千代田区

2020年7月22日 (水)

表玄関は東口?西口?

今日は、午後から循環器内科の検診日。 JR水道橋駅と飯田橋駅の中間に位置するクリニックへ行ってきた。(もちろん、診察結果は異状なし)、、、、クリニックへ行く前に、新しいホーム・駅舎となった飯田橋駅をチョイト拝見。

 

JR中央緩行線の飯田橋駅は、昭和3年(1928)に市ヶ谷寄りにあった牛込駅と甲武鉄道時代のターミナル駅:飯田町を統合して現在地に誕生した。 統合時に設置されたホームは、曲線半径300mの急カーブで造られ、電車が停車すると、ドアとホームの隙間が最大約33cm、高低差が最大20cm生まれ、毎年10件前後の転落事故が発生したそうだ。(数年前、私の母(当時90歳)も降りる時に転んだ。ケガも無く、禍を転じて福と為したか、今でも健在で、私を悩ませている!) このため、JR東日本はホームを市ヶ谷寄りに200m程移動させ、直線に近いホームとする改良工事を平成26年(2014)に発表した。 その後、工事は進み、今年の7月12日より、改良されたホームに電車が発着し、市ヶ谷寄り(神楽坂側)の西口駅舎もオープンした。

・・・・・・・・・・・工事前の急カーブ部分(2016/6/12撮影)と、フェンスで両側を仕切られ連絡通路となった同カーブ部分(今日撮影)

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・・・・・・・・・・・千葉方面行き電車の最後尾車両が停車していた位置付近(ホームの先に西口に向かう斜路が見える)に、7月からは先頭車両が停車することとなった(斜路があった位置には、西口橋上駅舎に向かう階段が見える)。
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・・・・・・・・・・・・写真は今は無くなった、西口改札からホームに向かう懐かしの斜路(2016/6/12撮影)、、、、50年前、私の勤務先の最寄り駅は、ここ飯田橋であった。 毎朝、ホームから斜路を歩き上ると勤務地に到着した感がありチョッピリ緊張した。 帰りの下りは、開放感でホッとしたもの。

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・・・・・・・・・・・新旧の西口駅舎。 以前は平屋の可愛らしい駅舎、7月からブラックのシックな2階建て駅舎。 新旧とも、駅舎は早稲田通り(牛込橋)に面する橋上駅舎。

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・・・・・・・・・・・牛込橋からホームが市ヶ谷寄りに延伸された部分を撮影。 Before/After。

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・・・・・・・・・・・・延伸されたホームの市ヶ谷寄りから眺めると、ホームは多少カーブしているが、直線に近づいた!

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・・・・・・・・・・・目白通りに面し、これまでは飯田橋駅の表玄関であった東口は、可哀そうに、表玄関の座を西口に奪われたようだ。 東口にあった「みどりの窓口」は西口に移転。 東口の券売機には「新ホームまで約3分」の貼り紙。 哀れ、東口。(ちなみに、トイレも西口の方が綺麗で広い)

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2020年5月24日 (日)

お玉ちゃんの池

いよいよ緊急事態宣言解除も秒読みに入った。 ここで気を緩めてはダメ、でも今日は日曜日、チョッピリ緩めて神田岩本町周辺の“お玉が池”の跡を、行ったり来たり、グルグル歩いてきた。 お玉が池は、我が家から直線で1km程の処にあった。


●人影なし! ・・・・・・・・・浅草橋駅西口(秋葉原寄りの駅の裏口)から100m程歩けば神田川、川に架かる左衛門橋を渡ると千代田区東神田。 東神田の町を南北(1丁目と2丁目)に分ける靖国通り(=都道302号)がとおっている。、、、、「東神田」の町の呼称は、大正12年(1923)の関東大震災後で、昭和9年(1934)、江戸時代から続いてきた、橋本町、江川町、富松町、久右衛門町が合併し東神田となり、昭和13年(1938)には東神田町会が成立した。 昭和40年(1965)には住居表示により東神田1丁目・2丁目となった。 また、神田川を挟み2丁目の北側に東神田3丁目がある。

・・・・・・・・・・・・浅草橋駅には人影はない!

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・・・・・・・・・・・・神田川にも人影はない、あったら溺死だ!

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・・・・・・・・・・・・靖国通りの車道にも人影はない、あったら轢き逃げだ!

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●謎の校名? ・・・・・・・東神田1丁目に都立一橋高等学校がある。、、、、一橋高等学校は、昭和25年(1950)に東京都立今川高等学校と東京都立神田高等学校が統合し、現在地に開校した戦後の名門校(今は?)の一つである 。 今川高校は今川裁縫補修所(1908年創立)・神田女子実業補習学校(1913年創立)・麹町実科女学校(1924年創立)、神田高校は東京市立蒲田工業学校(1940年創立)を前身とする学校であった。、、、、さてさて、この一橋(ひとつばし)高校の校名の由来は?、、、、東神田のこの地は江戸時代に遡っても“一橋”の地名とは縁がない、また日本橋川に架かる「一ツ橋」からは遠い、徳川御三家の“一橋家”とは無関係、一橋大学とも縁遠い、学校の最寄り駅は、JRの浅草橋駅と馬喰町駅、
都営の東日本橋駅と馬喰横山駅。 はたして、校名“一橋”の真実とは・・・・一橋高校の発足までには、明治時代より多くの学校が統合合併してきたため、戦後の発足においては、過去の校名に類似し偏った校名にすることは、合併後の職員生徒の感情の上で面白くない点が生じ、不平・不満をよぶおそれがあり簡単には決定できなかった。 そこで、知恵を絞り合併前の各校に共通したものを校名にすることにした。 神田女子実業補習学校の発祥の地は現在の一ツ橋中学校の地。 蒲田工業学校は昭和22年に都立一橋工業学校と名乗っていた。 今川高等学校、麹町実科女学校も一ツ橋の地とゆかりがあり、最終的に「一橋高等学校」という名称に決定したそうだ。 今の学生には納得しがたい校名かも、いっそ一橋大学の付属高校にしたら、判りやすいね!

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●あっちもこっちも“お玉”! ・・・・・・・東神田の西隣の町、千代田区岩本町2丁目の角に、和風2階建ての鰻屋「ふな亀」があった。 平成20年2月に店は閉店し、今は「パステルコート神田岩本町」という11階建てのマンション。 この辺りに「桜が池」と呼ぶ池があった。 桜が池は奥州への街道の脇で、池の岸には多くの桜が咲いていた。 桜の木の下には“お玉”という名の美女が出て、往来の人に茶をすすめていた。 中には、私みたいな助平な旅人もいたようで、二人の男が恋をしたそうだ。 お玉は、二人のうち人品・容姿の勝るほうを選ぼうとしたが、二人の熱意には差が無く、また二人ともジャニーズ系で、いずれとも決めかね、迷い迷って池に身を投じてしまった。(里人は、助けられず、シマッタ!) 以来、「桜が池」は「お玉が池」となる。、、、、「ふな亀」は閉店したが、往時の表看板には、『 神田に名所があるという こゝに西北百米に千葉周作の道場 家並にお玉ヶ池種痘所 裏手に捕物の名人人形佐七のわび住居 こゝよりまさしくお玉ヶ池 万年のよわいかぞえる亀がすむ  ふな亀 』と書いてあった。

・・・・・・・・・・・・・写真は「ふな亀」のあったマンション(岩本町三丁目交差点)、、、、現在、店は中華料理屋となっているが、1階・2階の瓦屋根は鰻屋当時の名残。

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・・・・・・・・・・・・・・ふな亀のあった玄関前(歩道)に東京大学医学部が建立した「お玉ヶ池種痘所記念」の碑がある。、、、、安政5年(1858)に設立されたこの種痘所こそ、我が国の医学界をリードする東京大学医学部発祥の地である。 そしてこの施設の創立には、岡山県津山出身の蘭方医、箕作阮甫が深くかかわっている。 「お玉ヶ池種痘所」は、天然痘予防の画期的手法として蘭学者を通じて導入された「種痘」を組織的に実施するための施設として江戸で初めて開設した。 蘭方医と漢方医の対立も激しかった当時、開設には非常な困難が伴ったが、箕作をはじめ、伊東玄朴、大槻俊斎ら80名以上の蘭方医による醵金と幕府への働きかけにより、私立の施設として、開設に漕ぎ付けるこぎつけることができたという。 その中でも箕作は、連名帳の筆頭に名を記しており主導的な役割を担った。 種痘所は僅か半年後に火事の類焼のため別の地に移った後、官立お玉ヶ池種痘所→西洋医学所→大学東校→東京医学校と改称されながら、種痘だけでなく西洋医学研究の場へと発展して行き、明治10年の東京大学創設時に医学部となり現在に至っている。 

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・・・・・・・・・・・・ふな亀前から南へ60m程歩くと、「繁栄於玉稲荷神社」(岩本町2-5)があり、神社の脇には千代田区教育委員会が建てた「お玉が池跡」の標柱もある。、、、、繁栄於玉稲荷神社は、秋葉原駅と小伝馬町駅を結ぶ地下鉄日比谷線がとおる水天宮通りからやや入ったところにある小祠。 身を投じたお玉の霊を安んずる神社だが、安政の大地震で焼失したため、本社を葛飾区新小岩に移した。 ここにあるのはその分祀である。

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・・・・・・・・・・・・繁栄於玉稲荷神社から西へ20m程の、全宅連会館ビル(岩本町2-6)植え込みに『東京都指定史跡 お玉ヶ池跡 』と彫った石碑がある。、、、、説明文は無く、碑文は石の模様で判別しにくい。 点字を読むように手触りで読んできた!

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・・・・・・・・・・・・水天宮通りをさらに南へ100m歩くと、ビルの壁に貼り付けるように、『お玉ヶ池種痘所跡』の石碑と説明板がある。 こちらは、お玉ヶ池史蹟保存会が建立したものであるが、東大医学部が建立したものと同主旨の石碑。、、、、説明では、『お玉ヶ池は徳川初期には不忍池ほどの広さであったのが安政のころには小さなものになり現在はそのあとかたもなく史蹟としてお玉稲荷が祀ってあるだけです。 一時は池のほとりに、梁川星巌の玉池吟社、市川寛斎の江湖詩社、大窪詩仏の詩聖堂、東條一堂の瑶池塾、佐久間象山の象山書院、剣士千葉周作の道場玄武館、磯又右衛門の柔道道場 などがあった』とサ!    

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・・・・・・・・・・・・繁栄於玉稲荷神社の通りから一本南側の通りは、「お玉が池通り」と名付けられている。、、、、現代版の“お玉ちゃん”(超美人!)がいて、往来する人に「お兄さん、お茶飲んでいかない」と声をかけてくれると嬉しいね!

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・・・・・・・・・・・・また、近くには銭湯「お玉湯」がある。、、、、こちらはオープン前、まだシャッターが下りてた。 番台にお玉ちゃんが座ってたら、夜、入浴に行くのだが?

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・・・・・・・・・・・・昭和通りをこえて、岩本町3丁目の隣り神田東松下町のタワーマンションの前に
右文尚武」と刻まれた石碑がある。 この辺りも、かつて「お玉ヶ池」跡で、旗本屋敷や学者・詩人などの住宅があった場所だ。 ここには幕末の剣聖千葉周作の北辰一刀流道場「玄武館」と、それに隣合わせで東条一堂の漢学塾「瑶池館」があった。 玄武館は、幕末「技の千葉、力の斎藤、位の桃井」と称され、人気の高かった3道場の一つだ。 新選組の山南敬介、藤堂平助も玄武館で剣を磨いた。 清河八郎は、玄武館で目録を授けられると同時に瑶池館で塾頭を務めた。 ついでに、昭和30年代の漫画で少年剣士:赤胴鈴之助は千葉周作の弟子となったと、少年画報に描かれていたのを私は記憶している。、、、、現在は道場・塾など全て跡形もない。 

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・・・・・・・・・・・・【蛇足】 右文尚武(ゆうぶんしょうぶ)とは、学問と武芸をともに尊ぶという意味で、この地にあった千葉周作の玄武館と、東條一堂の瑶池塾で文武両道が実践され、その精神を示した。



●・・・・・・・・・・・コロナで身体もナマリ、歳を感じた散歩となった!

2020年5月 8日 (金)

江戸の味:連雀町

緊急事態宣言が4月6日に発令され1ヵ月が過ぎた。 この間、自由気ままに散歩もできず、ひたすら“我慢・我慢・ガマン”の日々。 ゴールデンウィークも終わり、そろそろ我慢の限界、朝食時に私が発した独り言『散歩したいな~~』 それを聞いた妻『神田へ行って来たら』 私『神田? ・・・?』 『なんで神田へ?』 妻『お昼は稲荷ずしにしようか!』 私、ナルホド・納得、『神田淡路町の「神田志乃多寿司」へ行って「稲荷ずし」を買ってきて』と云うことだ。 これで、“不要不急”ではない“必要火急”の外出をすることにした。 70超えた爺の、宣言発令後『はじめてのおつかい』となった。 浅草橋の我が家から、神田志乃多寿司までは、徒歩30分、往復1時間程の道のりである。 さすが、50年連れ添った女房だ!




●大きなアーチの高架橋! ・・・・・・・浅草橋駅から隣の秋葉原駅までは、JR総武線両国~御茶ノ水間が開通した昭和7年(1932)に完成した、鉄筋コンクリート造の高架橋が伸びている。 関東大震災後に造られた高架橋であるが、約90年経過し、鉄筋が露出し、ひび割れも多く老朽化も目立つ。 東日本大震災後、耐震補強工事が進められ、現在も工事中。 大きなアーチが連なる高架橋のデザインはモダンなデザインだ!、、、、昭和通り上の首都高の上を行き、秋葉原駅の3階部分に線路は入る。 かなり高い高架橋である。、、、、予想される次の大地震に耐える高架橋に、補修して欲しいね! 

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●かつサンドの橋! ・・・・・・・昭和5年(1930)に竣工した、長さ26m、幅36m、石及びコンクリート混成の現在のアーチ橋。 関東大震災の復興橋の一つ。、、、、万世橋の歴史は古く、延宝4年(1676)に架けられた筋違橋(すじかいばし)に遡る。 この橋は、徳川将軍が寛永寺に詣でる時に渡る橋で、現在の万世橋の上流側にあった。 明治5年(1872)には、筋違見附が取り壊され、翌明治6年に見附の石を再利用した、石造の橋が完成した。 この橋は当時の東京府知事により萬世橋(よろずよばし)と命名された。 ところが、橋名は次第に「まんせいばし」という読みが一般化した。 その後も、万世橋は数度架け替えられ、関東大震災では被災した。 昭和5年に現橋に架け替えられた。、、、、橋の南詰にある肉屋の「肉の万世」は、戦後の昭和24年(1949)9月9日が創業日。 ここの「万かつサンド」は美味い! 完全に東京名物として定着してるね!
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●老舗が並ぶ町! ・・・・・・・万世橋を渡り、かつての交通博物館跡、昌平橋際の神田郵便局、東京メトロ丸ノ内線淡路町駅の3点で囲まれるかつての連雀町(れんじゃくちょう)一帯は今も残る老舗グルメの町である。 どこの店も江戸の味を美味しく頂ける処である。、、、、残念ながら、私はもっぱら料理を食すのみで、“味”を文章で表現する能力が無いので、食べ物の紹介はグルメ本を見て! 【注:多くの店は、只今、コロナで休業中】

‣・・・・・・・・・・・“連雀町”とは、、、、神田川に架かる筋違橋(旧万世橋の前身)は、中山道に通じており、行き交う人馬も多く、江戸時代のはじめごろより筋違御門が設けられていた。 門の内側、のちに八ツ小路と呼ばれた地に、連尺(物を背負うときに用いる荷縄、またはそれを取り付けた背負い子をつくる職人が多く住んでいたことから、「連尺町」の名前が付けられた。 連尺町はやがて連雀町の字があてられ、広く用いられるようになる。 明暦3年(1657)の大火「振袖火事」の後、連雀町は延焼防止の火除地として土地を召し上げられ、筋違橋の南方へ移転させられました。その際、連尺を商う二十五世帯は、遠く武蔵野に代地(だいち)を与えられ移住させられた。 現在の三鷹市上連雀・下連雀の地名はこの故事に由来する。 


・・・・・・・・・・・・東京で唯一のあんこう料理専門店「あんこう鍋 いせ源」、、、、天保元年(1830)の創業。 秋(9月)から春(4月)まで下北半島から仕入れた「あんこう料理」を提供している。 夏場はウナギ、ドジョウなど川魚料理で、一年中江戸の味を味わえる。、、、、建物は昭和5年(1930)築で、東京都選定歴史的建造物。

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・・・・・・・・・・・・次は甘味の「竹邑(たけむら)」、、、、いせ源の向かいにたつ、都が初めて和風建築を「歴史的建造物」に選定した昭和5年創業の甘味処。 戦火にも耐えた風情ある二階建て木造建築の中で、昔ながらの伝統の甘味に舌鼓、大正ロマンの香りが残る昭和初期にタイムスリップ!、、、、人気メニユーは「あんみつ」や「揚げまんじゅう」。

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・・・・・・・・・・・・次は、鳥すき焼きの老舗「ぼたん」、、、明治30年(1897)頃の創業。 由緒ある建物は昭和初期の建築。

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・・・・・・・・・・・・明治の味を今に伝える蕎麦屋「神田まつや」、、、、明治17年(1884)創業。 江戸の蕎麦が味わえる蕎麦屋の中の蕎麦屋。

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・・・・・・・・・・・・江戸三大蕎麦の一つ、「神田藪蕎麦」、、、、明治13年(1880)創業の老舗蕎麦屋。 数年前までの建物は、大正12年(1923)建築の木造2階建て数寄屋造りであった。 しかし、平成25年(2013)失火で焼失し、現在は鉄筋コンクリート造の和風建築。、、、、蕎麦の老舗としては、藪に、砂場・更科とあわせて3系列が「江戸三大蕎麦」と称されているが、元祖は不明?

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・・・・・・・・・・・・洋食の老舗「松栄亭(しょうえいてい)」、、、、こちらは明治40年(1907)創業の老舗洋食屋さん。 ポークソテーが美味しいそうだ。

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・・・・・・・・・・・・次は喫茶店の老舗「ショパン」、、、、創業昭和8年(1933)で、なかなかの古いお店。

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・・・・・・・・・・・・紹介の最後は、稲荷寿司とのり巻きの老舗「神田志乃多寿司」、、、、創業は明治35年(1902)。 油揚げのまろやかな甘味とコクのある稲荷寿司が私は大好きだ! じっくりと煮込まれたかんぴょうを使ったのり巻も、コレマタ絶品! 『一度食べたら忘れられない味。 嘘だと思ったら、自分で買って食べてみて!!』(ちなみに私は御幼少の頃から食し70年)

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・・・・・・・・・・・・我が夫婦と97歳の母、三人分の稲荷寿司とのり巻きを買って、来た道を我が家まで戻る。 この時の気分は、TV番組『はじめてのおつかい』で、幼児が買い物をすませ無事家にたどり着いた時と同じ気持ちのようだ。 ヤッタ~~!

・・・・・・・・・・・・コロナよ、早く終息して欲しいね。 そろそろ、本格的に散歩したくなったが、もうしばらくの我慢かな?

2020年3月28日 (土)

外出自粛の散歩

外出自粛要請が出た東京都、私の散歩の多くは完全に「不要不急の散歩」である。 それ故ここ数日、家に籠もっていた。 『今日も我が家で寝てようか?』と思っていたら、昼に妻が『和泉公園のサクラが満開、見てきたら』と一言。 『そうだ!個人的な運動で我が家の近所を散歩するのはOKだ』と、自問自答する。 我が家から半径1km以内のご近所を一人で散歩してきた。 




●我が母校とサクラ・・・・・・・まずは、我が家から直線距離で約200m、関東大震災後に復興公園として大正15年(1940)に開園した柳北公園(台東区浅草橋5)に咲くサクラ。 満開だ!、、、、サクラの後ろの建物は、公園と同時の大正15年に竣工した我が母校:元柳北小学校の校舎。 小学校は平成13年(2001)に、少子化により廃校となり、現在は区で使用している。、、、、サクラは、来週には散ってしまうかも?

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●いつも行列! ・・・・・・・・柳北公園を抜けて、千代田区神田和泉町に行列のできる店がある。(我が家から直線で約400m)、、、、こちらは平日でも11時ごろから行列ができ、地元の私でも並ばないと入店が難しいラーメン屋さん「饗 くろ㐂」。 “知る人ぞ知る”有名店とのこと! 美味しいラーメンを求め、今日も並ぶお客さん。

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●感染拡大を止めて! ・・・・・・・神田和泉町2に、赤いのぼり旗と赤い鳥居が眩しい「日通金網稲荷神社」がある。(我が家から約450m)、、、、ここは日本通運の発祥地である。 現在、日本通運は神社の脇で新本社ビルを建設中。 日本通運の先祖は、江戸時代、この地で飛脚問屋を営業していた「京屋弥兵衛」と言う人で、大事な金銭や信書の輸送にあたり事故の起きないよう、正一位稲荷大明神を祀ったそうだ。 京屋は、その後、陸運元会社、内國通運、國際通運、とその名を変え、現在の日本通運となった。 時代が変わっても創業の志を大切に守っていく企業の姿勢が理解できる。、、、、“お稲荷さん”には、筋違いかもしれないが、“新型コロナ”の感染拡大をくい止めて欲しい、よろしく!

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●我が命の病院とサクラ! ・・・・・・・・・金網稲荷神社の隣りに千代田区立「和泉公園」(我が家から約490m)がある。 妻が言ったように、サクラは満開に近い状態であった。 大きなサクラが数本、さすがに今日は宴会する人はいない!、、、、写真、後ろの大きな建物は「三井記念病院」 6年前、私の大動脈を人工血管に置き換えてくれたアリガタイ病院。

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●橋の端を歩いて! ・・・・・・・・JR浅草橋駅の南側、JR総武線と並行して流れる神田川に架かる4橋を順に渡り、隅田川へ向かう。

・・・・・・・・・・・・まずは、我が家から直線で約500m、今日渡る神田川4橋の中では最上流に架かる橋。 その名は「美倉橋」、、、、美倉橋は現在の千代田区神田佐久間町と同区東神田を結び、江戸時代に架けられた橋。 近くに三つの倉があったことから「三倉橋」、転じて「美倉橋」と呼ばれるようになった。、、、、現在の橋は昭和4年(1929)の架設、長さ35.35m、幅23.31mの鋼橋。、、、、今日の神田川は、上流で咲くサクラの花びらを運んで流れ下る。

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・・・・・・・・・・・・次は、約360mの距離にある「左衛門橋」、、、、左衛門橋の、北詰は千代田区東神田3丁目と台東区浅草橋1丁目、南詰は千代田区東神田2丁目と中央区日本橋馬喰町2丁目で、三区を結ぶ橋である。 この橋の創架は、明治8年、東京府の認可を受けた賃取橋(有料橋)として、民間人により架けられた。 この時の許可条件は、有料期間7ヵ年、満期後東京府に上納となっていた。、、、、橋名は、北詰の台東区側にかつて鶴岡藩の酒井左衛門尉の下屋敷があったことから、この付近一帯を左衛門河岸と呼んだことに由来する。、、、、現在の橋は、震災復興事業による復興橋梁で、橋長35.5m、幅員15.0mの鋼製橋で、昭和5年(1930)に架設。、、、、橋の際には、三区がそれぞれ独自に造った公衆便所・小公園などがある。 

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・・・・・・・・・・・・次は、約400mの処にある「浅草橋」、、、、北詰の台東区浅草橋・柳橋と南詰の中央区馬喰町・東日本橋を結ぶ橋。 江戸時代には、見附の一つで浅草橋御門があった。、、、、現在の橋は、関東大震災後の復興事業として、昭和5年(1930) に架設された鋼製の橋。

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・・・・・・・・・・・・最後の橋は、神田川最下流に架かる「柳橋」(我が家から約540m)、、、、この橋も復興橋のひとつで、北詰は台東区柳橋、南詰は中央区東日本橋。 昭和4年(1929)完成。 永代橋をモデルにしたと言われる、橋長37.9mの小型のアーチ橋で、全体的に緑色に塗られている。 幕末、明治以降、柳橋は花柳界として名高かったが、私の若い頃である昭和40年代には、バブルの終焉と共に廃れた。

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・・・・・・・・・・・・浅草橋から柳橋にかけて、神田川には屋形船が並んでいる。 “新型コロナ”でダメージをくらい、チョイト、出番はないようだ! しばらくの辛抱か?

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・・・・・・・・・・・・柳橋の南詰(中央区側)に、昭和初期の建築と思われる「増田ビルがある。 窓の上下に丸み帯びた横線がある、優しい感じのビルで、元は医院だったそうだ。

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●コロナは居ない! ・・・・・・・・・我が家から約520m、隅田川をチョイト覗いてみた! 川縁には人影がチラホラ、ココなら“新型コロナ”の心配はいらないだろう! でも、チョイト曇って来たな!、、、、横に架かる総武線隅田川橋梁は昭和7年(1932)竣工。

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●また、自宅隔離をするか! ・・・・・・・・江戸通りに面したJR浅草橋駅東口前(我が家までは約250m)から帰宅。 外出自粛要請が効いたか、人通りは少ない。 特筆すべきは、『外人が消えた!』

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2020年1月29日 (水)

田安門

循環器内科の定期検診日、クリニックに行くついでに、飯田橋駅から田安門・武道館・近代美術館工芸館と巡り、市ヶ谷駅までの散歩です。




●カーブがキツイ! ・・・・・・・飯田橋駅は、昭和3年(1928)の中央本線の複々線化に伴い、それまでの牛込駅(明治27年開業)と飯田町駅(明治28年開業)を統合するような形で新たに開業した駅。、、、、島式ホーム1面2線の高架駅。 飯田橋駅は東西に出入口はあるが、地形が傾斜しているため、東口側は高架駅舎のようになっている、西口側は橋上駅舎となっているが只今改良工事中につき、早稲田通り北側に仮駅舎がある。 工事は、ホームを新宿寄りに200m程移動しホームの急なカーブを解消することにある。 今年工事完了予定で一生懸命作業中。、、、、電車とホームの間の隙間が広いので、年寄りにはチョイト乗り降りが恐い、工事完了を待っている!、、、、今日は医者に行くので、東口に出た!

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●私の通勤路! ・・・・・・・・・飯田橋駅から「早稲田通り」を歩き、田安門へ向かう。 この道は私の通勤路の一部で、昭和40年代から60年代まで歩き通った道!

・・・・・・・・・・・・飯田橋駅西口に近い富士見1丁目の民家。 2階の3連の窓いいね!

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・・・・・・・・・・・・角川第3本社ビルの向かいに「共済ビル」(富士見1)がある。 昭和初期のビルか(?)渋いビルだ、昭和60年代までは、玄関周りにはタイルが張られていたと記憶している。 『取り壊されず、まだ残っていた!』と叫びたくなる建物だ。

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・・・・・・・・・・・・・こちらは、「テツゲンの本社ビル」(富士見1)、、、、昭和40年代頃のモダンな建物。

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・・・・・・・・・・・・千代田区立九段中等教育学校(旧都立九段高校)前のスペイン瓦のお屋敷。 大正14年(1925)に建てられた山口万吉邸(新潟県長岡出身の実業家)、、、、設計は、今井兼次、内藤多仲、木子七郎の三人。、、、、現在は、東急電鉄・竹中工務店・東邦レオの3社が共同で活用し、会員制ビジネスイノベーション拠点「kudan house」として利用されている。、、、、一度は中を覗かせてもらいたい建物だ!

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・・・・・・・・・・・・靖国神社大鳥居前の追分角地にある大きな碑は「濠北方面戦没者慰霊碑」である。 “濠”は“豪”とも書き、オーストラリアのこと。 ボルネオ、セレべス、ジャバ、ハルアへラ、セラム、ニューギニア地区の戦没者慰霊碑で、昭和39年(1964)に建立された。 台座の大きさに比べ中央の自然石の碑がチョイト小さいね!、、、、【実はですね・・・】この碑の台座は本来シベリア出兵の際の「尼港遭難記念碑」として大正13年(1924)に武田五一の設計、明石作五郎の施工により建立されたものである。 当初は品川弥二郎銅像の西隣りに建立されたが、関東大震災後、九段坂の拡幅により現在の大鳥居前に移築された。 しかし敗戦後の昭和22年(1947)、尼港遭難記念碑の像などは撤去され、台座のみとなった。 その台座を、現在の碑に流用したものである。 “尼港事件”とは、大正9年(1920)、ロシアが率いる露中共産パルチザンによって黒竜江河口にあるニコライエフスク港(尼港)の日本守備隊及び日本人居留民約700名以上が虐殺された事件で、シベリア出兵が延長された要因の一つとも言われている。

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・・・・・・・・・・・・大鳥居前を抜け、明治4年(1871)に建てられた招魂社灯籠(常夜灯)見ながら田安門に到着。

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●側室の御門? ・・・・・・・大田道灌時代、江戸城の合戦場はこのあたりであったといわれている処にある田安門は、寛永13年(1636)に建てられたそうだ。 北面する高麗門とその西側に直交する渡櫓門からなる枡形門です。 門名の由来は、門内に田安大明神があったので門名にしたといわれている。 江戸城造営後は北丸と称し,代官屋敷や大奥に仕えた女性の隠遁所となる。 有名な千姫や春日局、家康の側室で水戸頼房の准母英勝院の屋敷などもこの内にあった。

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・・・・・・・・・・・・・・外から来ると、最初に通過する高麗門に几号水準点(きごうすいじゅんてん、明治時代の水準測量の測量点。 “不”の字に似た図形)がある。 “不”の字の頭を誰か削ったようで、3本足の一部がかろうじて残されている。、、、、水準点設置時の標高は25.5786mで、mm単位以下まで測り、信じられない精度だ。

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・・・・・・・・・・・・田安門を入って渡櫓門 を通り、すぐに左に折れると、「弥生慰霊堂」と刻まれた石柱と、入口を守る狛犬が目に入る。 そこから階段(参道)を上ると田安門を見下げる高台に慰霊堂(弥生廟)がある。、、、、弥生廟は、明治18年(1885)当時本郷区(現文京区)向ヶ岡弥生町(東大構内)にあった警視総監の邸内に、警察官・消防官の殉職者を祀るため創建された弥生神社がその起源となっている。 その後、鎮座地は、芝公園、鍛冶橋の警視庁、青山墓地、麹町区隼町と転々としたが、昭和22年(1947)現在地に納まり、名を「弥生慰霊堂(弥生廟)」と改めた。 戦後、警視庁では神社の管理が出来なくなり、“神社”から“慰霊堂(廟)”に変えた。 つまり、軍人は靖国神社、警察官・消防官は弥生神社に祀る考え方である。、、、、弥生慰霊堂
は、弥生廟奉賛会(弥生奉賛会)によって管理され、実質的には警視庁と密接な関係を保っている。 慰霊祭の形式もより神道色を払拭した形式に変更された。、、、、北の丸公園・武道館に訪れる人は多くても、弥生慰霊堂に訪れる人は少ない。 参道前を歩く人は多いが、皆、慰霊堂の存在を知らないようだ! 機会あれば立ち寄って、手を合わせて欲しい!

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・・・・・・・・・・・・田安門の隣り、御存じ「武道館」 只今、オリンピックに向け改装工事中。 柔道・空手の会場として予定されている。

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●見納めになるかも? ・・・・・・・北の丸公園の南端に、「東京国立近代美術館工芸館」がある。 建物は明治43年(1910)近衛師団の衛戍地であった北の丸に司令部が建設された、これが現:工芸館である。 昭和38年(1963)戦後、皇宮警察の寮として使われていた旧近衛師団司令部が北の丸地区の公園化に伴い、取り壊しが決定するが、戦友会、文化庁、日本建築学会などの努力により、昭和47年(1972)には保存が決定する。 昭和48年(1973)、北の丸公園内の旧近衛師団司令部庁舎が重要文化財に指定された上、国立近代美術館分室として活用されることとなり、改修工事が行われ、昭和52年(1977)に工芸館として開館。、、、、工芸館は今夏、金沢に移転することになっている。 収蔵品は金沢に移動し、展示される。 すると、この建物はどうなるの? たぶん、収蔵品が空になるので、次の用途が決まるまでは閉館となるでしょう! と、言うことで今日の散歩で見納めとなるかも?


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●春の陽気、暑い! ・・・・・・・・・お帰りは、市ヶ谷駅から、、、、1月末で18℃の陽気、ひょっとすると梅と桜が来月当たり同時に咲くかも?

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2019年12月 3日 (火)

疲れた大嘗宮

やっと晴れた! 10時半、夫婦で東京駅到着、駅構内のトイレは超満員、『なんじゃこりゃ?』と驚いた。 構内アナウンスで『大嘗宮(だいじょうきゅう)へ行かれる方は・・・・・(うんじゃら・かんじゃら)』と叫んでる。 我が夫婦の考えは『今日は久々の秋空、しかも平日、皇居大嘗宮と乾通りの見学には絶好の日』、ところがドッコイ、誰しも考えは同じだった。 “絶好の日”が“最悪の日”となったようだ。 東京駅から長蛇の列に引き込まれ、見学が終わり皇居から出るまで3時間強、人並みに揉まれ、足はパンパン、腰はイテテ、気持ちはイライラ、腹はペコペコ。、、、、見学終えて市ヶ谷まで歩き、遅めの昼食の中華料理は、大嘗宮のおかげで美味しく食べることができた。 




●中高年がゾロゾロ! ・・・・・・・東京駅前の「行幸通り」はイチョウが色づき、『Oh! Beautiful!  Wonderful! インフルにはタミフル!』、、、、行幸通りは東京駅中央口から皇居前の和田倉門までまっすぐに伸びる全長約200メートル、幅約74メートルの道路。 皇室の行事などに使われてきたため、この名で呼ばれている。 道路は関東大震災の復興事業として、大正13年(1924)に着工し大正15年(1927)に完成した。 工事費は約62万円(当時)、設計は復興局技師:川地陽一、河野通靖、施工は橋本組工業合資会社。、、、、歩道には、毎日が日曜日の中高年がゾロゾロ。 道路中央の分離帯には若い娘がキャッキャ。

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●気持ちはイライラ! ・・・・・・皇居前広場に幾重にも蛇行する長い行列。 私も仲間入りしたが、『コリャ、皇居の中に入るまで1、2時間かかるかも?』心配になってきた。 後から、おばさんが私の前に出てくる、コンチクショウ! 『女は度胸、男はやせ我慢!』、、、、予想に反し、行列は止まることなく進み、30分ぐらいで皇居の入口:坂下門から入場できた。、、、、坂下門の先には宮内庁庁舎があるため、皇居に出入りするのに一番使用されている門である。 江戸時代には枡形城門であったが、明治21年(1888)に第一門は撤去されて、現存する門は移設された第二門。 一見小さな門のように見えるが、左右に見附がある大きかった第一門が無くなったためである。 

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●一刻は仮宮殿! ・・・・・・坂下門を入ると正面に宮内庁庁舎がある。、、、、設計は宮内省内匠寮、施工は清水組・大林組、鉄骨鉄筋コンクリート造3階建て。 この宮内庁庁舎は、昭和10年(1935)に建てられた建物。 昭和27年(1952)庁舎3階が改装され昭和43年(1968)の新宮殿落成までの間、仮宮殿として使用されていた。、、、、庁舎玄関には立派な車寄せを張り出し外壁は全面石張りで、格調高い仕上げである。

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●屋台なしの紅葉狩り! ・・・・・平成に続き、令和初! 皇居「乾通り」秋の一般公開に参加。 宮内庁庁舎前から乾門に至る乾濠及び蓮池濠沿いの約750mの通り「乾通り」が紅葉に染まっている。、、、、町中の公園とか城址だと、歩く道沿いに、“焼きそば”、“イカ焼き”、“ビール”など屋台が出てるのだが、ここはただただ歩くだけ。 ソースの臭いがなく、気持ちよく歩けていいね!

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●大赤字(?)の大嘗宮 ・・・・・ゾロゾロ人の後について大嘗宮(だいじょうきゅう)に向かう。 江戸城本丸跡付近で、ポリスのアナウンス『ここから大嘗宮の正面までは、あと1時間ぐらいかかります。 すこしでも急いで前に歩いてください!』 たしかに、大嘗宮は見えているのだが、本丸跡をぐるりと人の列が囲み、『近くて 遠い 大嘗宮』、、、、大嘗宮は、今回の即位に伴う儀式のためだけに造営された、この一般公開後は取り壊される。 宮内庁は平成の時と比べて敷地面積を縮小したり、屋根は簡素な板ぶきを採用し、経費削減を図ったそうだ。 大嘗宮は約6,500㎡で、私には用途がよく判らないが、悠紀殿(ゆきでん)や主基殿(すきでん)など大小30近くの建物で構成されてる。、、、、建物の撤去費用などを含めた建設関係費は約24億4千万円程かかるそうだ。 清水建設が施工した大嘗宮の造営は、9億5700万円で落札したらしい。 予定価格の6割の値段だって、大赤字! 太っ腹!、、、、解体した大嘗宮は、その大部分の木材を再利用する方向で調整が進められているそうだ。 出来れば、我が家をリホームして欲しいね。

・・・・・・・・・・・・・・1時間待ちの行列。 芝生の先に全景がみえる大嘗宮。、、、、行列に並ぶことに意義がありそうだ。 私も大人になったね!

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・・・・・・・・・・・・・・やっと大嘗宮の正面に到着。 しかし、ポリスの声『立ち止まらないでください』、『先へ進んでください』、、、、30程の建物、何処に、どの建物が、サッパリ判らず。 ただただ人の流れに乗って、ドンブラコ!

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・・・・・・・・・・・・・・グッタリ疲れ、皇居を後にする。
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2019年10月24日 (木)

きつく辛い女坂

以前からチョイト気になっていた、神田明神の男坂と女坂、どちらが急か現地調査に行ってきた。 ついでに、帰りに秋葉原のヨドバシカメラで、腕時計の電池交換してもらう。 我が家(浅草橋)から神田明神まで往復歩いて、9千歩。




●離れられない駅! ・・・・・・・我が家からJR浅草橋駅西口まで、素直に歩いて徒歩3分、ご近所の人に会うと徒歩5分、途中で忘れ物に気付くと徒歩8分、途中で気が変わり地下鉄に乗りたくなるとトホホのホ!、、、、70余年、同じ駅のそばで暮らしていると、たまには違う駅のそばで暮らしてみたくなる。 「どこがいいかな?」 風光明媚で、静かで、山に近く、海もあって、交通の便が良く、大型スーパーに近く、駅前にコンビニがあって、女子大が近くに在って・・・・・いくら考えても、浅草橋しか浮かばない、チョイト悲しいね!

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●頭上の電車に手を振って! ・・・・・・・JR総武線の高架橋(昭和7年開通)に沿って秋葉原へ。 浅草橋から秋葉原まで徒歩15分。 今日は、キョロキョロ脇見しながら、電車に手を振って、徒歩30分。、、、、浅草橋駅は台東区、浅草橋駅前のガードから先は千代田区である。、、、、途中、高架橋脇の佐久間公園は早起きラジオ体操発祥の地。、、、、秋葉原駅の「アトレ1」がある処には、昭和26年(1951)から駅直結の「アキハバラデパート」があった。 入口では家庭用品の実演販売も行われていた“庶民のデパート”だった!

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●漆塗りの社殿! ・・・・・・・まずは、神田明神へ、、、、神田明神は、千代田区外神田に鎮座する神社で、正式名称は「神田神社」。 神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内、旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神である。 毎年5月に行う御祭礼、「神田祭」は有名である。 旧社格は府社で、現在は別表神社である。 また旧准勅祭社の東京十社の一社である。 商売繁盛の御利益を期待し、正月になると企業の初詣で大賑わい。、、、、古い江戸時代の社殿は、大正12年(1923)の関東大震災で焼失した。 その後、3年の歳月をかけて昭和9年(1934)に権現造・鉄骨鉄筋コンクリート造・総朱漆塗で現在の社殿が完成した。 日本初の鉄骨鉄筋コンクリート製社殿となった。 この社殿は、建築家:大江新太郎(1875~1935)と早稲田大学大隈講堂の作品が残る佐藤功一(1878~1941)の設計、請負師:木田保造(1885~1940) の施工で建てられた、桃山建築風の豪華絢爛な造りである。 社殿は国の登録有形文化財に指定されている。

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・・・・・・・・・・・・・・神田神社は、天平2年(730)、武蔵国豊島郡芝崎村(現:千代田区大手町、将門塚の地)に創建された。 元和2年(1616)に江戸城の表鬼門にあたる現在地に遷座し、江戸総鎮守として歴代の将軍はもとより江戸の庶民たちにも崇敬された。 神田神社を愛する氏子に銭形平次・八五郎もいたか(?) 二人の碑が境内にある。、、、、摂社・末社も多く10社程が本殿を囲むように並んでいる。

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・・・・・・・・・・・・・・Googleマップを見ると、神田明神の東側に「明神男坂」と「明神女坂」が載っている。 この階段坂は以前からあるのだが、勾配は女坂の方がキツイようだ。 一般に男坂と女坂というと、勾配のキツイい方が男坂で、緩やかな方が女坂なのだが? さらに、話をややっこしくすると、神田神社の北側、社殿の裏側に蔵前橋通りに下る「裏参道」がある。 ここも階段坂で勾配はキツイ。 今日は、この3つの坂を現地調査した。

・・・・・・・・・・・・・・まず「明神男坂」、、、、神社の境内の標高は20mほどで、ほぼ平らだ。 神社の東側、一般に明神下と呼ばれている部分の標高は7m程で、約13mの標高差がある。 ここに男坂と女坂が造られている。、、、、明神男坂は江戸時代の名所絵図にも描かれてる古くからの坂。 上から見ても、下から見ても、一直線の立派な階段坂で上りやすい。

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・・・・・・・・・・・・・・・「明神女坂」、、、、神社の隋神門をくぐらずに右(東側)に折れて、細い道を入ると「坂のホテル トレティオお茶の水 」というホテルがありその前から天神下に下る坂である。 チョイト判りずらい処に在る、折れ曲がった坂だ。、、、、男坂と上り比べると女坂の方が自分にはきつく、辛い。 上り終えると、ハアハア、ゼイゼイ!

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・・・・・・・・・・・・・・「裏参道」、、、、社殿後ろの祖霊社の脇を蔵前橋通りに下る。 神社の公式案内図では、この参道は「旧女坂」と標されている。、、、、明神男坂、明神女坂に比べ長さは短いが、勾配は一番キツイ!

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・・・・・・・・・・・・・・さて自分勝手な調査の結論は、「明神男坂」は昔からある坂で一番“男っぽく、立派な坂”なので現状の名でいいだろう。、、、、「明神女坂」は明治以降に造られた坂で、神社は公式に「女坂」と認めていない。 どうやら、誰かが勝手に女坂と言ってしまったようだ。 タフな人向けの「猛女坂」と名付けたらどうだろう。、、、、「裏参道」は、昔ここに女坂があったそうだ。 よって、今あれば100歳を超えた「老女坂」と呼んだらどうだ!、、、、いずれにしても、“女坂”と呼ぶような男性に優しく、心地よい坂ではないことは確かである。




●チクタック・チクタック! ・・・・・・・・神田明神を後に、帰りは腕時計の電池を交換して我が家に戻る。

2019年7月13日 (土)

チョイト早かった蓮

梅雨のチョイ間の雨上り、我が家(浅草橋)からブラリ、上野の不忍池に蓮の咲き具合を見に行き、根津・千駄木の裏道を歩いて、地下鉄千代田線の千駄木駅までの散歩です。 1万3千歩



●雅万歩の歴史? ・・・・・下町の歴史的建造物を見ながら不忍池へ向かう、、、、自分の歴史を振り返るようだ!

・・・・・・・・・・・・・・まずは、我が家から徒歩1分半、私の母校「旧東京市柳北尋常小学校(区立柳北小学校)」(台東区浅草橋5)、、、、次は、さらに3分歩いて「三井記念病院」(千代田区和泉町)、、、、病院前の「凸版印刷」本社前(台東区台東)に、「市村座跡」がある。 市村座は歌舞伎の芝居小屋で、寛永11年(1634)日本橋葺屋町に市村座創始し、中村・森田(のち守田)座とともに、江戸三座と呼ばれた。 天保13年(1842)浅草猿若町に移り、ついで当地に再転。 当地での市村座は、明治25年(1992)から昭和7年(1932)まであった。、、、、(この3か所はコチラに!)

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・・・・・・・・・・・・・・市村座跡跡から西へ80m程歩くと、大正11年(1922)に建てられた煉瓦造風の下水道局和泉町ポンプ所がある。 私が幼き頃は、妖怪の住む怖い建物に思えた処。

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・・・・・・・・・・・・・・秋葉原~御徒町間のJR「御徒町高架橋」(台東区上野5)は大正13年(1924)に完成した。 現在は、山手線・京浜東北線・上野東京ラインが走る。(地下には東北新幹線が走る)、、、、終戦直後の蔵前橋通りに架かる薄暗いガードの周辺には、秋葉原の市場周辺に食べ物を求め、ガード下に寝床を求め、周辺の焼け跡には金目の金属を求め、ばたや・浮浪者・孤児が集まっていた。 幼い私にはここも怖い処に思えた。 いつの間にか“ばたや”、“浮浪者”の姿も見えなくなり、言葉も死語となったのか?

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・・・・・・・・・・・・・・上野松坂屋の方に向かい歩くと、朝湯で有名な燕湯がある。 建物は昭和25年(1950)の建築だが、国の登録有形文化財に指定されている。 私の幼き頃、地下鉄末広町駅の近くに住んでいた祖父母に連れられ度々利用した銭湯。 昔は白く濁った薬湯(くすりゆ)などもあって、湿疹などができると「白湯へ入ってきな!」と言われた記憶も残っている。、、、、燕湯から中央通りに出ると、最近建て替えられた新広小路ビルがある。 1階のコンビニの脇に「日本最初の喫茶店 可否茶館跡地」という碑が建っている。 ここは明治21年(1888)に、この地(当時・上野西黒門町)に日本初の喫茶店「可否茶館」が開店した場所だ!、、、、(ここの詳細はコチラに!)

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・・・・・・・・・・・・・・可否茶館跡から中央通りを40m程北に向かうと、松坂屋の斜め前あたりに、東京3大どら焼きで有名な「うさぎや」がある。 大正2年(1913)創業の和菓子の老舗で、昔からどら焼きを売っている。 味わってみたい人は、並ぶの覚悟、1時間待ち覚悟、売り切れ覚悟でお店へ行くべし。、、、、ちなみに我が家では平日の午前中に、ママチャリに乗って私が買いに行く担当。

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・・・・・・・・・・・・・・池之端「仲町通り」の「黒沢ビル」前を通り不忍池に向かう。 黒沢ビルは毎日、早朝から玄関前を綺麗に掃除し水がまかれ、歩いても気持ちがいい。 オーナーが綺麗好きなのかも?

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奇遇ですね! ・・・・・不忍池の蓮、咲き始めたばかりだ。 まだチョイト早かった、来週の梅雨明けが過ぎた頃、一番の見頃かも?、、、、去年の今日、不忍池を散歩していた。 
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●まだ残っているぞ“下町” ・・・・・不忍池から千駄木駅まで、根津・千駄木の“下町”を求めて裏道を歩く。 裏道にもマンションなどが建ち、“下町”も少しづつ消えて行くようだ。

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2019年2月 1日 (金)

九段の雅万歩

我が家(浅草橋)から、浅草橋交差点、須田町、神保町、九段坂と、靖国通りを歩き、市ヶ谷駅まで、1万2千歩の散歩です。
 
 
 
浅草橋から 九段まで かって知ったる この道を 杖にたよらず 一刻あまり 友よきたぞや 逢いにきた ・・・・・・・・この世に生を受け七十余年、生まれは浅草橋、育ちは神田、通学は靖国通り、大学はチョイト駿河台、勤めは九段上と、何かとお世話になり、ナンダカンダ・鼻かんだと思い出多い靖国通り 。、、、今日も、通り沿いの一軒一軒に思いを馳せ、歩いた。  
 
・・・・・・・・・・・・・我が家に近い浅草橋駅“裏口”(正式には西口と云う)
 
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・・・・・・・・・・・・・靖国通りの起点:浅草橋交差点。 ホテルの隣りにホテルが建って、裏にもホテル。
 
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・・・・・・・・・・・・12系統(新宿駅~両国駅前)、25系統(日比谷~西荒川)、29系統(須田町~葛西橋)の都電が走っていた靖国通り(浅草橋交差点付近)
 
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・・・・・・・・・・・・・清洲橋通りと交差する東神田交差点。 40年程前まで、都電の「豊島町」停留所があり、私も通学時ここで乗り降りしたこともある。
 
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・・・・・・・・・・・・・ここ岩本町交差点の角にあるビルに、一時、私の机があったこともある。
 
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・・・・・・・・・・・・・新幹線・東京上野ライン・山手線・京浜東北線のガードをくぐり、中央線のガードもくぐる。、、、、、40年の間に2つのガードが増えた、変化する東京!
 
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・・・・・・・・・・・・・須田町交差点。 写真中央のビルは、弘化3年(1846、江戸時代)創業、宮内庁御用達の果物屋(フルーツパーラー)「万惣」の跡地。、、、、、私も祖母と、よく果物を買いに行った店。 ついでに、フルーツポンチも!、、、、、甘い思い出。 
 
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・・・・・・・・・・・・・淡路町交差点。 右横をはいると、「神田 志乃だ寿司」がある。 いまだに、おつかいで、稲荷ずしを買いに行かされる雅万歩。、、、移転前の「交通博物館」も、この横にあった。
 
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・・・・・・・・・・・・・小川町交差点。 交差点から大手町方向に100m程の処に、YMCA本部のビルがあった。 地下のプールでは、フルチンで泳がされた。、、、、恥ずかしい思いで。
 
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・・・・・・・・・・・・・・駿河台下交差点。 我が母校の校舎が見えるが、ここは文系のキャンパス。 私は理工系で、川崎のキャンパス学んだ。 でも、チョイト可愛い娘(松原智恵子?)に逢いたく、文系の数科目を受講していた。、、、、青いレモンの思い出。
 
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・・・・・・・・・・・・神保町交差点。 水道橋方向に曲がると、エロ本(知る人ぞ知るH書店)がある。 雨上りに入店し、買ったばかりの高い傘を忘れてきた、後で気がついたが、恥ずかしくて問いかけることもできず。、、、、にがい思い出。
 
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・・・・・・・・・・・・・九段下交差点。 サラリーマン時代、九段上から坂を下り、交差点裏の雀荘へ、度々負けた!、、、、、頭にきた思い出。 雀荘はなくなっている。
 
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●空をつくよな 大鳥居 こんな立派な おやしろに 神とまつられ もったいなさよ 雅万歩は泣けます うれしさに ・・・・・・・・・靖国神社に着きました。 神妙に手を合わせる。
 
・・・・・・・・・・・・・高さ25m、日本一の大鳥居。 昭和49年(1974)、1億6000万円で建てられた。、、、、、鳥居は鋼管で造られているが、内部にコンクリートが充填されている。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・境内の中程には、大村益次郎の像が建っている。 明治26年(1883)に作られた、日本初の銅像。 上野戦争で司令官として彰義隊の立て籠もる上野寛永寺を見つめている姿で、大村と靖国神社の関係は、大村が東京招魂社の設立に熱心だったことによる。、、、、、私とこの像の関係は、社会人になって新人研修があり、近くの市ヶ谷ユースホステルに宿泊していた。 その夜、同期の仲間と飲酒し、翌朝叱責をくらい、この像の台座の上で正座をさせられた。、、、、脚の痛い思い出。
 
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・・・・・・・・・・・・・第二鳥居と神門。 神門の内側に、東京の桜の開花を予測する標本木がある。 今年の開花も早そうだが、まだ蕾を見て予測するには早そうだ。
 
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・・・・・・・・・・・・・・明治34年(1901)に建てられた拝殿、その後ろに明治5年(1872)に建てられた本殿がある。、、、、246万6千余柱の神霊が鎮まる。
 
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●鳶が鷹の子 生んだよで 今じゃ果報が 身にあまる 泰緬鉄道が みたいばかりに 逢いにきたぞや 九段坂 ・・・・・・・・・靖国神社の境内にある、明治15年(1882)に開館した遊就館は、遺品などを収蔵、展示する施設である。 館内には、靖國神社に鎮まる英霊の遺書や遺品をはじめ、英霊のまごころやその事蹟を今に伝える貴重な史・資料が展示されている。 今日は拝観せずに、ショップで軍歌を収めたCDをチョイト見てきた。
 
・・・・・・・・・・・・・遊就館は、陸軍省経理局建築課 (陸軍技師内藤太郎・柳井平八、顧問伊東忠太) の設計、銭高組の施工で、昭和6年(1931)に竣工した。 戦後は一時、本社の建物をGHQにより接収された富国徴兵保険相互会社(現:富国生命)に、貸し出していた。 その後、昭和61年(1986)に遊就館再開となる。
 
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・・・・・・・・・・・・・ついでに、遊就館入口ロビーに展示している、C56-31機関車(泰緬鉄道として活躍)は、戦時中、泰緬鉄道の開通式に参加した機関車である。、、、、、昭和11年(1936)に日本車輛製造(株)で製作され、戦時中タイで活躍し、昭和52年(1977)に引退した。 引退後、泰緬鉄道を建設に関係した南方軍野戦鉄道隊関係者が拠金してタイから譲り受け、神社に奉納された。
 
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●・・・・・・・・・・・・・お帰りは市ヶ谷駅から。
 
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2019年1月30日 (水)

東京だョおっ母さん

我が家(浅草橋)から江戸通りを南に歩き、日本銀行前に出ると、新旧の常盤橋が三橋ある。 この常盤橋を見て、大手町から皇居前に出て、東京駅まで、1万3千歩の散歩です。
 
 
 
●お勤め御苦労さま!・・・・・・・・・浅草橋、馬喰町、小伝馬町、室町と、江戸通りを歩き、外堀通りと交わる新常盤橋交差点に出る。、、、、時刻は9時前、マフラーとマスクで顔を隠した人が、私を追い越していく。  あせるな いそぐな たまには遅刻で リフレッシュ、、、、、我が家から新常盤橋まで、ブラブラ歩いて50分也。 
 
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●石と皿の“ときわばし”・・・・・・・・・・・日本銀行の西側を流れる日本橋川。 そこに、上流側から、新常盤橋、常磐橋、常盤橋と、「ときわばし」が3橋並んで架かっている。 3橋は千代田区大手町と中央区日本橋本石町を結んでいる。、、、、写真は、免震化工事中の日本銀行本店本館。
 
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・・・・・・・・・・・・まずは、「新常盤橋」、、、、、この橋は、大正9年(1920)の市電(戦後は三輪橋~都庁前の31系統路線)開通に合わせ、現在の江戸通りの延長線上にに架けられた橋である。 コンクリート造の三連アーチ橋であった。、、、、昭和63年、東北新幹線高架工事に伴い、現橋に架け替えられた。、、、、隣りに新幹線の高架橋、頭上に首都高都心環状線が架かり、橋の全容が見えにくい。
 
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・・・・・・・・・・・・・・次は、“元祖ときわばし”であるが、残念ながら落橋の危機にさらされ、只今文化財として修復工事中。 その為、近くに立ち入ることもできない。、、、、ところで、この「ときわばし」は、“盤”と“磐”の違いで、「常磐橋」と書く。、、、、初代は、常磐橋御門の見附橋として、天正18年(1590)の架橋と言われている。、、、、現在の橋は明治10年(1877)に架けられた、石造のアーチ橋である。 多数の肥後(熊本)の石工が集められ、橋の架設に当たったと言われている。、、、、、国指定の文化財で、修復工事は基礎部分から全面的にやり直されていたが、途中で東日本大震災があり、工事中の橋も被災し、工期は大幅に延長されている。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・以下の写真は、7年前、工事着手直前の常磐橋。 全景と親柱
 
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・・・・・・・・・・・・・・最後は「常盤橋」である。 上流の「常磐橋」は古くて小さな石橋で、かつ歴史的に貴重な橋であったため、昭和元年(1926)に、主要幹線の橋として隣りに新しい橋を架けた。 これが“磐”を“盤”に変えた「常盤橋」である。、、、、橋のデザインは常磐橋を模した、2連のアーチ橋(不等間隔)として造られた。、、、親柱の隣りにラーメン屋の屋台があった、お品書きは新しそうだ、するとこれは?
 
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●ビルの名も判らない田舎者となった・・・・・・・大手町界隈の再開発ビル群を抜ける。、、、、どのビルも。現代的でカッコイイが、個性の薄れた、不動産屋の安直ビルに思える。 
 
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●おっ母さん ここが ここが 二重橋 記念の写真を とりましょね・・・・・・・・・・・必ず記念撮影する皇居正門石橋(二重橋はこの奥にある)、その脇に、懐かしい交番「祝田町見張所」がある。石橋のできた、明治21年(1888)前後にこの交番も造られたようだ。、、、、皇居前広場から農協の団体が消え、修学旅行の学生も消え、はとバスの団体が細々、残るは東南アジアを中心とした外人さん。 時代も変わったね!
 
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・・・・・・・・・・・・・皇居前から見た丸ノ内
 
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●おっ母さん ここが ここが 東京駅 記念に写真を とりましょね・・・・・・・・・・・東京駅に赤帽がいた頃が懐かしく思われるのは、年とった証拠かな?
 
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