新宿区

2024年12月 3日 (火)

大久保から中野

我が家(浅草橋駅)からJR中央・総武線で乗り換えなしの23分、JR大久保駅で下車、今日の散歩の始まり。 いつものように裏通りを歩き、途中で宝仙寺(中野)によって、JR中野駅まで1万1千歩の散歩です。



● 中央・総武線の大久保駅は、明治28年(1895)5月5日に甲武鉄道の駅として開業した。 明治39年(1906)には甲武鉄道の国有化により国鉄の駅となる。 大久保駅は昭和6年(1931)に高架化工事があ完成する。 現在は、島式ホーム1面2線の高架駅で、出入口は北口と南口の2ヶ所。、、、、ホーム上屋は古いレールと木組みでできてる、歴史を感じるね!
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・・・・・・・・・・ 南口(新宿寄り)は大久保駅の裏口である。 裏通りの高架下に口を開けたスタイルの出入口がある。 また、自動改札機は何やら怪しげな古レールに囲まれている。 古レールが高架の天井を支えているようだ?
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・・・・・・・・・・ 北口は大久保通りに面する高架下にある。 大久保駅の表玄関、チャント売店もある。 山手線の新大久保駅までは約300mだ!
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● 大久保駅から大久保通りを西(中野方面)に歩き、神田川の手前で裏通りに入る。
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● 「柏橋」は新宿区と中野区の区界(神田川)に架かる橋。 
新宿側の現町名は「北新宿」という味気ない名前になってしまっているが、以前は「柏木」であった。 「柏木」という旧地名は「柏木小中学校」などに残っているが、JR中央・総武線東中野駅も昔は「柏木駅」という名前であった。 中野区側の町名は「東中野」、これまた、味気ない名前だ!
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・・・・・・・・・・ 柏橋から神田川の上流側を眺めると、先の橋(末広橋)の手前に開口部が見える。 この開口部は、杉並区、中野区を流れる桃園川(ももぞのがわ、別名:中野川)が神田川に合流する出口である。 桃園川は全区間暗渠化され、流れを見ることはできない。
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● 柏橋を渡り、道なりに歩くと正面に小さな社の「第六天神社
」がある。、、、、この神社、元々は中野区内有数の旧家が奉納した屋敷神で江戸時代には耕作地の片隅に奉られていた。 しかし後に小作人たちの多くがここに参詣するようになった為、明治の初めに共同祭祀とされ社格も与えられた。 境内の石碑には、『御由緒 悠久の昔江戸蔵前の第六天神宮(榊神社)御分霊を奉斎 古来より第一 の別宮として尊祀せられて居ります』と彫られてる。
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● 第六天神社から西へ300m程歩くと、「氷川神社」がある。 今年3月に訪れた神社だ!
 、、、、今日は、年末ジャンボの当選を祈願してきた。、、、、境内のイチョウの黄葉は御見事!
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● 氷川神社からは、暗渠化された桃園川の上に造られた桃園川緑道を歩き、宝仙寺に向かう。
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● 中野区中央2丁目にある「宝仙寺(ほうせんじ)」は、真言宗豊山派の寺院。 山号は明王山。 千年近くの歴史を誇る古刹で、境内も広い寺院。、、、、広い境内には、戦前、中野町役場が置かれていた。、、、、後三年の役(1083~)の時、護持していた不動明王像を安置するために寛治年間(1087~1094)に源義家によって現在の杉並区・阿佐ヶ谷にて開かれた。 本尊は鎌倉時代には秘仏になった。室町時代になり、現在の位置に移転した。 江戸時代には、優れた僧を出し、歴代の将軍から厚い保護を受け発展した。 また、当寺院の僧侶が将軍の御前論議に参加することもあった。、、、、堂宇は戦災を被ったものの、戦後再建され、三重塔や本堂を見ることができる。、、、、寺の周囲には付属の宝仙学園が運営する、こども教育宝仙大学、宝仙学園中学校・高等学校、宝仙学園小学校、宝仙学園幼稚園の校舎が取り囲んでいる。 寺より大きな敷地面積を有しているかも? 賽銭・お布施より入学金・授業料かな?
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● 宝仙寺の墓地の向かいに小さな公園がある。 そこには、「山政醤油醸造所のレンガ塀」の一部が残されてる。 塀の建造は、明治32年(1899)と推定されている。 中野での初期洋風レンガ構造物と言われている浅田銀行本店を手掛けた中野在住の棟梁と弟子たちによって、 醸造所の蔵とともに築かれました。 石灰、海草のつのまた、砂などで固める日本の伝統的なしっくい壁の技術とフランス積みといわれるレンガ積み工法で造られている。 当時、レンガ塀の築かれた青梅街道沿いは、中野の商工業の中心地として賑わっていたらしい。 また、みそ・醤油の醸造は、そば粉製造とともに中野の代表的な地場産業であったそうだ。
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● 宝仙寺から裏道を、右に・左に・折れ・曲がり、「
中野区立紅葉山公園」に着いた。、、、、その名の如く、紅葉見物。 ついでに、園内に保存されている「C11蒸気機関車」もパチリ!
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中野駅南口に到着。、、、、これまでの南口は北口と比べると大きな施設もなく、商店街・飲食街とも規模も小さく、元気がなかった。 しかし、ここ数年の間に、駅前の公団住宅が壊され巨大な中野駅前ビルが建てられ、駅前ロータリーの再整備が行われた。 活気が出てきた!
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2024年9月 9日 (月)

目白から長崎まで

東京では、連日の猛暑日は終わったようだ、気温は35℃以下。 朝晩も涼しくなってきた。 朝の予報で、今日の最高気温は34℃と聞いて、早速、散歩に出ることにした。、、、、山手線の目白駅から、西武池袋線の東長崎駅まで、1万歩の散歩です。



●  東京に生まれ70余年東京に住み続けてる私であるが、“目白”という場所には縁遠く、学生時代は“目白駅”で下車したことはない、サラリーマン時代には仕事・商談などで来たことはない。 私にとって“目白駅”は山手線の通過駅である。 今日は久々に、そんな通過駅で降りてみようと家を出た!、、、、「目白駅」は、明治18年(1885)3月1日の日本鉄道品川線の品川~赤羽間の開業から、なぜか半月ほど遅れ、3月16日に目黒駅と目白駅の2駅が仲良く開業した。 以降、明治39年(1906)には国有化され国鉄の駅となる。 大正8年(1919)に建設された2代目の旧駅舎は日本初の橋上駅舎となった。 平成12年(2000)に改築された、3代目の現在の駅舎も橋上駅舎である。、、、、駅の隣りは、学習院大学、学習院中・高等学校。 駅の向かいは川村中・高等学校。 さらに周辺には各種の専門学校が多く、ラッシュ時の駅は学生が多いね!

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● 目白通りに面してたつ「目白聖公会」(新宿区下落合3)は、日本聖公会に属するキリスト教の教会である。 日本聖公会の教会は東京には全部で32の教会があるそうだ。 ここ目白聖公会は目白駅から徒歩5分程の目白通り沿いにあり、かつて目白通りに馬車が通っていた大正7年(1918)、病院の建物を改造し最初の礼拝が始まったとのこと。 現在のロマネスク様式の聖堂は、昭和4年(1929)に坪井正太郎の設計で建てられた。 戦災からも免れ、東京の聖公会の教会では唯一の戦前からの建物である。 昭和60年(1985)に英国トゥルロー教区にあるエピファニー修道院から、百年余り前に造られた美しいステンドグラスの寄贈を受けた。 聖人を描いたステンドグラスの美しさには、息を呑む。
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● 聖公会の教会から北に入ると、尾張徳川家伝来の美術品の保管・研究を目的に昭和6年(1931)に設立された徳川黎明会の建物がある。 ここは、尾張徳川家の美術品などの管理をする処のようだが、残念ながら内部は一般公開されていない。 従って外から眺めるだけです。 建物(昭和7年築造)は、銀座和光(服部時計店)や東京国立博物館を設計した渡辺仁である。
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● 徳川黎明会のある豊島区目白の高級住宅街をブラブラ
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● 目白の裏道を歩いて西へ向かうと、西武池袋線の「椎名町駅(しいなまちえき)」に出た。 椎名町駅は大正13年(1924)6月11日に開業した。 駅は相対式ホーム2面2線の地上駅。 平成23年(2011)に橋上駅舎が完成し、供用を開始した。、、、、椎名町という地名は江戸時代後期にはすでに存在し、町屋は現在の目白にあり、椎名町駅からは比較的離れた位置にあった。 昭和39年(1964)11月までのは、現在の南長崎1~6丁目と目白4・5丁目に椎名町という町名が付けられていた。 “椎名町”という地名からは、昭和23年(1948)に12名が毒殺された帝銀事件の舞台となった帝国銀行椎名町支店を想いうかべる人も多く、イメージの悪い「椎名町」という地名は消え、現在は「長崎」となっている。 今は“椎名町”の地名は無く、商店街名などに名を残している。
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● 椎名町駅北口の真ん前に、真言宗豊山派の蓮華山金剛院がある。 金剛院の創建年代は不詳だが、聖弁(永禄6年1563寂)が開山、江戸時代中期に現在地へ移転したといわれてる。、、、、金剛院の朱塗りの山門は安永9年(1780)に建立された。 天明期(1781~1788)に度々発生した大火の折、当時の和尚が先頭に立ち、多くの罹災者を金剛院で収容し助けた。 その功績が将軍 徳川家治の耳にとどき、褒賞として、山門を朱塗りとする名誉ある許可を受けた。 金剛院は村民から赤門寺(あかもんでら)の名で慕われた。 本堂は昭和29年(1954)に建てられた鉄筋コンクリート造である。、、、、境内は手入れの行き届いた植え込みや樹木のある静かで美しい情景が広がっている。 歴史ある板碑、馬頭観音碑、庚申塔、記念碑、顕彰碑なども境内にあり、金剛院の長い歴史を物語っている。
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● 明治元年(1868)の神仏分離令まで、隣の金剛院が別当寺であった長崎神社がある。 長崎神社は、その名の通り豊島区長崎にある神社である。 創建年代は不詳であるが、長崎村の鎮守として信仰を集め、江戸時代の中期には十羅刹女社と称せられていた。 明治の神仏分離令により十羅刹女神に代わり須佐之男命を祭祀し、氷川神社、そして長崎神社と改称し、現在に至ります。、、、、神社の西側に、帝銀事件の現場があったそうだ! それらしき遺構などは残っていない。
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● 椎名町駅から隣の東長崎駅までは、「椎名町駅前中央通り」、「長二サミット通り商店会」、「長崎小学校前通り明和会」、「長崎三友会」、「長崎十字会」と商店会が連続してる。、、、、時刻は9時過ぎ、全ての店が開いてるわけではないが、開店準備で忙しそうな裏通りの商店が続く!
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● 東長崎駅に着いた! 東長崎駅は大正4年(1915)4月15日に開業した(来年は開業110周年だ!) 島式ホーム2面4線の地上駅。 、、、、駅周辺はかって“長崎村”であったが、鉄道開業時に駅名が「東長崎」となったのは、長崎県長崎市の長崎駅と区別するためであった。
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2024年3月11日 (月)

塔ノ山の三重塔

『今日は天気が良さそうだ、散歩日和だ』 何処に行こうか悩んだあげく、東中野駅で下車。、、、、東中野駅前を通り西新宿に向かう山手通りに沿って、東側の裏道を歩いて西新宿五丁目駅まで、1万歩の散歩です。

● 我が家(浅草橋)から中央・総武緩行線で26分、今日は東中野駅で下車した。、、、、東中野駅は、明治39年(1906)6月14日、甲武鉄道の柏木駅(かしわぎえき)として開業。 4か月後の明治39年10月1日には甲武鉄道の国有化により国鉄の駅となる。 大正6年(1917)1月1日に、駅名を東中野駅と改称した。、、、、駅は島式ホーム1面2線の地上駅で、西口・東口それぞれに橋上駅舎がある。 西口は駅前に山手通りがあり、その地下には都営地下鉄大江戸線が走ってる。 賑わいはないが、明るく、シャレた感じの駅だ!

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・・・・・・・・・・ 駅前の山手通り、、、、この通りの東側の裏道を、中野坂上、西新宿方向に歩くことにした。

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中野区東中野1丁目の裏道を歩く、、、、なだらか起伏の多い町

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● 東中野駅から裏道を歩いて約10分、緑に囲まれた広い境内の中野氷川神社がある。、、、、中野氷川神社は長元3年(1030)、源頼信が武蔵国の平忠常の乱を平定すべく武蔵一宮・大宮氷川神社から分祠し戦勝を祈願したのが始まり。 文明9年(1477)には、太田道灌が豊島泰経・泰明兄弟討伐の際に当社で戦勝祈願し、凱旋後社殿を造営した。 現在の社殿は昭和44年築である。、、、、長い参道を歩き、大木の茂る境内は癒しの空気が漂ってる。

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● 氷川神社の参道入口は大久保通りにあり、通りの南側は中野区中央1丁目の町である。 この町には「塔山小学校」があり、その町の町会は「塔ノ山町会」、マンションは「塔の山ハイツ」と、何だか“塔山”、“塔ノ山”などの地名が存在していたようだ。 調べてみたら、現在の中央1丁目には、昭和6年から昭和42年頃まで“中野区塔ノ山町”という町があった。

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・・・・・・・・・・ 塔山小学校の脇の道を南へ歩くと、地名の由来があった!、、、、ナント! この地に三重塔があったのだ。 地名は“塔のある山”と言うことだ。 その塔は昭和20年(1945)の空襲で焼失した「宝仙寺の三重塔」である。 宝仙寺は、塔のあったこの地から約400m西に在り、塔のあったこの地は寺の飛び地であった。 また、この三重塔は中野村の農民:飯塚惣兵衛夫妻が施主となって建てられたそうだ。、、、、塔の跡地は、中野東中学校の北端にフェンスで囲われ保存されている。

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● 宝仙寺の三重塔跡から20m程歩くと、小さなお堂に祀られている庚申塔があった。 その形は、一見してアレだ!、、、、この庚申塔は、元々は山手通りの旧道にあたる道と青梅街道の旧道の交差するあたりに祀られていた庚申塔らしい。 昭和20年(1945)の空襲で破壊されてしまったが、地元の人々が崩れ落ちた石片を集めてセメントで固め改めて奉ったそうだ。 元々の破壊される前の庚申塔には『宝永五戊子十月吉日』と刻まれていたそうで、“宝永五”とは宝永5年(1708)のことで、江戸時代中期に作られたそうだ。、、、、この庚申塔は地元では「石棒さま」と呼ばれてるらしい。

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● 山手通りと青梅街道が交差する「中野坂上交差点」に出た。 これより、交差点角の「ハーモ二-タワー」(地上28階/地下2階 高さ125m 1997年竣工 )の裏通りを歩く。

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・・・・・・・・・・ 西新宿の高層ビルを見上げる中野区本町1丁目の裏通り歩き、豊水橋で神田川を越え、中野区から新宿区に入る。

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● 西新宿に入ると、寂れた商店街の一画(西新宿5-23)に「淀橋庚申堂」がある。 堂の中に3基の庚申塔が祀られてた。 この庚申堂は、元々は、寛文4年(1664)に造られた、その後、昭和の空襲で焼失したそうだ。 昭和29年(1954)に庚申堂は地元の庚申講の人々により再建された。、、、、西新宿の再開発はドンドン進み、いずれこの庚申堂も移設される運命かも(?)

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● 都営大江戸線の西新宿五丁目駅に着いた。 今日の散歩はココまで!

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2022年7月18日 (月)

几号水準点巡り

例年より早く梅雨明けした東京、でも先週は『梅雨 再び到来』と言いたくなる連日の雨。 昨日、一週間ぶりに雨も上がった。 今日は、朝から『散歩してくるぞ!』

JR四ツ谷駅から、外濠通りを歩いて市ヶ谷へ、市ヶ谷からは外濠公園を通り抜け靖国神社へ、九段坂をおりて都営新宿線の九段下駅から帰宅。 1万歩の散歩



● 三連休の最期は『海の日』。 谷底のようなところにある「四ツ谷駅」ホーム、電車から降りる人は少なく、乗る人も少ない。 モグラのように駅ビル「アトレ」の下から地上に出る。、、、、四ツ谷駅は、明治27年(1894)10月9日、新宿駅~牛込駅間開通と同時に甲武鉄道の駅として開業した老舗。 現在のJR四ツ谷駅ホームはほとんどが千代田区麹町にあるが、駅ビル「アトレ」は千代田区と新宿区にまたがり、駅の正式所在地は新宿区四谷になっている。(利用者にとってはどちらでもいい話だ!)

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● 駅を出たら、どっちに向かうか? とりあえず、駅前の大通り「外濠通り」を市ヶ谷方向に歩く。 出がけにテレビでは、気温33℃の真夏日となる予報であったが、まだ暑くない。 今年初めてセミの鳴き声を聞く、“いいね、夏だ!”

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● 市ヶ谷駅手前で、道路の向かいのビルの間に「市谷亀岡八幡宮」77段の階段が見えた。 チョイト、寄って行く!、、、、市谷亀岡八幡神社は、太田道灌が文明11年(1479)に、市谷御門内(現:千代田区内)に鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を、江戸城西方の守護神として勧請、鶴岡八幡宮の「鶴」に対して、亀岡八幡宮と称したそうだ。 しかし、その後戦火にさらされ荒廃していったが、江戸時代に入り寛永13年頃(1636年頃)に江戸城の外堀が出来たのを機に現在地に移転した。、、、、ここの神社の境内は樹木が多く、雑草も多く、ヤブ蚊も多い。 参拝するたびに痒~い、痒~い経験をしたことを思い出し、今日は慎重に参る。 でも、やられた!足の脛が痒~い。

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・・・・・・・・・・・・ 市谷亀岡八幡神社には、私が探し歩いてる「几号水準点がある。 当神社の手水鉢台座にあるはずだ、チョイト見て行こう!、、、、几号水準点のある場所は知っているが、改めて見ると何となく安心するものだ!

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・・・・・・・・・・・・ 参拝を終えると、『そうだここまで来たら、今までどうしても見つけることのできなかった、市ヶ谷新見附橋の几号水準点を探しに行こう!』と決めた。 今日の散歩の行先は市ヶ谷新見附橋とした。



● JR市ヶ谷駅ホームの御茶ノ水寄りに立つと、前の濠に釣り堀がある。 その釣り堀の頭上に架かる橋が「市ヶ谷見附跨線水道橋」である。、、、、市ヶ谷見附跨線水道橋は、昭和4年(1929)に完成した。 外濠と複々線の線路を跨ぐこの水道橋は5径間の下路鋼鈑桁橋で、総長98.1mの橋には一本の送水管が載っている。 歩いて見ると、桁と高欄は見えるが水道管は見えない(新宿区側の正面からは見える)デザインで、景観を配慮したような粋な構造物だ!

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● 外濠通りから、濠の反対側(千代田区側)にある外濠公園を歩く。、、、、市ヶ谷新見附橋の几号水準点は、以前に『市ヶ谷駅と飯田橋駅の中間にある新見附橋の公衆便所近くにある』と聞いていた。 今日もその言葉を頼りに、JR線路東側の崖上の外濠公園(千代田区)を中心に探すことにした。、、、、地図を見ると、外濠公園には公衆便所は三か所ある。 一か所は市ヶ谷見附交番の隣り、もう一か所は新見附橋から飯田橋に寄った法政大学前、残る一か所は飯田橋駅前の牛込見附だ。 いずれも、これまで数回、几号水準点を探し回ったことのある公衆便所だ。

・・・・・・・・・・・ 市ヶ谷見附交番横の公衆便所周辺をキョロキョロ探すが、見つからず。 公衆便所を周りをキョロキョロ、チョイト、怪しい人物と思われたかも? 引き続き外濠公園内を歩く。 物置小屋のような建物周辺もキョロキョロ、ガサガサ。

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・・・・・・・・・・・・崖下には中央線快速、中央総武緩行線が走る。

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・・・・・・・・・・・・ 市ヶ谷駅と飯田橋駅の中間に「市ヶ谷新見附橋」がある。 周囲には公衆便所は無い。 この辺では無さそうだ! あきらめ次の便所へ探しに行くかと思いつつ、橋の横の「東京市 外濠公園」と標した石を撮影。 何気なく、そこから5m程離れた歩道上を見ると、几号水準点があった! 鮮やかに“不”の図形が刻まれている。 『やっと見つけた、でも便所は無い!』 後に判ったことだが、20年前には几号水準点の前に公衆便所があったそうだ。(歩道上に公衆便所の跡らしき形状で縁石が並んで写っている)、、、、これで私の几号水準点巡りに、1ヶ所プラスすることができた。

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● 予定より早く几号水準点が見つかったので、靖国神社の几号水準ても見て行こう!、、、、「靖国神社」では、16日まで盆に因んで英霊を慰霊する「みたままつり」が行われていた。 境内では大小3万を超える献灯、提灯や雪洞が掲げられていた。 壮観だ!(夜来るともっと凄いと思う!)、、、、提灯に書かれた、献者の名を見ていると、15年ほど前まで私の父が東京支部役員を務めていた「陸軍工科学校」同窓会の名があった。 書かれた文字を見てると、父の姿を思いだし、賽銭を奮発し改めて合掌する。

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・・・・・・・・・・・・ 靖国神社の神門をくぐり拝殿に向かって左右に灯篭がある。 その左側の灯篭台座に几号水準点がある。

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● 靖国神社の几号水準点を見たら、近くの田安門(武道館へ向かう門)にも几号水準点がある。 こちらも、チラリと見て行こう。

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● 「九段下駅」から都営新宿線で帰る。

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2022年7月11日 (月)

新宿御苑の外側

久しぶりに新宿駅東口に出た。 今日の散歩は、ここから新宿御苑の外周に沿って早稲田方面に歩く予定でスタート。 予定は変わるもの、四谷三丁目で暑さ厳しく熱中症が怖くなり、散歩を諦めJRツ谷駅から帰宅。 1万2千歩。



新宿駅はいつ来ても必ずどこかで工事が行われてる。 今日は昨年秋に完成し、幅が広くなった東西自由通路を通り、東口に出る。 東西自由通路はこれまで改札内にあった北通路の幅を、17mから25mに広げ、改札を通路の南側に分散配置した。、、、、サラリーマンを辞めて13年、飲み会・同窓会も減り、新宿で降りる機会も少なくなった。 新宿駅東口(昭和39年完成の駅ビル「新宿民衆駅ステーションビル」、現在の「ルミネエスト」)の前に立つのは久しぶり。 約60年前、新宿駅は通学の途中駅で、よく映画を見に来た大学生の頃を思い出し、懐かしさを感じる!

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● 新宿駅東口から甲州街道下を通り抜け「新宿高島屋」前を過ぎ、「新宿御苑」西側の塀に沿って千駄ヶ谷駅の方へ向かう。 そろそろ通勤時間だ、新宿御苑前に建ち並ぶマンションから、足早に人が出て来る。 足の短い私を抜き去っていく!

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・・・・・・・・・・・・ 新宿御苑千駄ヶ谷門から150m程西に「新井白石終えんの地」(渋谷区千駄ヶ谷6)がある。、、、、案内板には『新井白石終えんの地  新井白石は6代将軍徳川家宣・7代家継と2代の将軍に儒官として仕えました。学者としては先例のない政治への参加と、学問の大きな業績によって知られています。しかし、吉宗が8代将軍になると急速にその地位を失い、城中の御用部屋はもとより、小川町の賜邸も取り上げられてしまいました。 白石が享保2年(1717)幕府からこの土地を与えられ、享保6年(1721)移り住んだ頃は、周囲は、すべて青々とした麦畑でした。 ここで白石は失意の日々をおくったのですが、一方では多くの著作を行いました。絶筆となった『采覧異言』の修訂が終わった5、6日後の享保10年(1725)5月19日、69歳で戦乱に富んだ一生を終わりました。  渋谷区教育委員会』と書かれてる。、、、、案内板があるだけ、せめて石碑でも建ててあげればいいのだが! 渋谷区の財政は苦しいのか?

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・・・・・・・・・・・・【付録】新井白石の墓は中野区上高田の「高徳寺」にあり、長門裕之・南田洋子・山野愛子・柳家三亀松などの各氏と共に眠っている。(14/6/17撮影)

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● JR千駄ヶ谷駅前を通過。 首都高の高架下が駅前広場、普段は広々としているが、国立競技場・東京体育館などでイベントがあると手狭になるね。

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● 千駄ヶ谷駅から東へ、JRのガードをくぐり、今度は新宿御苑の東側沿いに歩く。

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・・・・・・・・・・・・ 新宿御苑の「正門」がある。 正門は都道(外苑西通り)に面し、車での利便性は良いが、普段は閉じられている。 なぜ、なぜ、閉じている???、、、、正門は、新宿御苑がかつて皇室苑地だった頃、皇室をはじめ国内外の賓客の入園門として設けられていた。 しかし、戦後は一般に公開され、誰でも入園できる公園となっている。 そこで、普段の門は利便性の高い場所に出入口を作る必要から、新宿、大木戸、千駄ヶ谷の3ヶ所に入場門を設置している。 正門は電車・バスなどの交通の便が悪く、それほど入園者数も見込まれないため、国の特別行事を行うとき等を除き閉鎖してるそうだ。、、、、総理大臣主催の『桜を見る会』に招待されたら正門から入れるかもね!

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・・・・・・・・・・・・ 正門から150m程北に歩くと、大京町交番の北側の植え込みに、案内板があり『伝 沖田総司逝去の地  この場所には、高遠藩主内藤家屋敷(現新宿御苑)に沿って流れる旧玉川上水の余水吐(渋谷川と呼ばれる)に池尻橋がかかっていました。 多くの歴史小説や映画などで、新撰組隊士沖田総司(1844~1868)が晩年に療養し、亡くなったとされる植木屋平五郎(柴田平五郎)の屋敷はこのあたりにありました。  平成二十六年三月 新宿区』と書かれている。、、、、イケメンの沖田総司は結核で亡くなったそうだ。 テレビ、映画などでは、色恋の少ないチョイト暗い役で、イケメン俳優が演じ、カッコいいと若い娘に好まれる人物で描かれている。 ニヒルな私も演じてみたくなる人物なり!

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・・・・・・・・・・・・ 沖田総司逝去の地から北へ150m程、新宿区内藤町に「多武峰内藤神社」がある。 祭神は、古の政治家で大化の改新の中心人物:藤原鎌足公(ふじわらのかまたりこう)である。 神社の創建は江戸時代初期、幕府の重臣であった内藤清成が、家康より現在の新宿御苑の地に広大な屋敷地を拝領し、家祖である藤原鎌足公を敷地内に祀り、内藤神社として創始したのが始まり。、、、、チョイトお立ち寄り。、、、、境内には「三菱鉛筆」の創業の地をしめす碑もある。

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● 新宿駅から新宿御苑の西側・南側・東側を回り、「四谷四丁目交差点」に出てきた。 『さて、これから早稲田方面に向かって歩こう!』と、再び歩き出す。、、、、500m程歩いて「四谷三丁目交差点」に来た頃は、暑さと湿度の高さで、身体中から汗が吹き出してる。 私の感による適当な観測では、気温は30℃超、湿度は80%超。 このまま歩いたら、熱中症になるかも?、、、、『ここで救急車には乗りたくない!』 『今日の散歩はこれ以上は無理だ!』 進路を四ツ谷駅に変更。

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● JR四ツ谷駅に着いた頃は、汗でビッショリ。 『早く帰って身体を拭きたい!』

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2022年7月 7日 (木)

新宿の総鎮守

猛暑日の連続、雨の連続、コロナ感染者増加の連続、外出できずボヤキの連続。 そんな連続を終わらせようと、今日は曇り空の下、散歩に出た。 東京メトロ新中野駅から、福寿院、十二社熊野神社に寄ってJR新宿駅まで、1万歩の散歩です。



● 東京メトロ丸ノ内線「新中野駅」は、昭和36年(1961)2月8日の荻窪線(現:丸ノ内線)新宿~新中野間の開業に合わせ設けられた。 開業時は丸ノ内線の終着駅であったが、昭和36年11月1日には南阿佐ヶ谷まで延伸し中間駅となった。 ホームは相対式2面2線で地下にある。 各ホームの両端に改札があるので、計4ヶ所の改札がある。 また、各改札毎に1ヶ所の出口があり、こちらも計4ヶ所。、、、、一日当たりの乗降客数は3万6千人程で、東京メトロ全130駅中100位前後。 都心にあっては、チョイト少ないね。

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● 新中野駅出口の東側50m程に、青梅街道と鍋屋横丁通りが交差する「鍋屋横丁交差点」があり、交差点角には「鍋屋横丁の由来」の碑が建てられている。、、、、「鍋屋横丁」は、江戸時代前期に現在の杉並区堀ノ内にある妙法寺に向かう参道として栄えた。 江戸から青梅街道を経由して妙法寺に向かう際、現在の鍋屋横丁交差点を左折することになるが、その目印となったのが「鍋屋」という名の茶店であったことから、「鍋屋の横丁」として名がついたそうだ。、、、、地下鉄丸ノ内線が開通する以前は、この交差点に都電の「鍋屋横丁」停留場があり、14系統(新宿駅前~荻窪駅前)の都電が運行していた。 当時、学生であった私は“鍋屋横丁”とはどんな横丁か知らず、停留場名から何となく新宿の「思い出横丁」のような“呑んべい横丁”を想像していた。 社会人となり、鍋屋横丁に行く機会が訪れ、現地で普通の商店街と知り期待を裏切られ、仲間に気まずい思いをしたことを覚えている。

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● 鍋屋横丁交差点の裏側に、色とりどりの旗に囲まれた赤い鳥居と小さな社が二つ並ぶ神社がある。 ここで問題、神社名の「五柱五成神社」と「天五色辨財天」の読みは?、、、、写真向かって右側の神社「五柱五成神社」は“ごしゃいなりじんじゃ”と読む。 右側の「天五色辨財天」は“あめごしきべんざいてん”と読む。、、、、文政6年(1823)京都伏見稲荷大社より槇屋平兵衛が、勧請し、自宅に戻り、その後譲り受けた大塚平兵衛が一族一門の守護神から衣食住一切を司る稲荷の大祖神として五柱の神々を「天圀蔵五柱五成大神(あめこくぞうごしゃいなりおおかみ)」と名付け奉り広く世の人々がその御神徳を分かった。 昭和48年に「五柱五成」と改名し現在の社殿となった。、、、、鳥居の左右、派手な五色の旗は、大願成就すると必ず五色の旗をあげるよう定め伝えられているらしい。

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● 新中野駅から南東方向に約600m、中野新橋駅の北200m程に、真言宗豊山派の寺「西光山福寿院医王寺 」がある。 神田川を南に見る台地の上にあり、境内は広々と明るく、見晴らしも良い。、、、、本尊は弘法大師の作と伝えられている薬師如来坐像。 大師が諸国巡錫中久しく当院に泊り、自ら薬師如来像2体を彫り、一体を当院に、もう一体を梅窓院(新井薬師)の本尊とした。 また開基の智真上人が本山大和初瀬長谷寺から持参したという。 創建は元応元年(1319)といわれているが定かではない。 初めはもっと西の雑色村(?)の境のところにあった。 明和の火災で堂塔伽藍悉く焼けて、安永の頃現在地に移転した。、、、、鉄筋コンクリート造の本堂は昭和51年(1976)に建立。

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● 中野区本町2丁目、住宅地の中に新宿の超高層ビルを見渡す公園「本二東郷やすらぎ公園」がある。 中野区の東南部、旧郵政宿舎跡地を活用し平成30年(2018)に開園した、面積約6,954㎡の公園。、、、、サッカー、野球などができそうな芝の広い公園。

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・・・・・・・・・・・・この辺りから、新宿の超高層ビルを眺めながら神田川沿いの裏道を歩く。 「熊野神社前交差点」に出てきた。

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● 都庁の西側に広がる「新宿中央公園」、その一画に「熊野神社」がある。

・・・・・・・・・・・・当熊野神社は中野長者と呼ばれた室町時代の紀州出身の商人・鈴木九郎によって応永年間(1394~1428)に創建されたものと言われてる。(天文・永禄年間に当地の開拓を行った渡辺興兵衛という人物が祀ったという異説もあり) 鈴木九郎は代々熊野神社の神官を務めた鈴木氏の末裔で、現在の中野坂上から西新宿一帯の開拓や馬の売買などで財を成し、人々から「中野長者」と呼ばれていた。鈴木九郎は当初自身のふるさとである熊野三山の若一王子を祀ったところ、商売が成功し家運が上昇したので後に熊野三山から十二所権現をすべて祀るようになったのが始まりとされている。当神社の付近の地名「十二社」(じゅうにそう)はこれに因んでいる。、、、、かっては、神社境内に大きな滝があり、また隣接して十二社池と呼ばれていた大小ふたつの池があった。 江戸時代には付近は江戸近郊の景勝地として知られていた。、、、、十二社熊野神社の氏子範囲は、西新宿、新宿駅、歌舞伎町などを含む地域で、新宿の総鎮守。、、、、境内は綺麗に整備され、チョイト休憩するにも最適!

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・・・・・・・・・・・・鳥居を出れば新宿中央公園。 かつては、ホームレスなどが多く、のんびり散策する気になれなかった公園。 今は、整備され、園内にはスターバックスなども店を出し、親子でスポーツ、カップルで散策、一人で読書、何でもできそうな楽しい公園に変わった!

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● 新宿駅西口に到着、散歩はココまで。、、、、再開発で小田急デパートは壊される運命!

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2021年12月26日 (日)

都電でGO!

“寒波襲来!” 朝が寒く起きるのも辛いが、“おしっこ”で渋々起床。 トイレに行ったら目が覚める!、、、、今日の予定は、“医者は無し”、“正月の準備は終わり”、“寒いが晴れだ”、『よし、散歩してくる』

中央線大久保駅から、山手線の内側に入り、戸山、西早稲田を抜けて、都電早稲田停留場に出た。 都電を見たら乗りたくなって、早稲田から大塚まで乗車。 大塚駅から帰宅する。 1万1千歩




● 我が家(浅草橋)から中央・総武緩行線で乗り換えなしの24分で行ける「大久保駅」 しかし私には、乗降の機会が少なく馴染みの薄い駅である。、、、、明治28年(1895)5月5日、甲武鉄道の駅として開業した。 島式ホーム1面2線の高架駅で、出入口は北口と南口の2か所。、、、、今日は、日曜日で通勤・通学客が少ないから、年末で学校が休みだから、それとも早朝でまだ寝てる時間だから、何しろ乗降客が少ない駅だ!

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・・・・・・・・・・・・【蛇足】全国には「大久保」と名乗る駅が7駅ある。 ①東京都新宿区にあるJR東日本、中央本線の当駅  ②兵庫県明石市にあるJR西日本、山陽本線の駅(明治21年の開業で一番古い大久保駅)  ⓷京都府宇治市にある近鉄、京都線の駅  ④秋田県潟上市にあるJR東日本、奥羽本線の駅 以上の4駅の駅名は「大久保」。  ⑤東京都新宿区にあるJR東日本、山手線の「新大久保」  ⑥千葉県習志野市にある京成本線の「京成大久保」(旧駅名は「大久駅」である)  ⑦千葉県市原市にある小湊鉄道線の「上総大久保




● 大久保駅から駅前の通りを東に歩き、皆中稲荷神社」、「新大久保駅」、「コーリアタウンと歩く。 コーリアタウンはクリスマスで賑わったのか(?)、ゴミが散乱し汚い! 途中からコーリアタウンをはずれ、裏道を北へ向かう。

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● 大久保駅から北東の位置に、「都立戸山公園(大久保地区)」があり、東隣には「早稲田大学西早稲田キャンパス(理工学部)」もある。 その戸山公園を抜けて行く。、、、、都立戸山公園は、江戸時代には尾張藩徳川家の下屋敷であった処。 明治維新後、跡地には明治6年(1873)に陸軍戸山学校が開かれ、太平洋戦争終結まで、陸軍軍医学校、陸軍の練兵場などに利用された。 戦後、軍事施設はすべて廃止された。 跡地に戸山ハイツの建設が開始され、昭和29年(1954)には敷地の一部を公園として整備し、「戸山公園」が開園した。

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● 戸山公園を抜け新宿区高田馬場1丁目に、真言宗豊山派寺院の「玄国寺」がある。 玄国寺は、龍池山上珠院と号し、慶長6年(1601)頃、当地に創建した。、、、、初詣の準備も進み、山門・本堂の前には提灯が並んでいる。

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・・・・・・・・・・・・山門を入ると右手が庫裡であるが、この建物は明治の元勲岩倉具視の旧邸の一部を大正15年(1926)に移築したもの。 洋風建築であるが、和風に改造されている。鬼瓦に笹りんどうの紋章がみられるのは岩倉邸で使用されたものの一部。

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・・・・・・・・・・・・玄国寺の西100m程の処に、同寺の墓地がある。 そこの地蔵堂に「田植地蔵尊」が祀られている。 田植え時期になると、この地蔵が旅僧の姿になって田植えを手伝ったところからこう呼ばれるようになったそうだ。

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● 玄国寺の東隣には、かつて玄国寺が別当であった「諏訪神社」がある。 諏訪神社は、平安時代初期小野篁により大国主命・事代主命を祀ったのがはじまりとされる。 源頼義、義家父子や頼朝等源氏武将の信仰厚く、江戸時代には徳川歴代将軍の崇敬を受ける。、、、、小野篁は百人一首の十一番目の和歌の作者、また小野小町の父として有名な、政治家であり、歌人です。、、、、かつては付近一帯が当神社にちなみ諏訪町(すわちょう)と呼ばれていたが、住居表示により地名は消滅した。 現在では「諏訪通り」や「諏訪町交差点」などに名を残している。

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● 諏訪神社から西へ、西早稲田2丁目の裏道に「地蔵坂通り」と言う、チョッピリ急な坂がある。 その坂を下り終えると「早稲田通り」に出た。、、、、坂の上り口角に「源兵衛地蔵尊」が祀られている。 説明文によると、江戸時代、源兵衛と言う人が居て源兵衛村が出来、源兵衛さん他の菩提供養の為に、享保11年(1726)に地蔵尊が建てられたそうだ。、、、、子宝・安産、病気治癒、商売繁盛、交通安全などのご利益があるらしい。

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● 早稲田通りを横断し、西早稲田3丁目に入ると回遊式庭園「新宿区立 甘泉園公園」がある。 「甘泉園」の名は、ここから湧く泉の水がお茶に適していたところからきたと言われています。 池を抱く森は周辺とは別世界の静けさを演出し、四季を通して、訪れた人々をもてなします。       この地は、江戸時代宝永年間(1704~1711)に徳川御三家の一つ尾張徳川家の拝領地となり、その後安永3年(1774)に初代清水家の江戸下屋敷が置かれていました。 明治以降は、子爵相馬邸の庭園として整備され、昭和には早稲田大学が付属甘泉園として譲り受けた。 昭和44年(1969)には区立公園となり現在に至る。、、、、区立の無料の庭園であるため、チョイト手入れ不足だ! もう少し、樹々の手入れをすれば有料化できるかも、もったいないね!!

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● 甘泉園を抜けると、都電「早稲田駅」の近くに出た!、、、、『風強く寒さ厳しく、身体は冷える。 都電の中は暖かそうだ、乗りたいね!』と思ったら、後は一直線! 大塚駅前まで都電でGO!!

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2021年12月21日 (火)

チョッピリ神田川

丸ノ内線中野富士見町駅の脇には神田川が、中野新橋、淀橋、北新宿、高田馬場と流れ下ってる。 今日の散歩は中野富士見町駅から、北新宿の末広橋(大久保通り)まで神田川沿いに歩き、最後はJR中央線大久保駅に出た。 1万4千歩




● 東京メトロ丸ノ内線「中野富士見町駅」で降りる。 1日平均乗降人員は20,202人(2019年度)と少ない。、、、、駅名には旧町名の「富士見町」が残っているが、昭和42年(1967)の住居表示により富士見町は「弥生5丁目」となった。 いずれ駅名も“中野弥生”とか“弥生5丁目”とかに変わるかも(?) なお、地名の「弥生」は、この辺りに弥生時代の遺跡がいくつか見られることに由来するそうだ。

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・・・・・・・・・・・・駅の脇を流れる「神田川」と、架かる橋は「富士見橋」(昭和50年3月竣工)、、、、ここへ来るまでの電車の中で、今日の散歩は駅から神田川沿いに新宿方面に歩いてみようと決めていた。 この橋からスタートだ!

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富士見橋の下流には、「高砂橋」、「寿橋」など、目出度い橋が架かる。 「柳橋」もある、神田川に同名の橋がもう一つ最下流に架かってる。 台東区柳橋と中央区東日本橋を結ぶ橋。、、、、柳橋から下流の新宿の高層ビルを眺める

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● 川筋を歩き朱色に塗られた「中野新橋」を渡る。 朱塗りの欄干は、かつてこの辺りが花街であった風情を今に伝える。 橋の袂からは黒板塀の料亭が続く町並みも見えたそうだ、昭和50年代から花街は衰退し、現在はマンションが並ぶ普通の町並みとなってしまった。、、、、橋の近くには丸ノ内線「中野新橋駅」がある。

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● 神田川の右岸を下流に歩いて行くと、対岸に鳥居を嵌め込んだ台形のビルが見える。 「宝生山八津御嶽神社」である。 八津御嶽神社は、山梨県南巨摩郡南部町にある八津御嶽神社の分社として、平成24年(2012)に鎮座したといいます。、、、、チョイト見た目は新興宗教ポイね。 時刻は9時前、ドアも締まっており、内部は拝見せず、建物の外観を見てまた来ます!

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・・・・・・・・・・・・八津御嶽神社の北側に「東京工芸大学」(中野区本町2)がある。 本学は大正12年(1923)に創立した、100年程の歴史と伝統を有する大学。、、、、『日本の写真技術の振興に寄与する人材を世に送り出し、国家の発展に貢献するためには写真教育を行う専門の学校が必要である』という理想を提唱していた小西本店(現在のコニカミノルタホールディングス)創始者、六代 杉浦六右衞門が他界した後、その理想と遺志を後継した七代 杉浦六右衞門が豊多摩郡代々幡町幡ヶ谷(現東京都渋谷区幡ヶ谷)の地に、「小西写真専門学校」を創設したのが始まり。、、、、昭和25年(1950)新学制による「東京写真短期大学」を現在地に設立。 同52年(1977)「東京工芸大短期大学部」と改称。 平成6年(1994)短期大学部を4年制に移行し「東京工芸大学芸術学部」を開設した。、、、、知りませんでした、日本では数少ない、写真学科を設置した大学だ!

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山手通りが神田川を越える「長者橋に来た。、、、、長者橋の名の由来は、橋の北側にある成願寺に
「中野長者」と呼ばれた鈴木九郎の住居があったことによる。

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・・・・・・・・・・・・
成願寺」は曹洞宗の寺。 成願寺は多宝山と号し、永享10年(1438)中野長者の鈴木九郎が出家して、西新宿の十二社(現、西新宿熊野神社)の敷地内に創建した。 江戸時代初期に長者屋敷跡(当地)へ移転し、成願寺と改称。 天正19年(1591)に徳川家康により武蔵太田庄成田に5石の寺領寄進を受け、四代将軍家綱以降5石の朱印状を受けた御朱印寺である。、、、、山手通りに面し、竜宮城のような明朝様式の門をくぐると、広い本堂前に出る。 何やら、多くの石仏、石碑が並び、堂も多く歴史がありそうだ!

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・・・・・・・・・・・・成願寺には鍋島家(蓮池鍋島家)の墓所もある。 中野区在来の寺院で大名家の墓所があるのはこの成願寺だけとのこと。

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● 長者橋から神田川の右岸を歩き、西新宿に入ると、銭湯「羽衣湯」があった。、、、、西新宿の再開発による超高層ビルの下、創業は戦後間もない1950年前後、平成11年(1999)に現在の建物を新築オープンしたそうだ。 建物は木造ではないが“ゆ”の看板を掲げてる銭湯だ!、、、、『神田川』に『銭湯』となると、南こうせつとかぐや姫の ♪♪ 貴方は もう忘れたかしら ・・・・・・ 二人で行った 横丁の風呂屋 一緒に出ようねって 言ったのに いつも私が 待たされた 洗い髪が 芯まで冷えて 小さな石鹸 カタカタ鳴った ・・・・・・ ♪♪、、、、歌詞を口ずさみ思う。 寒い北風吹く中、湯上りの身体も冷えて待つ彼女、外に出てきた私が抱いて、熱く燃やしてあげたいね!

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・・・・・・・・・・・・『神田川』の歌詞を頭の中で整理する『あれ、間違えたかな? 首に巻いたのは赤いマフラー? それとも、赤い手ぬぐい?』を、歩きながら気になるね。、、、、と言うことで、「神田川歌碑」を見て確かめよう! 下流の末広橋に碑があるはずだ!




● 西新宿の再開発、タワークレーンの下を歩いて「淀橋」へ。

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・・・・・・・・・・・・淀橋から先(北側)は北新宿。 こちらは、再開発はまだだ!

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・・・・・・・・・・・・「末広橋」西詰の小公園に「神田川歌碑」がある。 書かれてた『・・・・・赤い手ぬぐい マフラーにして・・・・・』と。、、、、神田川の散歩はココまで、大久保駅に向かう。

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● JR中央線の「大久保駅」から帰宅

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2021年10月23日 (土)

すっかり田舎者

私のカメラが修理から戻ってきた。 早速、今日はカメラを持って、JR四ツ谷駅から、赤坂・虎ノ門をとおり新橋駅まで、1万3千歩の散歩です。




● 久しぶりに「四ツ谷駅」の東側にある麹町口に出た。 この出口は、上智大学の斜め前にあるが、チョイト北側には名門女子校の「雙葉学園」(幼・小・中・高)がある。 東側には、こちらも女学生ばかりの「女子学院」(中・高)と、同じく女学生ばかりの「麹町学園」(中・高)がある。 今日土曜日の早朝、駅から吐き出されるのは女学生ばかり、駅前でマスクに帽子の助平そうなおやじが、カメラを持ってウロチョロすると完全に怪しまれる。 麹町警察署に引っ張られるのも嫌なので、足早に駅前から去る!

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● 上智大学隣にある「聖イグナチオ教会」に寄ってみた。 早朝の聖堂内に人影はない。、、、、聖イグナチオ教会(千代田区麹町6)は、イエズス会が運営するカトリック教会。 昭和24年(1949)に創立。 現聖堂は、旧聖堂の老朽化と狭隘化により改築が計画され、平成11年(1999)完成し、竣工式、献堂式が行なわれた。 建築設計は坂倉建築研究所、施工は清水建設・竹中工務店JVにより、RC造の地下1階 地上4階の建物である。 教会全体は中央の芝生の広場を囲むコの字型の配置で、祈りの空間としては、最大1000人規模のミサができる大聖堂、旧聖堂のステンドガラスを残した中聖堂、日本人が祈れる空間を和のデザインに求めた小聖堂などがある。 作品(建物)は、2001年度のBCS賞(建築業協会賞)を受賞した。 ドーム状の主聖堂内部はシンプルだが天井が大きな花弁を模したデザインで、暗さはなく明るく落ち着いた雰囲気の祈りの場である。

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● 四ツ谷駅からホテルニューオータニに向かって伸びる、外濠の土塁上の道を「ソフィア散歩みち」と呼ぶそうだ、おしゃれな名前で驚いた!  聖イグナチオ教会前から土塁上にあがると、桜や松の大樹が茂り、眼下には四ツ谷駅・迎賓館・上智大学のグランドなどが見える。 若い二人にはおススメの散歩道。

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● 外堀通りの
紀之国坂交差点から赤坂見附の方向に下る「紀之国坂(きのくにざか)」を歩く。 坂の東側は首都高と弁慶濠、西側は赤坂御用地。 長さ40m程の緩やかな坂で、坂の西側に江戸時代を通じて紀州徳川家の広大な屋敷があったことから名付けられた。 “赤坂”の起源とする説もある。、、、、この坂の下に、20数年前、私が痔の手術で入院した病院がある。 ベッドからは緑の奥にニューオータニ、プリンスの各ホテルが見える、最高の病室であった。 今度は、健康な時にのんびりと入院したいね(???)

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● 赤坂見附交差点から南に向かい、山王日枝神社本殿裏に至る稲荷参道を上る。 参道の階段を上ると山王日枝神社の末社「山王稲荷神社」に出る。 稲荷の大神は生成発展・商売繁盛の守り神として全国に祀られ、この地:永田馬場星が岡の地主神として松平主殿頭忠房の邸内に祀られ、特に火伏せの信仰が篤く、萬冶2年(1659)本社山王権現が麹町より移遷されるに至り、境内末社となった。、、、、

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・・・・・・・・・・・・稲荷の前から、「山王日枝神社」拝殿前に出た。、、、、山王日枝神社の創建の年代は不詳。 文明10年(1478)太田道灌が江戸城築城にあたり、川越の無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である川越日枝神社を勧請したのに始まるという。 徳川家康が江戸に移封されたとき、城内の紅葉山に遷座し、江戸城の鎮守とした。 慶長9年(1604)からの徳川秀忠による江戸城改築の際、社地を江戸城外の麹町隼町に遷座し、庶民が参拝できるようになった。 社地は家康により5石、元和3年(1617)に秀忠により100石、そして寛永12年(1635)に徳川家光からの寄付を加えて600石となった。 明暦3年(1657)の大火により社殿を焼失したため、万治2年(1659)将軍家綱が赤坂の松平忠房の邸地を社地にあて、現在地に遷座した。 その後、明治15年(1882)に官幣中社になった。 大正元年(1912)には官幣大社に昇格した。 昭和20年(1945)の東京大空襲で社殿が焼失し、昭和33年(1958)に再建された。、、、、私の参拝中に、七五三参りが5組、お宮参りが2組、結婚式が1組、“おめでた”一杯の華やかな境内であった。 美しい女性を見るのも楽し!、、、、参拝済ませて神門前の男坂(階段)を下る。

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● 東京に生まれ、東京で育ち、大学で建築を学び、ゼネコンに就職し、勤務地は九段と赤坂と飯田橋、この経歴なら絶対的に東京の建築物をより多く知っているはずの私だが、今日歩いてみると“立派な田舎者”となっていた。 定年退職し20余年、東京都心はガラリと変わり、ビル名の判らないガラス張りのモダンな超高層建築ばかりとなった。、、、、そんな街を歩いて、溜池交差点に来ると角に、懐かしの「コマツビル」が残っている! 屋上にブルドーザーのオブジェが乗っていた(平成3年撤去)小松製作所の本社ビル、溜池交差点のシンボル的なビル。 今は周囲の建物に比べ、低い、色あせたビルとなったが、懐かしい!、、、、コマツビルの設計は中山克己建築設計事務所+増沢建築設計事務所、施工は鹿島建設+小松建設、地上10階/地下4階、竣工は昭和41年(1966)3月。

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・・・・・・・・・・・・コマツビルと似たような懐かしい印象がある「日本財団ビル」、、、、港区赤坂一丁目交差点角にあるこのビルは、昭和37年(1962)に吉村順三設計事務所の設計により日本NCRの本社ビルとして建設され、2000年に日本財団に譲渡された。 住宅を得意とした建築家:吉村順三が初めて手掛けたオフィスビルである。、、、、施工は竹中工務店、鉄骨鉄筋コンクリート構造/地下4階/地上8階。 昭和39年(1964)に第5回建築業協会賞(BCS賞)を受賞した建物。

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● 虎ノ門交差点の近くにある「虎ノ門金刀比羅宮」にもお立ち寄り。、、、、金刀比羅宮は、讃岐丸亀藩主の京極高和が自領・讃岐の金刀比羅大神を、万治3年(1660)に三田の江戸藩邸に邸内社として勧請、その後延宝7年(1679)に当地虎ノ門へ遷座した。、、、、社殿は権現造りで、第二次世界大戦により焼失したが、拝殿、幣殿の部分は昭和26年(1951)に再建された。ともに総尾州檜造り、銅板葺きである。日本最初の建築史家:伊東忠太の設計校閲による建物で、我が国古来の建築技法が随所に用いられている。、、、、社殿は26階建ての超高層ビルの敷地内にあり、まさにビルに埋もれた都会の神社。

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● 森ビルと言えば、だれもが知る、日本を代表する都市デベロッパーであり不動産会社。 今は、各地で超高層ビルを中心とした都市開発を推進しているが、昭和40年~50年代頃は“第〇〇森ビル”とナンバーリングしたオフィスビルのオーナーとして名を馳せた。、、、、創業家である森家は昭和30年(1955)に森ビルの前身である森不動産を設立、翌年4月に「西新橋2森ビル」を竣工した。 昭和32年(1957)11月に「西新橋1森ビル」(2が先で、1が後)を完成させ、以後、貸ビル業者として竣工順にナンバリングした“第〇〇森ビル”を順次建設する。、、、、その森ビルの、第1番目に竣工した記念すべき西新橋2森ビルが西新橋1丁目の裏通りに現存している。 森ビルの“記念館”にでもなるか(?)

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● JR新橋駅近く、外堀通りに面して建つ、渋い外観の「堀ビル」(登録有形文化財)、、、、このビルは錠前屋のビルとして昭和7年(1932)に建てられた。 以来90年近く新橋のランドマークとして多くの人に親しまれてきた。 現在は竹中工務店が「レガシー活用事業」の一つとして、一括借り受けてレンタルオフィスとして活用しているそうだ。

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● 南北コンコースが一体化され、ホーム大屋根が設置されたJR「新橋駅」に到着、、、、JR新橋駅から乗車するのは久しぶり(普段は都営地下鉄で浅草橋まで乗り換えなし)、ここでも“田舎者”で、構内をキョロキョロしながら改札を通る。 

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2020年12月 1日 (火)

四谷の階段

『勝負の三週間』、『不要不急の外出自粛』、『3密回避』、『年寄りは寝てろ(誰が言った?)』と言われると、暇な年寄りの私は遠方の散歩に出にくいね。 今日は昼過ぎから、四谷の寺町を散策してきた。、、、、JR中央線の信濃町駅から、新宿区須賀町・若葉周辺の寺社を巡って四ツ谷駅まで、8千歩の散歩です。



● 空いてる電車に乗って、浅草橋駅から7駅目(所要15分)の信濃町駅で下車する。 北側の擁壁、南側の首都高に挟まれ、頭上は駅ビルに覆われたホームは昼間と言えども薄暗く、トンネルの中に降りるようだ。 ホーム頭上の駅ビル1階部分が改札口で、「外苑東通り」に出る。、、、、薄暗いホームの照明をミラーボールに変えたら、お客さんに喜ばれるかも?

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● 信濃町駅から「外苑東通り」を北へ歩き、左門町に入ると一本東側の裏道に日蓮宗の長照山陽運寺がある。 陽運寺は昭和初期に創建した。、、、、寺の向かい(左門町17)には、お岩さんの嫁ぎ先の田宮家があった。 そこで、陽運寺は昭和27年(1952)に「於岩稲荷立正殿」を建て、当時から現在に至り中央区新川にある「於岩稲荷」にあやかり、「於岩稲荷はこちらが本物」と盛んに信者を集めたそうだ。 今では、この寺が本家の様に見えるが、元々は、田宮家の向かいに寺があっただけのこと。、、、、商魂たくましく、境内にはカフェが作られ、軽食が食べられるようになっていた。 お守りなど、グッズも売っている。 

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● 陽運寺の前には、「四谷於岩稲荷田宮神社分社」がある。 この地にあった田宮神社は、江戸幕府の御家人田宮家の屋敷社であった。 稲荷は、貧乏所帯を切り盛りし、商家奉公で家を隆昌させ夫婦仲も良かった信心深い於岩(お岩さん)が信心してお参りしていたことから評判となり、寛永13年(1636)という於岩の死後、彼女の徳に肖ろうと善男善女がお参りするようになり、100年ほど後に於岩稲荷として田宮家の菩提寺妙行寺(若葉2)の境内に移して独立させた。 その後、妙行寺は明治42年(1909)に、現在の豊島区西巣鴨に移転し、於岩の墓もこちらにある。 於岩さんは貞女であった。、、、、江戸庶民に慕われ、信仰された実在の於岩さんを、貞女とは180度反対の幽霊にしたのは、江戸時代の文化文政期(1800年頃)の歌舞伎戯作者の鶴屋南北と歌舞伎役者の尾上菊五郎だ。 実在の人物の人気にあやかり、正反対の「東海道四谷怪談」を作り・演じたことで、「四谷怪談を上演すると必ず怪我人が出る。お岩の祟りだ」とのデマゴーグを喧伝し、他ならぬ商売上手な菊五郎による、芝居の宣伝のためだった。 南北と菊五郎はこれで相当儲かったはずである。、、、、明治5年頃、於岩稲荷を田宮稲荷と改称し、火災で移転(中央区新川の於岩稲荷田宮神社)した。 しかし、昭和27年(1952)、陽運寺の『於岩稲荷はこちら!』の掛け声を聞いて、田宮家が激怒し、再びこの地に分社を建立した。、、、、こちら、四谷於岩稲荷田宮神社分社には、東京都教育委員会の名による案内板がある。 都のお墨付きもある、幽霊ではなく貞女の於岩さんの本家本元である。

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● 陽運寺、四谷於岩稲荷田宮神社分社から東に100m程の処(新宿区須賀町5)に「須賀神社」がある。、、、、須賀神社は江戸百稲荷の一で、四谷18ヶ町の総鎮守。 祭神は建速須佐之男命と宇迦能御魂命。 元は稲荷だった。その稲荷社は、往古今の赤坂一ツ木村の鎮守で、清水谷にあったのを、寛永11年(1634)江戸城外堀普請のため、現在地を替地として遷座した。 須佐之男命の鎮座の儀は、寛永14年(1637)島原の乱の時に、日本橋大伝馬町の大名主馬込勘解由が、幕府の命に依り、兵站伝馬の用を勤め、その功績に依り、現在の四谷一円の地を拝領したのを機会に、同20年(1643)神田明神社内に祀ってあった日本橋伝馬町の守護神牛頭天王社(須佐之男命)を地元民の総発意で四谷に合祀し、「稲荷天王合社」となり、俗称「四谷天王社」と云い、明治維新まで親しまれて来た。 明治元年「須賀神社」に改称。、、、、須賀神社の名物は、拝殿内に掲げてる「三十六歌仙絵」である。 三十六歌仙絵は、三十六歌仙を一人一枚の絵に仕立てたもので、縦55cm、横37cmの絹地に彩色したもの。 当時画家として高名だった四谷大番町(現:大京町)の旗本大岡雲峰の絵と、和歌や書画で人気を博した公卿千種有功の書により天保7年(1836)に完成、奉納されたものだ。

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・・・・・・・・・・・・四谷の高台にある須賀神社には、男坂・女坂と呼ばれる階段の参道がある。 一般に男坂は傾斜が急で、一直線で上る。 それに対し、女坂は傾斜が緩やかで、途中で休みやすいように折れながら上る。 ここ須賀神社では、主参道となる男坂と、平行する女坂は、ともに長さ25m、高低差も同じで段数は60段程、傾斜は変わらない。 違いは、一直線に上るのが男坂、途中でクランク状に曲がるのが女坂。、、、、両階段を上ってみたが、見た目、途中で休めそうな女坂の方が、私にはラクダ! 

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・・・・・・・・・・・・女坂の上り口の脇に、日蓮宗寺院の稲荷山妙行寺がある。 妙行寺の創建年代は不詳。 寛永11年(1634)に当地へ移転してきた。、、、、於岩稲荷が移転した同名の妙行寺とは異なる。

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● 須賀神社の南東100m程に、道幅の狭い戒行寺坂(かいぎょうじざか、新宿区須賀町)がある。 この坂は東に向かって、真っ直ぐ下る、長さ120mの急な坂。 坂上の戒行寺門前に標識があり、『戒行寺の南脇を東に下る坂である。 坂名はこの戒行寺にちなんでいる。 別名、「油揚坂」ともいわれ、それは昔坂の途中に豆腐屋があって、質のよい油揚をつくっていたからこう呼ばれたという』と、記されている。 現在は豆腐屋はない!、、、、この坂道沿いに、10か寺前後の寺院があるが、多くは麹町付近にあった寺院が、江戸城外堀建造に伴い寛永11年(1634)に当地へ移転してきたそうだ。 強制立ち退きによる、集団移転!


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・・・・・・・・・・・・坂の名となった「戒行寺」は、日蓮宗寺院で、妙典山と号します。 文禄4年(1595)麹町に戒行庵として創建、後に宮重作兵衛重次が開基となり戒行寺となりました。 江戸期には身延山末頭5ヶ寺の一つとして繁栄、塔頭数ヶ院を擁していた。、、、、境内には、池波正太郎の原作と中村吉右衛門のテレビ時代劇で日本国民に知られている「鬼平犯科帳」の主人公:火付盗賊改の鬼平こと長谷川平蔵の供養塔がある。(墓は明治末期に寺の墓地が杉並区に移転した際に整理合葬された)

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・・・・・・・・・・・・戒行寺坂上の曹洞宗の寺院、蟠龍山永心寺。 慶長9年、麹町清水谷に起立したが、此の辺の寺々と同じく、元地が収用されたので寛永11年に現在地に移転した。 中興は松平越後守の奥女中で、法名は長寿院安窓永心大姉、延宝7年(1679)に歿した。 この辺りの寺院としては、享保11年(1726)に建てられた方丈型の本堂は、風格がある貴重な建築物である。 山門は、江戸時代に建てられた薬医門。

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● 戒行寺坂を下ると、北側に観音坂がある。 今度は上りだ!、、、、観音坂は約85mの直線の急坂。 坂名は、坂下の真成院の潮踏観音にちなむ。
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● 観音坂を上り右に折れると、文禄2年(1593)麹町清水谷に、服部半蔵正成により開山された専称山西念寺がある。、、、、チョイト長い話だが、、、、徳川家康の重臣で、槍の名人:服部半蔵は、忍びの達人としてチャンバラ好きは知ってるはず。 家康には正妻:築山御前との間に武勇に勝れる長子信康がいた。 信康は織田信長に目を付けられ、信長の愛娘を妻とした。 しかし、信長は嘘か真実か信康の乱心を理由に、義父でありながら信康の切腹を家康に要求した。 家康は断腸の思いで天下人信長の非情な命令に従い、最愛の子:信康に切腹を命じた。 その介錯を任ぜられたのが服部半蔵である。 ところが、いかに主君家康の命とはいえ、ついにその手を下すことができなかった半蔵は、このことから世の無常を感じ、また信康の冥福を祈るため仏門に入った。 天正18年(1590)家康は江戸に入り江戸城を築き、幕府を置くことになった。 半蔵も主君に随伴したが、信康の霊を弔うため剃髪し、名を西念と号し麹町清水谷に庵居を設け、遠州以来捧持していた信康の遺髪をそこに埋めて専称念仏の日々を送った。 文禄2年(1593)半蔵は家康より、信康の霊および徳川家忠魂の冥福を祈念するため、一宇建立の内命を受け、金500両を賜ったと記録されてる。 しかし、寺院建立を果たさず、文禄4年(1595)11月14日、55歳で逝去した。 法名は「専称院殿易安誉西念大禅定門」。 その後、一宇の建立がなり、山号と寺号はこの法名から、「専称山安養院西念寺」とした。 寛永11年(1634)幕府の政策により、江戸城外堀の新設工事のため他の寺院と共に、現在地に移転した。 本堂は、昭和20年(1945)戦火で焼失したが、昭和36年(1961)に再建された。

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・・・・・・・・・・・・服部半蔵の墓と、半蔵が家康から拝領した槍(本堂の床の間に保存)

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・・・・・・・・・・・・岡崎三郎信康(徳川信康)供養塔

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● 四ツ谷駅に出て帰る!、、、、四ツ谷駅は明治27年(1894)10月9日、甲武鉄道の停車場として開業。 ホームは周囲の道路、駅舎よりも低い位置の外堀の中にあるので、ホームの上に新四谷見附橋(平成3年架け替え)が架かり「新宿通り」を通している。、、、、大正2年(1913)に架けられた以前の新四谷見附橋は、多摩ニュータウンに復元保存されている。

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