千代田区

2020年12月29日 (火)

浅草橋の三迷橋

コロナの感染者数は『我慢の三週間』から大幅に増え、英国製・南ア製の新型モデルも発表・渡来した。 『不要不急の外出自粛』、『三密の回避』など感染対策の徹底がより強く求められ、雅万歩も今まで以上に自重することにした。 しばらくの間、散歩は我が家の周辺をチマチマ歩くことにする。

雅万歩が住むのは台東区浅草橋。 今日は、地元「浅草橋駅」に近い柳橋・浅草橋・左衛門橋の三橋と、隣りの千代田区に架かる美倉橋の、四橋を歩いてきた。 1万歩には程遠い5千歩の散歩。

日本橋(東京)、錦帯橋(岩国)、眼鏡橋(長崎)の『日本三名橋』に対抗して、誰が言ったか『浅草橋の三迷橋』、、、、とは、誰も言ってない! 雅万歩が勝手に言った! その『浅草橋の三迷橋』は、神田川に架かる三橋のことで、隅田川に注ぐ最下流から、柳橋・浅草橋・左衛門橋である。 左衛門橋の上流に架かる美倉橋は、“付録”とする。




● まずは、神田川が隅田川に合流する手前に架かる「柳橋(やなぎばし)」、、、、現在の橋は、右岸の中央区東日本橋と左岸の台東区柳橋を結ぶ震災復興橋のひとつで、昭和4年(1929)に工事費12万1千円で完成した、長さ37.9m、幅11.0mの鋼製タイドアーチ橋。 永代橋をモデルにしたと言われる小型のアーチ橋で、全体的に緑色に塗られている。(たまたま、今月から来年3月まで、塗装の塗り替え工事中)、、、、初代の柳橋は、江戸時代後期に架設された木橋で、はじめは「川口出口の橋」と呼ばれたそうだ。 「柳橋」の名は、享保年間(1716~1735)の頃、土手の両岸に柳の木が植えられていたことに由来するようだ。、、、、江戸時代から今日まで、橋畔は船宿が並んでいる。 昔は日本堤の遊里、新吉原へはここから隅田川を舟で昇り今戸の山谷堀まで行った。 また、幕末・明治以降、昭和40年代頃までは、柳橋は花柳界として名を馳せた。 現在では、この付近の護岸は非常に高くカミソリ護岸となっているが、船宿に屋形船も繋留されていて、江戸情緒は残っている。、、、、私が知る、戦後の花柳界のあった頃は、暗くなると黒塗りの乗用車が並ぶ町で、芸者さんが人力車で行き交っていた。 路地裏の我が家の前にも、芸者さんを迎えに人力車が入って来た。 美人芸者がイッパイ、あの良き時代に戻りたいね!

・・・・・・・・・・・・塗装工事中の今日の柳橋

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● 柳橋の上流に架かるは「浅草橋(あさくさばし)」、、、、その名のごとく、浅草寺の門前橋であるが、浅草寺までは北へ約2km程ある。、、、、浅草橋は江戸36見附の一つで、浅草橋御門として寛永13年(1636)頃(詳細は不明)に架けられた。 奥州街道の起点となっていたため、徳川時代、神田川に架かる橋としては重要な位置づけを与えられていた。明治7年には見附門の石を利用して石造アーチ橋として架け替えられましたが、これは何故か長持ちせず、すぐに他の形式に架け替えられた。、、、、現在の橋は、これも震災復興橋として、昭和5年(1930)1月に開通した。 右岸は中央区日本橋馬喰町、左岸は台東区浅草橋。 工事費27万7千円、下部工は間組(現:安藤ハザマ)の施工による鋼製アーチヒンジ橋。 アーチ構造の橋ということだが、アーチ(円弧)の形状が緩やかなためか、水平の桁橋に近い印象を受けう極めて単純な橋で、面白味に欠ける。 親柱や欄干などは、お金をケチったのか貧弱で、センスも悪く印象が薄い、存在感が無いね!

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・・・・・・・・・・・・浅草橋南詰(中央区側)に開智日本橋学館中学高等学校がある。 その校舎の一角に、浅草橋御門の石垣の石が発掘され残されている。 貴重な石らしいが漬物石より大きく、一見しただけでは石垣の石には見えないね!

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● 次は「左衛門橋(さえもんばし)」、、、、左衛門橋の上流側は千代田区東神田、下流側右岸は中央区日本橋馬喰町、下流側左岸は台東区浅草橋、なんと三区を結ぶ橋。 さらに地名だけ読むと、“神田”、“日本橋”、“浅草”と、江戸っ子が喜びそうな地域を結ぶ橋。、、、、左衛門橋の北詰一帯(現:JR浅草橋駅西口周辺)に、慶長3年(1598)から明治維新までずっと、徳川譜代大名庄内藩酒井左衛門尉(さえもんのじょう)の下屋敷があった。 橋の由来は、後に、神田川に望むこの地を左衛門河岸と呼んだことにちなむ。、、、、左衛門橋の創架は、明治8年(1875)、東京府の認可を受けた賃取橋(有料橋)として、民間人により架けられたものである。 その後、明治34年(1901)、下路式プラットトラスの鉄橋に架替えられた。、、、、現在の橋は、昭和5年(1930)に、工事費13万5千円で、架けられた鋼製アーチ橋である。(平成12年大規模補修工事が行われた) 次の美倉橋と左衛門橋・浅草橋の三橋は、いずれも似た構造の鋼製アーチ橋で、震災復興橋でもある。、、、、30年ぐらい前の話だと思うが、高度成長期には汚れていた神田川が浄化され、隅田川からボラの大群が上ってきた。 その時は、我が家から最も近い左衛門橋から川を覗いて、水が清くなったことを実感した! いつだったか、クラゲの大群が上がってきたこともあったね!

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● 左衛門橋の上流には「美倉橋(みくらばし)」が架かっている。、、、、美倉橋は右岸の千代田区東神田と左岸の千代田区神田佐久間町に架かる橋。 現在の橋は、昭和4年(1929)2月の架設、長さ35.35m、幅23.31mの鋼製アーチ橋。 工事費は17万9千円也。、、、、神田美倉町はもと佐柄木町・本銀町・紺屋町の蔵地からなり三倉地と呼ばれ、橋の営繕は町の費用で行われていた。 明治2年(1869)に“三”を“美”に改め、町名及び橋名にした。 橋の南詰には、この命名に因んで、倉が三棟建っているが、実体は公衆便所で、男・女・車椅子の各用のトイレ。 味噌を処理する“味噌蔵”だ!

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2020年12月 2日 (水)

おばけ階段

イチョウの葉も舞い落ちる季節となり、東大本郷キャンパスへ黄葉を見に行った! 御茶ノ水駅から歩いてキャンパスへ向かう。 行ってガッカリ、大学構内に入れず! しかたなく、キャンパスの周りをグルリと歩いて根津へ。 オヤ!雨粒が落ちてきた、急ぎバスで御徒町駅へ戻り、帰宅する。 1万1千歩の散歩です。




JR御茶ノ水駅は、エスカレーター・エレベーター設置はもとより、ホーム上に3階建ての橋上駅舎の新設、聖橋口の拡張、中央快速線のグリーン車連結に対応し快速線ホームの延長、また同時にお茶の水橋の補強工事もあり、てんやわんやの大工事実施中。 見るたびに駅の姿はドンドン変わっていく。 今日、ホームに降りたら旧聖橋口に出る階段が無くなっていた、アリャアリャいつの間にか壊された!、、、、駅は全面工事中で狭い、しかも通勤時間帯で人の動きが多い、こんな処でのんびり写真を撮っていたら殺されるかも? 周りを見渡し、殺されないように、人が少ない時にパチリ!、、、、工事の完成は3年延期し、2023年度を予定しているそうだ。 まだまだ、あと3年!

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● 今日は、東大のイチョウ並木を見に来たのだが、赤門前に来ると『新型コロナウイルスの感染予防の観点から、関係者以外の構内への立入を禁止します。ご理解ご協力をよろしくお願いします。 東京大学』の立て札がたち、身分証明証などをチェックしていた。 アリャ!コリャ、ダメだ。 健康保険証を出しても入れてくれそうになく、諦めた。、、、、でも、『正門なら入れてくれるかも』と、正門に行ったが、こちらもダメ。、、、、ならば、農学部キャンパスに行けば、『内緒で入れてくれるかも』と、農学部正門に行くが、こちらもダメ。 さすが、天下の東大、警備が厳しく潜り込めない、本当に諦めた!、、、、こうなりゃ、コロナに感染して、救急車で東大病院に入るしか方法はなさそうだ!

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● 黄葉は諦め、東大周辺の建築を見てきた・・・・・

・・・・・・・・・・・・東大正門の南側、本郷通りに面するドイツ語関連図書の出版社「郁文堂社屋」。 この建物は、大正12年(1923)に建てられた「昼夜銀行本郷支店」で、典型的な銀行建築の建物。 震災、戦災の被害は軽微で、ほぼ建設当初の姿を見せている。、、、、私は、大学でドイツ語を履修したが、単位を落とすぐらい勉強したので、何も覚えてないね!

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・・・・・・・・・・・・東大前の本郷の町に佇む、築100年の旅館「鳳明館」、、、、建物は、本館、台町別館、森川別館の3カ所にある。 この内、本館は、木造2階建の近代和風建築。 明治30年代に、下宿屋として建設されたが、昭和初期に下宿屋兼旅館に改造し、さらに昭和20年に旅館建築に模様替えした。 各室毎に異なったつくりで、部屋の銘木に合わせた部屋名とする。 下宿・旅館が多かった本郷地区の歴史的な景観を伝える建物で、国の登録有形文化財に指定されている。 本館前の台町別館、本館からはチョイトはずれた森川別館も、本館と同じような佇まいの建築である。 

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・・・・・・・・・・・・鳳明館森川別館近くにある「求道会館」、、、、明治35年(1902)に欧州留学から帰国した真宗大谷派の僧近角常観が、青年らと信仰体験を語り継ぐ場としてここに求道学舎を開き、大正4年(1915)に信仰を説く施設としてこの館を建てた。 私はまだ内部を見たことがないが、内部は長椅子の並ぶ2層吹抜けのホールとなっているそうだ。 設計はアール・ヌーボを日本に紹介した建築家として知られる武田五一(1872~1938)で、京都市役所なども設計した。、、、、仏教の御本尊が安置されているそうだが、ホールでキリスト教の説教をしてみたら、チョイト変わって面白いかも。 仏の道も神の道も行きつく先は同じ。

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● 東大農学部グランド前にある浄土真宗本願寺派寺院の西教寺(向丘2)は、涅槃山究竟院と号す。 西教寺は、常陸國那珂郡松の濱に創建、寛永7年(1630)に湯島へ移転し中興、貞享5年(1688)現在地へ移転した。 西教寺の山門は、酒井雅楽頭の屋敷から明治7年(1874)移築したものである。

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・・・・・・・・・・・・西教寺の北側に、浄土宗寺院の既成山光明院願行寺がある。 この寺は、品川願行寺を開山した僧の孫弟子が明応3年(1494)に開山した。 しばらくは馬喰町にあったが、明暦大火の後に、現在地へ移転した。、、、、本堂には、本尊の木造阿弥陀如来坐像と、出世不動明王が祀られている。

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● 東大のキャンパスを回るように、東大地震研究所の角を曲がると、日本聖公会の小さな「東京聖テモテ教会」がある。、、、、落ち着いた、清々しい雰囲気の教会で、チョイト内部を拝見してきた。 現聖堂は吉田辰夫の設計で、昭和25年(1950)に献堂式を行っている。 スレート葺きの木造漆喰造り。 天井には
木造の小屋組みがむき出しで見え、素朴な感じの空間である。

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● 根津神社の鳥居前を通り、東大キャンパスに沿って裏道に入っていくと「おばけ階段」(根津1-20)がある。、、、、この階段、上りは40段で、下りは39段となるそうだ。 別に、上り下り専用階段あるわけではない。 私も試しに、数えながら一往復してみた。 なるほど!数え間違いしやすい構造になっているのだ、納得!

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・・・・・・・・・・・・数え間違いを起こす原因は、階段の一番下の段が道路面と同じ高さあることだ。 上るときは、最初の1段目に足を乗せ“一歩”をキチンと数えるが、下ってくると最下部の段部までは数えるが、最後にアスファルト(道路)部分にかかる“一歩”を数えないためである。

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・・・・・・・・・・・・この階段が「おばけ階段」と言われる要因としては、他に、階段が墓石で出来ているという話だ。 また段数の、40段、39段は、語呂合わせで『死十』、『三重苦』となるかららしい。、、、、私としては、幽霊などのお化けが出る話でもあれば、もっと面白いのだが、チョイト残念!



● おばけ階段を上がり、根津駅方面に歩いてると、小さな雨粒が落ちてきた。、、、、急ぎ、バスで御徒町駅に出て帰宅。

2020年10月29日 (木)

六地蔵の故郷へ?

「江戸六地蔵」にまつわる散歩も、いよいよ今日で最後とする。 今日は、『江戸六地蔵の鋳造は神田鍋町の鋳物師、太田駿河守藤原正儀による』を手掛かりに、「神田鍋町」周辺を歩いてみた。、、、、浅草橋の我が家から、神田駅界隈を散歩。 往復歩いて1万歩。


・・・・・・・・・「神田鍋町」は、今はない!、、、、まずは、地図で神田鍋町を探すが見つからない。 神田鍋町は寛永年間(1624~1645)に成立し、昭和8年に廃止された。 現在では、概ね神田鍛冶町3丁目に該当する、中央通り地下の東京メトロ銀座線神田駅ホームを挟んだ両側だと思えばよい(なお、JRの神田駅は江戸時代の神田鍛冶町にある) 江戸幕府は日本各地の名工を、江戸に呼び寄せ最大級の鋳物の街と鍛冶の街をつくった。 この地は、“鋳物師”の椎名山城に下された土地なので「神田鍋町」と称した。 隣り町は、幕府鍛冶方棟梁高井伊織の拝領地で「神田鍛冶町」と称した。

・・・・・・・・・「太田正儀」は、神田鍋町の住人?、、、、江戸六地蔵の鋳物師「太田正儀」の名は、もしくは似た名は、六地蔵の他にも、寛永寺の鐘楼、浅草寺の二尊仏、谷中天王寺の釈迦如来座像、赤坂浄土寺の地蔵菩薩坐像などに残されている。 いずれも、『神田鍋町の太田〇〇』と標されている。 つまり、太田一族、太田一門、太田家の“第〇代太田正儀”など、同一人物か、同門か、同族か、いずれかの鋳物師が住んでいたと思われる。 (写真左から、寛永寺梵鐘、天王寺釈迦如来座像)

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・・・・・・・・・「江戸六地蔵」は、神田鍋町生まれか?、、、、江戸時代の“キューポラの街”神田鍋町では、江戸の町が大きくなるにつれ、活動が制限され、大きな仏像・梵鐘・燈籠などの鋳造が禁止された。 大きなものは、江戸から離れた処で鋳造することとなる。 江戸六地蔵は最大2.75m、これが大きいか、小さいかは判らないが、私はこの神田鍋町で鋳造したと思う(根拠なし!)、、、、“江戸”六地蔵が東京以外の他県生まれじゃ、シャレにならないからね!




● 15時過ぎに散歩に出た。 普段、見慣れた景色でキョロキョロするする必要も無く、スタコラサッサと、浅草橋駅靖国通り都立一橋高校と通過する。

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・・・・・・・・・・・・清洲橋通りと靖国通りが交わる東神田交差点から南に向かうと、一橋高校の西側で道は神田方向に曲がっていく。 この道が「神田金物通り」と呼ばれ、JR神田駅まで続く。 この通り沿いには、その名のごとく金物問屋が多く並んでいた。 その始まりは大正12年(1923)の関東大震災以後のことである。 江戸時代から金属産業の拠点であった神田鍛冶町や神田鍋町が隣接し、新しい交通・運搬手段となった鉄道の神田駅が大正8年(1919)に完成したこともあり、日本橋方面からも金物問屋が移転してきたようで、一大集積地となったそうだ。 また、岩本町2丁目の裏通りには、金物の神様とされる金山彦命・金山姫命の分霊が祀られ、戦後の昭和29年(1954)に「金山神社」が創建された。、、、、いづれも、大正・昭和の話であるが、江戸時代の“キューポラの街”の続きである。

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● 神田金物通りからJR神田駅のある鍛冶町に入る。、、、、ここで、チョイト【鍛冶町の不思議】について。 鍛冶町は見た目には、1丁目から3丁目まであるが、正式には「千代田区鍛冶町」は1丁目と2丁目しかない。 3丁目は「千代田区神田鍛冶町3丁目」である。 つまり、3丁目は“鍛冶町”の前に“神田”を冠するのである。 この理由は、昭和37年(1962)の住居表示変更の際、1丁目・2丁目は“神田”をとった。 神田鍋町から神田鍛冶町3丁目に変わった住民は、“神田”をとることに抵抗したためである。、、、、証拠は、「鍛冶町一丁目」のバス停と「神田鍛冶町三丁目」の案内板の説明文と地図

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● JR、東京メトロの神田駅・・・・・オリンピックに向け改良したのか? どちらも、綺麗になった神田駅。

・・・・・・・・・・・・JRの神田駅、、、、大正8年(1919)3月1日、鉄道院中央本線の万世橋駅~東京駅延伸開業に伴い、中央本線の途中駅として開業。  6年後の大正14年(1925)東北本線秋葉原駅~神田駅延伸開業に伴い、東北本線の駅として開業。、、、、所在地は千代田区鍛冶町2丁目なり。

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・・・・・・・・・・・・東京メトロの神田駅、、、、昭和6年(1931)11月21日に東京地下鉄道の駅として開業。 JRとの連絡通路はあるが、ホームは中央通りの地下。

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昔、神田鍋町。今、神田鍛冶町三丁目(昔の名前で出て欲しいね!)、、、、神田鍋町、神田鍛冶町のどちらも、江戸時代を語るものは何もない、今はサラリーマンの街。、、、、仏を鋳造し極楽浄土へ導く街は、酒を注入し厭離穢土へ導く街に変身! 「江戸六地蔵」もこの変身にはビックリ!!

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● 「江戸六地蔵」巡りも終わり、帰り路はJR総武線の高架橋沿いに、浅草橋の我が家へ戻る。、、、、タバコをやめて13年目、会社勤務を終えて12年目、完全に酒を飲まなくなって6年目、ネオン・提灯の明かりに誘惑されることもない、安心・安全に帰宅。

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2020年7月22日 (水)

表玄関は東口?西口?

今日は、午後から循環器内科の検診日。 JR水道橋駅と飯田橋駅の中間に位置するクリニックへ行ってきた。(もちろん、診察結果は異状なし)、、、、クリニックへ行く前に、新しいホーム・駅舎となった飯田橋駅をチョイト拝見。

 

JR中央緩行線の飯田橋駅は、昭和3年(1928)に市ヶ谷寄りにあった牛込駅と甲武鉄道時代のターミナル駅:飯田町を統合して現在地に誕生した。 統合時に設置されたホームは、曲線半径300mの急カーブで造られ、電車が停車すると、ドアとホームの隙間が最大約33cm、高低差が最大20cm生まれ、毎年10件前後の転落事故が発生したそうだ。(数年前、私の母(当時90歳)も降りる時に転んだ。ケガも無く、禍を転じて福と為したか、今でも健在で、私を悩ませている!) このため、JR東日本はホームを市ヶ谷寄りに200m程移動させ、直線に近いホームとする改良工事を平成26年(2014)に発表した。 その後、工事は進み、今年の7月12日より、改良されたホームに電車が発着し、市ヶ谷寄り(神楽坂側)の西口駅舎もオープンした。

・・・・・・・・・・・工事前の急カーブ部分(2016/6/12撮影)と、フェンスで両側を仕切られ連絡通路となった同カーブ部分(今日撮影)

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・・・・・・・・・・・千葉方面行き電車の最後尾車両が停車していた位置付近(ホームの先に西口に向かう斜路が見える)に、7月からは先頭車両が停車することとなった(斜路があった位置には、西口橋上駅舎に向かう階段が見える)。
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・・・・・・・・・・・・写真は今は無くなった、西口改札からホームに向かう懐かしの斜路(2016/6/12撮影)、、、、50年前、私の勤務先の最寄り駅は、ここ飯田橋であった。 毎朝、ホームから斜路を歩き上ると勤務地に到着した感がありチョッピリ緊張した。 帰りの下りは、開放感でホッとしたもの。

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・・・・・・・・・・・新旧の西口駅舎。 以前は平屋の可愛らしい駅舎、7月からブラックのシックな2階建て駅舎。 新旧とも、駅舎は早稲田通り(牛込橋)に面する橋上駅舎。

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・・・・・・・・・・・牛込橋からホームが市ヶ谷寄りに延伸された部分を撮影。 Before/After。

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・・・・・・・・・・・・延伸されたホームの市ヶ谷寄りから眺めると、ホームは多少カーブしているが、直線に近づいた!

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・・・・・・・・・・・目白通りに面し、これまでは飯田橋駅の表玄関であった東口は、可哀そうに、表玄関の座を西口に奪われたようだ。 東口にあった「みどりの窓口」は西口に移転。 東口の券売機には「新ホームまで約3分」の貼り紙。 哀れ、東口。(ちなみに、トイレも西口の方が綺麗で広い)

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2020年5月24日 (日)

お玉ちゃんの池

いよいよ緊急事態宣言解除も秒読みに入った。 ここで気を緩めてはダメ、でも今日は日曜日、チョッピリ緩めて神田岩本町周辺の“お玉が池”の跡を、行ったり来たり、グルグル歩いてきた。 お玉が池は、我が家から直線で1km程の処にあった。


●人影なし! ・・・・・・・・・浅草橋駅西口(秋葉原寄りの駅の裏口)から100m程歩けば神田川、川に架かる左衛門橋を渡ると千代田区東神田。 東神田の町を南北(1丁目と2丁目)に分ける靖国通り(=都道302号)がとおっている。、、、、「東神田」の町の呼称は、大正12年(1923)の関東大震災後で、昭和9年(1934)、江戸時代から続いてきた、橋本町、江川町、富松町、久右衛門町が合併し東神田となり、昭和13年(1938)には東神田町会が成立した。 昭和40年(1965)には住居表示により東神田1丁目・2丁目となった。 また、神田川を挟み2丁目の北側に東神田3丁目がある。

・・・・・・・・・・・・浅草橋駅には人影はない!

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・・・・・・・・・・・・神田川にも人影はない、あったら溺死だ!

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・・・・・・・・・・・・靖国通りの車道にも人影はない、あったら轢き逃げだ!

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●謎の校名? ・・・・・・・東神田1丁目に都立一橋高等学校がある。、、、、一橋高等学校は、昭和25年(1950)に東京都立今川高等学校と東京都立神田高等学校が統合し、現在地に開校した戦後の名門校(今は?)の一つである 。 今川高校は今川裁縫補修所(1908年創立)・神田女子実業補習学校(1913年創立)・麹町実科女学校(1924年創立)、神田高校は東京市立蒲田工業学校(1940年創立)を前身とする学校であった。、、、、さてさて、この一橋(ひとつばし)高校の校名の由来は?、、、、東神田のこの地は江戸時代に遡っても“一橋”の地名とは縁がない、また日本橋川に架かる「一ツ橋」からは遠い、徳川御三家の“一橋家”とは無関係、一橋大学とも縁遠い、学校の最寄り駅は、JRの浅草橋駅と馬喰町駅、
都営の東日本橋駅と馬喰横山駅。 はたして、校名“一橋”の真実とは・・・・一橋高校の発足までには、明治時代より多くの学校が統合合併してきたため、戦後の発足においては、過去の校名に類似し偏った校名にすることは、合併後の職員生徒の感情の上で面白くない点が生じ、不平・不満をよぶおそれがあり簡単には決定できなかった。 そこで、知恵を絞り合併前の各校に共通したものを校名にすることにした。 神田女子実業補習学校の発祥の地は現在の一ツ橋中学校の地。 蒲田工業学校は昭和22年に都立一橋工業学校と名乗っていた。 今川高等学校、麹町実科女学校も一ツ橋の地とゆかりがあり、最終的に「一橋高等学校」という名称に決定したそうだ。 今の学生には納得しがたい校名かも、いっそ一橋大学の付属高校にしたら、判りやすいね!

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●あっちもこっちも“お玉”! ・・・・・・・東神田の西隣の町、千代田区岩本町2丁目の角に、和風2階建ての鰻屋「ふな亀」があった。 平成20年2月に店は閉店し、今は「パステルコート神田岩本町」という11階建てのマンション。 この辺りに「桜が池」と呼ぶ池があった。 桜が池は奥州への街道の脇で、池の岸には多くの桜が咲いていた。 桜の木の下には“お玉”という名の美女が出て、往来の人に茶をすすめていた。 中には、私みたいな助平な旅人もいたようで、二人の男が恋をしたそうだ。 お玉は、二人のうち人品・容姿の勝るほうを選ぼうとしたが、二人の熱意には差が無く、また二人ともジャニーズ系で、いずれとも決めかね、迷い迷って池に身を投じてしまった。(里人は、助けられず、シマッタ!) 以来、「桜が池」は「お玉が池」となる。、、、、「ふな亀」は閉店したが、往時の表看板には、『 神田に名所があるという こゝに西北百米に千葉周作の道場 家並にお玉ヶ池種痘所 裏手に捕物の名人人形佐七のわび住居 こゝよりまさしくお玉ヶ池 万年のよわいかぞえる亀がすむ  ふな亀 』と書いてあった。

・・・・・・・・・・・・・写真は「ふな亀」のあったマンション(岩本町三丁目交差点)、、、、現在、店は中華料理屋となっているが、1階・2階の瓦屋根は鰻屋当時の名残。

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・・・・・・・・・・・・・・ふな亀のあった玄関前(歩道)に東京大学医学部が建立した「お玉ヶ池種痘所記念」の碑がある。、、、、安政5年(1858)に設立されたこの種痘所こそ、我が国の医学界をリードする東京大学医学部発祥の地である。 そしてこの施設の創立には、岡山県津山出身の蘭方医、箕作阮甫が深くかかわっている。 「お玉ヶ池種痘所」は、天然痘予防の画期的手法として蘭学者を通じて導入された「種痘」を組織的に実施するための施設として江戸で初めて開設した。 蘭方医と漢方医の対立も激しかった当時、開設には非常な困難が伴ったが、箕作をはじめ、伊東玄朴、大槻俊斎ら80名以上の蘭方医による醵金と幕府への働きかけにより、私立の施設として、開設に漕ぎ付けるこぎつけることができたという。 その中でも箕作は、連名帳の筆頭に名を記しており主導的な役割を担った。 種痘所は僅か半年後に火事の類焼のため別の地に移った後、官立お玉ヶ池種痘所→西洋医学所→大学東校→東京医学校と改称されながら、種痘だけでなく西洋医学研究の場へと発展して行き、明治10年の東京大学創設時に医学部となり現在に至っている。 

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・・・・・・・・・・・・ふな亀前から南へ60m程歩くと、「繁栄於玉稲荷神社」(岩本町2-5)があり、神社の脇には千代田区教育委員会が建てた「お玉が池跡」の標柱もある。、、、、繁栄於玉稲荷神社は、秋葉原駅と小伝馬町駅を結ぶ地下鉄日比谷線がとおる水天宮通りからやや入ったところにある小祠。 身を投じたお玉の霊を安んずる神社だが、安政の大地震で焼失したため、本社を葛飾区新小岩に移した。 ここにあるのはその分祀である。

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・・・・・・・・・・・・繁栄於玉稲荷神社から西へ20m程の、全宅連会館ビル(岩本町2-6)植え込みに『東京都指定史跡 お玉ヶ池跡 』と彫った石碑がある。、、、、説明文は無く、碑文は石の模様で判別しにくい。 点字を読むように手触りで読んできた!

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・・・・・・・・・・・・水天宮通りをさらに南へ100m歩くと、ビルの壁に貼り付けるように、『お玉ヶ池種痘所跡』の石碑と説明板がある。 こちらは、お玉ヶ池史蹟保存会が建立したものであるが、東大医学部が建立したものと同主旨の石碑。、、、、説明では、『お玉ヶ池は徳川初期には不忍池ほどの広さであったのが安政のころには小さなものになり現在はそのあとかたもなく史蹟としてお玉稲荷が祀ってあるだけです。 一時は池のほとりに、梁川星巌の玉池吟社、市川寛斎の江湖詩社、大窪詩仏の詩聖堂、東條一堂の瑶池塾、佐久間象山の象山書院、剣士千葉周作の道場玄武館、磯又右衛門の柔道道場 などがあった』とサ!    

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・・・・・・・・・・・・繁栄於玉稲荷神社の通りから一本南側の通りは、「お玉が池通り」と名付けられている。、、、、現代版の“お玉ちゃん”(超美人!)がいて、往来する人に「お兄さん、お茶飲んでいかない」と声をかけてくれると嬉しいね!

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・・・・・・・・・・・・また、近くには銭湯「お玉湯」がある。、、、、こちらはオープン前、まだシャッターが下りてた。 番台にお玉ちゃんが座ってたら、夜、入浴に行くのだが?

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・・・・・・・・・・・・昭和通りをこえて、岩本町3丁目の隣り神田東松下町のタワーマンションの前に
右文尚武」と刻まれた石碑がある。 この辺りも、かつて「お玉ヶ池」跡で、旗本屋敷や学者・詩人などの住宅があった場所だ。 ここには幕末の剣聖千葉周作の北辰一刀流道場「玄武館」と、それに隣合わせで東条一堂の漢学塾「瑶池館」があった。 玄武館は、幕末「技の千葉、力の斎藤、位の桃井」と称され、人気の高かった3道場の一つだ。 新選組の山南敬介、藤堂平助も玄武館で剣を磨いた。 清河八郎は、玄武館で目録を授けられると同時に瑶池館で塾頭を務めた。 ついでに、昭和30年代の漫画で少年剣士:赤胴鈴之助は千葉周作の弟子となったと、少年画報に描かれていたのを私は記憶している。、、、、現在は道場・塾など全て跡形もない。 

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・・・・・・・・・・・・【蛇足】 右文尚武(ゆうぶんしょうぶ)とは、学問と武芸をともに尊ぶという意味で、この地にあった千葉周作の玄武館と、東條一堂の瑶池塾で文武両道が実践され、その精神を示した。



●・・・・・・・・・・・コロナで身体もナマリ、歳を感じた散歩となった!

2020年5月 8日 (金)

江戸の味:連雀町

緊急事態宣言が4月6日に発令され1ヵ月が過ぎた。 この間、自由気ままに散歩もできず、ひたすら“我慢・我慢・ガマン”の日々。 ゴールデンウィークも終わり、そろそろ我慢の限界、朝食時に私が発した独り言『散歩したいな~~』 それを聞いた妻『神田へ行って来たら』 私『神田? ・・・?』 『なんで神田へ?』 妻『お昼は稲荷ずしにしようか!』 私、ナルホド・納得、『神田淡路町の「神田志乃多寿司」へ行って「稲荷ずし」を買ってきて』と云うことだ。 これで、“不要不急”ではない“必要火急”の外出をすることにした。 70超えた爺の、宣言発令後『はじめてのおつかい』となった。 浅草橋の我が家から、神田志乃多寿司までは、徒歩30分、往復1時間程の道のりである。 さすが、50年連れ添った女房だ!




●大きなアーチの高架橋! ・・・・・・・浅草橋駅から隣の秋葉原駅までは、JR総武線両国~御茶ノ水間が開通した昭和7年(1932)に完成した、鉄筋コンクリート造の高架橋が伸びている。 関東大震災後に造られた高架橋であるが、約90年経過し、鉄筋が露出し、ひび割れも多く老朽化も目立つ。 東日本大震災後、耐震補強工事が進められ、現在も工事中。 大きなアーチが連なる高架橋のデザインはモダンなデザインだ!、、、、昭和通り上の首都高の上を行き、秋葉原駅の3階部分に線路は入る。 かなり高い高架橋である。、、、、予想される次の大地震に耐える高架橋に、補修して欲しいね! 

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●かつサンドの橋! ・・・・・・・昭和5年(1930)に竣工した、長さ26m、幅36m、石及びコンクリート混成の現在のアーチ橋。 関東大震災の復興橋の一つ。、、、、万世橋の歴史は古く、延宝4年(1676)に架けられた筋違橋(すじかいばし)に遡る。 この橋は、徳川将軍が寛永寺に詣でる時に渡る橋で、現在の万世橋の上流側にあった。 明治5年(1872)には、筋違見附が取り壊され、翌明治6年に見附の石を再利用した、石造の橋が完成した。 この橋は当時の東京府知事により萬世橋(よろずよばし)と命名された。 ところが、橋名は次第に「まんせいばし」という読みが一般化した。 その後も、万世橋は数度架け替えられ、関東大震災では被災した。 昭和5年に現橋に架け替えられた。、、、、橋の南詰にある肉屋の「肉の万世」は、戦後の昭和24年(1949)9月9日が創業日。 ここの「万かつサンド」は美味い! 完全に東京名物として定着してるね!
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●老舗が並ぶ町! ・・・・・・・万世橋を渡り、かつての交通博物館跡、昌平橋際の神田郵便局、東京メトロ丸ノ内線淡路町駅の3点で囲まれるかつての連雀町(れんじゃくちょう)一帯は今も残る老舗グルメの町である。 どこの店も江戸の味を美味しく頂ける処である。、、、、残念ながら、私はもっぱら料理を食すのみで、“味”を文章で表現する能力が無いので、食べ物の紹介はグルメ本を見て! 【注:多くの店は、只今、コロナで休業中】

‣・・・・・・・・・・・“連雀町”とは、、、、神田川に架かる筋違橋(旧万世橋の前身)は、中山道に通じており、行き交う人馬も多く、江戸時代のはじめごろより筋違御門が設けられていた。 門の内側、のちに八ツ小路と呼ばれた地に、連尺(物を背負うときに用いる荷縄、またはそれを取り付けた背負い子をつくる職人が多く住んでいたことから、「連尺町」の名前が付けられた。 連尺町はやがて連雀町の字があてられ、広く用いられるようになる。 明暦3年(1657)の大火「振袖火事」の後、連雀町は延焼防止の火除地として土地を召し上げられ、筋違橋の南方へ移転させられました。その際、連尺を商う二十五世帯は、遠く武蔵野に代地(だいち)を与えられ移住させられた。 現在の三鷹市上連雀・下連雀の地名はこの故事に由来する。 


・・・・・・・・・・・・東京で唯一のあんこう料理専門店「あんこう鍋 いせ源」、、、、天保元年(1830)の創業。 秋(9月)から春(4月)まで下北半島から仕入れた「あんこう料理」を提供している。 夏場はウナギ、ドジョウなど川魚料理で、一年中江戸の味を味わえる。、、、、建物は昭和5年(1930)築で、東京都選定歴史的建造物。

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・・・・・・・・・・・・次は甘味の「竹邑(たけむら)」、、、、いせ源の向かいにたつ、都が初めて和風建築を「歴史的建造物」に選定した昭和5年創業の甘味処。 戦火にも耐えた風情ある二階建て木造建築の中で、昔ながらの伝統の甘味に舌鼓、大正ロマンの香りが残る昭和初期にタイムスリップ!、、、、人気メニユーは「あんみつ」や「揚げまんじゅう」。

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・・・・・・・・・・・・次は、鳥すき焼きの老舗「ぼたん」、、、明治30年(1897)頃の創業。 由緒ある建物は昭和初期の建築。

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・・・・・・・・・・・・明治の味を今に伝える蕎麦屋「神田まつや」、、、、明治17年(1884)創業。 江戸の蕎麦が味わえる蕎麦屋の中の蕎麦屋。

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・・・・・・・・・・・・江戸三大蕎麦の一つ、「神田藪蕎麦」、、、、明治13年(1880)創業の老舗蕎麦屋。 数年前までの建物は、大正12年(1923)建築の木造2階建て数寄屋造りであった。 しかし、平成25年(2013)失火で焼失し、現在は鉄筋コンクリート造の和風建築。、、、、蕎麦の老舗としては、藪に、砂場・更科とあわせて3系列が「江戸三大蕎麦」と称されているが、元祖は不明?

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・・・・・・・・・・・・洋食の老舗「松栄亭(しょうえいてい)」、、、、こちらは明治40年(1907)創業の老舗洋食屋さん。 ポークソテーが美味しいそうだ。

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・・・・・・・・・・・・次は喫茶店の老舗「ショパン」、、、、創業昭和8年(1933)で、なかなかの古いお店。

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・・・・・・・・・・・・紹介の最後は、稲荷寿司とのり巻きの老舗「神田志乃多寿司」、、、、創業は明治35年(1902)。 油揚げのまろやかな甘味とコクのある稲荷寿司が私は大好きだ! じっくりと煮込まれたかんぴょうを使ったのり巻も、コレマタ絶品! 『一度食べたら忘れられない味。 嘘だと思ったら、自分で買って食べてみて!!』(ちなみに私は御幼少の頃から食し70年)

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・・・・・・・・・・・・我が夫婦と97歳の母、三人分の稲荷寿司とのり巻きを買って、来た道を我が家まで戻る。 この時の気分は、TV番組『はじめてのおつかい』で、幼児が買い物をすませ無事家にたどり着いた時と同じ気持ちのようだ。 ヤッタ~~!

・・・・・・・・・・・・コロナよ、早く終息して欲しいね。 そろそろ、本格的に散歩したくなったが、もうしばらくの我慢かな?

2020年3月28日 (土)

外出自粛の散歩

外出自粛要請が出た東京都、私の散歩の多くは完全に「不要不急の散歩」である。 それ故ここ数日、家に籠もっていた。 『今日も我が家で寝てようか?』と思っていたら、昼に妻が『和泉公園のサクラが満開、見てきたら』と一言。 『そうだ!個人的な運動で我が家の近所を散歩するのはOKだ』と、自問自答する。 我が家から半径1km以内のご近所を一人で散歩してきた。 




●我が母校とサクラ・・・・・・・まずは、我が家から直線距離で約200m、関東大震災後に復興公園として大正15年(1940)に開園した柳北公園(台東区浅草橋5)に咲くサクラ。 満開だ!、、、、サクラの後ろの建物は、公園と同時の大正15年に竣工した我が母校:元柳北小学校の校舎。 小学校は平成13年(2001)に、少子化により廃校となり、現在は区で使用している。、、、、サクラは、来週には散ってしまうかも?

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●いつも行列! ・・・・・・・・柳北公園を抜けて、千代田区神田和泉町に行列のできる店がある。(我が家から直線で約400m)、、、、こちらは平日でも11時ごろから行列ができ、地元の私でも並ばないと入店が難しいラーメン屋さん「饗 くろ㐂」。 “知る人ぞ知る”有名店とのこと! 美味しいラーメンを求め、今日も並ぶお客さん。

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●感染拡大を止めて! ・・・・・・・神田和泉町2に、赤いのぼり旗と赤い鳥居が眩しい「日通金網稲荷神社」がある。(我が家から約450m)、、、、ここは日本通運の発祥地である。 現在、日本通運は神社の脇で新本社ビルを建設中。 日本通運の先祖は、江戸時代、この地で飛脚問屋を営業していた「京屋弥兵衛」と言う人で、大事な金銭や信書の輸送にあたり事故の起きないよう、正一位稲荷大明神を祀ったそうだ。 京屋は、その後、陸運元会社、内國通運、國際通運、とその名を変え、現在の日本通運となった。 時代が変わっても創業の志を大切に守っていく企業の姿勢が理解できる。、、、、“お稲荷さん”には、筋違いかもしれないが、“新型コロナ”の感染拡大をくい止めて欲しい、よろしく!

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●我が命の病院とサクラ! ・・・・・・・・・金網稲荷神社の隣りに千代田区立「和泉公園」(我が家から約490m)がある。 妻が言ったように、サクラは満開に近い状態であった。 大きなサクラが数本、さすがに今日は宴会する人はいない!、、、、写真、後ろの大きな建物は「三井記念病院」 6年前、私の大動脈を人工血管に置き換えてくれたアリガタイ病院。

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●橋の端を歩いて! ・・・・・・・・JR浅草橋駅の南側、JR総武線と並行して流れる神田川に架かる4橋を順に渡り、隅田川へ向かう。

・・・・・・・・・・・・まずは、我が家から直線で約500m、今日渡る神田川4橋の中では最上流に架かる橋。 その名は「美倉橋」、、、、美倉橋は現在の千代田区神田佐久間町と同区東神田を結び、江戸時代に架けられた橋。 近くに三つの倉があったことから「三倉橋」、転じて「美倉橋」と呼ばれるようになった。、、、、現在の橋は昭和4年(1929)の架設、長さ35.35m、幅23.31mの鋼橋。、、、、今日の神田川は、上流で咲くサクラの花びらを運んで流れ下る。

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・・・・・・・・・・・・次は、約360mの距離にある「左衛門橋」、、、、左衛門橋の、北詰は千代田区東神田3丁目と台東区浅草橋1丁目、南詰は千代田区東神田2丁目と中央区日本橋馬喰町2丁目で、三区を結ぶ橋である。 この橋の創架は、明治8年、東京府の認可を受けた賃取橋(有料橋)として、民間人により架けられた。 この時の許可条件は、有料期間7ヵ年、満期後東京府に上納となっていた。、、、、橋名は、北詰の台東区側にかつて鶴岡藩の酒井左衛門尉の下屋敷があったことから、この付近一帯を左衛門河岸と呼んだことに由来する。、、、、現在の橋は、震災復興事業による復興橋梁で、橋長35.5m、幅員15.0mの鋼製橋で、昭和5年(1930)に架設。、、、、橋の際には、三区がそれぞれ独自に造った公衆便所・小公園などがある。 

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・・・・・・・・・・・・次は、約400mの処にある「浅草橋」、、、、北詰の台東区浅草橋・柳橋と南詰の中央区馬喰町・東日本橋を結ぶ橋。 江戸時代には、見附の一つで浅草橋御門があった。、、、、現在の橋は、関東大震災後の復興事業として、昭和5年(1930) に架設された鋼製の橋。

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・・・・・・・・・・・・最後の橋は、神田川最下流に架かる「柳橋」(我が家から約540m)、、、、この橋も復興橋のひとつで、北詰は台東区柳橋、南詰は中央区東日本橋。 昭和4年(1929)完成。 永代橋をモデルにしたと言われる、橋長37.9mの小型のアーチ橋で、全体的に緑色に塗られている。 幕末、明治以降、柳橋は花柳界として名高かったが、私の若い頃である昭和40年代には、バブルの終焉と共に廃れた。

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・・・・・・・・・・・・浅草橋から柳橋にかけて、神田川には屋形船が並んでいる。 “新型コロナ”でダメージをくらい、チョイト、出番はないようだ! しばらくの辛抱か?

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・・・・・・・・・・・・柳橋の南詰(中央区側)に、昭和初期の建築と思われる「増田ビルがある。 窓の上下に丸み帯びた横線がある、優しい感じのビルで、元は医院だったそうだ。

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●コロナは居ない! ・・・・・・・・・我が家から約520m、隅田川をチョイト覗いてみた! 川縁には人影がチラホラ、ココなら“新型コロナ”の心配はいらないだろう! でも、チョイト曇って来たな!、、、、横に架かる総武線隅田川橋梁は昭和7年(1932)竣工。

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●また、自宅隔離をするか! ・・・・・・・・江戸通りに面したJR浅草橋駅東口前(我が家までは約250m)から帰宅。 外出自粛要請が効いたか、人通りは少ない。 特筆すべきは、『外人が消えた!』

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2020年1月29日 (水)

田安門

循環器内科の定期検診日、クリニックに行くついでに、飯田橋駅から田安門・武道館・近代美術館工芸館と巡り、市ヶ谷駅までの散歩です。




●カーブがキツイ! ・・・・・・・飯田橋駅は、昭和3年(1928)の中央本線の複々線化に伴い、それまでの牛込駅(明治27年開業)と飯田町駅(明治28年開業)を統合するような形で新たに開業した駅。、、、、島式ホーム1面2線の高架駅。 飯田橋駅は東西に出入口はあるが、地形が傾斜しているため、東口側は高架駅舎のようになっている、西口側は橋上駅舎となっているが只今改良工事中につき、早稲田通り北側に仮駅舎がある。 工事は、ホームを新宿寄りに200m程移動しホームの急なカーブを解消することにある。 今年工事完了予定で一生懸命作業中。、、、、電車とホームの間の隙間が広いので、年寄りにはチョイト乗り降りが恐い、工事完了を待っている!、、、、今日は医者に行くので、東口に出た!

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●私の通勤路! ・・・・・・・・・飯田橋駅から「早稲田通り」を歩き、田安門へ向かう。 この道は私の通勤路の一部で、昭和40年代から60年代まで歩き通った道!

・・・・・・・・・・・・飯田橋駅西口に近い富士見1丁目の民家。 2階の3連の窓いいね!

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・・・・・・・・・・・・角川第3本社ビルの向かいに「共済ビル」(富士見1)がある。 昭和初期のビルか(?)渋いビルだ、昭和60年代までは、玄関周りにはタイルが張られていたと記憶している。 『取り壊されず、まだ残っていた!』と叫びたくなる建物だ。

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・・・・・・・・・・・・・こちらは、「テツゲンの本社ビル」(富士見1)、、、、昭和40年代頃のモダンな建物。

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・・・・・・・・・・・・千代田区立九段中等教育学校(旧都立九段高校)前のスペイン瓦のお屋敷。 大正14年(1925)に建てられた山口万吉邸(新潟県長岡出身の実業家)、、、、設計は、今井兼次、内藤多仲、木子七郎の三人。、、、、現在は、東急電鉄・竹中工務店・東邦レオの3社が共同で活用し、会員制ビジネスイノベーション拠点「kudan house」として利用されている。、、、、一度は中を覗かせてもらいたい建物だ!

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・・・・・・・・・・・・靖国神社大鳥居前の追分角地にある大きな碑は「濠北方面戦没者慰霊碑」である。 “濠”は“豪”とも書き、オーストラリアのこと。 ボルネオ、セレべス、ジャバ、ハルアへラ、セラム、ニューギニア地区の戦没者慰霊碑で、昭和39年(1964)に建立された。 台座の大きさに比べ中央の自然石の碑がチョイト小さいね!、、、、【実はですね・・・】この碑の台座は本来シベリア出兵の際の「尼港遭難記念碑」として大正13年(1924)に武田五一の設計、明石作五郎の施工により建立されたものである。 当初は品川弥二郎銅像の西隣りに建立されたが、関東大震災後、九段坂の拡幅により現在の大鳥居前に移築された。 しかし敗戦後の昭和22年(1947)、尼港遭難記念碑の像などは撤去され、台座のみとなった。 その台座を、現在の碑に流用したものである。 “尼港事件”とは、大正9年(1920)、ロシアが率いる露中共産パルチザンによって黒竜江河口にあるニコライエフスク港(尼港)の日本守備隊及び日本人居留民約700名以上が虐殺された事件で、シベリア出兵が延長された要因の一つとも言われている。

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・・・・・・・・・・・・大鳥居前を抜け、明治4年(1871)に建てられた招魂社灯籠(常夜灯)見ながら田安門に到着。

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●側室の御門? ・・・・・・・大田道灌時代、江戸城の合戦場はこのあたりであったといわれている処にある田安門は、寛永13年(1636)に建てられたそうだ。 北面する高麗門とその西側に直交する渡櫓門からなる枡形門です。 門名の由来は、門内に田安大明神があったので門名にしたといわれている。 江戸城造営後は北丸と称し,代官屋敷や大奥に仕えた女性の隠遁所となる。 有名な千姫や春日局、家康の側室で水戸頼房の准母英勝院の屋敷などもこの内にあった。

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・・・・・・・・・・・・・・外から来ると、最初に通過する高麗門に几号水準点(きごうすいじゅんてん、明治時代の水準測量の測量点。 “不”の字に似た図形)がある。 “不”の字の頭を誰か削ったようで、3本足の一部がかろうじて残されている。、、、、水準点設置時の標高は25.5786mで、mm単位以下まで測り、信じられない精度だ。

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・・・・・・・・・・・・田安門を入って渡櫓門 を通り、すぐに左に折れると、「弥生慰霊堂」と刻まれた石柱と、入口を守る狛犬が目に入る。 そこから階段(参道)を上ると田安門を見下げる高台に慰霊堂(弥生廟)がある。、、、、弥生廟は、明治18年(1885)当時本郷区(現文京区)向ヶ岡弥生町(東大構内)にあった警視総監の邸内に、警察官・消防官の殉職者を祀るため創建された弥生神社がその起源となっている。 その後、鎮座地は、芝公園、鍛冶橋の警視庁、青山墓地、麹町区隼町と転々としたが、昭和22年(1947)現在地に納まり、名を「弥生慰霊堂(弥生廟)」と改めた。 戦後、警視庁では神社の管理が出来なくなり、“神社”から“慰霊堂(廟)”に変えた。 つまり、軍人は靖国神社、警察官・消防官は弥生神社に祀る考え方である。、、、、弥生慰霊堂
は、弥生廟奉賛会(弥生奉賛会)によって管理され、実質的には警視庁と密接な関係を保っている。 慰霊祭の形式もより神道色を払拭した形式に変更された。、、、、北の丸公園・武道館に訪れる人は多くても、弥生慰霊堂に訪れる人は少ない。 参道前を歩く人は多いが、皆、慰霊堂の存在を知らないようだ! 機会あれば立ち寄って、手を合わせて欲しい!

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・・・・・・・・・・・・田安門の隣り、御存じ「武道館」 只今、オリンピックに向け改装工事中。 柔道・空手の会場として予定されている。

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●見納めになるかも? ・・・・・・・北の丸公園の南端に、「東京国立近代美術館工芸館」がある。 建物は明治43年(1910)近衛師団の衛戍地であった北の丸に司令部が建設された、これが現:工芸館である。 昭和38年(1963)戦後、皇宮警察の寮として使われていた旧近衛師団司令部が北の丸地区の公園化に伴い、取り壊しが決定するが、戦友会、文化庁、日本建築学会などの努力により、昭和47年(1972)には保存が決定する。 昭和48年(1973)、北の丸公園内の旧近衛師団司令部庁舎が重要文化財に指定された上、国立近代美術館分室として活用されることとなり、改修工事が行われ、昭和52年(1977)に工芸館として開館。、、、、工芸館は今夏、金沢に移転することになっている。 収蔵品は金沢に移動し、展示される。 すると、この建物はどうなるの? たぶん、収蔵品が空になるので、次の用途が決まるまでは閉館となるでしょう! と、言うことで今日の散歩で見納めとなるかも?


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●春の陽気、暑い! ・・・・・・・・・お帰りは、市ヶ谷駅から、、、、1月末で18℃の陽気、ひょっとすると梅と桜が来月当たり同時に咲くかも?

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2019年12月 3日 (火)

疲れた大嘗宮

やっと晴れた! 10時半、夫婦で東京駅到着、駅構内のトイレは超満員、『なんじゃこりゃ?』と驚いた。 構内アナウンスで『大嘗宮(だいじょうきゅう)へ行かれる方は・・・・・(うんじゃら・かんじゃら)』と叫んでる。 我が夫婦の考えは『今日は久々の秋空、しかも平日、皇居大嘗宮と乾通りの見学には絶好の日』、ところがドッコイ、誰しも考えは同じだった。 “絶好の日”が“最悪の日”となったようだ。 東京駅から長蛇の列に引き込まれ、見学が終わり皇居から出るまで3時間強、人並みに揉まれ、足はパンパン、腰はイテテ、気持ちはイライラ、腹はペコペコ。、、、、見学終えて市ヶ谷まで歩き、遅めの昼食の中華料理は、大嘗宮のおかげで美味しく食べることができた。 




●中高年がゾロゾロ! ・・・・・・・東京駅前の「行幸通り」はイチョウが色づき、『Oh! Beautiful!  Wonderful! インフルにはタミフル!』、、、、行幸通りは東京駅中央口から皇居前の和田倉門までまっすぐに伸びる全長約200メートル、幅約74メートルの道路。 皇室の行事などに使われてきたため、この名で呼ばれている。 道路は関東大震災の復興事業として、大正13年(1924)に着工し大正15年(1927)に完成した。 工事費は約62万円(当時)、設計は復興局技師:川地陽一、河野通靖、施工は橋本組工業合資会社。、、、、歩道には、毎日が日曜日の中高年がゾロゾロ。 道路中央の分離帯には若い娘がキャッキャ。

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●気持ちはイライラ! ・・・・・・皇居前広場に幾重にも蛇行する長い行列。 私も仲間入りしたが、『コリャ、皇居の中に入るまで1、2時間かかるかも?』心配になってきた。 後から、おばさんが私の前に出てくる、コンチクショウ! 『女は度胸、男はやせ我慢!』、、、、予想に反し、行列は止まることなく進み、30分ぐらいで皇居の入口:坂下門から入場できた。、、、、坂下門の先には宮内庁庁舎があるため、皇居に出入りするのに一番使用されている門である。 江戸時代には枡形城門であったが、明治21年(1888)に第一門は撤去されて、現存する門は移設された第二門。 一見小さな門のように見えるが、左右に見附がある大きかった第一門が無くなったためである。 

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●一刻は仮宮殿! ・・・・・・坂下門を入ると正面に宮内庁庁舎がある。、、、、設計は宮内省内匠寮、施工は清水組・大林組、鉄骨鉄筋コンクリート造3階建て。 この宮内庁庁舎は、昭和10年(1935)に建てられた建物。 昭和27年(1952)庁舎3階が改装され昭和43年(1968)の新宮殿落成までの間、仮宮殿として使用されていた。、、、、庁舎玄関には立派な車寄せを張り出し外壁は全面石張りで、格調高い仕上げである。

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●屋台なしの紅葉狩り! ・・・・・平成に続き、令和初! 皇居「乾通り」秋の一般公開に参加。 宮内庁庁舎前から乾門に至る乾濠及び蓮池濠沿いの約750mの通り「乾通り」が紅葉に染まっている。、、、、町中の公園とか城址だと、歩く道沿いに、“焼きそば”、“イカ焼き”、“ビール”など屋台が出てるのだが、ここはただただ歩くだけ。 ソースの臭いがなく、気持ちよく歩けていいね!

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●大赤字(?)の大嘗宮 ・・・・・ゾロゾロ人の後について大嘗宮(だいじょうきゅう)に向かう。 江戸城本丸跡付近で、ポリスのアナウンス『ここから大嘗宮の正面までは、あと1時間ぐらいかかります。 すこしでも急いで前に歩いてください!』 たしかに、大嘗宮は見えているのだが、本丸跡をぐるりと人の列が囲み、『近くて 遠い 大嘗宮』、、、、大嘗宮は、今回の即位に伴う儀式のためだけに造営された、この一般公開後は取り壊される。 宮内庁は平成の時と比べて敷地面積を縮小したり、屋根は簡素な板ぶきを採用し、経費削減を図ったそうだ。 大嘗宮は約6,500㎡で、私には用途がよく判らないが、悠紀殿(ゆきでん)や主基殿(すきでん)など大小30近くの建物で構成されてる。、、、、建物の撤去費用などを含めた建設関係費は約24億4千万円程かかるそうだ。 清水建設が施工した大嘗宮の造営は、9億5700万円で落札したらしい。 予定価格の6割の値段だって、大赤字! 太っ腹!、、、、解体した大嘗宮は、その大部分の木材を再利用する方向で調整が進められているそうだ。 出来れば、我が家をリホームして欲しいね。

・・・・・・・・・・・・・・1時間待ちの行列。 芝生の先に全景がみえる大嘗宮。、、、、行列に並ぶことに意義がありそうだ。 私も大人になったね!

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・・・・・・・・・・・・・・やっと大嘗宮の正面に到着。 しかし、ポリスの声『立ち止まらないでください』、『先へ進んでください』、、、、30程の建物、何処に、どの建物が、サッパリ判らず。 ただただ人の流れに乗って、ドンブラコ!

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・・・・・・・・・・・・・・グッタリ疲れ、皇居を後にする。
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2019年10月24日 (木)

きつく辛い女坂

以前からチョイト気になっていた、神田明神の男坂と女坂、どちらが急か現地調査に行ってきた。 ついでに、帰りに秋葉原のヨドバシカメラで、腕時計の電池交換してもらう。 我が家(浅草橋)から神田明神まで往復歩いて、9千歩。




●離れられない駅! ・・・・・・・我が家からJR浅草橋駅西口まで、素直に歩いて徒歩3分、ご近所の人に会うと徒歩5分、途中で忘れ物に気付くと徒歩8分、途中で気が変わり地下鉄に乗りたくなるとトホホのホ!、、、、70余年、同じ駅のそばで暮らしていると、たまには違う駅のそばで暮らしてみたくなる。 「どこがいいかな?」 風光明媚で、静かで、山に近く、海もあって、交通の便が良く、大型スーパーに近く、駅前にコンビニがあって、女子大が近くに在って・・・・・いくら考えても、浅草橋しか浮かばない、チョイト悲しいね!

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●頭上の電車に手を振って! ・・・・・・・JR総武線の高架橋(昭和7年開通)に沿って秋葉原へ。 浅草橋から秋葉原まで徒歩15分。 今日は、キョロキョロ脇見しながら、電車に手を振って、徒歩30分。、、、、浅草橋駅は台東区、浅草橋駅前のガードから先は千代田区である。、、、、途中、高架橋脇の佐久間公園は早起きラジオ体操発祥の地。、、、、秋葉原駅の「アトレ1」がある処には、昭和26年(1951)から駅直結の「アキハバラデパート」があった。 入口では家庭用品の実演販売も行われていた“庶民のデパート”だった!

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●漆塗りの社殿! ・・・・・・・まずは、神田明神へ、、、、神田明神は、千代田区外神田に鎮座する神社で、正式名称は「神田神社」。 神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内、旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神である。 毎年5月に行う御祭礼、「神田祭」は有名である。 旧社格は府社で、現在は別表神社である。 また旧准勅祭社の東京十社の一社である。 商売繁盛の御利益を期待し、正月になると企業の初詣で大賑わい。、、、、古い江戸時代の社殿は、大正12年(1923)の関東大震災で焼失した。 その後、3年の歳月をかけて昭和9年(1934)に権現造・鉄骨鉄筋コンクリート造・総朱漆塗で現在の社殿が完成した。 日本初の鉄骨鉄筋コンクリート製社殿となった。 この社殿は、建築家:大江新太郎(1875~1935)と早稲田大学大隈講堂の作品が残る佐藤功一(1878~1941)の設計、請負師:木田保造(1885~1940) の施工で建てられた、桃山建築風の豪華絢爛な造りである。 社殿は国の登録有形文化財に指定されている。

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・・・・・・・・・・・・・・神田神社は、天平2年(730)、武蔵国豊島郡芝崎村(現:千代田区大手町、将門塚の地)に創建された。 元和2年(1616)に江戸城の表鬼門にあたる現在地に遷座し、江戸総鎮守として歴代の将軍はもとより江戸の庶民たちにも崇敬された。 神田神社を愛する氏子に銭形平次・八五郎もいたか(?) 二人の碑が境内にある。、、、、摂社・末社も多く10社程が本殿を囲むように並んでいる。

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・・・・・・・・・・・・・・Googleマップを見ると、神田明神の東側に「明神男坂」と「明神女坂」が載っている。 この階段坂は以前からあるのだが、勾配は女坂の方がキツイようだ。 一般に男坂と女坂というと、勾配のキツイい方が男坂で、緩やかな方が女坂なのだが? さらに、話をややっこしくすると、神田神社の北側、社殿の裏側に蔵前橋通りに下る「裏参道」がある。 ここも階段坂で勾配はキツイ。 今日は、この3つの坂を現地調査した。

・・・・・・・・・・・・・・まず「明神男坂」、、、、神社の境内の標高は20mほどで、ほぼ平らだ。 神社の東側、一般に明神下と呼ばれている部分の標高は7m程で、約13mの標高差がある。 ここに男坂と女坂が造られている。、、、、明神男坂は江戸時代の名所絵図にも描かれてる古くからの坂。 上から見ても、下から見ても、一直線の立派な階段坂で上りやすい。

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・・・・・・・・・・・・・・・「明神女坂」、、、、神社の隋神門をくぐらずに右(東側)に折れて、細い道を入ると「坂のホテル トレティオお茶の水 」というホテルがありその前から天神下に下る坂である。 チョイト判りずらい処に在る、折れ曲がった坂だ。、、、、男坂と上り比べると女坂の方が自分にはきつく、辛い。 上り終えると、ハアハア、ゼイゼイ!

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・・・・・・・・・・・・・・「裏参道」、、、、社殿後ろの祖霊社の脇を蔵前橋通りに下る。 神社の公式案内図では、この参道は「旧女坂」と標されている。、、、、明神男坂、明神女坂に比べ長さは短いが、勾配は一番キツイ!

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・・・・・・・・・・・・・・さて自分勝手な調査の結論は、「明神男坂」は昔からある坂で一番“男っぽく、立派な坂”なので現状の名でいいだろう。、、、、「明神女坂」は明治以降に造られた坂で、神社は公式に「女坂」と認めていない。 どうやら、誰かが勝手に女坂と言ってしまったようだ。 タフな人向けの「猛女坂」と名付けたらどうだろう。、、、、「裏参道」は、昔ここに女坂があったそうだ。 よって、今あれば100歳を超えた「老女坂」と呼んだらどうだ!、、、、いずれにしても、“女坂”と呼ぶような男性に優しく、心地よい坂ではないことは確かである。




●チクタック・チクタック! ・・・・・・・・神田明神を後に、帰りは腕時計の電池を交換して我が家に戻る。

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