その堀跡の一部は「桜川公園」となった。 公園に立つと、若干、周囲の道路面より低く、『ここに堀があったのだ!』と偲ばれる。

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・・・・・・・・・・・・桜川公園の片隅に「入一観音菩薩・入一地蔵菩薩」がある、、、、“入一”とは、現地名の“入船一丁目”の略であろう。 三体の内のどれかは不明だが、この内の一体は、ここにあった桜川を埋め立てた際に、廃仏毀釈で川に投げ込まれたものらしい。 その川底から出土した石仏だ。 現在管理は町内会で行っているそうだ。

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● 「南高橋」で亀島川を越え、西へ向かうと「中央大橋」を渡り、隅田川を越えて佃島に入る。

・・・・・・・・・・・・南高橋、、、、明治37年(1904)に架けられた旧両国橋の中央径間を転用した橋。 土木学会選奨の土木遺産。

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・・・・・・・・・・・・中央大橋は、平成5年(1993)8月26日(レインボーブリッジと同じ日)に竣工した、橋長 210.7m、幅員 25.0mの二径間連続鋼斜張橋。 設計はフランスの会社で、デザインには日本の「兜」を意識した特徴的な意匠が施されている。 橋桁製作は石川島播磨重工業横浜工場。、、、、白い主塔のデザイン、シンプルで良いね!

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佃島では、島の東側に並ぶタワーマンションの下を歩き、「相生橋」で隅田川を渡り、越中島に向かう。

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・・・・・・・・・・・・相生橋、、、、、中央区佃と江東区越中島を結ぶ相生橋(あいおいばし)は、明治36年(1903)に架けられた。 大正8年、大正12年、大正15年と連続的に改修された。 しかし、その後の老朽化により、平成10年(1998)に現在の橋長 149.1m、幅員 22.0m、3径間鋼トラス桁橋の相生橋に架け替えられた。、、、、武骨なトラスで、一見して頑丈そうな橋である。

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・・・・・・・・・・・・相生橋を渡り、「東京海洋大学 越中島キャンパス」(旧東京商船大学)の前に出るが、コロナ禍によりよそ者の構内立入禁止! 残念だが、正門前を素通り。

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● 東京海洋大学越中島キャンパスを真中で二分割するように「越中島通り」があり、その地下にJR京葉線の「越中島駅」がある。、、、、ホームは島式1面2線構造で、地下2階にある。 改札口は1ヶ所のみで地下1階にある。 3ヶ所の出口はいずれも、大学キャンパスの前であり、なんとなく大学専用の駅という雰囲気だ!、、、、駅周辺には大学以外は目立った施設もなく、さらに近くには便利な門前仲町駅・月島駅・豊洲駅があるため、東京海洋大学専用駅で『お客様の大半は学生』と思える。 令和元年(2019)度の1日平均乗車人員は5,910人である。 東京23区のJR駅の中では最も利用客数が少ない駅である。 もちろん、駅には売店なし!(自販機はあった!) 

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2021年5月15日 (土)

蔵前橋通りを東へ

“コロナ自粛”で散歩の機会は減り、足は退化、腹は肥大、脳は劣化、家でゴロゴロ、身体に良いわきゃナイヨ!、、、、今日は、我が家から「蔵前橋通り」を東へ、ひたすら歩いてみた。 しかし、新小岩で足が痛み、散歩はココまで! (1万5千歩、8km)

・・・・・・・・・・・・蔵前橋通りは文京区の湯島から、千代田区、台東区、墨田区、江東区、葛飾区を経由し、江戸川区の市川橋手前の国道14号(千葉街道)との交差点までの都道315号の通称。 JR総武線の北側に並行して通っている。




● 我が家(浅草橋)から徒歩2分程で、「蔵前橋通り」に面して鎮座する鳥越神社に出る。 ここから今日の散歩が始まる。、、、、何か良いめぐり逢いでもあるように祈願し、散歩に出発!

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・・・・・・・・・・・・神社の境内一隅に、こんな石碑がある。 正面に「土地区画整理測量基本標」と刻まれた、オベリスク型形の石塔。 側面には、この地点の緯度・経度「東經 百三十九度四十一分十九秒九一 北緯 三十五度四十一分三十六秒〇二」が刻まれていた。 また、反対側の側面には、大正12年に発生した関東大震災の後の土地区画整理のために置かれた旨が刻まれていた。 この石碑を起点に、土地区画整理事業が進められたようだ。 ちなみに、蔵前橋通りは関東大震災後に整備された幹線道路である。

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● 蔵前警察署前を通過し、蔵前橋を渡り、墨田区に入ると、東京都慰霊堂(震災記念堂)のある横網町公園。、、、、元気よく、スタコラサッサと通り過ぎていく!

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● 今は暗渠化され親水公園となった大横川に架かる「法恩寺橋」(大正14年(1925)架橋)を渡る。、、、、橋の先には、橋名となった法恩寺への参道がある。 スカイツリーを背にして参道正面に本堂が見える。、、、、四ツ目通りとの交差点には、オリナスという超高層ビルがある。 オフィスとレジデンス、商業施設からなる複合施設で、元々ここには、時計のセイコー(精工舎)の工場が明治26年(1893)から平成9年(1997)まで、100年以上あった。 最盛期には従業員約3,000人が働いていたそうだ。

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横十間川天神橋で渡り、墨田区から江東区に入る。、、、、亀戸天神の参道を横に見ながら通過。、、、、明治通りとの交差点も通過。 チョイト暑くなったきた。 上着を脱ぎたい、邪魔だ!、、、、東武亀戸線を越える。

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旧中川に架かる「江東新橋」を渡り、江東区から江戸川区に入る。、、、、蔵前橋通りは、JR総武線平井駅前を抜けて、平井大橋に向かう。、、、、この辺で、コロナで体力が落ちた私の足が痛みだす。 『散歩を平井で止めるか、もう少し歩くか、それが問題だ!』自問自答しながら、前を歩く可愛い娘につられ平井駅を通り過ぎる!

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荒川に架かる「平井大橋」、手前は江戸川区平井、対岸は葛飾区西新小岩。、、、、江戸川区側の河川敷にはポピーが真っ赤な花を咲かせてる。 痛い足で河川敷に降り、花を見ながらしばし休憩!

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・・・・・・・・・・・・平井大橋を渡ると、新小岩駅に近い「新小岩陸橋」がある。、、、、足が痛い、今日はココまで! 駅に向かう。

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新小岩駅に到着!、、、、駅前は賑やかだ! “密”を避けて電車に乗ろう!

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2020年12月17日 (木)

コロナ避けて平井まで

“3密”を避け、浅草橋の我が家から、歩く人も少ない「蔵前橋通り」を東へ歩きJR総武線の平井駅まで、1万4千歩の散歩です。

・・・・・・・・・・・・・「蔵前橋通り」は、文京区本郷の順天堂病院の北で国道17号(本郷通り)から東に伸び、末広町交差点、蔵前橋、亀戸天神の前を通り、旧中川、荒川を渡って、江戸川区西小岩1丁目で奥戸街道に接続する路線。 その先、奥戸街道をそのまま進むと、市川橋の手前で国道14号(千葉街道)に接続する。 今日、散歩した鳥越神社前から平井駅前まで(約5.5km)は、都道315号御徒町小岩線の一部である。




● 我が家から北に歩いて4分程で、蔵前橋通りに面する「鳥越神社」前に出る。 “道中の無事”と“コロナ撲滅”を願い手を合わせる。 どうも、“コロナ撲滅”の願いは、賽銭が少ないのか、いつまで経っても願いは叶わない!

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● 蔵前一丁目交差点で江戸通りを横断し、家を出発して25分経過、蔵前橋を渡り墨田区に入る。、、、、隅田川の空は晴天、風はなし、気温は寒し、私の懐も寒し!

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● 蔵前橋を渡ったら、チョイト、震災・戦災の犠牲者を悼む東京都慰霊堂にお立ち寄り。、、、、ついでに、厠にもお立ち寄り、冷えると回数も多くなるんです! いずれは、オムツのお世話になりそうだ!

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●東京都慰霊堂前の清澄通り、冷え冷えの寒さの中、小学生が集団登校する。 時刻は朝8時、20人程の元気な子供たちだ!

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● 蔵前橋通りは錦糸町の町の手前で、大横川に架かる法恩寺橋を越える。、、、、現在、大横川は暗渠化され川底は親水公園となっているが、大正14年(1925)に竣工した震災復興橋の法恩寺橋は健在である。、、、、橋長32.8mのアーチ型ラーメン橋台付き鋼桁橋

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・・・・・・・・・・・・法恩寺橋を渡ると、橋名となった日蓮宗の寺院「平河山法恩寺」がある。、、、、法恩寺は長禄2年(1458)大田道灌が江戸城を築城時、丑寅の方角に城内鎮護の祈願所として建立された。 境内には、大田道灌の墓や平河清水稲荷大明神、鐘楼三重塔などがある。 現住所の“太平”は、太田道灌と平河山法恩寺の頭文字から命名された。 蔵前橋通りから入る参道沿いには、4か寺の子院が並んでいる。、、、、本堂の後ろからは、日蓮上人に変わりスカイツリーが参拝人を見下ろしているような寺だ!

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● スカイツリーを正面に見る「タワービュー通り」、錦糸町駅前を通る「四ツ目通り」を過ぎ、横十間川に架かる「天神橋」(橋を渡ると江東区)を渡り、亀戸天神にも寄って行く。、、、、学問の神様:天神さまに、是が非でも年末ジャンボ一等当選が叶うよう手を合わせてきた。 これで、年明けには億万長者になっているかも? その折はブログ『雅万歩』は静かに終わり、私はヨーロッパ旅行で長期不在。

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● 「明治通り」との交差点を過ぎ、東武亀戸線の線路を越えると、旧中川に架かる「江東新橋」を渡る。 橋を渡れば江戸川区なり!、、、、江東新橋の下流250m程には、並行するJR総武線の橋梁が見える。

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● 江東新橋を渡ると平井駅は近い。 “3密”を避けて、鳥越神社前から歩いてきたが、「平井駅出口交差点」で蔵前橋通りから外れ、駅に向かう。、、、、駅も、電車も、空いている。 今日も、コロナに感染せずにすんだようだ!

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2020年10月27日 (火)

六地蔵の六番目?

江戸六地蔵は、深川の地蔵坊正元が病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したため、京都の六地蔵に倣って造立したものである。 宝永3年(1706)に発願し江戸市中から広く寄進者を得て、江戸の出入口6箇所に丈六の地蔵菩薩坐像を造立した。 一番(品川寺、東海道)から、五番(霊巌寺、水戸街道)までは現存するが、六番(永代寺、千葉街道)は明治元年の廃仏毀釈により、像は壊され、寺は廃寺となり、この世から“永代寺”は消えた。 28年後の明治29年(1896)、永代寺塔頭であった吉祥院が永代寺の名称を継ぎ、寺を再興し現在に至っている。・・・・・・今日は、妻と共に、かつての永代寺を偲び、深川公園、深川不動堂、富岡八幡宮の界隈を歩き回ってきた。 7千歩の散歩(妻と一緒の為、昼食・甘味・珈琲でカロリーオーバー!)


・・・・・・・・旧永代寺は、寛永元年(1624)、長盛上人の開山により永代島に創建された。 当時の永代島(現在の江東区富岡)は隅田川河口にあった約6万坪の砂州で、その内、2万2千坪程が寺社地であった。 旧永代寺は富岡八幡宮の別当寺として栄えたが、明治元年(1868)の神仏分離により廃寺となった。 跡地は現在の深川公園や深川不動堂などになっており、深川一帯でも指折りの広大な寺院であった。 明治元年(1868)に廃仏毀釈により、廃寺となった。 広大な跡地は富岡八幡宮に移管されたようだ。、、、、江戸六地蔵の第六番は 、享保5年(1720)に造立され、富岡八幡宮の二の鳥居(現在の大鳥居より手前で、永代通りに面していた)の右奥(私の推測では、現在の大関力士碑の東側の住宅地かも)に安置されたが、明治元年(1868)の神仏分離令により壊された。、、、、また、永代寺の六地蔵は千葉街道の守護とされているが、江戸時代の千葉街道は、永代寺の北の竪川に沿っていた。 深川からはかなり離れた処で、本所地区を通過している。、、、、なお、江戸六地蔵を発願した深川地蔵坊正元の経歴は不明だが、一説では、永代寺の境内に小さな庵を持ち、このプロジェクトを推進したと云われている。

・・・・・・・・【おまけの話①】地名「門前仲町」の“門前”は旧永代寺を指している。 深川不動堂と間違えないで!

・・・・・・・・【おまけの話②】廃寺となった旧永代寺の和尚は、その後、富岡家となり、宮司として富岡八幡宮に奉仕することになる。 変わり身の早い和尚さんか?

・・・・・・・・【おまけの話③】平成29年(2017)、富岡八幡宮の宮司姉弟の喧嘩による殺人事件が発生。 詳細は自分で調べて!




● 旧永代寺はどこにあったのか?、、、、深川公園のグランド脇に、「富岡八幡宮別当永代寺跡」の碑がある。 公園は旧永代寺庭園の一部であったそうだ。、、、、碑の傍には、日清戦争の勝利を記念して建てられた燈明台(昔の灯台)がある。 外壁には、建設資金を拠出した歌舞伎役者、魚河岸、料亭、遊廓などの名が見える。 当初は深川不動堂の境内の南東に建てられていたが、平成20年に現在地に移設した。

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● 深川公園の隣りの深川不動堂は何時から存在した?、、、、成田山深川不動堂のある処は、元は旧永代寺の寺域内である。 元禄16年(1703)に始まった成田山新勝寺の出開帳が深川不動の起こりで、旧永代寺内で行われていた。 旧永代寺は、明治の神仏分離令により明治政府から強引に廃寺とされ、七堂伽藍悉く取り壊されてしまった。 明治14年(1881)、何も無くなった地に不動堂が完成した。 これが、現在の深川不動堂の始まりとなった。、、、、旧永代寺にとっては、軒先を貸して母屋を取られたことになる。(成田山は当時の明治政府に賄賂を贈ったのか? その真相は謎!)

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● 深川不動堂の参道に永代寺がある?、、、、現在の永代寺は深川不動の門前にある高野山真言宗の寺。 富岡八幡の別当寺だった旧永代寺塔頭の吉祥院が、明治29年に永代寺に改称し、その法灯を継承した。 つまり、潰れた老舗の番頭が自分の店の名を変え、“のれん”を守ったのだ!、、、、現在の永代寺には旧永代寺、江戸六地蔵にまつわるものは残されていない。

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● 富岡八幡神社は何時、誰がつくったか?、、、、『平日の日中、大工さん』は答えにならない! 正解は、旧永代寺の長盛法印寛永4年(1627)当時永代島と呼ばれていた現在地に創建した。、、、、現在の社殿は昭和31年(1956)に造営され、鉄筋コンクリートを使用した、「重層型準八幡造り」となっている。

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● 江戸六地蔵はどこに安置されていたか?、、、、私が調べた古書によると、富岡八幡宮の二の鳥居と表門を抜け、右奥に入った処に六地蔵は安置されていた。 富岡八幡宮の一の鳥居は現在の門前仲町交差点付近にあり、二の鳥居は現在の大鳥居の手前で永代通りに面していた。 そして二の鳥居の奥に表門があった。 私のチョイトいい加減な推測によると、現在の「大関力士碑」のあたりに表門があったと思われる。 そして、さらに右奥に入った処に六地蔵は安置されていた。 これを再び推測すると、現参道の右側:大関力士碑の後ろに建つマンション風住宅群のあたりと思われる。、、、、この辺りには「深川富岡〇番館」と称するマンション風住宅が複数棟ある。 これぞ、殺人事件に発展した富岡姉弟に関連する不動産かも(?) その地は六地蔵が安置されていた場所で、旧永代寺が廃寺になると、地蔵も壊され、更地となった場所を宮司の富岡家が保有し、住宅化したものと推理した。

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● 最後に旧永代寺の江戸六地蔵はどこへ行った?、、、、壊され、川口の鋳物業者に売られ、溶かされてしまったらしい。 どこぞの寺の仏像に生まれ変わっているかも? 南無阿弥陀仏、合掌。



・・・・・・・・【おまけ】深川公園の西側に、癒しの空間が30数軒ズラリと並ぶ「辰巳新道」がある。 『仕事に疲れた主夫、家事に疲れた主婦、火事に疲れた消防士、どなたも夜になったら飲みに来て!』 『昭和レトロな飲み屋横丁で待ってます!』、、、、江戸六地蔵を語るならここで!

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2020年10月26日 (月)

六地蔵の五番目

江戸六地蔵の五番目は、江東区白川にある霊巌寺の地蔵菩薩。 浅草橋(我が家)から徒歩1時間ほどで霊巌寺に参り、その足で深川の閻魔堂にも手を合わせてきた。 1万2千歩の散歩。




● 朝7時25分、浅草橋駅前から散歩はスタート。 東日本橋駅前から清洲橋通りを行く。 幟はためく明治座前を通過。 どちらも隅田川に架かる、清洲橋通りと新大橋通りが交差する浜町交番前。 そして、正面に清洲橋が見えた!

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● 関東大震災の復興橋として、重厚かつ雄大で男性的な永代橋と対になるように繊細で女性的なデザインを意図して設計された清洲橋を渡る。、、、、清洲橋の構造は日本で唯一の自碇式チェーン吊り橋で、当時世界一美しいと評判だったドイツケルンのヒンデンブルグ橋をモデルとした。 設計は永代橋と同じく太田圓三を中心に鈴木精一が行った。 大正14年(1925)3月に着工、昭和3年(1928)3月に竣工。 長さ186.3m、幅22m。 平成19年(2007)に、勝鬨橋、永代橋とともに、国の重要文化財となる。、、、、橋名の「清洲橋」は、当時の町名、西詰の日本橋区中洲町、東詰の深川区清住町から一字づつとって名付けられた。

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● 清洲橋を渡り清澄通りに出ると、清澄庭園を背にして、昭和3年(1928)に関東大震災の復興事業として建てられた、長屋風のコンクリート店鋪兼住宅の「旧東京市営清澄庭園店舗向住宅」がある。 建物は1階が店舗で2階が住居というもので、6軒程が一つの建物となって建ち並んでいる。 当初は東京市営で賃借だったらしいが、現在は民間に払い下げになったそうだ。、、、、各店舗ではファサードをかなり改装したものもあり、バラバラなデザインとなったが、全体的には、建設当時を偲ぶことができる貴重な建物である。

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● 清澄庭園の東側、深川江戸資料館の隣りに、浄土宗寺院の霊巌寺がある。 江戸時代は御朱印50石を賜わり、区内で最も寺格の高い寺院で、昔は18寮・8庵・11子院を持ち関東18檀林の1つとして、江戸屈指の寺院だった。、、、、寺の初めは、霊巌上人が現在の中央区新川がまだ湿地の葦原だった元和年間(1615~1623)にその地を埋め立てて霊巌島とした。 ここに一寺を建て霊巌寺と称したが、後に明暦の大火に遭い、総てが灰燼に帰し、万治3年(1660)に改めて深川の地に土地を拝領し、ここに寺を移したのが現在の霊巌寺である。 現在の本堂は昭和56年(1981)に鉄筋コンクリート造で建てられた。、、、、朝の山門前は、隣りの幼稚園児のお母さんがたむろし、小心者の私は恐怖を感じ本能的に“ソーシャルディスタンス”を保つ。


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・・・・・・・・・・・・本堂に向かい境内の左側に、江戸六地蔵の五番目の銅造地蔵菩薩坐像が安置されている。 この像は享保2年(1717)に造立された。 像高は2.73mで、かつては鍍金が施され、一部には金箔が残っているそうだ。 また、他の六地蔵に比べ、宝珠を持つ左手の指のうち四本の指が密着した形になっているのが特徴らしい。 丸顔のおとなしそうな地蔵さん!、、、、この像も、袈裟・蓮台・石の台座などに、造立時の多くの寄進者名が読み取れる。

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● 霊巌寺の山門前にある浄土宗寺院の長専院は、不動寺と号し、「深川の出世不動」として親しまれている。 長専院は、德川四天王の一人榊原忠次(寛文五年没1665)が開基、命誉圓壽が開祖となり霊巌島に創建、万治元年(1658)に霊巌寺とともに移転、昭和3年(1928)に不動寺を合併したと云われている。、、、、不動堂は昭和初期(昭和7年?)の鉄筋コンクリート造。

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● 長専院の南隣、浄土宗寺院の成等院には、江戸中期の豪商、紀伊国屋文左衛門が眠る墓所がある。、、、、墓所は仕切られた一画にあるが、立ち入ることが難しい、鉄扉の外からパチリ! 墓を守る有志の活動が休止しているそうで、石碑にミカンの枝が覆いかぶさり、手入れも出来ていないようだ!

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● 『深川ゑんま堂』として知られている真言宗豊山派の寺院「法乗院」にお立ち寄り。、、、、法乗院は、寛永6年(1629)深川富吉町に創建、寛永18年に現在地(深川2)に移転した。、、、、法乗院の閻魔堂は昭和4年(1929)建造の鉄筋コンクリート建築。 近年には、闇魔堂が改築され、お賽銭を入れると、コンピューター制御で、堂内に照明が灯り、スポットライトが回り、願い事に応じてありがたいお言葉が流れてくるのというので、ハイテク闇魔とも呼ばれている。 現在の閻魔座像は平成元年(1989)に作られた。、、、、【蛇足】 寺では『江戸三閻魔』の一つと言ってるが、世間で言う『三閻魔』は「華徳院(杉並松の木)太宗寺(新宿)善養寺(西巣鴨)」である。 ウソついたら、閻魔さまに舌を抜かれるぞ!!

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● 散歩の最後は、閻魔堂の隣りにある臨済宗妙心寺派の寺院「陽岳寺」、、、、本堂は昭和6年(1931)の鉄筋コンクリート建築。 残念ながら、山門が閉まっており境内では見えず、道路の向かいから眺める。

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● お帰りは、陽岳寺の前からバスに乗って・・・・・

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