千代田区

2021年3月27日 (土)

“密”より桜

“密”を避けるつもりで、朝、千鳥ヶ淵へ花見に行った。 行ってビックリ、見てドッキリ、赤ちゃんシャックリ、爺さんギックリ、千鳥ヶ淵は満員御礼。 春の陽気の下、一年ぶりの花見である。、、、、飯田橋駅から、千鳥ヶ淵、最高裁判所、国会議事堂をめぐり桜田門駅まで、1万2千歩の散歩です。




● 昨年7月、ホームを市ヶ谷寄りに移設し急カーブを解消した飯田橋駅は、西口(神楽坂側)の駅舎もモダンなデザインの橋上駅舎に新調した。、、、、黒を基調とした駅舎は、神楽坂の料亭のイメージかな?

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● 飯田橋駅斜め前の「日本基督教団 富士見町教会」、、、、、富士見町教会は、明治20年(1887)に創立され、120余年の歴史を持つ教会。 最初は麹町一番町にあったが、明治39年(1906)に富士見町に移転した。 移転後、建物は度々建替えられ、現在の教会は平成25年(2013)に竣工した。 祈りを捧げる人の手の形をイメージし、天を頂きとする三角形状が幾重にも重なるデザインの教会である。 ステキな教会です。

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・・・・・・・・・・・・教会前の早稲田通りを200m程南へ歩くと、いつ解体されてもおかしくないような、忘れ去られるような、地味な建物「共済ビル」がある。、、、、建築年代は不明だが、昭和初期の建物と思われる。 20~30年前までは、タイル張りの外塀であったが、剥がれ落ちるるのか、修復したようだ。、、、、ビル名の“共済”は、“国家公務員共済組合連盟”の関連かも?

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● 靖国神社の大鳥居前を通り、田安門付近にはカメラを持った人があちらにも、こちらにも! 時刻はまだ朝8時前だ!

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・・・・・・・・・・・・千鳥ヶ淵には既に大勢の人が、、、、アリャリャ、コレではコロナに感染するかも? 注意・注意と思えども、ソーシャルディスタンスは難しい。 2m離れると、間に割り込む人がいる!、、、、感染覚悟を決めて、花見を楽しむことにした。

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● 千鳥ヶ淵の南端の堤上に、第二次大戦中に皇居を護るために据えられたB29迎撃用の高射機関砲の台座跡が残っている。 台座は7基残っているが、今はちょうど丸いベンチとして、休憩用に使用されている。、、、、ここに据えた高射砲で、高々度を飛ぶB29を本当に撃ち落とせたのだろうか?


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● 千鳥ヶ淵から英国大使館前の半蔵濠に沿って歩く。

・・・・・・・・・・・・英国大使館は、昭和4年(1929)に建てられたもので、英国工務局設計によるもおの。 また、新館と呼ばれている、オフィス用の建物は昭和62年(1987)の建築である。 天皇の住いである吹上御所に、皇居外から最も近い位置にある建物。

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・・・・・・・・・・・・・・こちらもサクラが見事に咲いている。

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● 半蔵門から先は、久しぶりに皇居周辺の名所巡り・・・・・

・・・・・・・・・・・・皇族が日常出入りする半蔵門。 半蔵門から眺める警視庁(正面)方面。 緑が美しい!

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・・・・・・・・・・・・国立劇場、、、、劇場建物は敷地、諸元等が決定した後、昭和37年にコンペが開始され、翌38年竹中工務店のチームによる設計案が選ばれる。 鉄骨鉄筋コンクリート造、地上3階/地下2階、延床面積26,989㎡にて、昭和41年(1966)竣工。、、、、かれこれ、築60年になる低層の建物で、周辺の高層ビルが目障りになって来た!

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・・・・・・・・・・・・国立劇場のお隣には最高裁判所、、、、こちらもコンペが実施され、鹿島建設のチーム(岡田新一ほか16名)が当選した。 鉄骨鉄筋コンクリート造、地上5階/地下2階、延床面積59,671㎡にて、昭和49年(1974)竣工。

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・・・・・・・・・・・・最高裁判所の敷地東側の付近には、かつて三河田原藩の上屋敷があった。 江戸時代の文人画家・蘭学者であった渡辺崋山は、寛政5年(1793)この上屋敷内で誕生した。、、、、現在は三宅坂小公園となっている。

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・・・・・・・・・・・・次は憲政記念館、、、、国会議事堂前、永田町1丁目1番1号に建つている、尾崎行雄を記念する会館。 昭和47年(1972)に我が国の議会開設80年を記念して建てられた。 海老原一郎の設計、大成建設の施工。、、、、憲政記念館は、このたび取り壊されることとなり、新しく国立公文書館と合築して建設・移転することになった。、、、、お別れのため、内部をチョイト拝見!

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・・・・・・・・・・・・憲政記念館の隣り国会前庭園には、日本水準原点庫がある。、、、、都教育委員会の説明では、『日本全国の統一された標高決定のための基準として、明治24年5月に水準原点が創設されたが、この建物はその水準原点標を保護するために建築されたものである。設計者は工部大学校第1期生の佐立七次郎。建物は石造で平屋建。建築面積は14.93㎡で、軒高3.75m、総高4.3m。 正面のプロポーションは柱廊とその上部のエンターブラチュア(帯状部)とペディメント(三角妻壁)のレリーフ装飾で特徴づけられる。日本水準原点標庫は石造による小規模な作品であるが、ローマ風神殿建築に倣い、トスカーナ式オーダー(配列形式)をもつ本格的な模範建築で、明治期の数少ない近代洋風建築として建築史上貴重である。』と記されている。

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・・・・・・・・・・・・・・国会前庭園にもう一つ大事な基準点がある。 それは、巨大な鉛筆型の電子基準点「東京千代田」である。、、、、電子基準点「東京千代田」とは、『この電子基準点は、我が国の準天頂衛星システムや米国のGPSなどの星測位システムの信号を常時受信し、地球上の正確な三次元位置を計測・モニタリングする施設である。国土地理院は全国に電子基準点網を構築して、土地の測量や地図の調整に必要な位置の基準を提供するとともに、国土の地殻変動をモニタリングしている。また、受信した信号は高精度なリアルタイム位置情報サービスにも利用されている。電子基準点「東京千代田」は日本の基準となる日本水準点の近傍にあり、その標高を常時モニタリングする役割も担っている。』 なにやら、判ったような判らないような、チンプンカンプンの説明である。
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● 国会前庭園に来たら、本宅である国会議事堂を見て行かねば罰が当たる!!、、、、内部には入れてくれないので外からパチリ!、、、、現在の建物は昭和11年(1936)に帝国議会議事堂として建設された。 鉄骨鉄筋コンクリート造り地上3階(中央部分4階)、地下1階。

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● 今日の散歩は桜田門まで。 警視庁の地下から、地下鉄で逃走!
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2021年1月31日 (日)

銅像を見ながら

体力維持のため、スリムな体型に戻すため、(本音は自粛生活に飽きたため)、今日は我が家(浅草橋)から皇居まで歩いてきた。 1万5千歩

 

● 浅草橋駅前から江戸通り(=国道6号)を日本橋室町方向に歩く。 日曜の朝7時半、歩く人もまばら、コロナ感染の心配なし!

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● 小伝馬町交差点から、チョイト裏道に入り「傳馬町牢屋敷跡」にお立ち寄り!、、、、伝馬町牢屋敷は慶長18年(1613)に常盤橋外より小伝馬町へ移転されたもので、明治8年(1875)に市ヶ谷囚獄へ移転までの江戸の牢獄であった。 面積は2600余坪で、現在の大安楽寺、身延別院、十思公園、十思小学校跡などを含む一帯である。 揚座敷、揚屋、大牢(庶民)、百姓牢、女牢などの獄舎や拷問蔵などがあったそうだ。 定員は350名程度だが、最大700名を収容できたといわれてる。 牢屋奉行には石出帯刀が世襲した。 安政の大獄(1859)では吉田松陰や橋本左内らが収容されていた。

・・・・・・・・・・・・大安楽寺、、、、高野山真言宗の大安楽寺は、明治15年、牢屋敷跡だった当地に誰も住み着かず、大倉喜八郎と安田善次郎が寄進して、受刑者を弔うために創建された。 

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・・・・・・・・・・・・身延別院、、、、明治16年(1883)身延山法主日薩上人が、現在:十思公園となっているところに願満祖師堂を創建し、身延山より日蓮上人木像を移して安置した。 関東大震災後、十思公園の向かいである現在地に、昭和3年(1928)現在の堂宇を建立した。 本堂の前左側には、名優:長谷川一夫が施主となり祀った、商売繁盛の願いを懸ける「油かけ大黒天」を安置した小堂がある。

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・・・・・・・・・・・・十思公園(じっしこうえん)、、、、明治になって牢屋敷跡を払い下げしようとしたが、祟りを恐れ買い手がつかなかった。 一部は、大安楽寺、身延別院となり、震災後、十思小学校が新築され、それに附属する公園として十思公園が開園した。、、、、園内には吉田松陰の終焉地として石碑がある、、、、「石町(こくちょう)時の鐘」として有名な、宝永8年(1711)に鋳造された鐘も残されている。

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・・・・・・・・・・・・旧十思小学校(じっししょうがっこう)、、、、旧十思小学校は明治11年(1878)に開校し、現存する建物は、関東大震災を機に、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造りの校舎として建て替えられたものである。 表現主義と呼ばれる建築様式で、カーブさせた隅部、アーチ窓、半円形の円柱等の意匠に特徴がある。 正面玄関部分は特にカーブが大きく、全面に小広場があるなど建物の顔となっている。 平成2年(1990)3月の廃校後、改修工事を経て、平成13年(2001)からは区の複合施設「十思スクエア」として区民に利用されている。

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● 「江戸通り」と「昭和通り」が交差する「本町三丁目交差点」、、、、それぞれ道路の愛称名である「江戸通り」と「昭和通り」は、交差点で直交し判りやすいのだが、道路の路線番号はチョイと複雑である。 「国道4号」と「国道6号」は日本橋が起点で、室町三丁目交差点から本町三丁目交差点までの江戸通りの区間は重複している。 本町三丁目交差点から、昭和通りに入るのが「国道4号」、交差点から江戸通りを浅草方面に向かうのが「国道6号」である。 本町三丁目交差点を起点として、昭和通りを大森方面に向かうのが「都道316号」、、、、この説明を書いている自分も何が何だか、混乱してきた、アレレ???

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・・・・・・・・・・・・かつて、本町三丁目交差点の角に、小さな木造の喫茶店があった。 店前には、青地に黄色で鍵と“KEY COFFEE”と描かれた看板を出し、チョイト、ひと休みしたくなる雰囲気の店だった。 いつか珈琲を飲みに寄ろうと思っていたが、いつの間にか店は閉じ、更地となってる。 また、昭和の建物が消えていた!



● 三越前で、チョイト疑問が頭をよぎる。 『三越といえばライオン像』だが、『何でライオンなんだ?』 ライオン像の謂れを知る人は少ないのでは? 私も知らないので、興味が湧いてきた!、、、、日本橋三越本店玄関前のライオン像、後ろの壁に説明板が貼られている。 『ライオン像 三越の正面入口を守る一対のライオン像は、ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン記念塔下のライオン像を模し鋳造されたものです。〝気品と勇気と度量〟の象徴として、また、ご来店のお客様の守護神として大正3年(1914年)本店のルネッサンス様式建築の本館ライオン口に設置されました。以来、東京名所の一つとして親しまれ、待ち合わせの場所としても有名です。このライオン像は、“必勝祈願の像”として誰にも見られずに背にまたがると念願がかなうと言い伝えられ、特に受験生の間に人気があります。』と記されている。、、、、知ってしまえば、あまり深い意味はなく、客寄せに設置したようだ! パンダでもよかったかも?

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● 三越の斜め向かい、日本橋室町2-3の室町三井ビル(コレド室町2)の裏通りに面した南西角に、ナント・ビックリ! 古河グループ(財閥)の創始者:古河市兵衛の住居跡があり、古河市兵衛胸像がある。、、、、古河市兵衛は天保3年(1832)京都岡崎で生まれる。 行商から身を興し、明治8年足尾銅山を開発して鉱山経営に着手、その強靭な気根と不撓の行動力により幾多の困難を乗り越え「鉱山王」と呼ばれた。 足尾銅山の発展を基盤として多角経営に進出、これが今日における古河グループ発展の基礎となる。 この地は古河が、明治10年住居兼古河本店とし、その後、20年間事業の拠点とした発祥の地である。、、、、三井の発祥地(三越)と古河の発祥地は、ほぼ向かい合わせにあったらしい。

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● 三越と三井本館の間を抜け、日本銀行前を行く。

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・・・・・・・・・・・・日本銀行の西側、日本橋川に東京最古の橋の常磐橋(ときわばし)がある。、、、、常磐橋は、天正18(1590)年の架橋と言われ東京では最も古い橋のひとつ。 常盤橋門の見附橋として活躍した。 現在の橋は明治10年(1877)に建造されたが、老朽化は激しく、東日本大震災以降は立ち入り禁止となり、改修工事が行われている。 歴史的に貴重な橋で、いろいろ調査しながら工事が進められている。 ほぼ、橋の工事は完了したようだが、まだ渡れない!

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・・・・・・・・・・・・常磐橋の下流に架かる、昭和元年に架けられた常磐橋を渡り千代田区大手町に入ると、今年の大河ドラマの主人公:渋沢栄一の像がある。 ここは、面積は僅か1420㎡の常磐橋公園の一角である。 江戸時代に枡形の城門である常盤橋門があったところで、明治8年に財団法人渋沢青淵翁記念会(渋沢栄一記念財団)によって復旧整備が行われ、東京市の公園として公開された。 それ故、園内に渋沢栄一の銅像が建っている。 製作者は朝倉文夫。、、、、渋沢栄一については、NHKで麒麟が終わったら、「青天を衝け」を観てね!

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● 東京駅丸の内側、新丸ビル前の広場に「正二位勲一等子爵井上勝君像」がある。、、、、井上勝は天保14年(1843)生まれの長州藩士。 伊藤博文らと共にイギリスに密航し、ロンドン大学で鉱山、土木工学を学び、明治元年に帰国。 帰国後は鉄道敷設に貢献し、「鉄道の父」と呼ばれるようになった。、、、、銅像は大正3年(1914)に設置されたが、昭和19年(1944)に撤去された。 昭和34年(1959)には、没後50年を記念して二代目の銅像が建てられた。 ところが東京駅復元工事の為に平成19年(2007)に再び撤去され、平成29年(2017)、東京駅復元工事の完了とともに銅像も戻って来た。 駅前広場から東京駅舎と変わりゆく大手町のビル群を眺めながら、マスクを着けてコロナに怯え行き交う人々を見守っている。

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● 来ました、着きました、二重橋です! 観光客の人影は見えず、静かな皇居前広場

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2020年12月29日 (火)

浅草橋の三迷橋

コロナの感染者数は『我慢の三週間』から大幅に増え、英国製・南ア製の新型モデルも発表・渡来した。 『不要不急の外出自粛』、『三密の回避』など感染対策の徹底がより強く求められ、雅万歩も今まで以上に自重することにした。 しばらくの間、散歩は我が家の周辺をチマチマ歩くことにする。

雅万歩が住むのは台東区浅草橋。 今日は、地元「浅草橋駅」に近い柳橋・浅草橋・左衛門橋の三橋と、隣りの千代田区に架かる美倉橋の、四橋を歩いてきた。 1万歩には程遠い5千歩の散歩。

日本橋(東京)、錦帯橋(岩国)、眼鏡橋(長崎)の『日本三名橋』に対抗して、誰が言ったか『浅草橋の三迷橋』、、、、とは、誰も言ってない! 雅万歩が勝手に言った! その『浅草橋の三迷橋』は、神田川に架かる三橋のことで、隅田川に注ぐ最下流から、柳橋・浅草橋・左衛門橋である。 左衛門橋の上流に架かる美倉橋は、“付録”とする。




● まずは、神田川が隅田川に合流する手前に架かる「柳橋(やなぎばし)」、、、、現在の橋は、右岸の中央区東日本橋と左岸の台東区柳橋を結ぶ震災復興橋のひとつで、昭和4年(1929)に工事費12万1千円で完成した、長さ37.9m、幅11.0mの鋼製タイドアーチ橋。 永代橋をモデルにしたと言われる小型のアーチ橋で、全体的に緑色に塗られている。(たまたま、今月から来年3月まで、塗装の塗り替え工事中)、、、、初代の柳橋は、江戸時代後期に架設された木橋で、はじめは「川口出口の橋」と呼ばれたそうだ。 「柳橋」の名は、享保年間(1716~1735)の頃、土手の両岸に柳の木が植えられていたことに由来するようだ。、、、、江戸時代から今日まで、橋畔は船宿が並んでいる。 昔は日本堤の遊里、新吉原へはここから隅田川を舟で昇り今戸の山谷堀まで行った。 また、幕末・明治以降、昭和40年代頃までは、柳橋は花柳界として名を馳せた。 現在では、この付近の護岸は非常に高くカミソリ護岸となっているが、船宿に屋形船も繋留されていて、江戸情緒は残っている。、、、、私が知る、戦後の花柳界のあった頃は、暗くなると黒塗りの乗用車が並ぶ町で、芸者さんが人力車で行き交っていた。 路地裏の我が家の前にも、芸者さんを迎えに人力車が入って来た。 美人芸者がイッパイ、あの良き時代に戻りたいね!

・・・・・・・・・・・・塗装工事中の今日の柳橋

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● 柳橋の上流に架かるは「浅草橋(あさくさばし)」、、、、その名のごとく、浅草寺の門前橋であるが、浅草寺までは北へ約2km程ある。、、、、浅草橋は江戸36見附の一つで、浅草橋御門として寛永13年(1636)頃(詳細は不明)に架けられた。 奥州街道の起点となっていたため、徳川時代、神田川に架かる橋としては重要な位置づけを与えられていた。明治7年には見附門の石を利用して石造アーチ橋として架け替えられましたが、これは何故か長持ちせず、すぐに他の形式に架け替えられた。、、、、現在の橋は、これも震災復興橋として、昭和5年(1930)1月に開通した。 右岸は中央区日本橋馬喰町、左岸は台東区浅草橋。 工事費27万7千円、下部工は間組(現:安藤ハザマ)の施工による鋼製アーチヒンジ橋。 アーチ構造の橋ということだが、アーチ(円弧)の形状が緩やかなためか、水平の桁橋に近い印象を受けう極めて単純な橋で、面白味に欠ける。 親柱や欄干などは、お金をケチったのか貧弱で、センスも悪く印象が薄い、存在感が無いね!

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・・・・・・・・・・・・浅草橋南詰(中央区側)に開智日本橋学館中学高等学校がある。 その校舎の一角に、浅草橋御門の石垣の石が発掘され残されている。 貴重な石らしいが漬物石より大きく、一見しただけでは石垣の石には見えないね!

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● 次は「左衛門橋(さえもんばし)」、、、、左衛門橋の上流側は千代田区東神田、下流側右岸は中央区日本橋馬喰町、下流側左岸は台東区浅草橋、なんと三区を結ぶ橋。 さらに地名だけ読むと、“神田”、“日本橋”、“浅草”と、江戸っ子が喜びそうな地域を結ぶ橋。、、、、左衛門橋の北詰一帯(現:JR浅草橋駅西口周辺)に、慶長3年(1598)から明治維新までずっと、徳川譜代大名庄内藩酒井左衛門尉(さえもんのじょう)の下屋敷があった。 橋の由来は、後に、神田川に望むこの地を左衛門河岸と呼んだことにちなむ。、、、、左衛門橋の創架は、明治8年(1875)、東京府の認可を受けた賃取橋(有料橋)として、民間人により架けられたものである。 その後、明治34年(1901)、下路式プラットトラスの鉄橋に架替えられた。、、、、現在の橋は、昭和5年(1930)に、工事費13万5千円で、架けられた鋼製アーチ橋である。(平成12年大規模補修工事が行われた) 次の美倉橋と左衛門橋・浅草橋の三橋は、いずれも似た構造の鋼製アーチ橋で、震災復興橋でもある。、、、、30年ぐらい前の話だと思うが、高度成長期には汚れていた神田川が浄化され、隅田川からボラの大群が上ってきた。 その時は、我が家から最も近い左衛門橋から川を覗いて、水が清くなったことを実感した! いつだったか、クラゲの大群が上がってきたこともあったね!

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● 左衛門橋の上流には「美倉橋(みくらばし)」が架かっている。、、、、美倉橋は右岸の千代田区東神田と左岸の千代田区神田佐久間町に架かる橋。 現在の橋は、昭和4年(1929)2月の架設、長さ35.35m、幅23.31mの鋼製アーチ橋。 工事費は17万9千円也。、、、、神田美倉町はもと佐柄木町・本銀町・紺屋町の蔵地からなり三倉地と呼ばれ、橋の営繕は町の費用で行われていた。 明治2年(1869)に“三”を“美”に改め、町名及び橋名にした。 橋の南詰には、この命名に因んで、倉が三棟建っているが、実体は公衆便所で、男・女・車椅子の各用のトイレ。 味噌を処理する“味噌蔵”だ!

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2020年12月 2日 (水)

おばけ階段

イチョウの葉も舞い落ちる季節となり、東大本郷キャンパスへ黄葉を見に行った! 御茶ノ水駅から歩いてキャンパスへ向かう。 行ってガッカリ、大学構内に入れず! しかたなく、キャンパスの周りをグルリと歩いて根津へ。 オヤ!雨粒が落ちてきた、急ぎバスで御徒町駅へ戻り、帰宅する。 1万1千歩の散歩です。




JR御茶ノ水駅は、エスカレーター・エレベーター設置はもとより、ホーム上に3階建ての橋上駅舎の新設、聖橋口の拡張、中央快速線のグリーン車連結に対応し快速線ホームの延長、また同時にお茶の水橋の補強工事もあり、てんやわんやの大工事実施中。 見るたびに駅の姿はドンドン変わっていく。 今日、ホームに降りたら旧聖橋口に出る階段が無くなっていた、アリャアリャいつの間にか壊された!、、、、駅は全面工事中で狭い、しかも通勤時間帯で人の動きが多い、こんな処でのんびり写真を撮っていたら殺されるかも? 周りを見渡し、殺されないように、人が少ない時にパチリ!、、、、工事の完成は3年延期し、2023年度を予定しているそうだ。 まだまだ、あと3年!

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● 今日は、東大のイチョウ並木を見に来たのだが、赤門前に来ると『新型コロナウイルスの感染予防の観点から、関係者以外の構内への立入を禁止します。ご理解ご協力をよろしくお願いします。 東京大学』の立て札がたち、身分証明証などをチェックしていた。 アリャ!コリャ、ダメだ。 健康保険証を出しても入れてくれそうになく、諦めた。、、、、でも、『正門なら入れてくれるかも』と、正門に行ったが、こちらもダメ。、、、、ならば、農学部キャンパスに行けば、『内緒で入れてくれるかも』と、農学部正門に行くが、こちらもダメ。 さすが、天下の東大、警備が厳しく潜り込めない、本当に諦めた!、、、、こうなりゃ、コロナに感染して、救急車で東大病院に入るしか方法はなさそうだ!

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● 黄葉は諦め、東大周辺の建築を見てきた・・・・・

・・・・・・・・・・・・東大正門の南側、本郷通りに面するドイツ語関連図書の出版社「郁文堂社屋」。 この建物は、大正12年(1923)に建てられた「昼夜銀行本郷支店」で、典型的な銀行建築の建物。 震災、戦災の被害は軽微で、ほぼ建設当初の姿を見せている。、、、、私は、大学でドイツ語を履修したが、単位を落とすぐらい勉強したので、何も覚えてないね!

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・・・・・・・・・・・・東大前の本郷の町に佇む、築100年の旅館「鳳明館」、、、、建物は、本館、台町別館、森川別館の3カ所にある。 この内、本館は、木造2階建の近代和風建築。 明治30年代に、下宿屋として建設されたが、昭和初期に下宿屋兼旅館に改造し、さらに昭和20年に旅館建築に模様替えした。 各室毎に異なったつくりで、部屋の銘木に合わせた部屋名とする。 下宿・旅館が多かった本郷地区の歴史的な景観を伝える建物で、国の登録有形文化財に指定されている。 本館前の台町別館、本館からはチョイトはずれた森川別館も、本館と同じような佇まいの建築である。 

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・・・・・・・・・・・・鳳明館森川別館近くにある「求道会館」、、、、明治35年(1902)に欧州留学から帰国した真宗大谷派の僧近角常観が、青年らと信仰体験を語り継ぐ場としてここに求道学舎を開き、大正4年(1915)に信仰を説く施設としてこの館を建てた。 私はまだ内部を見たことがないが、内部は長椅子の並ぶ2層吹抜けのホールとなっているそうだ。 設計はアール・ヌーボを日本に紹介した建築家として知られる武田五一(1872~1938)で、京都市役所なども設計した。、、、、仏教の御本尊が安置されているそうだが、ホールでキリスト教の説教をしてみたら、チョイト変わって面白いかも。 仏の道も神の道も行きつく先は同じ。

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● 東大農学部グランド前にある浄土真宗本願寺派寺院の西教寺(向丘2)は、涅槃山究竟院と号す。 西教寺は、常陸國那珂郡松の濱に創建、寛永7年(1630)に湯島へ移転し中興、貞享5年(1688)現在地へ移転した。 西教寺の山門は、酒井雅楽頭の屋敷から明治7年(1874)移築したものである。

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・・・・・・・・・・・・西教寺の北側に、浄土宗寺院の既成山光明院願行寺がある。 この寺は、品川願行寺を開山した僧の孫弟子が明応3年(1494)に開山した。 しばらくは馬喰町にあったが、明暦大火の後に、現在地へ移転した。、、、、本堂には、本尊の木造阿弥陀如来坐像と、出世不動明王が祀られている。

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● 東大のキャンパスを回るように、東大地震研究所の角を曲がると、日本聖公会の小さな「東京聖テモテ教会」がある。、、、、落ち着いた、清々しい雰囲気の教会で、チョイト内部を拝見してきた。 現聖堂は吉田辰夫の設計で、昭和25年(1950)に献堂式を行っている。 スレート葺きの木造漆喰造り。 天井には
木造の小屋組みがむき出しで見え、素朴な感じの空間である。

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● 根津神社の鳥居前を通り、東大キャンパスに沿って裏道に入っていくと「おばけ階段」(根津1-20)がある。、、、、この階段、上りは40段で、下りは39段となるそうだ。 別に、上り下り専用階段あるわけではない。 私も試しに、数えながら一往復してみた。 なるほど!数え間違いしやすい構造になっているのだ、納得!

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・・・・・・・・・・・・数え間違いを起こす原因は、階段の一番下の段が道路面と同じ高さあることだ。 上るときは、最初の1段目に足を乗せ“一歩”をキチンと数えるが、下ってくると最下部の段部までは数えるが、最後にアスファルト(道路)部分にかかる“一歩”を数えないためである。

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・・・・・・・・・・・・この階段が「おばけ階段」と言われる要因としては、他に、階段が墓石で出来ているという話だ。 また段数の、40段、39段は、語呂合わせで『死十』、『三重苦』となるかららしい。、、、、私としては、幽霊などのお化けが出る話でもあれば、もっと面白いのだが、チョイト残念!



● おばけ階段を上がり、根津駅方面に歩いてると、小さな雨粒が落ちてきた。、、、、急ぎ、バスで御徒町駅に出て帰宅。

2020年10月29日 (木)

六地蔵の故郷へ?

「江戸六地蔵」にまつわる散歩も、いよいよ今日で最後とする。 今日は、『江戸六地蔵の鋳造は神田鍋町の鋳物師、太田駿河守藤原正儀による』を手掛かりに、「神田鍋町」周辺を歩いてみた。、、、、浅草橋の我が家から、神田駅界隈を散歩。 往復歩いて1万歩。


・・・・・・・・・「神田鍋町」は、今はない!、、、、まずは、地図で神田鍋町を探すが見つからない。 神田鍋町は寛永年間(1624~1645)に成立し、昭和8年に廃止された。 現在では、概ね神田鍛冶町3丁目に該当する、中央通り地下の東京メトロ銀座線神田駅ホームを挟んだ両側だと思えばよい(なお、JRの神田駅は江戸時代の神田鍛冶町にある) 江戸幕府は日本各地の名工を、江戸に呼び寄せ最大級の鋳物の街と鍛冶の街をつくった。 この地は、“鋳物師”の椎名山城に下された土地なので「神田鍋町」と称した。 隣り町は、幕府鍛冶方棟梁高井伊織の拝領地で「神田鍛冶町」と称した。

・・・・・・・・・「太田正儀」は、神田鍋町の住人?、、、、江戸六地蔵の鋳物師「太田正儀」の名は、もしくは似た名は、六地蔵の他にも、寛永寺の鐘楼、浅草寺の二尊仏、谷中天王寺の釈迦如来座像、赤坂浄土寺の地蔵菩薩坐像などに残されている。 いずれも、『神田鍋町の太田〇〇』と標されている。 つまり、太田一族、太田一門、太田家の“第〇代太田正儀”など、同一人物か、同門か、同族か、いずれかの鋳物師が住んでいたと思われる。 (写真左から、寛永寺梵鐘、天王寺釈迦如来座像)

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・・・・・・・・・「江戸六地蔵」は、神田鍋町生まれか?、、、、江戸時代の“キューポラの街”神田鍋町では、江戸の町が大きくなるにつれ、活動が制限され、大きな仏像・梵鐘・燈籠などの鋳造が禁止された。 大きなものは、江戸から離れた処で鋳造することとなる。 江戸六地蔵は最大2.75m、これが大きいか、小さいかは判らないが、私はこの神田鍋町で鋳造したと思う(根拠なし!)、、、、“江戸”六地蔵が東京以外の他県生まれじゃ、シャレにならないからね!




● 15時過ぎに散歩に出た。 普段、見慣れた景色でキョロキョロするする必要も無く、スタコラサッサと、浅草橋駅靖国通り都立一橋高校と通過する。

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・・・・・・・・・・・・清洲橋通りと靖国通りが交わる東神田交差点から南に向かうと、一橋高校の西側で道は神田方向に曲がっていく。 この道が「神田金物通り」と呼ばれ、JR神田駅まで続く。 この通り沿いには、その名のごとく金物問屋が多く並んでいた。 その始まりは大正12年(1923)の関東大震災以後のことである。 江戸時代から金属産業の拠点であった神田鍛冶町や神田鍋町が隣接し、新しい交通・運搬手段となった鉄道の神田駅が大正8年(1919)に完成したこともあり、日本橋方面からも金物問屋が移転してきたようで、一大集積地となったそうだ。 また、岩本町2丁目の裏通りには、金物の神様とされる金山彦命・金山姫命の分霊が祀られ、戦後の昭和29年(1954)に「金山神社」が創建された。、、、、いづれも、大正・昭和の話であるが、江戸時代の“キューポラの街”の続きである。

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● 神田金物通りからJR神田駅のある鍛冶町に入る。、、、、ここで、チョイト【鍛冶町の不思議】について。 鍛冶町は見た目には、1丁目から3丁目まであるが、正式には「千代田区鍛冶町」は1丁目と2丁目しかない。 3丁目は「千代田区神田鍛冶町3丁目」である。 つまり、3丁目は“鍛冶町”の前に“神田”を冠するのである。 この理由は、昭和37年(1962)の住居表示変更の際、1丁目・2丁目は“神田”をとった。 神田鍋町から神田鍛冶町3丁目に変わった住民は、“神田”をとることに抵抗したためである。、、、、証拠は、「鍛冶町一丁目」のバス停と「神田鍛冶町三丁目」の案内板の説明文と地図

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● JR、東京メトロの神田駅・・・・・オリンピックに向け改良したのか? どちらも、綺麗になった神田駅。

・・・・・・・・・・・・JRの神田駅、、、、大正8年(1919)3月1日、鉄道院中央本線の万世橋駅~東京駅延伸開業に伴い、中央本線の途中駅として開業。  6年後の大正14年(1925)東北本線秋葉原駅~神田駅延伸開業に伴い、東北本線の駅として開業。、、、、所在地は千代田区鍛冶町2丁目なり。

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・・・・・・・・・・・・東京メトロの神田駅、、、、昭和6年(1931)11月21日に東京地下鉄道の駅として開業。 JRとの連絡通路はあるが、ホームは中央通りの地下。

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昔、神田鍋町。今、神田鍛冶町三丁目(昔の名前で出て欲しいね!)、、、、神田鍋町、神田鍛冶町のどちらも、江戸時代を語るものは何もない、今はサラリーマンの街。、、、、仏を鋳造し極楽浄土へ導く街は、酒を注入し厭離穢土へ導く街に変身! 「江戸六地蔵」もこの変身にはビックリ!!

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● 「江戸六地蔵」巡りも終わり、帰り路はJR総武線の高架橋沿いに、浅草橋の我が家へ戻る。、、、、タバコをやめて13年目、会社勤務を終えて12年目、完全に酒を飲まなくなって6年目、ネオン・提灯の明かりに誘惑されることもない、安心・安全に帰宅。

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2020年7月22日 (水)

表玄関は東口?西口?

今日は、午後から循環器内科の検診日。 JR水道橋駅と飯田橋駅の中間に位置するクリニックへ行ってきた。(もちろん、診察結果は異状なし)、、、、クリニックへ行く前に、新しいホーム・駅舎となった飯田橋駅をチョイト拝見。

 

JR中央緩行線の飯田橋駅は、昭和3年(1928)に市ヶ谷寄りにあった牛込駅と甲武鉄道時代のターミナル駅:飯田町を統合して現在地に誕生した。 統合時に設置されたホームは、曲線半径300mの急カーブで造られ、電車が停車すると、ドアとホームの隙間が最大約33cm、高低差が最大20cm生まれ、毎年10件前後の転落事故が発生したそうだ。(数年前、私の母(当時90歳)も降りる時に転んだ。ケガも無く、禍を転じて福と為したか、今でも健在で、私を悩ませている!) このため、JR東日本はホームを市ヶ谷寄りに200m程移動させ、直線に近いホームとする改良工事を平成26年(2014)に発表した。 その後、工事は進み、今年の7月12日より、改良されたホームに電車が発着し、市ヶ谷寄り(神楽坂側)の西口駅舎もオープンした。

・・・・・・・・・・・工事前の急カーブ部分(2016/6/12撮影)と、フェンスで両側を仕切られ連絡通路となった同カーブ部分(今日撮影)

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・・・・・・・・・・・千葉方面行き電車の最後尾車両が停車していた位置付近(ホームの先に西口に向かう斜路が見える)に、7月からは先頭車両が停車することとなった(斜路があった位置には、西口橋上駅舎に向かう階段が見える)。
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・・・・・・・・・・・・写真は今は無くなった、西口改札からホームに向かう懐かしの斜路(2016/6/12撮影)、、、、50年前、私の勤務先の最寄り駅は、ここ飯田橋であった。 毎朝、ホームから斜路を歩き上ると勤務地に到着した感がありチョッピリ緊張した。 帰りの下りは、開放感でホッとしたもの。

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・・・・・・・・・・・新旧の西口駅舎。 以前は平屋の可愛らしい駅舎、7月からブラックのシックな2階建て駅舎。 新旧とも、駅舎は早稲田通り(牛込橋)に面する橋上駅舎。

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・・・・・・・・・・・牛込橋からホームが市ヶ谷寄りに延伸された部分を撮影。 Before/After。

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・・・・・・・・・・・・延伸されたホームの市ヶ谷寄りから眺めると、ホームは多少カーブしているが、直線に近づいた!

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・・・・・・・・・・・目白通りに面し、これまでは飯田橋駅の表玄関であった東口は、可哀そうに、表玄関の座を西口に奪われたようだ。 東口にあった「みどりの窓口」は西口に移転。 東口の券売機には「新ホームまで約3分」の貼り紙。 哀れ、東口。(ちなみに、トイレも西口の方が綺麗で広い)

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2020年5月24日 (日)

お玉ちゃんの池

いよいよ緊急事態宣言解除も秒読みに入った。 ここで気を緩めてはダメ、でも今日は日曜日、チョッピリ緩めて神田岩本町周辺の“お玉が池”の跡を、行ったり来たり、グルグル歩いてきた。 お玉が池は、我が家から直線で1km程の処にあった。


●人影なし! ・・・・・・・・・浅草橋駅西口(秋葉原寄りの駅の裏口)から100m程歩けば神田川、川に架かる左衛門橋を渡ると千代田区東神田。 東神田の町を南北(1丁目と2丁目)に分ける靖国通り(=都道302号)がとおっている。、、、、「東神田」の町の呼称は、大正12年(1923)の関東大震災後で、昭和9年(1934)、江戸時代から続いてきた、橋本町、江川町、富松町、久右衛門町が合併し東神田となり、昭和13年(1938)には東神田町会が成立した。 昭和40年(1965)には住居表示により東神田1丁目・2丁目となった。 また、神田川を挟み2丁目の北側に東神田3丁目がある。

・・・・・・・・・・・・浅草橋駅には人影はない!

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・・・・・・・・・・・・神田川にも人影はない、あったら溺死だ!

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・・・・・・・・・・・・靖国通りの車道にも人影はない、あったら轢き逃げだ!

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●謎の校名? ・・・・・・・東神田1丁目に都立一橋高等学校がある。、、、、一橋高等学校は、昭和25年(1950)に東京都立今川高等学校と東京都立神田高等学校が統合し、現在地に開校した戦後の名門校(今は?)の一つである 。 今川高校は今川裁縫補修所(1908年創立)・神田女子実業補習学校(1913年創立)・麹町実科女学校(1924年創立)、神田高校は東京市立蒲田工業学校(1940年創立)を前身とする学校であった。、、、、さてさて、この一橋(ひとつばし)高校の校名の由来は?、、、、東神田のこの地は江戸時代に遡っても“一橋”の地名とは縁がない、また日本橋川に架かる「一ツ橋」からは遠い、徳川御三家の“一橋家”とは無関係、一橋大学とも縁遠い、学校の最寄り駅は、JRの浅草橋駅と馬喰町駅、
都営の東日本橋駅と馬喰横山駅。 はたして、校名“一橋”の真実とは・・・・一橋高校の発足までには、明治時代より多くの学校が統合合併してきたため、戦後の発足においては、過去の校名に類似し偏った校名にすることは、合併後の職員生徒の感情の上で面白くない点が生じ、不平・不満をよぶおそれがあり簡単には決定できなかった。 そこで、知恵を絞り合併前の各校に共通したものを校名にすることにした。 神田女子実業補習学校の発祥の地は現在の一ツ橋中学校の地。 蒲田工業学校は昭和22年に都立一橋工業学校と名乗っていた。 今川高等学校、麹町実科女学校も一ツ橋の地とゆかりがあり、最終的に「一橋高等学校」という名称に決定したそうだ。 今の学生には納得しがたい校名かも、いっそ一橋大学の付属高校にしたら、判りやすいね!

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●あっちもこっちも“お玉”! ・・・・・・・東神田の西隣の町、千代田区岩本町2丁目の角に、和風2階建ての鰻屋「ふな亀」があった。 平成20年2月に店は閉店し、今は「パステルコート神田岩本町」という11階建てのマンション。 この辺りに「桜が池」と呼ぶ池があった。 桜が池は奥州への街道の脇で、池の岸には多くの桜が咲いていた。 桜の木の下には“お玉”という名の美女が出て、往来の人に茶をすすめていた。 中には、私みたいな助平な旅人もいたようで、二人の男が恋をしたそうだ。 お玉は、二人のうち人品・容姿の勝るほうを選ぼうとしたが、二人の熱意には差が無く、また二人ともジャニーズ系で、いずれとも決めかね、迷い迷って池に身を投じてしまった。(里人は、助けられず、シマッタ!) 以来、「桜が池」は「お玉が池」となる。、、、、「ふな亀」は閉店したが、往時の表看板には、『 神田に名所があるという こゝに西北百米に千葉周作の道場 家並にお玉ヶ池種痘所 裏手に捕物の名人人形佐七のわび住居 こゝよりまさしくお玉ヶ池 万年のよわいかぞえる亀がすむ  ふな亀 』と書いてあった。

・・・・・・・・・・・・・写真は「ふな亀」のあったマンション(岩本町三丁目交差点)、、、、現在、店は中華料理屋となっているが、1階・2階の瓦屋根は鰻屋当時の名残。

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・・・・・・・・・・・・・・ふな亀のあった玄関前(歩道)に東京大学医学部が建立した「お玉ヶ池種痘所記念」の碑がある。、、、、安政5年(1858)に設立されたこの種痘所こそ、我が国の医学界をリードする東京大学医学部発祥の地である。 そしてこの施設の創立には、岡山県津山出身の蘭方医、箕作阮甫が深くかかわっている。 「お玉ヶ池種痘所」は、天然痘予防の画期的手法として蘭学者を通じて導入された「種痘」を組織的に実施するための施設として江戸で初めて開設した。 蘭方医と漢方医の対立も激しかった当時、開設には非常な困難が伴ったが、箕作をはじめ、伊東玄朴、大槻俊斎ら80名以上の蘭方医による醵金と幕府への働きかけにより、私立の施設として、開設に漕ぎ付けるこぎつけることができたという。 その中でも箕作は、連名帳の筆頭に名を記しており主導的な役割を担った。 種痘所は僅か半年後に火事の類焼のため別の地に移った後、官立お玉ヶ池種痘所→西洋医学所→大学東校→東京医学校と改称されながら、種痘だけでなく西洋医学研究の場へと発展して行き、明治10年の東京大学創設時に医学部となり現在に至っている。 

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・・・・・・・・・・・・ふな亀前から南へ60m程歩くと、「繁栄於玉稲荷神社」(岩本町2-5)があり、神社の脇には千代田区教育委員会が建てた「お玉が池跡」の標柱もある。、、、、繁栄於玉稲荷神社は、秋葉原駅と小伝馬町駅を結ぶ地下鉄日比谷線がとおる水天宮通りからやや入ったところにある小祠。 身を投じたお玉の霊を安んずる神社だが、安政の大地震で焼失したため、本社を葛飾区新小岩に移した。 ここにあるのはその分祀である。

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・・・・・・・・・・・・繁栄於玉稲荷神社から西へ20m程の、全宅連会館ビル(岩本町2-6)植え込みに『東京都指定史跡 お玉ヶ池跡 』と彫った石碑がある。、、、、説明文は無く、碑文は石の模様で判別しにくい。 点字を読むように手触りで読んできた!

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・・・・・・・・・・・・水天宮通りをさらに南へ100m歩くと、ビルの壁に貼り付けるように、『お玉ヶ池種痘所跡』の石碑と説明板がある。 こちらは、お玉ヶ池史蹟保存会が建立したものであるが、東大医学部が建立したものと同主旨の石碑。、、、、説明では、『お玉ヶ池は徳川初期には不忍池ほどの広さであったのが安政のころには小さなものになり現在はそのあとかたもなく史蹟としてお玉稲荷が祀ってあるだけです。 一時は池のほとりに、梁川星巌の玉池吟社、市川寛斎の江湖詩社、大窪詩仏の詩聖堂、東條一堂の瑶池塾、佐久間象山の象山書院、剣士千葉周作の道場玄武館、磯又右衛門の柔道道場 などがあった』とサ!    

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・・・・・・・・・・・・繁栄於玉稲荷神社の通りから一本南側の通りは、「お玉が池通り」と名付けられている。、、、、現代版の“お玉ちゃん”(超美人!)がいて、往来する人に「お兄さん、お茶飲んでいかない」と声をかけてくれると嬉しいね!

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・・・・・・・・・・・・また、近くには銭湯「お玉湯」がある。、、、、こちらはオープン前、まだシャッターが下りてた。 番台にお玉ちゃんが座ってたら、夜、入浴に行くのだが?

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・・・・・・・・・・・・昭和通りをこえて、岩本町3丁目の隣り神田東松下町のタワーマンションの前に
右文尚武」と刻まれた石碑がある。 この辺りも、かつて「お玉ヶ池」跡で、旗本屋敷や学者・詩人などの住宅があった場所だ。 ここには幕末の剣聖千葉周作の北辰一刀流道場「玄武館」と、それに隣合わせで東条一堂の漢学塾「瑶池館」があった。 玄武館は、幕末「技の千葉、力の斎藤、位の桃井」と称され、人気の高かった3道場の一つだ。 新選組の山南敬介、藤堂平助も玄武館で剣を磨いた。 清河八郎は、玄武館で目録を授けられると同時に瑶池館で塾頭を務めた。 ついでに、昭和30年代の漫画で少年剣士:赤胴鈴之助は千葉周作の弟子となったと、少年画報に描かれていたのを私は記憶している。、、、、現在は道場・塾など全て跡形もない。 

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・・・・・・・・・・・・【蛇足】 右文尚武(ゆうぶんしょうぶ)とは、学問と武芸をともに尊ぶという意味で、この地にあった千葉周作の玄武館と、東條一堂の瑶池塾で文武両道が実践され、その精神を示した。



●・・・・・・・・・・・コロナで身体もナマリ、歳を感じた散歩となった!

2020年5月 8日 (金)

江戸の味:連雀町

緊急事態宣言が4月6日に発令され1ヵ月が過ぎた。 この間、自由気ままに散歩もできず、ひたすら“我慢・我慢・ガマン”の日々。 ゴールデンウィークも終わり、そろそろ我慢の限界、朝食時に私が発した独り言『散歩したいな~~』 それを聞いた妻『神田へ行って来たら』 私『神田? ・・・?』 『なんで神田へ?』 妻『お昼は稲荷ずしにしようか!』 私、ナルホド・納得、『神田淡路町の「神田志乃多寿司」へ行って「稲荷ずし」を買ってきて』と云うことだ。 これで、“不要不急”ではない“必要火急”の外出をすることにした。 70超えた爺の、宣言発令後『はじめてのおつかい』となった。 浅草橋の我が家から、神田志乃多寿司までは、徒歩30分、往復1時間程の道のりである。 さすが、50年連れ添った女房だ!




●大きなアーチの高架橋! ・・・・・・・浅草橋駅から隣の秋葉原駅までは、JR総武線両国~御茶ノ水間が開通した昭和7年(1932)に完成した、鉄筋コンクリート造の高架橋が伸びている。 関東大震災後に造られた高架橋であるが、約90年経過し、鉄筋が露出し、ひび割れも多く老朽化も目立つ。 東日本大震災後、耐震補強工事が進められ、現在も工事中。 大きなアーチが連なる高架橋のデザインはモダンなデザインだ!、、、、昭和通り上の首都高の上を行き、秋葉原駅の3階部分に線路は入る。 かなり高い高架橋である。、、、、予想される次の大地震に耐える高架橋に、補修して欲しいね! 

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●かつサンドの橋! ・・・・・・・昭和5年(1930)に竣工した、長さ26m、幅36m、石及びコンクリート混成の現在のアーチ橋。 関東大震災の復興橋の一つ。、、、、万世橋の歴史は古く、延宝4年(1676)に架けられた筋違橋(すじかいばし)に遡る。 この橋は、徳川将軍が寛永寺に詣でる時に渡る橋で、現在の万世橋の上流側にあった。 明治5年(1872)には、筋違見附が取り壊され、翌明治6年に見附の石を再利用した、石造の橋が完成した。 この橋は当時の東京府知事により萬世橋(よろずよばし)と命名された。 ところが、橋名は次第に「まんせいばし」という読みが一般化した。 その後も、万世橋は数度架け替えられ、関東大震災では被災した。 昭和5年に現橋に架け替えられた。、、、、橋の南詰にある肉屋の「肉の万世」は、戦後の昭和24年(1949)9月9日が創業日。 ここの「万かつサンド」は美味い! 完全に東京名物として定着してるね!
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●老舗が並ぶ町! ・・・・・・・万世橋を渡り、かつての交通博物館跡、昌平橋際の神田郵便局、東京メトロ丸ノ内線淡路町駅の3点で囲まれるかつての連雀町(れんじゃくちょう)一帯は今も残る老舗グルメの町である。 どこの店も江戸の味を美味しく頂ける処である。、、、、残念ながら、私はもっぱら料理を食すのみで、“味”を文章で表現する能力が無いので、食べ物の紹介はグルメ本を見て! 【注:多くの店は、只今、コロナで休業中】

‣・・・・・・・・・・・“連雀町”とは、、、、神田川に架かる筋違橋(旧万世橋の前身)は、中山道に通じており、行き交う人馬も多く、江戸時代のはじめごろより筋違御門が設けられていた。 門の内側、のちに八ツ小路と呼ばれた地に、連尺(物を背負うときに用いる荷縄、またはそれを取り付けた背負い子をつくる職人が多く住んでいたことから、「連尺町」の名前が付けられた。 連尺町はやがて連雀町の字があてられ、広く用いられるようになる。 明暦3年(1657)の大火「振袖火事」の後、連雀町は延焼防止の火除地として土地を召し上げられ、筋違橋の南方へ移転させられました。その際、連尺を商う二十五世帯は、遠く武蔵野に代地(だいち)を与えられ移住させられた。 現在の三鷹市上連雀・下連雀の地名はこの故事に由来する。 


・・・・・・・・・・・・東京で唯一のあんこう料理専門店「あんこう鍋 いせ源」、、、、天保元年(1830)の創業。 秋(9月)から春(4月)まで下北半島から仕入れた「あんこう料理」を提供している。 夏場はウナギ、ドジョウなど川魚料理で、一年中江戸の味を味わえる。、、、、建物は昭和5年(1930)築で、東京都選定歴史的建造物。

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・・・・・・・・・・・・次は甘味の「竹邑(たけむら)」、、、、いせ源の向かいにたつ、都が初めて和風建築を「歴史的建造物」に選定した昭和5年創業の甘味処。 戦火にも耐えた風情ある二階建て木造建築の中で、昔ながらの伝統の甘味に舌鼓、大正ロマンの香りが残る昭和初期にタイムスリップ!、、、、人気メニユーは「あんみつ」や「揚げまんじゅう」。

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・・・・・・・・・・・・次は、鳥すき焼きの老舗「ぼたん」、、、明治30年(1897)頃の創業。 由緒ある建物は昭和初期の建築。

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・・・・・・・・・・・・明治の味を今に伝える蕎麦屋「神田まつや」、、、、明治17年(1884)創業。 江戸の蕎麦が味わえる蕎麦屋の中の蕎麦屋。

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・・・・・・・・・・・・江戸三大蕎麦の一つ、「神田藪蕎麦」、、、、明治13年(1880)創業の老舗蕎麦屋。 数年前までの建物は、大正12年(1923)建築の木造2階建て数寄屋造りであった。 しかし、平成25年(2013)失火で焼失し、現在は鉄筋コンクリート造の和風建築。、、、、蕎麦の老舗としては、藪に、砂場・更科とあわせて3系列が「江戸三大蕎麦」と称されているが、元祖は不明?

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・・・・・・・・・・・・洋食の老舗「松栄亭(しょうえいてい)」、、、、こちらは明治40年(1907)創業の老舗洋食屋さん。 ポークソテーが美味しいそうだ。

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・・・・・・・・・・・・次は喫茶店の老舗「ショパン」、、、、創業昭和8年(1933)で、なかなかの古いお店。

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・・・・・・・・・・・・紹介の最後は、稲荷寿司とのり巻きの老舗「神田志乃多寿司」、、、、創業は明治35年(1902)。 油揚げのまろやかな甘味とコクのある稲荷寿司が私は大好きだ! じっくりと煮込まれたかんぴょうを使ったのり巻も、コレマタ絶品! 『一度食べたら忘れられない味。 嘘だと思ったら、自分で買って食べてみて!!』(ちなみに私は御幼少の頃から食し70年)

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・・・・・・・・・・・・我が夫婦と97歳の母、三人分の稲荷寿司とのり巻きを買って、来た道を我が家まで戻る。 この時の気分は、TV番組『はじめてのおつかい』で、幼児が買い物をすませ無事家にたどり着いた時と同じ気持ちのようだ。 ヤッタ~~!

・・・・・・・・・・・・コロナよ、早く終息して欲しいね。 そろそろ、本格的に散歩したくなったが、もうしばらくの我慢かな?

2020年3月28日 (土)

外出自粛の散歩

外出自粛要請が出た東京都、私の散歩の多くは完全に「不要不急の散歩」である。 それ故ここ数日、家に籠もっていた。 『今日も我が家で寝てようか?』と思っていたら、昼に妻が『和泉公園のサクラが満開、見てきたら』と一言。 『そうだ!個人的な運動で我が家の近所を散歩するのはOKだ』と、自問自答する。 我が家から半径1km以内のご近所を一人で散歩してきた。 




●我が母校とサクラ・・・・・・・まずは、我が家から直線距離で約200m、関東大震災後に復興公園として大正15年(1940)に開園した柳北公園(台東区浅草橋5)に咲くサクラ。 満開だ!、、、、サクラの後ろの建物は、公園と同時の大正15年に竣工した我が母校:元柳北小学校の校舎。 小学校は平成13年(2001)に、少子化により廃校となり、現在は区で使用している。、、、、サクラは、来週には散ってしまうかも?

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●いつも行列! ・・・・・・・・柳北公園を抜けて、千代田区神田和泉町に行列のできる店がある。(我が家から直線で約400m)、、、、こちらは平日でも11時ごろから行列ができ、地元の私でも並ばないと入店が難しいラーメン屋さん「饗 くろ㐂」。 “知る人ぞ知る”有名店とのこと! 美味しいラーメンを求め、今日も並ぶお客さん。

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●感染拡大を止めて! ・・・・・・・神田和泉町2に、赤いのぼり旗と赤い鳥居が眩しい「日通金網稲荷神社」がある。(我が家から約450m)、、、、ここは日本通運の発祥地である。 現在、日本通運は神社の脇で新本社ビルを建設中。 日本通運の先祖は、江戸時代、この地で飛脚問屋を営業していた「京屋弥兵衛」と言う人で、大事な金銭や信書の輸送にあたり事故の起きないよう、正一位稲荷大明神を祀ったそうだ。 京屋は、その後、陸運元会社、内國通運、國際通運、とその名を変え、現在の日本通運となった。 時代が変わっても創業の志を大切に守っていく企業の姿勢が理解できる。、、、、“お稲荷さん”には、筋違いかもしれないが、“新型コロナ”の感染拡大をくい止めて欲しい、よろしく!

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●我が命の病院とサクラ! ・・・・・・・・・金網稲荷神社の隣りに千代田区立「和泉公園」(我が家から約490m)がある。 妻が言ったように、サクラは満開に近い状態であった。 大きなサクラが数本、さすがに今日は宴会する人はいない!、、、、写真、後ろの大きな建物は「三井記念病院」 6年前、私の大動脈を人工血管に置き換えてくれたアリガタイ病院。

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●橋の端を歩いて! ・・・・・・・・JR浅草橋駅の南側、JR総武線と並行して流れる神田川に架かる4橋を順に渡り、隅田川へ向かう。

・・・・・・・・・・・・まずは、我が家から直線で約500m、今日渡る神田川4橋の中では最上流に架かる橋。 その名は「美倉橋」、、、、美倉橋は現在の千代田区神田佐久間町と同区東神田を結び、江戸時代に架けられた橋。 近くに三つの倉があったことから「三倉橋」、転じて「美倉橋」と呼ばれるようになった。、、、、現在の橋は昭和4年(1929)の架設、長さ35.35m、幅23.31mの鋼橋。、、、、今日の神田川は、上流で咲くサクラの花びらを運んで流れ下る。

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・・・・・・・・・・・・次は、約360mの距離にある「左衛門橋」、、、、左衛門橋の、北詰は千代田区東神田3丁目と台東区浅草橋1丁目、南詰は千代田区東神田2丁目と中央区日本橋馬喰町2丁目で、三区を結ぶ橋である。 この橋の創架は、明治8年、東京府の認可を受けた賃取橋(有料橋)として、民間人により架けられた。 この時の許可条件は、有料期間7ヵ年、満期後東京府に上納となっていた。、、、、橋名は、北詰の台東区側にかつて鶴岡藩の酒井左衛門尉の下屋敷があったことから、この付近一帯を左衛門河岸と呼んだことに由来する。、、、、現在の橋は、震災復興事業による復興橋梁で、橋長35.5m、幅員15.0mの鋼製橋で、昭和5年(1930)に架設。、、、、橋の際には、三区がそれぞれ独自に造った公衆便所・小公園などがある。 

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・・・・・・・・・・・・次は、約400mの処にある「浅草橋」、、、、北詰の台東区浅草橋・柳橋と南詰の中央区馬喰町・東日本橋を結ぶ橋。 江戸時代には、見附の一つで浅草橋御門があった。、、、、現在の橋は、関東大震災後の復興事業として、昭和5年(1930) に架設された鋼製の橋。

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・・・・・・・・・・・・最後の橋は、神田川最下流に架かる「柳橋」(我が家から約540m)、、、、この橋も復興橋のひとつで、北詰は台東区柳橋、南詰は中央区東日本橋。 昭和4年(1929)完成。 永代橋をモデルにしたと言われる、橋長37.9mの小型のアーチ橋で、全体的に緑色に塗られている。 幕末、明治以降、柳橋は花柳界として名高かったが、私の若い頃である昭和40年代には、バブルの終焉と共に廃れた。

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・・・・・・・・・・・・浅草橋から柳橋にかけて、神田川には屋形船が並んでいる。 “新型コロナ”でダメージをくらい、チョイト、出番はないようだ! しばらくの辛抱か?

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・・・・・・・・・・・・柳橋の南詰(中央区側)に、昭和初期の建築と思われる「増田ビルがある。 窓の上下に丸み帯びた横線がある、優しい感じのビルで、元は医院だったそうだ。

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●コロナは居ない! ・・・・・・・・・我が家から約520m、隅田川をチョイト覗いてみた! 川縁には人影がチラホラ、ココなら“新型コロナ”の心配はいらないだろう! でも、チョイト曇って来たな!、、、、横に架かる総武線隅田川橋梁は昭和7年(1932)竣工。

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●また、自宅隔離をするか! ・・・・・・・・江戸通りに面したJR浅草橋駅東口前(我が家までは約250m)から帰宅。 外出自粛要請が効いたか、人通りは少ない。 特筆すべきは、『外人が消えた!』

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2020年1月29日 (水)

田安門

循環器内科の定期検診日、クリニックに行くついでに、飯田橋駅から田安門・武道館・近代美術館工芸館と巡り、市ヶ谷駅までの散歩です。




●カーブがキツイ! ・・・・・・・飯田橋駅は、昭和3年(1928)の中央本線の複々線化に伴い、それまでの牛込駅(明治27年開業)と飯田町駅(明治28年開業)を統合するような形で新たに開業した駅。、、、、島式ホーム1面2線の高架駅。 飯田橋駅は東西に出入口はあるが、地形が傾斜しているため、東口側は高架駅舎のようになっている、西口側は橋上駅舎となっているが只今改良工事中につき、早稲田通り北側に仮駅舎がある。 工事は、ホームを新宿寄りに200m程移動しホームの急なカーブを解消することにある。 今年工事完了予定で一生懸命作業中。、、、、電車とホームの間の隙間が広いので、年寄りにはチョイト乗り降りが恐い、工事完了を待っている!、、、、今日は医者に行くので、東口に出た!

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●私の通勤路! ・・・・・・・・・飯田橋駅から「早稲田通り」を歩き、田安門へ向かう。 この道は私の通勤路の一部で、昭和40年代から60年代まで歩き通った道!

・・・・・・・・・・・・飯田橋駅西口に近い富士見1丁目の民家。 2階の3連の窓いいね!

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・・・・・・・・・・・・角川第3本社ビルの向かいに「共済ビル」(富士見1)がある。 昭和初期のビルか(?)渋いビルだ、昭和60年代までは、玄関周りにはタイルが張られていたと記憶している。 『取り壊されず、まだ残っていた!』と叫びたくなる建物だ。

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・・・・・・・・・・・・・こちらは、「テツゲンの本社ビル」(富士見1)、、、、昭和40年代頃のモダンな建物。

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・・・・・・・・・・・・千代田区立九段中等教育学校(旧都立九段高校)前のスペイン瓦のお屋敷。 大正14年(1925)に建てられた山口万吉邸(新潟県長岡出身の実業家)、、、、設計は、今井兼次、内藤多仲、木子七郎の三人。、、、、現在は、東急電鉄・竹中工務店・東邦レオの3社が共同で活用し、会員制ビジネスイノベーション拠点「kudan house」として利用されている。、、、、一度は中を覗かせてもらいたい建物だ!

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・・・・・・・・・・・・靖国神社大鳥居前の追分角地にある大きな碑は「濠北方面戦没者慰霊碑」である。 “濠”は“豪”とも書き、オーストラリアのこと。 ボルネオ、セレべス、ジャバ、ハルアへラ、セラム、ニューギニア地区の戦没者慰霊碑で、昭和39年(1964)に建立された。 台座の大きさに比べ中央の自然石の碑がチョイト小さいね!、、、、【実はですね・・・】この碑の台座は本来シベリア出兵の際の「尼港遭難記念碑」として大正13年(1924)に武田五一の設計、明石作五郎の施工により建立されたものである。 当初は品川弥二郎銅像の西隣りに建立されたが、関東大震災後、九段坂の拡幅により現在の大鳥居前に移築された。 しかし敗戦後の昭和22年(1947)、尼港遭難記念碑の像などは撤去され、台座のみとなった。 その台座を、現在の碑に流用したものである。 “尼港事件”とは、大正9年(1920)、ロシアが率いる露中共産パルチザンによって黒竜江河口にあるニコライエフスク港(尼港)の日本守備隊及び日本人居留民約700名以上が虐殺された事件で、シベリア出兵が延長された要因の一つとも言われている。

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・・・・・・・・・・・・大鳥居前を抜け、明治4年(1871)に建てられた招魂社灯籠(常夜灯)見ながら田安門に到着。

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●側室の御門? ・・・・・・・大田道灌時代、江戸城の合戦場はこのあたりであったといわれている処にある田安門は、寛永13年(1636)に建てられたそうだ。 北面する高麗門とその西側に直交する渡櫓門からなる枡形門です。 門名の由来は、門内に田安大明神があったので門名にしたといわれている。 江戸城造営後は北丸と称し,代官屋敷や大奥に仕えた女性の隠遁所となる。 有名な千姫や春日局、家康の側室で水戸頼房の准母英勝院の屋敷などもこの内にあった。

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・・・・・・・・・・・・・・外から来ると、最初に通過する高麗門に几号水準点(きごうすいじゅんてん、明治時代の水準測量の測量点。 “不”の字に似た図形)がある。 “不”の字の頭を誰か削ったようで、3本足の一部がかろうじて残されている。、、、、水準点設置時の標高は25.5786mで、mm単位以下まで測り、信じられない精度だ。

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・・・・・・・・・・・・田安門を入って渡櫓門 を通り、すぐに左に折れると、「弥生慰霊堂」と刻まれた石柱と、入口を守る狛犬が目に入る。 そこから階段(参道)を上ると田安門を見下げる高台に慰霊堂(弥生廟)がある。、、、、弥生廟は、明治18年(1885)当時本郷区(現文京区)向ヶ岡弥生町(東大構内)にあった警視総監の邸内に、警察官・消防官の殉職者を祀るため創建された弥生神社がその起源となっている。 その後、鎮座地は、芝公園、鍛冶橋の警視庁、青山墓地、麹町区隼町と転々としたが、昭和22年(1947)現在地に納まり、名を「弥生慰霊堂(弥生廟)」と改めた。 戦後、警視庁では神社の管理が出来なくなり、“神社”から“慰霊堂(廟)”に変えた。 つまり、軍人は靖国神社、警察官・消防官は弥生神社に祀る考え方である。、、、、弥生慰霊堂
は、弥生廟奉賛会(弥生奉賛会)によって管理され、実質的には警視庁と密接な関係を保っている。 慰霊祭の形式もより神道色を払拭した形式に変更された。、、、、北の丸公園・武道館に訪れる人は多くても、弥生慰霊堂に訪れる人は少ない。 参道前を歩く人は多いが、皆、慰霊堂の存在を知らないようだ! 機会あれば立ち寄って、手を合わせて欲しい!

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・・・・・・・・・・・・田安門の隣り、御存じ「武道館」 只今、オリンピックに向け改装工事中。 柔道・空手の会場として予定されている。

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●見納めになるかも? ・・・・・・・北の丸公園の南端に、「東京国立近代美術館工芸館」がある。 建物は明治43年(1910)近衛師団の衛戍地であった北の丸に司令部が建設された、これが現:工芸館である。 昭和38年(1963)戦後、皇宮警察の寮として使われていた旧近衛師団司令部が北の丸地区の公園化に伴い、取り壊しが決定するが、戦友会、文化庁、日本建築学会などの努力により、昭和47年(1972)には保存が決定する。 昭和48年(1973)、北の丸公園内の旧近衛師団司令部庁舎が重要文化財に指定された上、国立近代美術館分室として活用されることとなり、改修工事が行われ、昭和52年(1977)に工芸館として開館。、、、、工芸館は今夏、金沢に移転することになっている。 収蔵品は金沢に移動し、展示される。 すると、この建物はどうなるの? たぶん、収蔵品が空になるので、次の用途が決まるまでは閉館となるでしょう! と、言うことで今日の散歩で見納めとなるかも?


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●春の陽気、暑い! ・・・・・・・・・お帰りは、市ヶ谷駅から、、、、1月末で18℃の陽気、ひょっとすると梅と桜が来月当たり同時に咲くかも?

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