文京区

2022年11月 1日 (火)

護国寺

先日は天台宗の大本山「寛永寺」と子院の「護国院」に行ったので、今日は“院”を“寺”に変え、真言宗豊山派大本山「護国寺」へ行ってきた。 有楽町線護国寺駅で下車し、護国寺、雑司ケ谷霊園、雑司が谷旧宣教師館を巡り、有楽町線東池袋駅まで、墓場の中を探し歩いて1万歩の散歩。



● 朝8時、「護国寺駅」ホームに降りると、『アリャ、コリャ、ナンジャ? 男子学生がゾロゾロ、ゾロゾロ、怪尻ゾロ!』 後ろについて地上に出ると、駅の隣りの「日本大学豊山高等学校・中学校」(男子校)の建物へ吸い込まれて行く、納得! 皆さん勉強に励んでね!

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・・・・・・・・・・ 東京メトロ有楽町線「護国寺駅」は、昭和49年(1974)10月30日、池袋~銀座一丁目間開業と同時に設けられた駅。 島式ホーム1面2線の地下駅。 駅名の護国寺はホーム端の真上に山門があり、線路は境内・墓地の地下を通り抜ける。、、、、お茶の水女子大も駅の近くにあるが、最寄りの出入口が違うのか? 女子大生の姿なし、残念!




● 真言宗豊山派大本山「護国寺」は、神齢山悉地院と号す。 護国寺は、5代将軍徳川綱吉の母、桂昌院の発願によって天和元年(1681)に創建された。 1200石の御朱印寺。 本尊は桂昌院念持仏の琥珀如意輪観音 (絶対秘仏)。 本堂(観音堂)本尊は堀田正虎の母・栄隆院尼寄附の如意輪観世音菩薩。 江戸三十三箇所観音霊場の第13番札所である。 江戸時代には浅草寺、回向院に次いで出開帳の宿寺として人気があったそうだ。、、、、明治時代になると、護国寺は幕府の祈願寺で檀家を持っていなかったため、寺の後ろ盾がなく経済的に困窮した。 そこで、当時の境内地5万坪のうち、東側の2万5千坪を皇族墓地(現:豊島岡墓地)として手放した。 さらに、西側の5千坪は陸軍用墓地として、境内は2万坪ほどに縮小した。 現在、陸軍用墓地は護国寺墓地の一角に音羽陸軍埋葬地として整理されている。 


・・・・・・・・・・ 地下鉄出口の後ろにド~~ンと構える「仁王門」、、、、八脚門、切妻造で丹塗。元禄期造営の本堂(観音堂)、薬師堂や大師堂などから成る徳川将軍の祈願寺としての伽藍の中で、重要な表門である。 建立の年代については、元禄10年(1697)造営の現本堂(観音堂)などよりやや時代が下がると考えられる。 正面の両脇に金剛力士像(右側阿形像・左側吽形像)、背面(北側)の両脇には、二天像(右側増長天・左側広目天)の仏法を守る仏像が安置されている。

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・・・・・・・・・・ 石段下の左右にある手水舎。 そこには、手洗水盤が置かれている。 この水盤は唐銅蓮葉形手洗水盤1対2基で、5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院から寄進されたものだ。 元禄10年(1697)頃に鋳造、江戸鋳物師椎名伊豫良寛の製作とされている。 貴重な水盤で手を清めるのはチョイトためらうね。  

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・・・・・・・・・・ 石段の上に「不老門」がある。 この門は、昭和13年(1938)の建立で、三尾邦三氏の寄進。 様式は京都の鞍馬寺の門を基本に設計され仁王門と本堂の中間に建立された。 扁額は徳川家達という。

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・・・・・・・・・・ 不老門をくぐり右手に堂がある。 元禄14年(1701)に再営された旧薬師堂を、大正15年以降に大修理し現在の位置に移築して「大師堂」にしたものである。 装飾も少なく全体的に荘重、すっきりとした印象をつくっている。 真言宗伽藍における大師堂の格式の高さと、中世的な伝統を重んじた貴重な建造物である。

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・・・・・・・・・・ 「鐘楼」の中では、伝統を重んじた格式の高い袴腰付重層入母屋造りの形式で江戸時代中期の建立である。 都内では同種のほとんどが失われている中で、貴重な文化財。 また梵鐘は、天和2年(1682)に寄進されたもので銘文には五代将軍綱吉の生母桂昌院による観音堂建立の事情が述べられている。、、、、下から覗いただけでは、梵鐘の銘文がどこに書いてあるか見ることができず、読めない! 

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・・・・・・・・・・ 不老門をくぐり左手に「多宝塔」がある。 昭和13年(1938)の建立、塔は石山寺の多宝塔(国宝)の模写(パクリである)

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・・・・・・・・・・ 国指定重要文化財である「月光殿」は、大津市(近江)の三井寺の塔頭日光院の客殿を昭和3年に、現在の場所に移築したもの。 桃山時代の建造で書院様式を伝えるものとして貴重な建物である。 残念ながら、内部は拝見できず。

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・・・・・・・・・・ 現在の本堂「観音堂」は、元禄10年(1697)正月、観音堂新営の幕命があり、約半年余りの工事日数でこの大造営を完成し、同年8月落慶供養の式典が挙げられた。 また元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、その雄大さは都内随一のものと賞され、しかも震災・戦災と二度の大災害にも襲われながら姿も変えず、江戸の面影を今に伝え、訪れる人々に安らぎの場として親しまれている。 昭和25年(1950)に国の重要文化財に指定された。

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・・・・・・・・・・ 観音堂の左手に「薬師堂」がある。 元禄4年(1691)の建立。 一切経堂を現在の位置に移築し、薬師堂として使用したもので、大きな特徴は、柱間に花頭窓を据えているなど、禅宗様建築の手法をとりいれていることで、小規模ながら元禄期の標準的な遺構として、価値ある建造物である。

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・・・・・・・・・・ 薬師堂の裏にひっそりと一基の庚申塔がある。 「音羽講音羽講中庚申塔」と言うらしい。 こんな立派な庚申塔は見たことがない。 総高210㎝、塔身部52㎝、正面に「庚申」の文字。 三猿がその台座を支え、「天明五乙巳歳十一月吉祥日」と刻む。 その下の台座に精巧な龍の模様をあしらい、基壇部の正面に「音羽下町講中 総代弥太郎 音羽町九丁目伊豆屋太郎 願主金屋新八 武江小日向水道町石工安部勘助 細工人安富興兵衛」と刻まれてる。

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・・・・・・・・・・ 護国寺の墓地には、明治・大正・昭和の名士がズラリ揃い踏み。 葉室光子(典侍、明治天皇の側室)、三条実美(公家、政治家)、安田善次郎(財閥創始者)、鳩山邦夫(政治家)など、私が知る名だけでも50名以上。、、、、全員の墓を見て回ると、墓地で一泊しないと帰れない。、、、、当記事では、大隈重信、山縣有朋、大倉喜八郎(伊東忠太の設計、昭和3年建立)の墓所を順に写真紹介する。

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・・・・・・・・・・ 建築の世界に私もチョイト手を染めたので、ジョサイア・コンドルの墓を紹介。 説明板によると、『ジョサイア・コンドル(Josiah Conder)は、1852年ロンドンに生まれ、大学で建築学を学び、のち、日本政府の要請により明治10年来日した。当時、我が国は文明開化改変の中で、各国より幾多の文化をとりいれたが、西洋建築に関しては手さぐりの状態であった。 彼は。工部大学校(東京大学工学部の前身)教授として学生を指導するかたわら、鹿鳴館、ニコライ聖堂、岩崎邸、旧古河邸等多くの建築物をつくり、我が国の近代建築の基礎形成に貢献した。また、辰野金吾、片山東熊、曽禰達蔵ら多くの俊才を育てた。一方、『日本の造園』『日本の華道』著すなど、日本研究の分野でも活躍し、我が国の文化、芸術を海外に紹介した。日本を愛したコンドルは、日本女性クメ夫人とともにこの地に永眠している。』

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・・・・・・・・・・ ところで、ここ護国寺の墓地は、どの墓も広い区割りにあり、行き届いた整備もなされ、“高級住宅地”ならぬ“高級墓地”である。 ここの仏さまは、緑豊かな広い墓地で安らかに眠っている。、、、、使用料、管理料も高そうだ!

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● 護国寺墓地の西の端にある「護国寺墓地門」から墓地を抜けると、道路を挟み斜め向かいに「東京都 雑司ヶ谷霊園」(豊島区南池袋)がある。、、、、雑司ヶ谷霊園は、明治7年(1874)9月1日に「雑司ヶ谷旭出町墓地」として開設した。 明治9年(1876)に東京会議所から東京府が霊園管理事務を引き継ぎ、明治22年(1889)に東京市の管轄となる。 昭和10年(1935)「雑司ヶ谷霊園」に名称変更。 現在は東京都公園協会が管理している。 こちらの霊園も広く大きいため、眠っている仏さまも多い 、、、、こちらは、都営のためか、通路と墓域の境も判らず草ボウボウ、空いた区画はぺんぺん草が伸び放題、大から小まで多種多様な墓が混在、使用料・管理料も安そうだ!

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・・・・・・・・・・ ジョン万次郎、小泉八雲、島村抱月、竹久夢二、泉鏡花、東條英機、いずみたく、永井荷風、サトウハチロー、金田一京助など著名人の多くが眠っている。、、、、私好みの美人画の巨匠:東郷青児、文豪:夏目漱石、銭形平次の大川橋蔵の墓を順に写真紹介。

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● 雑司ヶ谷霊園の南側に、明治40年(1907)に建てられた旧マッケーレブ邸」(雑司ヶ谷旧宣教師館)がある。 帰りにチョイト寄って見た。、、、、旧マッケーレブ邸(雑司が谷旧宣教師館)は、明治40年にアメリカ人宣教師のマッケーレブが自らの居宅として建てたもの。 マッケーレブは、昭和16年(1941)に帰国するまでの34年間この家で生活をしていた。 建物は、豊島区内に現存する最古の近代木造洋風建築であり、東京都内でも数少ない明治期の宣教師館として大変貴重である。、、、、現在は豊島区が所有し、一般公開している。

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● 東京メトロ有楽町線の「東池袋駅」から電車に乗る。、、、、東池袋駅は昭和49年(1974)10月30日の有楽町線池袋~銀座一丁目間開業と同時に設けられた。 ホームは島式1面2線構造で地下2階にある。

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2021年5月12日 (水)

上野池之端

今日は泌尿器科の診察日。 浅草橋の我が家から上野の病院へ、診察後は不忍池の西側歩き地下鉄千代田線の根津駅まで歩いてきた。 1万歩




● 9時の診察開始、一番に診てもらおうと、タップリ余裕をもって7時過ぎに我が家を出る。 病院までは徒歩40分程。

・・・・・・・・・・・・我が家から徒歩1分、廃校となった旧柳北小学校(大正15年竣工)、、、、校舎前の柳北公園と小学校跡地をまとめると、かなり広い敷地(共に区の管理地)である。 廃校となって20年が経過したが、なかなか恒久的な跡地利用が決まらない! 大規模商業施設でもできると嬉しいのだが、無理か!

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・・・・・・・・・・・・病院までの途中(台東区台東)に、「佐竹商店街」がある。 出羽国久保田(秋田)藩の上屋敷(藩主:佐竹氏)跡地に、明治31年(1898)結成・誕生した、日本で2番に古い商店街である。 ちなみに、一番古い商店街は金沢の「片町商店街」(明治27年結成)、、、、商店街の賑わいは薄れ、店じまいした店舗、マンションに変わった店舗が目立つ。

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・・・・・・・・・・・・佐竹商店街の中程、チョイト奥まって小さな「佐竹秋葉神社」が鎮座する。 佐竹秋葉神社は、秋田佐竹藩上屋敷跡地に明治22年秋葉神社の分霊を勧請して創建した。 火之迦具土大神(ほのかぐつちのおおかみ)を祭神とする秋葉山本宮秋葉神社(静岡県浜松市)を本社とする火防・火伏せの社である。 町の鎮守さま!

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・・・・・・・・・・・・8時前、東上野の永寿総合病院に到着、『早すぎた!』 コロナの予防で、8時30分頃までは院内に入れず、外で開くのを待つことになった。 病院裏の公園に行ってみると、ワクチン接種用のプレハブの会場が建てられていた。、、、、台東区は何故か接種時期が遅く、高齢者の接種予約は来週からである。 我が家には高齢者が3人居るが、97歳の我が母はかかりつけ医で接種してくれることになっており、電話連絡待ちの状態。 我が夫婦(高齢者)は、来週以降予約を取ってココの病院へ来ることになる。 自粛も疲れた、一刻も早く注射してもらい、自由に歩きまわりたいけど、予約を取るのが難しそうだ! おそらく一回目の接種は6月になるだろう、まだまだ続く自粛生活!

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● 不忍池の西側、東大池之端門の方向に歩く。

・・・・・・・・・・・・睡蓮の花が咲くのを楽しみに待つ不忍池。 

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・・・・・・・・・・・・岩崎邸庭園入口前に、真宗大谷派寺院の高承山教証寺がある。 教証寺(きょうしょうじ)は、徳川忠長に嫁いだ教証院殿(長姫)が、その子息久遠寿院殿(後の東叡山寛永寺二世)に従って、上野下の当地に教証院と号して起立、教証院殿の二十五回忌の寛文7年(1667)教証寺と改めた。、、、、土蔵造りの本堂には、欄間に龍図と天女図の漆喰彫刻が施されてる。 今の御時世、土蔵造りの本堂を維持するのは、職人の手配、維持費の確保とも、大変らしい。

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・・・・・・・・・・・・岩崎邸庭園の煉瓦塀が続く無縁坂。 無縁坂(むえんざか)は、台東区池之端から文京区湯島へ登る坂。 森鴎外の小説『雁』の舞台となった坂である。

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・・・・・・・・・・・・東大池之端門の脇に、境稲荷神社がある。、、、、境稲荷神社(さかいいなりじんじゃ)は、文明年間(1469~1487)足利九代将軍義尚公により創祀されたと伝えられている。 忍が岡(上野台地)と向が岡(本郷台地)の境に鎮座していることから境稲荷と称された。、、、、境内本殿裏の井戸は、かなり昔からの湧水であることが知られ江戸の地誌にも「弁慶鏡ヶ井」と在り名水らしい。(私は飲んだことないので?)

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・・・・・・・・・・・・東大病院に近い東大池之端門。 東大の“裏口”、“勝手口”と言うような門。

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・・・・・・・・・・・・池之端門から200m程歩くと、臨済宗妙心寺派の寺院「東淵寺」と言う、キリスト教会のようなモダンな造りの寺がある。 そこから北に向かう道は、途中に「台東区立忍岡小学校」があることより「忍小通り(しのぶしょうとおり)」と呼ばれている。

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・・・・・・・・・・・・忍小通りの中程に「七倉稲荷神社」がある。、、、、当神社は古く江戸幕府の米蔵のあった浅草蔵前に鎮座し、7つの倉の守護神として崇められこれが社号の由来となっている。 その頃の社伝によれば阿部豊後守が当社に祈願、その加護により隅田川馬上渡河の功を奏したと伝えられ霊験新たかな神社として江戸町民の振興篤かった。 明治維新後蔵前より池之端七軒町に遷り更に明治9年(1876)に現在地に遷座。 現社殿は平成元年(1989)の造営。

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● 忍小通りの北端は、地下鉄千代田線の根津駅の脇。、、、、根津駅は、昭和44年(1969)12月20日に開業した。 単式ホーム1面1線が上下2層になった地下駅で、1番線ホーム(大手町方面行き)の下に2番線ホーム(北千住方面行き)が設置されている。 改札口は1番線ホームのある地下1階の湯島寄り「不忍池方面改札」と、千駄木寄り「根津交差点方面改札」の2か所である。、、、、湯島寄りの出入口は肉屋さんの隣りで、大小三匹の豚が出迎えてくれる。

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2021年2月12日 (金)

梅は咲いたか!

今日は、チョイト上野へ行く用事ができたので、夫婦で湯島天神に寄ってきた。




● 蔵前橋通りを歩き、新妻恋坂の途中から「清水坂」を行く。、、、、湯島2丁目と湯島3丁目の境にある坂。 文京区教育委員会の案内板には次のように記されている。 『清水坂  江戸時代、この辺りに、名僧で名高い大超和尚の開いた霊山寺があった。明暦三年(1657)江戸の町の大半を焼きつくす大火がおこり、この名刹も焼失し、浅草へ移転した。この霊山寺の敷地は、妻恋坂から神田神社(神田明神)にかかる広大なものであった。嘉永六年(1853)の「江戸切絵図」を見ると、その敷地跡のうち、西の一角に島田弾正という旗本屋敷がある。明治になってその敷地は清水精機会社の所有となった。大正時代に入って、湯島天満宮とお茶の水の間の往き来が不便であったため、清水精機会社が一部土地を町に提供し、坂道を整備した。そこで、町の人が、清水家の徳をたたえて「清水坂」と名づけ、坂下に清水坂の石柱を建てた。』 坂の途中には、大正13年(1924)に建てられた石柱が現存する。、、、、土地の一部として“坂”を寄附するとは、スゴイ! 私もマネしてみたいが、土地を寄附したら明日からホームレスになってしまう!

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● 清水坂から湯島天神に向かう途中、湯島3丁目20と21の間に、急な階段坂がある。 その名は「実盛坂(さねもりさか)」、、、、こちらも、文京区教育委員会の案内板では、『実盛坂  「江戸志」によれば「・・・湯島より池の端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり・・・」とある。また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説めいた話が「江戸砂子」や「改撰江戸志」にのっている。この実盛のいわれから、坂の名がついた。  実盛とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現埼玉県大里郡妻沼町)を構え、平家方に味方した。寿永2年(1183)、源氏の木曽義仲と加賀の国篠原(現・石川県加賀市)の合戦で勇ましく戦い、手塚太郎光盛に討たれた。  斎藤別当実盛は出陣に際して、敵に首をとられても見苦しくないようにと、白髪を黒く染めていたという。この話は「平家物語」や「源平盛衰記」に詳しく記されている。  湯島の「実盛塚」や「首洗いの井戸」の伝説は、実盛の心意気にうたれた土地の人々が、実盛を偲び、伝承として伝えていったものと思われる。』と、記されている。、、、、上から見ると意外と怖い、下から見ると意外とキツイそう。

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● 実盛坂を下って、北隣にある「中坂」を上ると、清水坂から湯島天神に向かう道に戻る。、、、、中坂(なかさか)の名の由来は、江戸時代、妻恋坂と天神石坂(別名:男坂)の間に造られた坂であることに因む。 中間の坂。、、、、この付近は、江戸時代から、湯島天神の門前町として発達した盛り場で、かつては置屋・待合などが多かった。 昭和の頃は、料理屋、料亭、旅館、ラブホテルなどが多かったが、平成になると徐々にマンション、高齢者施設に変わっていった、現在もラブホテルが数軒残っている。 


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● ウメが咲いた湯島天神、、、、コロナに負けずウメが咲き、ウメを愛でに我も来た

・・・・・・・・・・・・まずは、天神さまにご挨拶。 子供も成長し「合格祈願」の対象が無くなったので、夫婦揃って「健康祈願」、私はもう一つ「宝くじ当選」もヨロシク!

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・・・・・・・・・・・・受験シーズン、「合格祈願」の絵馬に願いを託す受験生

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・・・・・・・・・・・・境内のウメにレンズを向ける人

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・・・・・・・・・・・・今月下旬が、一番の見頃かも? 

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2020年12月 2日 (水)

おばけ階段

イチョウの葉も舞い落ちる季節となり、東大本郷キャンパスへ黄葉を見に行った! 御茶ノ水駅から歩いてキャンパスへ向かう。 行ってガッカリ、大学構内に入れず! しかたなく、キャンパスの周りをグルリと歩いて根津へ。 オヤ!雨粒が落ちてきた、急ぎバスで御徒町駅へ戻り、帰宅する。 1万1千歩の散歩です。




JR御茶ノ水駅は、エスカレーター・エレベーター設置はもとより、ホーム上に3階建ての橋上駅舎の新設、聖橋口の拡張、中央快速線のグリーン車連結に対応し快速線ホームの延長、また同時にお茶の水橋の補強工事もあり、てんやわんやの大工事実施中。 見るたびに駅の姿はドンドン変わっていく。 今日、ホームに降りたら旧聖橋口に出る階段が無くなっていた、アリャアリャいつの間にか壊された!、、、、駅は全面工事中で狭い、しかも通勤時間帯で人の動きが多い、こんな処でのんびり写真を撮っていたら殺されるかも? 周りを見渡し、殺されないように、人が少ない時にパチリ!、、、、工事の完成は3年延期し、2023年度を予定しているそうだ。 まだまだ、あと3年!

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● 今日は、東大のイチョウ並木を見に来たのだが、赤門前に来ると『新型コロナウイルスの感染予防の観点から、関係者以外の構内への立入を禁止します。ご理解ご協力をよろしくお願いします。 東京大学』の立て札がたち、身分証明証などをチェックしていた。 アリャ!コリャ、ダメだ。 健康保険証を出しても入れてくれそうになく、諦めた。、、、、でも、『正門なら入れてくれるかも』と、正門に行ったが、こちらもダメ。、、、、ならば、農学部キャンパスに行けば、『内緒で入れてくれるかも』と、農学部正門に行くが、こちらもダメ。 さすが、天下の東大、警備が厳しく潜り込めない、本当に諦めた!、、、、こうなりゃ、コロナに感染して、救急車で東大病院に入るしか方法はなさそうだ!

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● 黄葉は諦め、東大周辺の建築を見てきた・・・・・

・・・・・・・・・・・・東大正門の南側、本郷通りに面するドイツ語関連図書の出版社「郁文堂社屋」。 この建物は、大正12年(1923)に建てられた「昼夜銀行本郷支店」で、典型的な銀行建築の建物。 震災、戦災の被害は軽微で、ほぼ建設当初の姿を見せている。、、、、私は、大学でドイツ語を履修したが、単位を落とすぐらい勉強したので、何も覚えてないね!

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・・・・・・・・・・・・東大前の本郷の町に佇む、築100年の旅館「鳳明館」、、、、建物は、本館、台町別館、森川別館の3カ所にある。 この内、本館は、木造2階建の近代和風建築。 明治30年代に、下宿屋として建設されたが、昭和初期に下宿屋兼旅館に改造し、さらに昭和20年に旅館建築に模様替えした。 各室毎に異なったつくりで、部屋の銘木に合わせた部屋名とする。 下宿・旅館が多かった本郷地区の歴史的な景観を伝える建物で、国の登録有形文化財に指定されている。 本館前の台町別館、本館からはチョイトはずれた森川別館も、本館と同じような佇まいの建築である。 

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・・・・・・・・・・・・鳳明館森川別館近くにある「求道会館」、、、、明治35年(1902)に欧州留学から帰国した真宗大谷派の僧近角常観が、青年らと信仰体験を語り継ぐ場としてここに求道学舎を開き、大正4年(1915)に信仰を説く施設としてこの館を建てた。 私はまだ内部を見たことがないが、内部は長椅子の並ぶ2層吹抜けのホールとなっているそうだ。 設計はアール・ヌーボを日本に紹介した建築家として知られる武田五一(1872~1938)で、京都市役所なども設計した。、、、、仏教の御本尊が安置されているそうだが、ホールでキリスト教の説教をしてみたら、チョイト変わって面白いかも。 仏の道も神の道も行きつく先は同じ。

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● 東大農学部グランド前にある浄土真宗本願寺派寺院の西教寺(向丘2)は、涅槃山究竟院と号す。 西教寺は、常陸國那珂郡松の濱に創建、寛永7年(1630)に湯島へ移転し中興、貞享5年(1688)現在地へ移転した。 西教寺の山門は、酒井雅楽頭の屋敷から明治7年(1874)移築したものである。

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・・・・・・・・・・・・西教寺の北側に、浄土宗寺院の既成山光明院願行寺がある。 この寺は、品川願行寺を開山した僧の孫弟子が明応3年(1494)に開山した。 しばらくは馬喰町にあったが、明暦大火の後に、現在地へ移転した。、、、、本堂には、本尊の木造阿弥陀如来坐像と、出世不動明王が祀られている。

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● 東大のキャンパスを回るように、東大地震研究所の角を曲がると、日本聖公会の小さな「東京聖テモテ教会」がある。、、、、落ち着いた、清々しい雰囲気の教会で、チョイト内部を拝見してきた。 現聖堂は吉田辰夫の設計で、昭和25年(1950)に献堂式を行っている。 スレート葺きの木造漆喰造り。 天井には
木造の小屋組みがむき出しで見え、素朴な感じの空間である。

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● 根津神社の鳥居前を通り、東大キャンパスに沿って裏道に入っていくと「おばけ階段」(根津1-20)がある。、、、、この階段、上りは40段で、下りは39段となるそうだ。 別に、上り下り専用階段あるわけではない。 私も試しに、数えながら一往復してみた。 なるほど!数え間違いしやすい構造になっているのだ、納得!

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・・・・・・・・・・・・数え間違いを起こす原因は、階段の一番下の段が道路面と同じ高さあることだ。 上るときは、最初の1段目に足を乗せ“一歩”をキチンと数えるが、下ってくると最下部の段部までは数えるが、最後にアスファルト(道路)部分にかかる“一歩”を数えないためである。

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・・・・・・・・・・・・この階段が「おばけ階段」と言われる要因としては、他に、階段が墓石で出来ているという話だ。 また段数の、40段、39段は、語呂合わせで『死十』、『三重苦』となるかららしい。、、、、私としては、幽霊などのお化けが出る話でもあれば、もっと面白いのだが、チョイト残念!



● おばけ階段を上がり、根津駅方面に歩いてると、小さな雨粒が落ちてきた。、、、、急ぎ、バスで御徒町駅に出て帰宅。

2020年8月19日 (水)

夏の墓巡り

今日も暑そうだ、『霊園なら幽霊も居ることだし、“冷園”だから涼しいだろう』と、谷中霊園に行ってきた。 JR日暮里駅から谷中霊園、谷中の寺町を抜け、東京メトロ千代田線根津駅まで、1万歩の散歩です。


JR日暮里駅は3面6線の島式ホームと線路、また4本の通過線を持つ地上駅で、北口と南口の2カ所の改札口がそれぞれの橋上駅舎にある。、、、、日暮里駅は明治38年(1905)4月1日に日本鉄道の駅として開業した。 明治39年(1906)には日本鉄道の国有化に伴い、駅も国有となる。 開業時より駅出入口は御殿坂側(現:北口)にあった。 南口が出来たのは、新幹線が上野方面の地下から地上に顔を出すトンネルの坑口が日暮里駅構内に造られた以降である。(南口橋上駅舎がトンネルの坑口の上に造られてるため) 「南口」の開業は昭和60年(1985)前後と思われる。 緑のトンガリ屋根の南口駅舎は、なんともかわいい造りだ。、、、、駅舎の出入口は跨線橋「紅葉坂橋」の中程で、駅を出て東側に向かうと京成の日暮里駅をとおり駅前ロータリーに出る。 西側へ向かうと「紅葉坂」(階段)を上り谷中霊園である。

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● 紅葉坂を上がると、護国山天王寺がある。 天王寺は、もと長燿山感應寺尊重院という日蓮宗寺院として、鎌倉時代に創建された。 不受不施派に対する禁令により、元禄11年(1698)天台宗に改宗した。 享保年間には富くじ興行が許可され、湯島天満宮、目黒不動龍泉寺とともに江戸の三富と称されるほどに賑わった。 富くじ興行は次第に人気が出て、最盛期には毎月行われたそうだ、ジャンボ宝くじと同じ! 『胴元としてウハウハの丸儲け』で、寺も潤ったかも? しかし上野戦争では、当寺に彰義隊の分営が置かれたことから、本坊と五重塔を残して堂宇を全て焼失、さらに昭和32年(1957)の放火心中事件で谷中墓地の中央にあった五重塔を焼失した。、、、、現本堂は昭和57年(1982)に再建。 平成10年(1998)にはモダンな新山門も新築した。

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・・・・・・・・・・・・境内には、像背面銘文によって、元禄3年(1690)に神田鍋町に住む太田久右衛門が鋳造したと判る「銅造釈迦如来坐像」がある。 日蓮宗時代の鋳造である。 青銅を材料とし、割型の製法で鋳造されたもの。 大きさは像高2.96m。 この像ははじめ旧本堂の脇に建てられ、明治7年(1874)の谷中墓地開設のため、墓地西隅に残されていた。 さらに、昭和8年(1933)現在地に基壇を新築し、修理を加えて移され、基壇には納骨堂が設置された。


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● 谷中霊園は、日暮里駅の南(山手線の内側)に広がる約10万㎡、7000基の墓がある都立霊園。 私を含め地元では谷中墓地(やなかぼち)と呼んでいる。、、、、谷中霊園は、主として天王寺の敷地等を東京府が引き継ぎ、明治7年(1874)に開園した。 現在は、都が管理する部分の他に、寛永寺、天王寺、了俒寺等の墓地が入り交じり、複雑な形状となっているが、一般には全体で「谷中墓地」だ!、、、、谷中墓地には、徳川慶喜(正式には寛永寺墓地)、長谷川一夫、牧野富太郎など著名人の墓が多い。 また、有名人ではないが墓碑を読むと、〇〇大学の〇〇博士、南方戦線で指揮した〇〇中将・〇〇大将、〇〇株式会社の創設者などの墓が、あちらにも、こちらにも建っている。

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・・・・・・・以下は、今日、私がはじめて参った墓を紹介する。
 
・・・・・・・・・・・・東大医学部解剖死体慰霊塔、、、、天王寺墓地の区域に、ひときわ目立つ仏塔がある。 門柱に「東京大学医学部 納骨堂」と彫られてる。 東京大学医学部では毎年、献体され遺体解剖により医学の発展に尽くしてくれた御霊に感謝し、天王寺において「解剖体慰霊祭」を開催している。、、、、なお、この納骨堂のある場所は、明治8年(1875)まで、現:天王寺境内にある銅像釈迦如来像があった処で、納骨堂の基壇は釈迦如来像のものをそのまま再利用しているそうだ。

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・・・・・・・・・・・・彫刻家:朝倉文夫の墓。 この墓も天王寺後にある。 朝倉は大分県大野郡出身で、10歳(1893)で朝倉氏の養子となり朝倉宗家を継ぐ。19歳の明治35年(1902)のとき中学校を中退し上京、実兄の彫塑家:渡辺長男宅(旧下谷区谷中初音町)に住み彫塑を学ぶ。 明治36年(1903)東京美術学校彫刻選科に入学、明治40年(1907)同校彫刻選科卒業。 谷中天王寺町にアトリエを新築し、朝倉塾として子弟養成。 多くの賞を受賞し、彫刻界の重鎮として活躍。 昭和9年(1934)谷中初音町にアトリエを改築し朝倉彫塑塾(現:朝倉彫塑館)とする。 昭和23年(1948)文化勲章を授与。 

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・・・・・・・・・・・・稲垣千穎の墓。 稲垣千穎(いながき ちかい、弘化4年(1845)8月~大正2年(1913)2月9日)と聞いて『ああ、知ってる、あの人でしょ』と判った人は、スゴイ、尊敬しちゃうね!(もちろん、私は知らなかった。墓碑を読んで知った次第なり!)、、、、稲垣千穎は、国学者、教育者、歌人、唱歌作詞者、教科書編集者。 東京師範学校教諭として和文教育を行い、多数の和文教科書を編纂した。 また、音楽取調掛として、日本人ならほぼ全員が知っている『蛍の光』 ♪♪螢の光 窓の雪 書讀む月日 重ねつゝ 何時しか年も すぎの戸を 開けてぞ今朝は 別れ行く♪♪ の作詞者である。
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● 谷中墓地の南側(台東区谷中6)に真言宗豊山派寺院の長久院がある。 長久院は、瑠璃光山薬師寺と号し、慶長16年(1611)に神田北寺町に開山、慶安11年(1658)に現在地へ移転した。、、、、本堂前に、「六十六部造立石造閻魔王坐像及び両脇侍像」が祀られている。 その説明板には、『この石仏は、中央に閻魔王像、右左にそれぞれ司命、司録像を配しています。閻魔王は死者の生前の行いに応じて死後の行き先を決めるという冥界の王で、司命は閻魔王の判決を言渡し、司録は判決内容を記録する従者であるとされています。台座に刻まれた銘文によると、この三躰は六十六部聖(六部聖ともいう)の光誉円心という人物が享保11年(1726)に造立したものです。六十六部聖とは「法華経」を六十六部書写し、全国六十六箇所の霊場に一部ずつ奉納した聖のことをいいます。江戸時代になると経典の奉納の他に、石塔・石仏を各地に造立するようになりました。経典の書写や石塔・石仏の造立を重ねることは、生前の罪障を滅し、死後の往生に近づくこととされたためです。都内に現存する六十六部聖が造立した石仏を調べてみると、地蔵菩薩像が圧倒的に多く、閻魔王像は極めて稀であることが分かります。本像は六部聖が江戸時代の谷中でも活動していたことを裏付けるとともに、希少な石仏として貴重な文化財の一つです。この六十六部造立石造閻魔王坐像及び両脇侍像は平成9年に台東区有形文化財に登載されました。(台東区教育委員会掲示より)』と標されていた。 この閻魔は、にこやかな顔をしており、「笑い閻魔」とも呼ばれているそうだ。


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● 長久院の西側(谷中4)に日蓮宗寺院の瑞輪寺がある。 瑞輪寺は、慈雲山と号し、身延山久遠寺第十七世慈雲院日新上人が身延山の江戸宿寺として天正19年(1591)開山した。 元禄年中には、不受不施派の弾圧により、天台宗へと改宗させられた感應寺(現天王寺)から、江戸十祖師の一つである安産飯匙の祖師を移しています。 その後慶安2年(1649)に現在地へ移転した。 江戸期には、身延山久遠寺末触頭で、善立寺、宗延寺と並び日蓮宗(旧法華宗)江戸三大触頭の一つに連なる名刹です。、、、、本堂横の墓地には、徳川家康の家臣:大久保主水の墓(写真中央)がある。 永禄6年三河の一向一揆との戦いで負傷し、歩行が不自由となる。 天正18年(1590)、家康に命じられ奉行として江戸小石川上水(のちの神田上水)を完成させ主水(もんと)の名をあたえられた。 菓子づくりでも知られ、製品は主水菓子とよばれた。

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・・・・・・・・・・・・瑞輪寺本堂の東側に、除厄・
安産の飯匙祖師がある。、、、、【注】“飯匙”と書いて“しゃもじ”と読む。

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● 谷中1-6の三叉路角に、「みかどパン店」とヒマラヤ杉の巨木がある。このヒマラヤ杉は、戦前、今の店主の祖父の代に鉢植えで育てていたものが、いつの間にか大きくなり、今のような大木になったそうだ。 「みかどパン店」は、谷中に古くからあるパン屋さんで、菓子パンやジュースなどを売っている、町によくある店だ。 建物も古く明治後期に建てられた長屋といわれている。 戦後75年となったが、“戦前”から約100年としても、100年間でこれ程の大木となるとは、成長の早い木だ!


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● ヒマラヤ杉の前をとおり(谷中4)に、赤い山門の日蓮宗寺院の寂静山蓮華寺がある。 蓮華寺は、中山法華経寺第19世寂静院日賢聖人の隠室として創始、第三世常在院日在聖人が寛永7年(1630)当地に創建した。、、、、ここの赤門は、明暦、元禄、上野戦争などの災害を免れたもので建築様式は誠に貴重なものだ。 また、現在の本堂等は、江戸文政年頃大檀越勘定奉行細田丹波守の寄進した建造物で、老朽の美を表しているそうだ。、、、、境内には、新内中興の祖:初代富士松加賀太夫(富士松魯中)の墓もある。 魯中は寛政9年(1797)~文久元年(1861)。


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● さて、台東区谷中1丁目と2丁目の境にある三浦坂を下り、地下鉄根津駅に向かう。、、、、この坂は、長さ約160m、高低差6m程で急勾配で、下りは怖い、上りはキツイ。 坂の名は、三浦志摩守下屋敷の前を下る坂であったから名付けられた。 

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● 東京メトロ千代田線根津駅から電車に乗る。、、、、昭和44年(1969)12月20日、開業。 単式ホーム1面1線上下2層構造の地下駅で、1番線ホーム(大手町、代々木上原方向)の下に2番線ホーム(北千住、綾瀬方向)が設置されている。 一日当たりの乗降客数は3万人程である。

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2020年6月 8日 (月)

碑がイッパイ!

一向に収まらない“新型コロナ”は、宣言解除後の“夜の街”にも広がり、何時まで経っても、“三密に注意”、“不要不急の外出は避ける”、“県外への移動は自粛”など、“新型コロナ”向けのキャチフレーズが出たままだ! 一日中暇な私は如何に身を処すべきか判らず、毎日、戸惑うばかり。、、、、今朝も体力維持の散歩で、浅草橋の我が家から湯島天神まで往復してきた。 1万1千歩




●朝から和菓子! ・・・・・・・・蔵前橋通り(鳥越一丁目交差点)・昭和通り(台東三丁目交差点)・中央通り(上野三丁目交差点)を順に横断し、湯島天神へ向かう。、、、、今の季節、道路の植え込みにはアジサイが彩りを添えている。 さいの目に切った寒天で白餡を包んだ、和菓子の“アジサイ”を思い出し、朝からチョイト“バーチャル胸やけ”だ!

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・・・・・・・・・・・・中央通りのビル(台東区上野1-1)の一角に日本最初の喫茶店「可否茶館」跡地の碑がある。 碑はステンレスとガラスでできており、コーヒーカップから湯気が立ち上がる様子をデザインしたと思われる。、、、、明治21年(1888)4月13日、 日本人による初めての喫茶店が、鄭永慶(別名:西村鶴吉)によりこの地に開店した。 二百坪の敷地に五間と八間の二階建ての木造洋館であった。 一階には『トランプ、玉突き、クリケット、碁、将棋』を揃え、また硯に便箋や封筒もおき、更衣室、化粧室、シャワー室、調理場などの設備の他に、『内外の新聞・ 雑誌類・その他和漢洋書・書画を蒐集縦覧に供す』部屋を設け、二階が喫茶室で、丸テーブル、角テーブルを配置、椅子は籐であった。 コーヒーは一杯一銭五厘、牛乳入りが二銭であり、一品料理、パン、カステラなども出していたらしい。、、、、現在、4月13日は日本初の喫茶店「可否茶館」が開店したのを記念して 「喫茶店の日」と決められているそうだ!

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・・・・・・・・・・・・中央通りの西側(上野1-16)に台東区立黒門小学校がある。、、、、明治43年(1910)創立の小学校。 関東大震災のあと、復興小学校として昭和5年(1930)に現在の校舎が再建された。 東京市の設計、日本土木建築KKの施工による、鉄筋コンクリート3階建て。玄関部分はアールデコ調、3階外部の舟形が連続する窓はドイツ表現派のデザインだ。 今に残る、昭和のモダン建築で、国の重要文化財に指定して欲しい!、、、、実は、私もチョッピリ学んだ校舎。 小学6年の時、台東区内の各小学校から数名の代表が選ばれ、毎土曜の午後、ここ黒門小学校の理科室に集合して、理科の勉強をする「黒門科学教室」という学習の場があった。 それに参加して、約1年学んだが、果たして、血となり、肉となり、脳味噌になったか? 今、思うに、消化不良したようだ! (校庭側の写真は、2014/2/10撮影)

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●ウッ・碑・碑・ヒ! ・・・・・・・・我が家から片道約40分、文京区湯島三丁目の湯島天神に到着。、、、社伝によると、雄略天皇2年(458)、勅命により天之手力雄命(あめのたぢからおのみこと)を祀る神社として創建された。 正平10年(1355=室町時代)、住民の請願により菅原道真を勧請して合祀した。現在の正式名称は「湯島天満宮」と称する。 江戸っ子は、婦系図のお蔦・主税を連想させる「湯島天神」の呼称がいいね!、、、、現在の社殿は平成7年(1995)に造営された、権現造り様式による総檜造り。 建築費は??? 「合格祈願」の御守販売で、建築費が賄えたか? 

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・・・・・・・・・・・・天神さま正面の「表鳥居」は、銅製で、寛文7年(1667)同8年の刻銘がある。 この貴重な鳥居は、現在までに数度の修理を重ねて維持されてきた。 鳥居の様式は神明鳥居といわれるもので、横木が二重になり、反りをもって、柱が内側に傾いている。 鳥居は、柱の下から上端についた台輪までの長さが3.88m、笠木上端の長さが6.81m。 下脚部に唐獅子頭部の装飾は鳥居としては特異なものである。

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・・・・・・・・・・・・この表鳥居の左側柱脚の台座に、“不”の字に似た几号水準点がある。、、、、天神さま境内に几号水準点を説明する文章は見あたらず、これを見に来る人は極少数の几号マニアだけ!

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・・・・・・・・・・・・境内に向かう三つの坂、その名は男坂女坂夫婦坂。、、、、まずは、38段の石段坂で、上野広小路の方から一直線に、一気に上る「男坂」  江戸時代の書物「御府内備考」によると、湯島天神参拝のための坂であったが、その後、本郷から上野広小路に抜ける通り道にもなったといわれてる。 現在でも、通勤経路の一部としてこの坂を利用する人が多い。、、、、男坂の石段脇には、関東大震災後に早期復興を願い地元有志が祀った復興地蔵尊がある。 

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・・・・・・・・・・・・続いて、33段の石段坂で、すぐ脇の急な男坂に対して「女坂」という。 坂の頂部で、男坂と交わる。 梅の季節には女坂の周辺に白梅が咲き揃う、画になる坂。、、、、歌にもなった坂。 歌手:原田悠里の歌謡曲「おんな坂」の発売を記念して建てられた碑が、坂の上り口にある。 、、、、坂の上には、「女坂寄附 湯島六丁目 日野屋庄兵衛  明治二十五年」の碑がある。 女坂は寄付で造られたのか?

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・・・・・・・・・・・・三番目の坂は「夫婦坂」、、、、夫婦坂は湯島天神の北(社殿裏側)にある切通坂から境内に上る坂をいう。 平成8年(1996)に湯島天神の改築があり、夫婦坂の途中に立派な門ができ、この門は登龍門と名づけられた。 切通ができて造成されたので時代が新しく、古い坂が男坂、女坂とあるため「夫婦坂」と命名したようだ。、、、、天神さまの勝手口のような坂。
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・・・・・・・・・・・・境内の梅園にたつ「奇縁氷人石」、、、、この石柱の右側には「たつぬるかた」、左側には「をしふるかた」と記されている。 これは迷子がでたとき、子の名を書いた紙を右側に貼って探し、迷子がいた時、その子の特徴を書いた紙貼って知らせた「迷子しらせ石標」の名残りです。 この石柱があると云うことは、天神さまの境内が人で賑わい、江戸有数の盛り場であったことが推測される。今の世は、子供の迷子より大人の迷子の方が、ボケ・痴呆で探しにくいかも、この石柱が役にたつといいのだが、難しそうだ!

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・・・・・・・・・・・・男坂を上った処に、この「新派」の記念碑がある。 碑は新派劇創立九十年を迎えた昭和52年(1977)、松竹株式会社と水谷八重子により新橋演舞場玄関脇に建てられた。 新派の始まりは明治21年(1888)に自由党壮士角藤定憲が同志を集め大阪の新町座で「大日本壮士改良演劇会」の旗揚げをしたのが起源とされている。 その後の90年間で、今日「劇団新派」として隆盛を見たその先人たちの労苦を偲び併せて今後の精進を誓うべく記念碑が建立された。 そして新橋演舞場の改築にあたり、当湯島天神の境内に移させてもらったものである。、、、、頭でっかちの碑は、誰か蹴飛ばしたら首が折れそうな形状で、触るとヤバイ!

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・・・・・・・・・・・・上記の他、都都逸の碑、水平式日時計、王貞治の努力の碑、講談高座発祥の碑、湯島の白梅の碑、文房至宝碑、包丁塚、筆塚、小唄顕彰碑、梅園建設碑、菅公遺訓碑、菅公千年祭記念碑、泉鏡花筆塚などなど、その他にも撫牛、瓦斯灯、宝物殿などもあり、いろいろ取り揃えてある。 全部紹介すると今日中に寝れないので、ここいらで止めておく!

2020年3月25日 (水)

善光寺坂の寺院

「首都封鎖」、「ロックダウン」など、チョイトヤバイ言葉が出てくるようになった“新型コロナ”の東京、年寄りの私も不要不急の外出をしかえている。 今日は、飯田橋の循環器内科の定期検診日。 “不要不急の外出”ではないので、午後から行ってきた。 診察はスグ終わり、チョイト遠回りして帰ることにした。 飯田橋駅から、小石川善光寺坂周辺の諸寺を巡り、大江戸線春日駅までの散歩。




●とうがらし地蔵! ・・・・・・・最初に訪れた寺は、文京区小石川3、伝通院門前の浄土宗寺院の福聚院。 福聚院は、霊應山鎮護寺と号し、安永3年(1774)伝通院末として現在地に創建した。 本尊の大黒天像は、小石川七福神の一つ。、、、、本堂は木造の簡素な造り。 本堂前は付属幼稚園の運動場となっているため、チョイト参拝しずらい。

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・・・・・・・・・・・・“園庭”か、“境内”か、何と云うのか、幼稚園の門を入ってスグ脇に『とうがらし地蔵』がある。 『とうがらし地蔵』、正しく(?)は『せきどめ地蔵尊』という。 明治の中頃、とうがらしの好きなおばあさんが持病のぜん息に苦しんでいて、医者からとうがらしを止められていたにもかかわらず、食するうちに亡くなってしまった。 そこで、近所の人があわれんで、地藏尊を祀りとうがらしを供えた。 その後、ぜん息に苦しむ人々が祈願すると治り、お礼にとうがらしを供えるようになったそうだ。 “新型コロナ”にも効きそうだ!、、、、首にさげているのは“とうがらし” こんなに大量にぶら下げたら、せき止めにならず、刺激が強くて、より以上にむせること間違いなし! 良い子はマネしないでください。 

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●徳川の菩提寺! ・・・・・・・・伝通院は、正式には無量山伝通院寿経寺。 小石川の高台にある浄土宗の寺で、徳川将軍家の菩提寺。、、、、慶長7年(1602)に徳川家康の生母:於大の方が京都伏見城で亡くなると、家康は母の遺骸を遺言通りに江戸へ運び火葬した。 位牌は愛知県蒲郡市の安楽寺に置かれ、光岳寺(千葉県関宿町、後に野田市へ移転)など各地に菩提寺を建立した。 慶長8年(1603)に家康は母の遺骨を現在の墓地に埋葬し、寿経寺をここに移転して堂宇を整備し、母の法名「伝通院殿」にちなんで院号を伝通院とした。 家康は、当初は菩提寺である芝の増上寺に母を埋葬するつもりであったが、「増上寺を開山した上人の師が庵を開いた故地に新たに寺を建立されるように」との増上寺十二世観智国師の言上を受けて、伝通院の建立を決めた。、、、、昭和20年(1945)、アメリカ軍による空襲で小石川一帯は焼け野原となり、伝通院も江戸時代から残っていた山門や当時の本堂などが墓を除いてすべて焼失した。 かつての将軍家の菩提所としての面影は完全に消え去った。昭和24年(1949)に本堂を再建したが、昭和63年(1988)に戦後2度目となる本堂の再建が行われた。 平成24年(2012)には山門も再建された。 

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・・・・・・・・・・・・境内の墓地には多くの著名人の墓があるが、なんといっても家康の生母:於大(おだい)の方の墓から回る。、、、、於大の方(享禄元年~慶長7年(1528~1602)は、三河刈屋の城主水野忠政の娘、天文10年(1541)岡崎城主松平広忠と結婚し、翌年家康を生む。 後に離婚して阿古屋城主久松俊勝に再婚するも人質として織田方や今川方を転々とするわが子家康を慰め、音信を断たなかったという。、、、、於大の嫁入りから死までは、山岡荘八の小説『徳川家康』を読むと、詳しく書かれている。 小説は全26巻、読むのに体力が必要である。 ちなみに私は5回以上全巻を読破した、好きな小説である。、、、、於大の法名:「伝通院殿容誉光岳智香大禅定尼」にちなみ、門前の通り名を「伝通院」とした。 また、春日通りには、昭和46年(1971)頃まで「伝通院」という都電の停留所があった。 

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・・・・・・・・・・・・徳川の菩提寺だから、生母於大の方以外にも、家康の側室:於奈津の方、家康の孫:千姫、家光の正室:孝子の方、その他徳川家の関係者多数の墓が並んでいる。

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●痛々しい老椋! ・・・・・・・伝通院門前を東西に伸びる道を東に150m程歩くと、道の中央に大きなムクノキが見える。 文京区教育委員会の説明板では、『樹高約13m(主幹約5m)、目通り幹周約5mを測る推定樹齢約400年の古木である。第二次世界大戦中、昭和20年5月の空襲により樹木上部が焼けてしまったが、それ以前の大正時代の調査によると樹高は約23mもあった。ムクノキは、ニレ科ムクノキ属の落葉高木である。東アジアに広く分布し、日当たりのよい場所を好む。成長が早く、大木になるものがある。この場所は江戸時代、伝通院の境内であった。その後、本樹は伝通院の鎮守であった澤藏司稲荷の神木として現在に至っている。樹幹上部が戦災により欠損し、下部も幹に炭化した部分が見受けられるが、幹の南側約半分の良好な組織から展開した枝葉によって樹冠が構成されている。枝の伸び、葉の大きさ、葉色ともに良好であり、空襲の被害を受けた樹木とは思えないほどの生育を示している。本樹は、戦災をくぐりぬけ、地域住民と長い間生活を共にし、親しまれてきたものであり、貴重な樹木である。』と、記されている。、、、、この老木があるのは善光寺坂の坂上で、「善光寺坂のムクノキ」と呼ばれているそうだ。

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●妖気漂う稲荷! ・・・・・・・・伝通院の学寮(栴檀林)に、僅か3年で浄土宗の奥義を極めた、沢蔵司(たくぞうす)という修行僧がいた。 元和6年(1620)五月の夜、学寮長の極山和尚の夢枕に沢蔵司が立った。 「そもそも余は千代田城の内の稲荷大明神である。かねて浄土宗の勉学をしたいと思っていたが、多年の希望をここに達した。今より元の神にかえるが永く当山(伝通院)を守護して恩に報いよう」と告げて、暁の雲に隠れたという。 そこで伝通院の住職廓山上人は、沢蔵司稲荷を境内に祭り、慈眼院を別当寺とした。 江戸時代から参拝する人が多く繁栄した。、、、、沢蔵司は、伝通院門前のそば屋「萬盛」によくそばを食べに行った。 沢蔵司が帰ると売上金に必ず木の葉が混じっていて、店の主人は稲荷大明神だと驚き、毎朝最初のそばを稲荷に供え、稲荷蕎麦と称えたという。 これは現在も続いている。 その稲荷蕎麦「萬盛」は、春日2丁目、伝通院前交差点角のコンビニの隣にある。 「沢蔵司 てんぷらそばがお気に入り」と川柳に読まれたほど著名な僧だったらしい。(私は知らなかったね!) 

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・・・・・・・・・・・・本堂の東裏の崖下に窪地があり。 沢蔵司稲荷朱塗りの鳥居が数基見える。 ココが、狐のすむ洞穴である。 社には“霊窟”と記され、奥に洞穴があって稲荷が祀られている。、、、、チョイト、ジメジメして妖気を感じる、ひょっとしたら“新型コロナ”が近くに居るのか?

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●赤門の寺! ・・・・・・・・慈眼院の隣りには、浄土宗の善光寺がある。 善光寺は、慶長7年(1602)に伝通院の塔頭縁受院として創建、明治17年(1884)善光寺と改称し、信州の善光寺の分院になった。、、、、現本堂は明治40年(1907)に建てられたものである。 赤い山門は2か所にある。 

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●注意・注意・注意! ・・・・・・・・大きなムクノキがある坂上から、慈眼院・沢蔵司稲荷、善光寺前を下って行く坂が「善光寺坂」である。 この界隈には、寺院だけでなく、幸田露伴・徳田秋声や島木赤彦、古泉千樫ら文人、歌人が住んでいたそうだ。、、、、超急勾配ではないが、自転車ではかなりスピードが出るようだ、「車に轢かれて善光寺供養」とならぬように注意・注意・注意。

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●目薬より効くこんにゃく! ・・・・・・・善光寺坂を下り、小石川1丁目と2丁目と3丁目がぶつかる交差点に出る。 そこから南に約150m歩くと、小石川2丁目に浄土宗の源覚寺がある。 源覚寺は「こんにゃく閻魔」で知られる。、、、、現覚寺は、寛永元年(1624) に創建された。 本尊は阿弥陀三尊(阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩)。 特に徳川秀忠、徳川家光から信仰を得ていた。江戸時代には四度ほど大火に見舞われ、特に天保15年(1848)の大火では本堂などがほとんど焼失したといわれている。、、、、「こんにゃく閻魔」は、源覚寺に伝わる閻魔像で、閻魔堂に安置されている。 右眼が黄色く濁っているが、閻魔王が信心深い 老婆に己の右眼を与え、老婆は感謝のしるしとして ”こんにゃく”を供えつづけたという言い伝えが ある。 このことから眼病治癒の「こんにゃく閻魔」として庶民の信仰を集めた。 像は、高さ1m程、ヒノキ材の寄木造りで、彩色を施し、玉眼が嵌入してある。 優れたできば えを示し、運慶派の流れをくむ鎌倉時代の作らしい。
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・・・・・・・・・・・・この山と積まれたお供えの“こんにゃく”、いらぬ心配だが、お下がりはどう処分するのだろうか?

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・・・・・・・・・・・・境内正面の閻魔堂の左手奥に「塩地蔵」がある。 長年、塩で埋まっていたようで、姿が見えない。 寺が開かれた寛永元年(1624)以前よりこの地にあったという。 地蔵の体に塩を盛ってお参りすることからその名があり、古来より塩は清めとして用いられ、参詣者が身体健康を祈願した。、、、、つまり源覚寺では、眼科はコンニャク持参で閻魔さまに診てもらい、その他の病気は塩を持参し総合内科の地蔵さまに診てもらう。 死んだら、御本尊の阿弥陀さまに弔ってもらう。 メニューはしっかり揃っています!、、、、“新型コロナ”感染防止はこちらに頼むか!

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●濃厚接触を避け! ・・・・・・・大江戸線春日駅から、満員電車を避け、空いている大江戸線で帰宅する。

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2019年12月11日 (水)

日暮里から千駄木へ

日暮里駅で下車し、荒川区西日暮里3丁目の道灌山側を歩き、台東区谷中を横切り、文京区千駄木に入る。 千駄木の裏道をさまよい、行き止まりに出くわすこと度々、迷路を歩き廻り気付けば通ってきた道。 千駄木三丁目バス停でギブアップ。 1万2千歩の散歩。




●崖っぷちの駅 ・・・・・・JR日暮里駅は、明治38年(1905)4月1日に日本鉄道の駅として開業した、歴史ある駅。 駅は崖地(傾斜地)にあるため出入口は、西側は崖上に出ることにになり、東側は線路面と同じ高さにある。、、、、JRの改札は北口と南口の2カ所で、いずれも橋上にある。 北口改札のある北口駅舎は跨線橋の下御隠殿橋に接続してる。 今日の散歩は、北口から西に向かって歩くことにした。

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●戦国時代の物見櫓! ・・・・・・日暮里駅を出ると御隠殿坂があり、坂に面して日蓮宗の本行寺(荒川区西日暮里3)がある。 本行寺は、大永6年(1526)、江戸城内平河口に建立され、そのご神田・谷中を経て、宝永6年(1709)、現在地に移転した。 景勝の地であったことから通称「月見寺」ともよばれ、多くの俳人たちが本行寺に訪れた、その中には小林一茶もいたそうだ。 「青い田の 露をさかなや ひとり酒」などの句を詠んでいる。 また、儒学者市河寛斎・書家米庵父子や、幕末・維新期に活躍した永井尚志などの墓がある。、、、、戦国時代に太田道灌がここに斥候台を築いたと伝える道灌物見塚があったそうだが、現在は寛延3年(1750)に建てられた碑文も読みにくくなった道灌丘碑が残されている。 本堂裏の墓地からは、日暮里駅前のタワーマンションも一望できる。

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●・・・・・・・・・本行寺の西側に私の好きな細い裏道がある。 今日もこの裏道を通り抜けて、崖上を西日暮里駅の方向に伸びる諏訪台通りに出た。

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・・・・・・・・・・・・・・・裏道の奥に、LIGHT&PLACE 湿板写真館」なる店があった。 “湿版写真”とは、有名な坂本龍馬の写真など、古い写真がガラス板に像を写し取っている、あの写真である。 スマホ、ミラーレスの時代の今、明治時代に盛んであった撮影技術で写真を撮ってくれる処である。、、、、今風の繊細で鮮やかなカラー写真とは違って、モノクロの古びた味のある写真で、自分を撮ってもらうのも良い記念になると思うね。

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●諏訪台通りの1社2寺 ・・・・・・一車線一方通行の諏訪台通りに並ぶ、養福寺、浄光寺、諏方神社にお立ち寄り。

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・・・・・・・・・・・・・・朱塗りの仁王門がある養福寺(西日暮里3)は真言宗豊山派の寺院。 補陀落山観音院と号す。 開創の確かな年代は判らないが、初代住職が寛永3年(1626)に没したと伝えられているので、この頃か?、、、、寺の本堂や観音堂などの建造物は戦災で失われたが、宝永年問(1704~1711)建立といわれている、江戸時代のこの仁王門は焼失を免れた。 門の表側には一対の仁王像ある。 チョイト仁王門自体の造りが華奢で弱々しいね!

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・・・・・・・・・・・・・・諏訪台通りを西日暮里駅の方に歩くと真言宗豊山派の浄光寺がある。 法輪山法幢院と号す。 もとは隣の諏方神社(すわじんじゃ)の別当寺で、境内からの雪見が有名となって雪見寺と呼ばれたそうだ。、、、、山門の左手に、東都六地蔵の三番目として知られるこの大きな地蔵菩薩が立っています。  東都六地蔵とは、銅造泥塑の仏像造りに秀でた下谷心行寺二世空無上人の権化によって元禄4年(1691)に開眼したもので、一番は駒込の瑞泰寺、二番は千駄木の専念寺、三番は浄光寺、四番は下谷の心行寺、五番は上野大仏堂のうち、六番は浅草寺の正智院に安置された。 しかし、現存するのは専念寺と浄光寺だけである。

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・・・・・・・・・・・・・・浄光寺の隣りに諏方神社がある。 元久2年(1206)の創立。 文安年間(1444~1499)に太田道灌が神領を寄進し、徳川時代に神領を賜わり、寛永12年(1635)社殿を現在の地に遷座した。 社名は「諏訪」とせず、「諏方」を使っているのは古来の表記である。 神社は明治時代になり、日暮里・谷中の総鎮守として地元の人々に敬われている。、、、、神社境内から西日暮里駅へ下る階段坂の「地蔵坂」がある。 坂の名は別当寺であった浄光寺の地蔵尊に因んでいる。

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●富士の見えない坂! ・・・・・・・・浄光寺の前から西へ下る富士見坂。 富士山が見えた坂も、数年前から見えなくなり名だけが残った!、、、、今は、街路灯にデザインされた富士山のシルエットだけ。

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●夜、営業する商店街! ・・・・・・・荒川区西日暮里から、台東区谷中の町を少々横断し、文京区千駄木に入った。 千駄木3丁目の「すずらん通り」を抜け、「不忍通り」を横断する。 すずらん通りは、狭い短い通りの左右に小さな飲み屋さんが15軒程ある。、、、、しかし只今午前9時過ぎ、この時間から開けている店はない。 ぜひ夜来て、覗いてみたい通りだ!

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●千駄木の文化財! ・・・・・・・・文京区千駄木の貴重なお屋敷

・・・・・・・・・・・・・・まずは、国登録有形文化財の島薗邸。  木造2階建て、瓦葺の住宅は昭和7年(1932)の建築。 設計は銀行建築などで知られる矢部又吉。、、、、よそ様の家には入れないので、外から覗くだけ!

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・・・・・・・・・・・・・・千駄木5丁目の旧安田邸。  この建物の上棟は大正7年(1918)で、建築主は藤田好三郎、施工は清水組であった。 建築主の藤田好三郎は、練馬区にある豊島園を作った人物で、園芸好きであった。 この家が手狭であったのか、大正12年(1923)の夏には、中野桃園町に邸宅を建て引っ越した。 その直後、安田善次郎(安田財閥の祖)の娘婿善四郎(三十六銀行の頭取)が、関東大震災により日本橋小網町で罹災し、この家を借り受け、翌月には土地建物を購入した。 平成7年(1995)まで、善四郎の長男楠雄が住み続けたが、その後は法人に寄贈された。

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2019年10月 2日 (水)

赤い地下鉄の茗荷谷

今日は飯田橋の循環器内科クリニックの帰り、地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅まで歩いてきた。 9千歩




●揺れる歩道橋は嫌いだ! ・・・・・・私が通う循環器内科は飯田橋交差点近くのビルの中。 今日は2ヶ月に1回の定期検診日である。 血液検査の結果は異状なし。(そりゃそうだ、医者に診てもらっているのだからね)、、、、駅前の飯田橋交差点から散歩をスタート。 飯田橋交差点は外堀通りと目白通りが交差し、大久保通りの起点でもある、主要道による五叉路である。 地下には神田川が流れ、その下には地下鉄の東西線、南北線、有楽町線、大江戸線が走り、神田川の頭上には首都高5号池袋線がとおる、さらに、飯田橋交差点の外堀通りはオリンピックのマラソンコースでもある、まさに交通の要所である。、、、、交差点には車の振動で揺れる(私が好きになれない)大きな歩道橋が掛かっている。


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●長兵衛の死体が流された橋! ・・・・・・隆慶橋(りゅうけいばし)は、神田川に架かる橋で飯田橋交差点から目黒通りを上流側250m程行ったところ(文京区後楽2~新宿区新小川町)、頭上には首都高が走り、桁下の薄暗いところにある。 昭和10年(1935)前後に架けられた現存する鋼製ポニートラス橋である。、、、、ここには、江戸時代に木橋が架けられていたそうだ。 浅草花川戸の町奴:幡随院長兵衛が旗本:水野十郎左衛門と対立し、湯殿でだまし討ちにあい、その死体が流された場所は、この隆慶橋だったらしい。 橋の名は、江戸初期に祐筆大橋隆慶の屋敷地があったこで命名されたらしい。 、、、現在は上流側に新隆慶橋が架けられ、ほぼ歩行者専用橋となっている。、、、、20年程前、私の勤めるオフィスがこの橋の近くにあり、昼食時には、橋の文京区側に並ぶ、蕎麦屋、寿司屋、定食屋を日替わりで食べ歩いていた、思いである懐かしい処である。

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●丸ノ内線の上だ! ・・・・・・・文京区後楽の裏道を歩き、安藤坂交差点に出た。 これより、丸ノ内線西側の小日向台地(文京区小日向)の裾を抜けていた神田上水の跡でもある「水道通り」(=巻石通り)を歩く。

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・・・・・・・・・・・・・・文京区春日2、金富小学校のグランド脇を上って行くと、コンクリート塀にぶつかる。 長い塀に沿って歩くと、塀の向こう側からゴウーという音が聞こえ、姿は見えねど電車の通過音と気づく。 塀の向こうは丸ノ内線だ! 塀沿いに斜路を上って行く。

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・・・・・・・・・・・・・・丸ノ内線の跨線橋に出た。 ここは、車が通れないため、安心して電車を眺められる。、、、、今年2月から営業運転を開始した真赤な塗装の2000系車両、一世代前の02系車両が切通しを疾走する。

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・・・・・・・・・・・・・・跨線橋の先には、これまた、私好みの細い狭い階段坂となる。 階段を上り、裏道を歩き、再び数段の階段を上ると、春日通りに出る。 正面には、名門の学芸大附属竹早小・中学校がある。(ちょうど下校時間だったようだ) 隣には、も一つ名門の都立竹早高等学校が並ぶ。 

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●丸ノ内線の下だ! ・・・・・・春日通りを250m程歩き茗台中の角を入ると、車は行き止まり。 人と犬・猫は階段坂を下ることができる。

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・・・・・・・・・・・・・・この階段坂は庚申坂と呼ばれている。 長さ約45mの急な階段坂を下ると地下鉄丸ノ内線のガードにぶつかる。 ガードの上は丸ノ内線の車両基地。 坂からは、車両基地に留まる丸ノ内線を眺めることもできる、印象的なロケーション。、、、、下りは楽だが、上りはきつそうだ!
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・・・・・・・・・・・・・・チョイト長いガードを通り抜ける。、、、、70過ぎた爺さんは痴漢に襲われる心配無用! 襲う方かも? 

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・・・・・・・・・・・・・・ガードを過ぎると、今度は上り坂。 坂上の切支丹屋敷跡へ向かう。、、、、文京区ではこの坂を切支丹坂としている。 しかし、庚申坂を含め、ここでいう切支丹坂まで、一気通貫で切支丹坂という説もある。 

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・・・・・・・・・・・・・・坂上には切支丹屋敷跡がある。 切支丹屋敷とは、江戸時代、小石川小日向(こひなた)(現:文京区小日向)に設けられ、山屋敷とも呼ばれたキリシタンらを収容した所。 宗門改役を兼ねた大目付井上筑後守政重の下屋敷に、寛永20年(1643)日本へ潜入したイタリア人伴天連キアラらを収容、改宗を促した。 正保3年(1646)には籠舎(ろうしゃ)・倉庫なども整備した。 宝永5年(1708)に潜入した伴天連シドッチは翌年ここに収容され、新井白石などの尋問を受けたが、牢死した。、、、、イタリア語と日本語、しかも、内容は宗教の教義、当時まともに通訳できたのであろうか、はなはだ疑問なり?

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●茗荷谷の二寺 ・・・・・・・・・茗荷谷駅に至近(小日向4)の2寺。
・・・・・・・・・・・・・・まずは、浄土宗の深光寺。 急坂の参道を登ると右に鐘楼、正面に鉄筋コンクリート造りの本堂がある。 左側には古い歴史の在りそうな墓が並ぶ。 その正面中央に滝沢馬琴の墓がある。、、、、深光寺は、寛永16年(1639)の創建。 昭和2年には茗荷谷町良念寺を合併した。、、、、滝沢馬琴(1767~1818)は、江戸時代後期の著名な戯作者。 「南総里見八犬伝」など、多数の作品を残した。

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・・・・・・・・・・・・・・・次は、曹洞宗寺院の林泉寺。 林泉寺は青龍山と号し、通山宗徹和尚(元和7年寂)が開山、伊藤半兵衛(1660年頃)が開基となり創建したと云われている。 本堂は昨年新築したモダンな鉄筋コンクリート造でピッカピカ。、、、、人々が願いをかけるとき地蔵尊を縄でしばり、願いが叶うと縄をほどく「しばられ地蔵」が境内に祀られている。 「縄でグルグルに、身動きできず、地蔵はギブアップ」てなことがないのかな?

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●学生がゾロゾロ! ・・・・・・さすが文京区の茗荷谷駅。 茗荷谷駅を最寄り駅とする、拓殖大学、御茶ノ水女子大学と付属の女子高・中・小・幼、筑波大学の学校教育部と付属高・中、跡見学園の短大・高・中、都立竹早高、貞静学園、第一中、茗台中、窪町小、学芸大付属高など、頭脳明晰な学生と、チョイト色気づいた女子大生、かわいい小学生などなど、学生がひしめいている駅。、、、、駅は昭和29年(1954)1月20日、丸ノ内線池袋~御茶ノ水間開業と同時に設けられた。 ホームは相対式2面2線構造で、半地下式の地下1階にある。

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2019年7月13日 (土)

チョイト早かった蓮

梅雨のチョイ間の雨上り、我が家(浅草橋)からブラリ、上野の不忍池に蓮の咲き具合を見に行き、根津・千駄木の裏道を歩いて、地下鉄千代田線の千駄木駅までの散歩です。 1万3千歩



●雅万歩の歴史? ・・・・・下町の歴史的建造物を見ながら不忍池へ向かう、、、、自分の歴史を振り返るようだ!

・・・・・・・・・・・・・・まずは、我が家から徒歩1分半、私の母校「旧東京市柳北尋常小学校(区立柳北小学校)」(台東区浅草橋5)、、、、次は、さらに3分歩いて「三井記念病院」(千代田区和泉町)、、、、病院前の「凸版印刷」本社前(台東区台東)に、「市村座跡」がある。 市村座は歌舞伎の芝居小屋で、寛永11年(1634)日本橋葺屋町に市村座創始し、中村・森田(のち守田)座とともに、江戸三座と呼ばれた。 天保13年(1842)浅草猿若町に移り、ついで当地に再転。 当地での市村座は、明治25年(1992)から昭和7年(1932)まであった。、、、、(この3か所はコチラに!)

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・・・・・・・・・・・・・・市村座跡跡から西へ80m程歩くと、大正11年(1922)に建てられた煉瓦造風の下水道局和泉町ポンプ所がある。 私が幼き頃は、妖怪の住む怖い建物に思えた処。

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・・・・・・・・・・・・・・秋葉原~御徒町間のJR「御徒町高架橋」(台東区上野5)は大正13年(1924)に完成した。 現在は、山手線・京浜東北線・上野東京ラインが走る。(地下には東北新幹線が走る)、、、、終戦直後の蔵前橋通りに架かる薄暗いガードの周辺には、秋葉原の市場周辺に食べ物を求め、ガード下に寝床を求め、周辺の焼け跡には金目の金属を求め、ばたや・浮浪者・孤児が集まっていた。 幼い私にはここも怖い処に思えた。 いつの間にか“ばたや”、“浮浪者”の姿も見えなくなり、言葉も死語となったのか?

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・・・・・・・・・・・・・・上野松坂屋の方に向かい歩くと、朝湯で有名な燕湯がある。 建物は昭和25年(1950)の建築だが、国の登録有形文化財に指定されている。 私の幼き頃、地下鉄末広町駅の近くに住んでいた祖父母に連れられ度々利用した銭湯。 昔は白く濁った薬湯(くすりゆ)などもあって、湿疹などができると「白湯へ入ってきな!」と言われた記憶も残っている。、、、、燕湯から中央通りに出ると、最近建て替えられた新広小路ビルがある。 1階のコンビニの脇に「日本最初の喫茶店 可否茶館跡地」という碑が建っている。 ここは明治21年(1888)に、この地(当時・上野西黒門町)に日本初の喫茶店「可否茶館」が開店した場所だ!、、、、(ここの詳細はコチラに!)

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・・・・・・・・・・・・・・可否茶館跡から中央通りを40m程北に向かうと、松坂屋の斜め前あたりに、東京3大どら焼きで有名な「うさぎや」がある。 大正2年(1913)創業の和菓子の老舗で、昔からどら焼きを売っている。 味わってみたい人は、並ぶの覚悟、1時間待ち覚悟、売り切れ覚悟でお店へ行くべし。、、、、ちなみに我が家では平日の午前中に、ママチャリに乗って私が買いに行く担当。

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・・・・・・・・・・・・・・池之端「仲町通り」の「黒沢ビル」前を通り不忍池に向かう。 黒沢ビルは毎日、早朝から玄関前を綺麗に掃除し水がまかれ、歩いても気持ちがいい。 オーナーが綺麗好きなのかも?

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奇遇ですね! ・・・・・不忍池の蓮、咲き始めたばかりだ。 まだチョイト早かった、来週の梅雨明けが過ぎた頃、一番の見頃かも?、、、、去年の今日、不忍池を散歩していた。 
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●まだ残っているぞ“下町” ・・・・・不忍池から千駄木駅まで、根津・千駄木の“下町”を求めて裏道を歩く。 裏道にもマンションなどが建ち、“下町”も少しづつ消えて行くようだ。

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