千代田区

2019年12月 3日 (火)

疲れた大嘗宮

やっと晴れた! 10時半、夫婦で東京駅到着、駅構内のトイレは超満員、『なんじゃこりゃ?』と驚いた。 構内アナウンスで『大嘗宮(だいじょうきゅう)へ行かれる方は・・・・・(うんじゃら・かんじゃら)』と叫んでる。 我が夫婦の考えは『今日は久々の秋空、しかも平日、皇居大嘗宮と乾通りの見学には絶好の日』、ところがドッコイ、誰しも考えは同じだった。 “絶好の日”が“最悪の日”となったようだ。 東京駅から長蛇の列に引き込まれ、見学が終わり皇居から出るまで3時間強、人並みに揉まれ、足はパンパン、腰はイテテ、気持ちはイライラ、腹はペコペコ。、、、、見学終えて市ヶ谷まで歩き、遅めの昼食の中華料理は、大嘗宮のおかげで美味しく食べることができた。 




●中高年がゾロゾロ! ・・・・・・・東京駅前の「行幸通り」はイチョウが色づき、『Oh! Beautiful!  Wonderful! インフルにはタミフル!』、、、、行幸通りは東京駅中央口から皇居前の和田倉門までまっすぐに伸びる全長約200メートル、幅約74メートルの道路。 皇室の行事などに使われてきたため、この名で呼ばれている。 道路は関東大震災の復興事業として、大正13年(1924)に着工し大正15年(1927)に完成した。 工事費は約62万円(当時)、設計は復興局技師:川地陽一、河野通靖、施工は橋本組工業合資会社。、、、、歩道には、毎日が日曜日の中高年がゾロゾロ。 道路中央の分離帯には若い娘がキャッキャ。

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●気持ちはイライラ! ・・・・・・皇居前広場に幾重にも蛇行する長い行列。 私も仲間入りしたが、『コリャ、皇居の中に入るまで1、2時間かかるかも?』心配になってきた。 後から、おばさんが私の前に出てくる、コンチクショウ! 『女は度胸、男はやせ我慢!』、、、、予想に反し、行列は止まることなく進み、30分ぐらいで皇居の入口:坂下門から入場できた。、、、、坂下門の先には宮内庁庁舎があるため、皇居に出入りするのに一番使用されている門である。 江戸時代には枡形城門であったが、明治21年(1888)に第一門は撤去されて、現存する門は移設された第二門。 一見小さな門のように見えるが、左右に見附がある大きかった第一門が無くなったためである。 

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●一刻は仮宮殿! ・・・・・・坂下門を入ると正面に宮内庁庁舎がある。、、、、設計は宮内省内匠寮、施工は清水組・大林組、鉄骨鉄筋コンクリート造3階建て。 この宮内庁庁舎は、昭和10年(1935)に建てられた建物。 昭和27年(1952)庁舎3階が改装され昭和43年(1968)の新宮殿落成までの間、仮宮殿として使用されていた。、、、、庁舎玄関には立派な車寄せを張り出し外壁は全面石張りで、格調高い仕上げである。

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●屋台なしの紅葉狩り! ・・・・・平成に続き、令和初! 皇居「乾通り」秋の一般公開に参加。 宮内庁庁舎前から乾門に至る乾濠及び蓮池濠沿いの約750mの通り「乾通り」が紅葉に染まっている。、、、、町中の公園とか城址だと、歩く道沿いに、“焼きそば”、“イカ焼き”、“ビール”など屋台が出てるのだが、ここはただただ歩くだけ。 ソースの臭いがなく、気持ちよく歩けていいね!

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●大赤字(?)の大嘗宮 ・・・・・ゾロゾロ人の後について大嘗宮(だいじょうきゅう)に向かう。 江戸城本丸跡付近で、ポリスのアナウンス『ここから大嘗宮の正面までは、あと1時間ぐらいかかります。 すこしでも急いで前に歩いてください!』 たしかに、大嘗宮は見えているのだが、本丸跡をぐるりと人の列が囲み、『近くて 遠い 大嘗宮』、、、、大嘗宮は、今回の即位に伴う儀式のためだけに造営された、この一般公開後は取り壊される。 宮内庁は平成の時と比べて敷地面積を縮小したり、屋根は簡素な板ぶきを採用し、経費削減を図ったそうだ。 大嘗宮は約6,500㎡で、私には用途がよく判らないが、悠紀殿(ゆきでん)や主基殿(すきでん)など大小30近くの建物で構成されてる。、、、、建物の撤去費用などを含めた建設関係費は約24億4千万円程かかるそうだ。 清水建設が施工した大嘗宮の造営は、9億5700万円で落札したらしい。 予定価格の6割の値段だって、大赤字! 太っ腹!、、、、解体した大嘗宮は、その大部分の木材を再利用する方向で調整が進められているそうだ。 出来れば、我が家をリホームして欲しいね。

・・・・・・・・・・・・・・1時間待ちの行列。 芝生の先に全景がみえる大嘗宮。、、、、行列に並ぶことに意義がありそうだ。 私も大人になったね!

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・・・・・・・・・・・・・・やっと大嘗宮の正面に到着。 しかし、ポリスの声『立ち止まらないでください』、『先へ進んでください』、、、、30程の建物、何処に、どの建物が、サッパリ判らず。 ただただ人の流れに乗って、ドンブラコ!

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・・・・・・・・・・・・・・グッタリ疲れ、皇居を後にする。
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2019年10月24日 (木)

きつく辛い女坂

以前からチョイト気になっていた、神田明神の男坂と女坂、どちらが急か現地調査に行ってきた。 ついでに、帰りに秋葉原のヨドバシカメラで、腕時計の電池交換してもらう。 我が家(浅草橋)から神田明神まで往復歩いて、9千歩。




●離れられない駅! ・・・・・・・我が家からJR浅草橋駅西口まで、素直に歩いて徒歩3分、ご近所の人に会うと徒歩5分、途中で忘れ物に気付くと徒歩8分、途中で気が変わり地下鉄に乗りたくなるとトホホのホ!、、、、70余年、同じ駅のそばで暮らしていると、たまには違う駅のそばで暮らしてみたくなる。 「どこがいいかな?」 風光明媚で、静かで、山に近く、海もあって、交通の便が良く、大型スーパーに近く、駅前にコンビニがあって、女子大が近くに在って・・・・・いくら考えても、浅草橋しか浮かばない、チョイト悲しいね!

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●頭上の電車に手を振って! ・・・・・・・JR総武線の高架橋(昭和7年開通)に沿って秋葉原へ。 浅草橋から秋葉原まで徒歩15分。 今日は、キョロキョロ脇見しながら、電車に手を振って、徒歩30分。、、、、浅草橋駅は台東区、浅草橋駅前のガードから先は千代田区である。、、、、途中、高架橋脇の佐久間公園は早起きラジオ体操発祥の地。、、、、秋葉原駅の「アトレ1」がある処には、昭和26年(1951)から駅直結の「アキハバラデパート」があった。 入口では家庭用品の実演販売も行われていた“庶民のデパート”だった!

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●漆塗りの社殿! ・・・・・・・まずは、神田明神へ、、、、神田明神は、千代田区外神田に鎮座する神社で、正式名称は「神田神社」。 神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内、旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神である。 毎年5月に行う御祭礼、「神田祭」は有名である。 旧社格は府社で、現在は別表神社である。 また旧准勅祭社の東京十社の一社である。 商売繁盛の御利益を期待し、正月になると企業の初詣で大賑わい。、、、、古い江戸時代の社殿は、大正12年(1923)の関東大震災で焼失した。 その後、3年の歳月をかけて昭和9年(1934)に権現造・鉄骨鉄筋コンクリート造・総朱漆塗で現在の社殿が完成した。 日本初の鉄骨鉄筋コンクリート製社殿となった。 この社殿は、建築家:大江新太郎(1875~1935)と早稲田大学大隈講堂の作品が残る佐藤功一(1878~1941)の設計、請負師:木田保造(1885~1940) の施工で建てられた、桃山建築風の豪華絢爛な造りである。 社殿は国の登録有形文化財に指定されている。

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・・・・・・・・・・・・・・神田神社は、天平2年(730)、武蔵国豊島郡芝崎村(現:千代田区大手町、将門塚の地)に創建された。 元和2年(1616)に江戸城の表鬼門にあたる現在地に遷座し、江戸総鎮守として歴代の将軍はもとより江戸の庶民たちにも崇敬された。 神田神社を愛する氏子に銭形平次・八五郎もいたか(?) 二人の碑が境内にある。、、、、摂社・末社も多く10社程が本殿を囲むように並んでいる。

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・・・・・・・・・・・・・・Googleマップを見ると、神田明神の東側に「明神男坂」と「明神女坂」が載っている。 この階段坂は以前からあるのだが、勾配は女坂の方がキツイようだ。 一般に男坂と女坂というと、勾配のキツイい方が男坂で、緩やかな方が女坂なのだが? さらに、話をややっこしくすると、神田神社の北側、社殿の裏側に蔵前橋通りに下る「裏参道」がある。 ここも階段坂で勾配はキツイ。 今日は、この3つの坂を現地調査した。

・・・・・・・・・・・・・・まず「明神男坂」、、、、神社の境内の標高は20mほどで、ほぼ平らだ。 神社の東側、一般に明神下と呼ばれている部分の標高は7m程で、約13mの標高差がある。 ここに男坂と女坂が造られている。、、、、明神男坂は江戸時代の名所絵図にも描かれてる古くからの坂。 上から見ても、下から見ても、一直線の立派な階段坂で上りやすい。

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・・・・・・・・・・・・・・・「明神女坂」、、、、神社の隋神門をくぐらずに右(東側)に折れて、細い道を入ると「坂のホテル トレティオお茶の水 」というホテルがありその前から天神下に下る坂である。 チョイト判りずらい処に在る、折れ曲がった坂だ。、、、、男坂と上り比べると女坂の方が自分にはきつく、辛い。 上り終えると、ハアハア、ゼイゼイ!

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・・・・・・・・・・・・・・「裏参道」、、、、社殿後ろの祖霊社の脇を蔵前橋通りに下る。 神社の公式案内図では、この参道は「旧女坂」と標されている。、、、、明神男坂、明神女坂に比べ長さは短いが、勾配は一番キツイ!

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・・・・・・・・・・・・・・さて自分勝手な調査の結論は、「明神男坂」は昔からある坂で一番“男っぽく、立派な坂”なので現状の名でいいだろう。、、、、「明神女坂」は明治以降に造られた坂で、神社は公式に「女坂」と認めていない。 どうやら、誰かが勝手に女坂と言ってしまったようだ。 タフな人向けの「猛女坂」と名付けたらどうだろう。、、、、「裏参道」は、昔ここに女坂があったそうだ。 よって、今あれば100歳を超えた「老女坂」と呼んだらどうだ!、、、、いずれにしても、“女坂”と呼ぶような男性に優しく、心地よい坂ではないことは確かである。




●チクタック・チクタック! ・・・・・・・・神田明神を後に、帰りは腕時計の電池を交換して我が家に戻る。

2019年7月13日 (土)

チョイト早かった蓮

梅雨のチョイ間の雨上り、我が家(浅草橋)からブラリ、上野の不忍池に蓮の咲き具合を見に行き、根津・千駄木の裏道を歩いて、地下鉄千代田線の千駄木駅までの散歩です。 1万3千歩



●雅万歩の歴史? ・・・・・下町の歴史的建造物を見ながら不忍池へ向かう、、、、自分の歴史を振り返るようだ!

・・・・・・・・・・・・・・まずは、我が家から徒歩1分半、私の母校「旧東京市柳北尋常小学校(区立柳北小学校)」(台東区浅草橋5)、、、、次は、さらに3分歩いて「三井記念病院」(千代田区和泉町)、、、、病院前の「凸版印刷」本社前(台東区台東)に、「市村座跡」がある。 市村座は歌舞伎の芝居小屋で、寛永11年(1634)日本橋葺屋町に市村座創始し、中村・森田(のち守田)座とともに、江戸三座と呼ばれた。 天保13年(1842)浅草猿若町に移り、ついで当地に再転。 当地での市村座は、明治25年(1992)から昭和7年(1932)まであった。、、、、(この3か所はコチラに!)

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・・・・・・・・・・・・・・市村座跡跡から西へ80m程歩くと、大正11年(1922)に建てられた煉瓦造風の下水道局和泉町ポンプ所がある。 私が幼き頃は、妖怪の住む怖い建物に思えた処。

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・・・・・・・・・・・・・・秋葉原~御徒町間のJR「御徒町高架橋」(台東区上野5)は大正13年(1924)に完成した。 現在は、山手線・京浜東北線・上野東京ラインが走る。(地下には東北新幹線が走る)、、、、終戦直後の蔵前橋通りに架かる薄暗いガードの周辺には、秋葉原の市場周辺に食べ物を求め、ガード下に寝床を求め、周辺の焼け跡には金目の金属を求め、ばたや・浮浪者・孤児が集まっていた。 幼い私にはここも怖い処に思えた。 いつの間にか“ばたや”、“浮浪者”の姿も見えなくなり、言葉も死語となったのか?

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・・・・・・・・・・・・・・上野松坂屋の方に向かい歩くと、朝湯で有名な燕湯がある。 建物は昭和25年(1950)の建築だが、国の登録有形文化財に指定されている。 私の幼き頃、地下鉄末広町駅の近くに住んでいた祖父母に連れられ度々利用した銭湯。 昔は白く濁った薬湯(くすりゆ)などもあって、湿疹などができると「白湯へ入ってきな!」と言われた記憶も残っている。、、、、燕湯から中央通りに出ると、最近建て替えられた新広小路ビルがある。 1階のコンビニの脇に「日本最初の喫茶店 可否茶館跡地」という碑が建っている。 ここは明治21年(1888)に、この地(当時・上野西黒門町)に日本初の喫茶店「可否茶館」が開店した場所だ!、、、、(ここの詳細はコチラに!)

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・・・・・・・・・・・・・・可否茶館跡から中央通りを40m程北に向かうと、松坂屋の斜め前あたりに、東京3大どら焼きで有名な「うさぎや」がある。 大正2年(1913)創業の和菓子の老舗で、昔からどら焼きを売っている。 味わってみたい人は、並ぶの覚悟、1時間待ち覚悟、売り切れ覚悟でお店へ行くべし。、、、、ちなみに我が家では平日の午前中に、ママチャリに乗って私が買いに行く担当。

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・・・・・・・・・・・・・・池之端「仲町通り」の「黒沢ビル」前を通り不忍池に向かう。 黒沢ビルは毎日、早朝から玄関前を綺麗に掃除し水がまかれ、歩いても気持ちがいい。 オーナーが綺麗好きなのかも?

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奇遇ですね! ・・・・・不忍池の蓮、咲き始めたばかりだ。 まだチョイト早かった、来週の梅雨明けが過ぎた頃、一番の見頃かも?、、、、去年の今日、不忍池を散歩していた。 
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●まだ残っているぞ“下町” ・・・・・不忍池から千駄木駅まで、根津・千駄木の“下町”を求めて裏道を歩く。 裏道にもマンションなどが建ち、“下町”も少しづつ消えて行くようだ。

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2019年2月 1日 (金)

九段の雅万歩

我が家(浅草橋)から、浅草橋交差点、須田町、神保町、九段坂と、靖国通りを歩き、市ヶ谷駅まで、1万2千歩の散歩です。
 
 
 
浅草橋から 九段まで かって知ったる この道を 杖にたよらず 一刻あまり 友よきたぞや 逢いにきた ・・・・・・・・この世に生を受け七十余年、生まれは浅草橋、育ちは神田、通学は靖国通り、大学はチョイト駿河台、勤めは九段上と、何かとお世話になり、ナンダカンダ・鼻かんだと思い出多い靖国通り 。、、、今日も、通り沿いの一軒一軒に思いを馳せ、歩いた。  
 
・・・・・・・・・・・・・我が家に近い浅草橋駅“裏口”(正式には西口と云う)
 
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・・・・・・・・・・・・・靖国通りの起点:浅草橋交差点。 ホテルの隣りにホテルが建って、裏にもホテル。
 
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・・・・・・・・・・・・12系統(新宿駅~両国駅前)、25系統(日比谷~西荒川)、29系統(須田町~葛西橋)の都電が走っていた靖国通り(浅草橋交差点付近)
 
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・・・・・・・・・・・・・清洲橋通りと交差する東神田交差点。 40年程前まで、都電の「豊島町」停留所があり、私も通学時ここで乗り降りしたこともある。
 
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・・・・・・・・・・・・・ここ岩本町交差点の角にあるビルに、一時、私の机があったこともある。
 
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・・・・・・・・・・・・・新幹線・東京上野ライン・山手線・京浜東北線のガードをくぐり、中央線のガードもくぐる。、、、、、40年の間に2つのガードが増えた、変化する東京!
 
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・・・・・・・・・・・・・須田町交差点。 写真中央のビルは、弘化3年(1846、江戸時代)創業、宮内庁御用達の果物屋(フルーツパーラー)「万惣」の跡地。、、、、、私も祖母と、よく果物を買いに行った店。 ついでに、フルーツポンチも!、、、、、甘い思い出。 
 
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・・・・・・・・・・・・・淡路町交差点。 右横をはいると、「神田 志乃だ寿司」がある。 いまだに、おつかいで、稲荷ずしを買いに行かされる雅万歩。、、、移転前の「交通博物館」も、この横にあった。
 
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・・・・・・・・・・・・・小川町交差点。 交差点から大手町方向に100m程の処に、YMCA本部のビルがあった。 地下のプールでは、フルチンで泳がされた。、、、、恥ずかしい思いで。
 
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・・・・・・・・・・・・・・駿河台下交差点。 我が母校の校舎が見えるが、ここは文系のキャンパス。 私は理工系で、川崎のキャンパス学んだ。 でも、チョイト可愛い娘(松原智恵子?)に逢いたく、文系の数科目を受講していた。、、、、青いレモンの思い出。
 
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・・・・・・・・・・・・神保町交差点。 水道橋方向に曲がると、エロ本(知る人ぞ知るH書店)がある。 雨上りに入店し、買ったばかりの高い傘を忘れてきた、後で気がついたが、恥ずかしくて問いかけることもできず。、、、、にがい思い出。
 
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・・・・・・・・・・・・・九段下交差点。 サラリーマン時代、九段上から坂を下り、交差点裏の雀荘へ、度々負けた!、、、、、頭にきた思い出。 雀荘はなくなっている。
 
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●空をつくよな 大鳥居 こんな立派な おやしろに 神とまつられ もったいなさよ 雅万歩は泣けます うれしさに ・・・・・・・・・靖国神社に着きました。 神妙に手を合わせる。
 
・・・・・・・・・・・・・高さ25m、日本一の大鳥居。 昭和49年(1974)、1億6000万円で建てられた。、、、、、鳥居は鋼管で造られているが、内部にコンクリートが充填されている。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・境内の中程には、大村益次郎の像が建っている。 明治26年(1883)に作られた、日本初の銅像。 上野戦争で司令官として彰義隊の立て籠もる上野寛永寺を見つめている姿で、大村と靖国神社の関係は、大村が東京招魂社の設立に熱心だったことによる。、、、、、私とこの像の関係は、社会人になって新人研修があり、近くの市ヶ谷ユースホステルに宿泊していた。 その夜、同期の仲間と飲酒し、翌朝叱責をくらい、この像の台座の上で正座をさせられた。、、、、脚の痛い思い出。
 
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・・・・・・・・・・・・・第二鳥居と神門。 神門の内側に、東京の桜の開花を予測する標本木がある。 今年の開花も早そうだが、まだ蕾を見て予測するには早そうだ。
 
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・・・・・・・・・・・・・・明治34年(1901)に建てられた拝殿、その後ろに明治5年(1872)に建てられた本殿がある。、、、、246万6千余柱の神霊が鎮まる。
 
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●鳶が鷹の子 生んだよで 今じゃ果報が 身にあまる 泰緬鉄道が みたいばかりに 逢いにきたぞや 九段坂 ・・・・・・・・・靖国神社の境内にある、明治15年(1882)に開館した遊就館は、遺品などを収蔵、展示する施設である。 館内には、靖國神社に鎮まる英霊の遺書や遺品をはじめ、英霊のまごころやその事蹟を今に伝える貴重な史・資料が展示されている。 今日は拝観せずに、ショップで軍歌を収めたCDをチョイト見てきた。
 
・・・・・・・・・・・・・遊就館は、陸軍省経理局建築課 (陸軍技師内藤太郎・柳井平八、顧問伊東忠太) の設計、銭高組の施工で、昭和6年(1931)に竣工した。 戦後は一時、本社の建物をGHQにより接収された富国徴兵保険相互会社(現:富国生命)に、貸し出していた。 その後、昭和61年(1986)に遊就館再開となる。
 
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・・・・・・・・・・・・・ついでに、遊就館入口ロビーに展示している、C56-31機関車(泰緬鉄道として活躍)は、戦時中、泰緬鉄道の開通式に参加した機関車である。、、、、、昭和11年(1936)に日本車輛製造(株)で製作され、戦時中タイで活躍し、昭和52年(1977)に引退した。 引退後、泰緬鉄道を建設に関係した南方軍野戦鉄道隊関係者が拠金してタイから譲り受け、神社に奉納された。
 
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●・・・・・・・・・・・・・お帰りは市ヶ谷駅から。
 
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2019年1月30日 (水)

東京だョおっ母さん

我が家(浅草橋)から江戸通りを南に歩き、日本銀行前に出ると、新旧の常盤橋が三橋ある。 この常盤橋を見て、大手町から皇居前に出て、東京駅まで、1万3千歩の散歩です。
 
 
 
●お勤め御苦労さま!・・・・・・・・・浅草橋、馬喰町、小伝馬町、室町と、江戸通りを歩き、外堀通りと交わる新常盤橋交差点に出る。、、、、時刻は9時前、マフラーとマスクで顔を隠した人が、私を追い越していく。  あせるな いそぐな たまには遅刻で リフレッシュ、、、、、我が家から新常盤橋まで、ブラブラ歩いて50分也。 
 
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●石と皿の“ときわばし”・・・・・・・・・・・日本銀行の西側を流れる日本橋川。 そこに、上流側から、新常盤橋、常磐橋、常盤橋と、「ときわばし」が3橋並んで架かっている。 3橋は千代田区大手町と中央区日本橋本石町を結んでいる。、、、、写真は、免震化工事中の日本銀行本店本館。
 
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・・・・・・・・・・・・まずは、「新常盤橋」、、、、、この橋は、大正9年(1920)の市電(戦後は三輪橋~都庁前の31系統路線)開通に合わせ、現在の江戸通りの延長線上にに架けられた橋である。 コンクリート造の三連アーチ橋であった。、、、、昭和63年、東北新幹線高架工事に伴い、現橋に架け替えられた。、、、、隣りに新幹線の高架橋、頭上に首都高都心環状線が架かり、橋の全容が見えにくい。
 
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・・・・・・・・・・・・・・次は、“元祖ときわばし”であるが、残念ながら落橋の危機にさらされ、只今文化財として修復工事中。 その為、近くに立ち入ることもできない。、、、、ところで、この「ときわばし」は、“盤”と“磐”の違いで、「常磐橋」と書く。、、、、初代は、常磐橋御門の見附橋として、天正18年(1590)の架橋と言われている。、、、、現在の橋は明治10年(1877)に架けられた、石造のアーチ橋である。 多数の肥後(熊本)の石工が集められ、橋の架設に当たったと言われている。、、、、、国指定の文化財で、修復工事は基礎部分から全面的にやり直されていたが、途中で東日本大震災があり、工事中の橋も被災し、工期は大幅に延長されている。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・以下の写真は、7年前、工事着手直前の常磐橋。 全景と親柱
 
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・・・・・・・・・・・・・・最後は「常盤橋」である。 上流の「常磐橋」は古くて小さな石橋で、かつ歴史的に貴重な橋であったため、昭和元年(1926)に、主要幹線の橋として隣りに新しい橋を架けた。 これが“磐”を“盤”に変えた「常盤橋」である。、、、、橋のデザインは常磐橋を模した、2連のアーチ橋(不等間隔)として造られた。、、、親柱の隣りにラーメン屋の屋台があった、お品書きは新しそうだ、するとこれは?
 
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●ビルの名も判らない田舎者となった・・・・・・・大手町界隈の再開発ビル群を抜ける。、、、、どのビルも。現代的でカッコイイが、個性の薄れた、不動産屋の安直ビルに思える。 
 
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●おっ母さん ここが ここが 二重橋 記念の写真を とりましょね・・・・・・・・・・・必ず記念撮影する皇居正門石橋(二重橋はこの奥にある)、その脇に、懐かしい交番「祝田町見張所」がある。石橋のできた、明治21年(1888)前後にこの交番も造られたようだ。、、、、皇居前広場から農協の団体が消え、修学旅行の学生も消え、はとバスの団体が細々、残るは東南アジアを中心とした外人さん。 時代も変わったね!
 
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・・・・・・・・・・・・・皇居前から見た丸ノ内
 
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●おっ母さん ここが ここが 東京駅 記念に写真を とりましょね・・・・・・・・・・・東京駅に赤帽がいた頃が懐かしく思われるのは、年とった証拠かな?
 
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2019年1月 5日 (土)

チョイト、マイナーな神社巡り

三が日は過ぎたがまだ松の内、平成最後の年の散歩始めは我が家の近くの神社巡りから。 浅草橋の氏神様からスタートし、柳橋、東日本橋、大伝馬町、秋葉原の、チョイトマイナーで、チョイト歴史ある、普段参拝する人の少ない神社を巡り我が家に戻る、1万1千歩の散歩です。
 
 
 
●何はともあれ氏神様から・・・・・・・浅草橋駅東口(江戸通り側)裏、飲食店と問屋が並ぶ裏通りに、せせこましく祀られた銀杏岡八幡神社。 御祭神は、誉田別皇命と武内宿祢命の二神。 雅万歩の氏神様である。、、、、、中世、この付近には小高い丘があり隅田川が一望できたそうだ。 源頼義・義家が奥州征伐に向かう途中、当地に銀杏の枝を差して戦勝祈願し、その帰途、康平5年(1062)に当社を創建したと伝えられている。、、、、江戸時代には、福井藩松平家屋敷地となり、松平家の邸内社となったものの、享保10年(1725)公収され町内(福井町)の産土神となったといわれている。 ちなみに、雅万歩出生時の住所は浅草区新福井町(現:浅草橋2)であった。 
 
・・・・・・・・・・・・・浅草橋1丁目と2丁目の境「福井町通り」は、まだ正月気分で人通りも少ない。、、、、福井町は元和4年(1618)からあった越前福井藩邸跡にできた町である。 新福井町は、明治5年(1872)、出羽秋田城主佐竹家らの邸地跡に誕生したが、福井町に隣接してできた新しい町という意味で名付けられた。そして、昭和39(1964)の住居表示にて、両町は現在の浅草橋一、二丁目になった。
 
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・・・・・・・・・・・・・・銀杏岡八幡神社。 コンクリート造の鳥居と社殿。 
 
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●花柳界のちっぽけな神社・・・・・・・浅草橋駅から総武線の高架橋に沿って両国の側に歩くと、隅田川沿いのビルの角に小社がある。 これぞ、“知る人ぞ知る 知らん人は知らん!”、かの有名ではない石塚稲荷神社である。、、、、石塚神社の祭神は倉稲魂命であり。 神社の創建年代は不詳だが、浅草御蔵前元旅籠町の居住者有志が創建したといわれ、元禄元年(1688)当地へ移転した。 火伏神と言う事で火除けの神。 戦後に柳橋料亭組合と柳橋芸妓組合などが寄進して再建された。 玉垣には右から「亀清楼」「柳光亭」「柳水」「津久松」「はやし」「稲がき」「卯の木」「深川亭」「二葉」「鶴の家」と続いている。 柳橋の橋の袂から隅田川沿いに建っていた料亭の名である。 神社を中心に、花柳界:柳橋の料亭が家並みを連ねていた。、、、、雅万歩の小学生の頃(昭和30年代)は神社の近くに、見番(組合)があり、銭湯があった。 料亭は愛用できなかったが、銭湯はよく利用した。
 
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●花柳界の神社・・・・・・・・柳橋にもう一社、有名ではない神社がある。 その名は、篠塚稲荷神社。、、、、篠塚稲荷神社の御祭神は倉稲魂命、創建年代は不詳。 正平年間(1346~1369)に新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣が当地にあった稲荷社に主家再興の祈願を続けていたことから、「篠塚稲荷」と称されるようになったそうだ。 延宝9年(1681)には篠塚山玉蔵院宗林寺となったが、明治維新の神仏分離令により廃寺となり、篠塚稲荷神社が残った。、、、、、神社の近くに小学校の同級生が住んでいて、お母さんは柳橋の芸者さんだった。 家は黒板塀の家で、放課後よく遊びに行った処。
 
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・・・・・・・・・・・・・手を合わせた後、柳橋を渡り中央区に入る。 橋の左側には、料亭:亀清楼が営業中。、、、、柳橋から上流:浅草橋を眺める。、、、、この辺りは、雅万歩の遊び場の一つで、船宿の桟橋から四手網を持ってハゼ釣りした処。
 
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●七味唐辛子の薬研堀・・・・・・・・・・・・・柳橋を渡り京葉道路を横切ると、大本山川崎大師東京別院である薬研堀不動院 の呼び込み用の赤い旗が、道路わきで“おいでおいで”をしている。、、、、手招きで“おいでおいで”されると男は弱いもの、ついフラフラと誘い込まれて、身ぐるみ剥がされ、身も心も寒い寒いこととなる。 ここでは旗の手招きなので、安心して誘われ、賽銭とられても心は暖かくなる。、、、、天正13年(1585)豊臣秀吉の勢が根来寺を攻めて兵火に遭ったが、根来山の大印僧都は、安置されていた不動明王尊像を守護して葛籠(つづら)に納め、兵火を逃れて遥々東国に下ってきた。 僧都は、やがて隅田川のほとりに有縁の霊地を定め、そこに堂宇を建立して、この尊像を安置した。 これが当不動院の開創。、、、、、“薬研堀”とは、現在の東日本橋にあった運河のことで、この辺りの運河の断面はⅤ字形をしており、漢方の調薬道具に似ていることから“薬研堀”と呼ばれていた。 堀の名が地名となり、この辺りで“七味唐辛子”を売る店があったことから、薬研堀の七味唐辛子が有名になった。 不動院とは直接関係なし。
 
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●昭和7年の銀行建築・・・・・・・・・・・薬研堀から日本橋堀留町へ向かう途中、日本橋富沢町に国登録文化財の旧川崎貯蓄銀行富沢町支店 の建物がある。 外観は、明治から昭和初期に建てられた銀行・保険会社の建物に多く見られる、西欧古典主義様式によるデザイン。 この建物では1、2階を貫くコリント式の大オーダーが通りに面して並んでいる。 建物角の、隅切りされた正面のデザインに建築家の苦労の跡が見られる。、、、、現在は「ハリオグラスビル」として使用されている。
 
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●宝くじの神様に賽銭はずむ・・・・・・・・・・地下鉄日比谷線の小伝馬町駅に近い、日本橋堀留町の椙森神社(すぎのもりじんじゃ)に到着。、、、、椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれている。 室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために伏見稲荷の「伍社の神」を勧請して厚く信仰した神社である。 そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めた。 しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その再建の費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が行われ、当社の富も人々に親しまれていました。、、、、早い話、神社で宝くじを発行し、江戸の復興財源とした。 現在では、「東京2020大会協賛くじ」を売ってオリンピックの財源確保するのと同じだ。 私も、チョイト協力して宝くじを買わせてもらっているが、サッパリ当たらない。 今日は拝殿横にある「富塚」にも手を合わせてきた。 『欲張って10億とはいいません、1億でいいです。 ヨロシク』
 
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・・・・・・・・・・・・・【蛇足】 ① 明治維新以後も、東京の古社として盛んに信仰されたが、惜しくも関東大震災で全焼し、現在の社殿は昭和6年(1931)に鉄筋コンクリート造で再建されたもの。 自社の再建には富くじを発行しなかったらしい!  ②神社は日本橋七福神 の内の一社で、恵比寿神を祀っている。
 
 
 
●べったら漬けの神様・・・・・・・・・・・・ここまで来たらチョックラべったら漬けの神様にもご挨拶していくことにした。 椙森神社から西に250m程、日本橋本町の駐車場に挟まれた小さな小さな宝田恵比寿神社。、、、、宝田恵比寿神社は、宇迦能御魂命・素盞嗚尊・大国主命・事代主命・大穴持命・少彦名命の6柱を祀る。 集団管理体制の神社。、、、、、元は江戸城外宝田村の鎮守だった。 創建年代は不詳だが、慶長年間の江戸城改築の際、移転したものといわれる。 移転作業を命ぜられた馬込勘解由は、家康の命に従って千代田・宝田・祝田3ヶ村の常盤橋外へ無事移転させ、大業を成し遂げた功により、徳川家繁栄祈念の恵比寿像を授けられ、平穏守護の神体として、鎮守の社に安置したのが今日に至った。 その像の作者は鎌倉時代の名仏師運慶と伝えられている。、、、、、神社のある、旧大伝馬町は江戸開府以来の木綿問屋の町で、1月と10月には繁栄を祈って盛大に夷講を行った。 現在は10月のみに開催されているが、宝田恵比寿は、商売繁盛、一家繁栄、火伏せの神として崇敬者は広く関東一円におよび、10月19日・20日の「べったら市」恵比寿神祭が盛大に行われる。 明治6年神田神社(神田明神)の兼務となり、大正12年大震災の災厄を蒙ったが、本殿のみは炎上を免れ、のち拝殿を再建し今日に至っている。、、、、、宝田恵比寿神社も、日本橋七福神の一社。
 
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●体験したい伝馬町牢屋敷・・・・・・・・・・宝田恵比寿神社のある旧大伝馬町(現:日本橋本町)から、伝馬町の牢屋敷があった小伝馬町は、江戸通りを挟み隣り同士だ。 チョイト寄ってみよう!、、、、日本橋小伝馬町にある高野山真言宗の寺院:大安楽寺(だいあんらくじ)は、江戸時代の伝馬町牢屋敷跡にある。 明治15年(1888)、牢屋敷跡だった当地に誰も住み着かず、大倉喜八郎と安田善次郎が寄進して創建されました。 高野山の準別格本山で、江戸三十三観音霊場の5番札所です。、、、、ここの牢屋敷は、延宝5年(1677)常磐橋門外からここに移されて、明治8年(1875)市ヶ谷監獄ができるまで使用されていた。 今は、当時を語るようなものは何も残っていない。 体験入牢できるような施設を作ったら、訪れる人も多くなるかも?
 
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●天照大神の兄姉神を祀る神社・・・・・・・・伝馬町牢屋敷跡から北西に約250m、千代田区岩本町2丁目に金山神社がある。、、、ナンジャ! 正月だというのに、誰もいない、扉もとじられたまま、コリャどうなっているのか、サッパリ判らん? とりあえず、二礼二拍一礼して行くことにした。、、、、金山神社は、昭和の初めに東京金物同業組合が総本宮南宮大社の御分霊を組合事務所に奉斎し創建されました。 第二次大戦の災禍にあったものの、昭和29年11月8日に再建されました。、、、、御祭神の金山彦命、金山姫命の二柱は、伊勢に鎮座される天照大神の兄姉神で、古来採鉱、冶金、鋳造、鍛冶等、広く金属関係一切を司る神である。 金属業界には打って付けの神だ。、、、、天照大神の兄姉神が、金属業界の神とは知らなかった!
 
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●たぬきの神社・・・・・・・・・・岩本町まで来たら、靖国通りを越え、神田川沿い(千代田区須田町2)にある柳森神社(やなぎのもりじんじゃ)に寄って行こう。、、、、、長禄3年(1459)、太田道潅が江戸城を築いた際、現在の神田佐久間町辺りに柳を植えて鬼門除けの柳の森とした。 その鎮守として祀られたことを創祀とする。 万治2年(1659)、神田川の築堤のため現在地に移転した。 烏森神社(新橋)・椙森神社とともに江戸三森と称された。、、、、、境内社の福寿社は5代将軍綱吉の母・桂昌院が信仰していた福寿神(狸)の像を祀る。狸に「他抜き=他に抜きんでる」という意味をかけ、立身出世や勝負事・金運向上の利益があるとして信仰を集める。 かつては八百屋の娘から将軍の生母になった桂昌院にあやかりたいという女性たちに崇められた。 当初は江戸城内に祀られていたが、後に旗本の瓦林邸内に移され、明治維新に際して柳森神社で祀るようになった。、、、、、ここも、正月だというのに、訪れる人は少ない。 神社も、特別に人を出していないようだ。
 
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●引越しの日通が引越し・・・・・・・・・・和泉橋を渡り神田川を越え、秋葉原駅前から浅草橋方向に歩くと三井記念病院があり、その隣は日本通運の敷地である。 現在、13階建ての新本社ビルを建設中、その一画に、金綱稲荷神社(きんつないなりじんじゃ)がある。 神社は日通金綱稲荷奉賛会によって維持されている。、、、、、およそ420年、前日本通運の前身である飛脚問屋京屋弥兵衛が、日頃から五穀豊穣・商売繁盛・衣食住の神・道中の安全の神として崇められていた伏見稲荷大社を信仰し参拝していましたが、浪速・京・江戸間の運送業務を始めるにあたり、自店に“御霊”を勧請した。 ある日夢枕に、ご神霊が立ち「汝の篤信のため金の綱を授ける」とのお告げがあり、自店で奉祀している神様を「金綱稲荷」と称した。 その時、祀った場所が、現在の地(神田和泉町)であり、日本通運の創業の地でもある。、、、、日本通運は現本社の所在地:港区から、2021年に新本社ビルに移転し、創業地に帰ることになる。 
 
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●神社巡りのゴールは我が家・・・・・・・金綱稲荷神社から、浅草橋の我が家までは徒歩5分。 つまり、千代田区神田和泉町と台東区浅草橋は隣り同士の町である。 出発した福井町通りに戻った。
 
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2018年4月11日 (水)

お茶の水坂・皀角坂

朝から春の嵐。 外は“吹き飛ばされそうな風”ではなく、工事現場の看板が“吹き飛ばされた風”、歩く女性のスカートが“巻き上がる風”である。 嵐の中、私は後楽園の循環器内科クリニックに検診に行ってきた。 
行きに「お茶の水坂」、帰りに「皀角坂」を歩いてきた。
 
 
 
①お茶の水坂・・・・・・・・・『“お茶の水”とは、将軍に献上した神田川の水を指している』、これ、嘘っぱち! この付近の神田川は江戸時代:元和年間(1615-1626)に、本郷台地に外堀として掘られた川である。 堀ができる以前には、ここ本郷台地には神田川はなかった。 当時、本郷台地の一角(現:元町公園付近、本郷1丁目)にあった高林寺(現:向丘2丁目)の境内に湧き水があり“お茶の水”として将軍(徳川家光)に献上したことから、「お茶の水」の地名となった。 これ、ホント!、、、、、その神田川北岸に沿い、お茶の水に上る坂なので「お茶の水坂」と、江戸時代に命名された。
 
・・・・・・・・・・・・・現在の坂は、外堀通りの一部で坂上には東京医科歯科大学病院、順天堂大学病院などがズラリと並んでいる。、、、、、昨年は、私が東京医科歯科大学病院へ、我が母が順天堂大学病院に救急搬送され、我が家御用達のありがたい病院である。 ちなみに、私も母も既に完治し、ピンピンの元気。
 
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・・・・・・・・・・・・・坂の途中に、関東大震災の復興公園「元町公園 」がある。 昭和5年(1930)の開園当時の姿がほぼそのまま残る貴重な公園である。 
 
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・・・・・・・・・・・・・神田川側には神田上水懸樋(掛樋)跡 の碑がある。、、、、、江戸時代、神田川に木製の樋(とい)「懸樋(かけひ)」を架け、川の上に神田上水を通し、江戸市中に給水した地点である。、、、、、神田川の水面からかなり高い位置に架けられていた。
 
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・・・・・・・・・・・・・お茶の水坂の下は水道橋交差点。 橋の上から神田川を見ると、左岸(北岸)に神田川分水路の合流口が開いている。
 
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●・・・・・・・・・・・・・・後楽園のお庭の隣りのクリニックで受診し、 検査項目、全て異常なし、『あたり前田のクラッカー』。 受付嬢と、2か月後の再会を約し帰途に就く。
 
 
 
②小石川橋通りガード・・・・・・・・水道橋と飯田橋の駅間、神田川から日本橋川が分岐する処に小石川通り架道橋(三崎町3)が架かる。 明治37年(1904)に甲武鉄道が、ドイツの橋梁メーカー「HARKORT」社に発注し、輸入した橋梁だ。日本に現存する同社の橋梁としては唯一の上路ワーレントラス橋である。桁には銘板が残っている。、、、、、煉瓦の橋台、石積みの盛土にも当時の匂いが残っている。、、、、、現在は、南側に中央快速線用の複線が増設されており、南側からは見えない。 緩行線が走る北側の複線部が当時からの架道橋である。
 
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③三崎稲荷神社・・・・・・・・・神社は水道橋駅の南側にある。 三崎稲荷神社は、寿永元年(1182)豊島郡三崎村鎮守として創建し、慶長8年(1603)・万治2年(1659)・万延元年(1860)と移転を続け、明治38年(1905)に現在地に移転した。 祭神は、宇迦之御魂神、素盞嗚尊、大市姫神、大物主神の四神。、、、、境内にある大きな銀杏の木からパワーが出ており、交通安全・旅行安全などの御利益があるそうだ。 私も手を合わせてきた。
 
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④皀角坂・・・・・・・・・・水道橋駅前から神田川の南側をお茶の水に向かい上る坂。 お茶の水坂の向かい側に位置するこの坂は、「皀角坂」と書き、「さいかちざか」と読む。 「サイカチ」は野山にはえる落葉高木で、枝にとげが多く、葉は羽状形で、花も実も豆に似ている木。 江戸時代にはサイカチの木が多くあったそうだ、現在は坂上に3本植えられている。 
 
・・・・・・・・・・・・・・坂の上り口。 水道橋駅前の東洋高等学校の横を上る。
 
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・・・・・・・・・・・・・・線路脇を上るので、鉄道ファンの私には嬉しい坂だ。、、、、この写真を撮った地点が、皀角坂側の神田上水懸樋跡である。
 
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・・・・・・・・・・・・・坂の中程のビルに、松尾芭蕉の作と言われている「皂角子の実はそのままの落葉哉」の句碑。
 
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・・・・・・・・・・・・・坂の上に標識がある。 「皀角」を“サイカチ”と読める人を尊敬したくなる難しい坂名だ!
 
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・・・・・・・・・・・・さらに、サイカチの木を知っている人は神様みたいな人だ! 知らない人は写真をよく見て、丸い可愛い若葉、手裏剣が刺さったようなトゲトゲ。
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・・・・・・・・・・・・・・坂上にもう一つ標識がある。 歩道に頭を出した、ユーモラスな標識。 裏面には「昭和五十年一月 駿河台西町会 中島萬」と彫られている。
 
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●・・・・・・・・・・・・・・・お茶の水駅前をとおり、秋葉原駅を抜け、浅草橋へ歩く。

2018年4月 3日 (火)

浅草橋~大塚

我が家(浅草橋)から、湯島、本郷、春日、小石川と、ひたすら歩いて大塚駅まで、1万4千歩の散歩です。
 
 
 
● a.m.7:22・・・・・・・・・・・我が家のある浅草橋駅をあとにする。、、、、この時間に勤務先へ向かう人がもういる。 早出かな?
 
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● a.m.7:29・・・・・・・・・・・我が母校:旧台東区立柳北小学校の前を通過。 現在は蔵前小学校の仮校舎として使用中。
 
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・・・・・・・・・・・・・旧柳北小学校の隣り、都立忍岡高等学校の裏門脇に「蓬莱園跡」の碑がある。、、、、、ここ、旧柳北小学校、忍岡高校のある一帯は、かつて平戸藩松浦氏の屋敷跡で、蓬莱園と称する庭園があった。 約2,600坪の庭園は“今は無く”、高校校庭に一本の大イチョウを残すだけである。
 
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● a.m.7:32・・・・・・・・・・・浅草橋で唯一の大使館。 それは、コンゴ民主共和国大使館。、、、、、時々、近くのスーパーで大使館員が買い物しています。 浅草橋も国際的な町に変貌している。
 
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● a.m.7:36~7:53・・・・・・・・・・・「鳥越一丁目」交差点より、蔵前橋通りを歩き、昭和通り、JR京浜東北線・山手線、中央通りと交差し西に向かう。
 
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● a.m.7:55・・・・・・・・・・・蔵前橋通りは、妻恋坂交差点から清水坂下交差点まで、新妻恋坂を上ることになる。 この坂は昭和4年(1929)に震災復興道路として通じた蔵前橋通りの坂で、昔からある北側に並行する妻恋坂にちなみ命名された。、、、、ここから、ダラダラ上るのは辛いので、私は並行する妻恋坂を上る。
 
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● a.m.8:01・・・・・・・・・・・妻恋坂にある、妻恋神社に手を合わせて行く。
 
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● a.m.8:02・・・・・・・・・・・妻恋坂を上ると、清水坂にT字にぶつかる。 清水坂の下が新妻恋坂である。、、、、チョイト、ややっこしいね! どうでもいいか!
 
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● a.m.8:07・・・・・・・・・・・蔵前橋通りが本郷通りに合流する「サッカーミュージアム入口」交差点。、、、、ここより本郷通りを歩く。 (写真は右端から手前に本郷通り、中央左寄りから上ってた蔵前橋通り)
 
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● a.m.8:16・・・・・・・・・・・本郷三丁目交差点を通過。 ここから春日通りを歩く。
 
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● a.m.8:23・・・・・・・・・・・春日通りからチョイト脇にそれ、明治19年(1886)に創立した弓町本郷教会に立ち寄って行く。 現教会は昭和元年(1926)に竣工した。
 
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● a.m.8:28・・・・・・・・・・・寄り道ついでに、丸ノ内線が本郷三丁目駅から後楽園駅に向かう時、地上に顔を出す処をトンネルの上からチョイト撮影。 (写真奥が後楽園駅)
 
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● a.m.8:33・・・・・・・・・・・真砂坂を下る。、、、、、この坂の名は「東富坂」で、「真砂坂(まさござか)」は別名らしい。 明治41年(1908)に命名するとき、坂下の春日町交差点を挟み、東に上る坂を「東富坂」、西に上る坂を「富坂」としたそうだ。、、、、、私には、坂上にあった停留場「真砂町」を通る都電で通学していた時期もあった。 学生時代の思い出もあり、真砂坂の方がシックリくるね。
 
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● a.m.8:34・・・・・・・・・・・春日町交差点を通過。
 
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● a.m.8:38・・・・・・・・・・・私は、まだ若い老人なので、「アテント」、「ライフリー」などは利用していない。 しかし散歩していると、緊急のお呼びがかかる。 ここいらで、スッキリと身繕いをしようと、文京区役所に寄ってきた。、、、、出た! スッキリ、サッパリ、気分爽快!
 
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● a.m.8:52・・・・・・・・・・・文京区役所からは、北西方向に都道436号(小石川西巣鴨線)をひたすら歩けば大塚駅である。、、、、、眼病治癒の「こんにゃく閻魔」として知られる源覚寺(小石川2)では、チョックラ手を合わせて行こう! コンニャクは持参していないので、お賽銭をチョッピリ。
 
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● a.m.9:01・・・・・・・・・・・小石川の岡埜栄泉(おかのえいせん)前を通過。、、、、、東京に岡埜栄泉は30数店あるそうだ。 どこも、名物は豆大福で、老舗と言われているが、何処が本店やら、本家やら、元祖は何処だ! 長い年月の暖簾分けで、サッパリ判らん!
 
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● a.m.9:15・・・・・・・・・・・共同印刷本社前を通過。、、、、昭和10年(1935)に建設された建物も劣化し、そろそろ建て替えの話が出ているようだ。
 
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● a.m.9:18・・・・・・・・・・・小石川消防署前を通過。、、、、、門柱の上にのっている望楼は、旧大塚消防署(小石川消防署の前身で、昭和初期の名建築であった)の望楼をデザインしている。
 
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● a.m.9:42・・・・・・・・・・・文京区から豊島区に移り、大塚駅も近づいてきた。
 
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● a.m.10:00・・・・・・・・・・・大塚駅前の天祖神社に寄ってみることにした。、、、、南口の商店街に紛れている天祖神社は大塚の氏神様。 氏子のエリアは意外に広く、南大塚、北大塚、巣鴨、西巣鴨、上池袋1丁目、東池袋2~5丁目がその範囲。、、、、、参拝客は絶えず、商売繁盛か?
 
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● a.m.10:19・・・・・・・・・・・大塚駅に到着。 ここまで14,000歩、靴もそろそろ買い替えなければならなくなってきた。
 
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2018年3月10日 (土)

日本橋

東京駅“大丸”まで買い物に行く用事ができ、我が家(浅草橋)から東京駅まで歩いて40分程なので、たまには、散歩を兼ねじっくり日本橋周辺を歩いてみた!
 
 
 
日本橋・・・・・・・・明治44年(1911)完成の石造2連アーチ橋は国の重要文化財。、、、、日本人なら誰もが知る、華のお江戸の「日本橋」であるが、修学旅行の生徒が橋を見学する姿は、とんと見た記憶が無い。 東京に住む我が家の住人は、高知の「はりまや橋」、京都の「五条大橋」、新潟の「萬代橋」など、修学旅行で行ったのだがね!
 
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・・・・・・・・・・・道路元標、、、、、、橋の中央ド真ん中に、国道1号・20号・4号・6号・14号の起点となる道路元標が埋め込まれている。 日本橋北詰には、その道路元標の複製があり、若いカップル、親子が立ち止まって、話題は『自分の家までここから何キロ?』。 
 
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・・・・・・・・・・・・・日本橋魚河岸跡、、、、、大正12年(1923)の関東大震災で被災するまで、日本橋の東側河岸には、お江戸の台所をまかなう「魚河岸」があった。 その記念碑が北詰にある。 案内板には当時の写真も載っていた。 日本橋も、夏場はさぞ臭かったことであろう。
 
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・・・・・・・・・・・・・北詰の道路元標から川沿いにチョイト歩くと、何の変哲もない「日本橋ビル」がある。 この鉄筋コンクリート5階建てのビルは昭和30年(1955)に竣工した、この周辺では比較的古いビルである。、、、、、再開発で騒がしい日本橋周辺では、古いビルが徐々に消えて行く、チョイト寂しいね。
 
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②西河岸橋・・・・・・・・・・・日本橋の上流側(西側)に架かる西河岸橋(にしがしばし)。 橋の上は、通称「日銀通り」 と呼ばれる通りである。 この橋の南側(現:日本橋1丁目、八重洲1丁目側)が東京市日本橋区西河岸町であったことに由来する。 初代の橋は、明治24年(1891)に架けられ、現在の橋は震災後、大正14年(1925)に架けられた。 平成3年(1991)には、改修工事が行われた。
 
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・・・・・・・・・・・・・西河岸橋から日本橋を見ると、首都高が頭上を走り、景観を壊している。
 
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③一石橋・・・・・・・・・・・西河岸橋の上流側に一石橋(いっこくばし)が架かる。 橋上には、外堀通りがとおり、橋の下には日本橋川が流れる。 現橋は、平成12年(2000)に改修し、架け替えられた。、、、、、旧橋は、大正11年(1922)、鉄筋コンクリート、花崗岩張りアーチ橋として架橋された。 その親柱が1本だけ残されている。、、、、、、橋名の由来は、橋の両岸に「後藤家」があり、後藤(五斗)×2=一石という洒落らしい。 粋な命名だ!、、、、、一石橋も首都高の下で薄暗い。
 
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・・・・・・・・・・・・・一石橋の親柱の横に「一石橋迷子しらせ石標」がある。、、、、石標は安政4年(1857)に建立された。 江戸時代、この辺りは繁華街で迷子が出た場合は、石標に迷子や尋ね人の特徴を書いて貼った告知板である。、、、、時代は変わるが、終戦直後、東京駅丸の内側駅前広場の交番に戦地からの引揚者を探す尋ね人の紙が貼られたことを思い出した。、、、、、なお石標の下部(〇印)に、明治初期に“不”型の几号水準点が彫り足されている。
 
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④呉服橋交差点・・・・・・・・・・一石橋の東京駅側の交差点。 正確に言うと、国道1号(永代通り)と都道405号(外堀通り)の交差点。
 
・・・・・・・・・・・・・交差点の一画、千代田区大手町2丁目では大規模再開発事業がすすめられている。、、、、、交差点角には、かつて大和証券ビル(写真:下)があった。 この跡地に、三菱地所が地上40階/地下5階のビルを建設中。 
 
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・・・・・・・・・・・・工事現場の後ろに見える、日本ビル(14階建て)、朝日東海ビル(29階建て)も取り壊され、こちらには地上61階/地下5階のビルが建つそうだ。 完成予定は平成39年(2027)。 吾輩は生きているかな?
 
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・・・・・・・・・・・・・呉服橋交差点の東側(みずほ銀行の入っている新呉服橋ビルディング)の片隅に、竹久夢二港屋跡がある。、、、、明治から昭和初期にかけて活躍した美人画家であり詩人:竹久夢二は、この付近に「港屋絵草紙店」 を開き、自らデザインした版画や封筒、カード、絵葉書などを売ったそうだ。、、、、、銀行の前に建つ小さな記念碑である。
 
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・・・・・・・・・・・・・・呉服橋交差点の南側、三井住友銀行呉服橋ビルの正面には、旧日本相互銀行本店ビルの鉄骨接合部がオブジェとして残されている。、、、、この地にあった旧日本相互銀行本店ビル(写真:下)は、昭和27年(1952)、建築家:前川国男の設計で建てられた、近代化・工業化したビルであった。 そのビルの鉄骨を記念として残している。
 
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・・・・・・・・・・・・・最後は、呉服橋交差点の西側(千代田区丸の内1)です。 ここには、かつて第一鉄鋼ビルディング第二鉄鋼ビルディングがあった。(写真:小) その跡地に、平成27年(2015)、26階建ての鉄鋼ビルディングが完成した。
 
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・・・・・・・・・・・・・この鉄鋼ビルディングの裏側(丸の内トラストタワー側)のビルの谷間に、遠山の金さんがいた北町奉行所の跡がある。 跡と言っても石組みが残っているよと、案内板があるだけ。
 
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2018年2月11日 (日)

神田明神・湯島天神

今冬にしては暖かな日となり、昼から夫婦で神田明神・湯島天神・上野松坂屋(お買い物)と巡ってきた。 散歩にしては、甘酒、クリームあんみつをチョイト胃に入れ、ダイエット高架なし。
 
 
 
①神田明神・・・・・・・・・・江戸の神社では知名度抜群の神田明神だが、江戸時代に建てられた神社の建物は大正12年(1923)の関東大震災で焼失し、現在の建物は震災後に建てられたものである。 昭和9年(1934)に竣工した鉄骨鉄筋コンクリート造の現社殿は、伝統様式のデザインを引き継ぎ、鉄骨鉄筋コンクリートで造られた初期の建物として国の登録有形文化財に指定されている。、、、、、銭形平次も目を見はる江戸風の豪華絢爛たる造りで、八五郎はビックリしたと思うよ!
 
・・・・・・・・・・・・まずは、鳥居の横の天野屋で甘酒飲んで一休み。
 
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・・・・・・・・・・・・・今日は建国記念日、お年寄りには紀元節、その祝日ゆえの賑わいか(?)この大勢の参拝客に驚いた。、、、、、拝殿前には行列が、、、、、私達も並んでお参り。
 
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・・・・・・・・・・・・・・おや、拝殿では新婚カップルが記念撮影。 おめでとう!
 
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・・・・・・・・・・・・・ところで、神田明神を設計したのは建築家:大江新太郎(1875~1935)と佐藤功一(1878~1941)、施工したのは木田保造(1885~1940)率いる「木田組」(後の木田建業)。 この木田保造は、単なる施工会社の社長というより、自ら設計・施工を手掛けた建築家であったらしい。 木田保造が手掛けた建物として、函館の金森倉庫、百十三銀行本店、東京の第一生命、京華女子中高等学校、昭和第一高等学校、上智大一号館などが現存している。
 
 
 
②湯島天神・・・・・・・・・・なんじゃ・なんじゃ・こりゃ・こりゃ、こりゃなんじゃ? 天神さまも、満員御礼状態。、、、、、そうか! 今日は「梅まつり」だった。 受験生も多い。
 
・・・・・・・・・・・・・・参道には屋台も出て御祭り気分。
 
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・・・・・・・・・・・・・湯島天神は、雄略天皇2年(458)、雄略天皇の勅命により天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀る神社として創建された。 南北朝時代の正平10年(1355)、住民の請願により菅原道真を勧請して合祀したそうだ。、、、、、旧社殿は明治18年に改築されたものであったが、老朽化が進んでいたため、平成7年(1995)に権現造の現社殿が再建された。、、、、また、平成12年(2000)には、「湯島神社」から「湯島天満宮」に名称を改称したのだが、私の頭の中では、「湯島天神」のままである。
 
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・・・・・・・・・・・・・梅まつりに受験生。 天神さまに願いが叶といいね。
 
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・・・・・・・・・・・・・ここでも、結婚式が行われていた。 今日は大安(?)、まあ何でもいいか。 
 
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●・・・・・・・・・・・・・この後は、クリームあんみつで一休み。 松坂屋で買い物に付き合わされて、帰宅する。 

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