浅草橋から皇居まで
大変な幕開けとなった令和6年。 夫婦二人暮らしの我が家では、年末に妻が風邪をひき、老々介護のスタート。 クリスマスには私も風邪をひき、夫婦で咳の音色比べ。 そのまま年を越し、除夜の鐘は布団の中で、ゴホン・ゴホン。 元日、娘夫婦と年始を祝う中、能登半島地震のニュースが飛び込みテレビに釘付け、私の咳は止まった、妻の咳はより悪化。 5日には、朝一で内科に駆け込む妻、またまた一週間分の薬をもらい、ガラガラ声で『まだ治らない!』
二週間程歩いてなかったので、今日は足慣らし。 我が家(浅草橋)から、江戸通り沿いに歩いて、皇居まで1万4千歩の散歩です。
● 浅草橋駅前から江戸通り(=国道6号)を日本橋室町方向に歩く。 土曜の朝8時過ぎ、歩く人もまばら。
・・・・・・・・・・ 神田川に架かる浅草橋を渡ると中央区。 中央区の浅草橋交差点角には、年配の方なら見たことがあると思う鷲のマークの「イーグルノート」販売元の建物「イーグルビル」がある。 昭和初期に建てられたらしい?
● 小伝馬町交差点から、一本裏道に入り十思公園(じっしこうえん)周辺の「伝馬町牢屋敷跡」に立ち寄る。、、、、伝馬町牢屋敷は慶長18年(1613)に常盤橋外より小伝馬町へ移転されたもので、明治8年(1875)に市ヶ谷囚獄へ移転までの江戸の牢獄であった。 面積は2600余坪で、現在の大安楽寺、身延別院、十思公園、十思小学校跡などを含む一帯である。 旗本の士用に揚座敷、士分僧侶用に揚屋、一般庶民用に大牢、百姓用に百姓牢、女性用に女牢など、身分を別けて獄舎や拷問蔵などがあったそうだ。 定員は350名程度だが、最大700名を収容できたといわれてる。 牢屋奉行には石出帯刀が世襲した。 安政の大獄(1859)では吉田松陰や橋本左内らが収容されていた。
・・・・・・・・・・ 高野山真言宗の大安楽寺は、明治15年、牢屋敷跡だった当地に誰も住み着かず、大倉喜八郎と安田善次郎が寄進して、受刑者を弔うために創建された。 大安楽寺=“大”倉+“安”田+“楽寺” 現在の建物は昭和4年(1929)の再建。
・・・・・・・・・・ 十思公園隣りの建物の壁際に「伝馬町牢屋敷石垣遺構」の一部がと逝くように再現されている。 十思公園は、伝馬町牢屋敷の一部があった場所で、実際に発掘調査された結果、石垣等の遺構が発見されている。 大きな石を並んだ石垣跡を見ると、牢屋ではなく、冷え切った監獄のような場所だったと想像できる。 江戸時代には処刑場だけでなく牢屋敷で処刑されることも珍しくなく、吉田松陰もここで処刑されたそうだ。、、、、私の時は、苦痛なくコロリと逝くように電気椅子にして欲しいね!
・・・・・・・・・・ 幕末の長州藩士・吉田松陰は、幕府の条約調印に関して閣老間部詮勝の襲撃を謀ったとして捕らえられ、安政6年(1859)、ここ伝馬町牢屋敷で処刑された。 松陰は、兵学、洋学に通じ、また萩に「松下村塾」を開いたことでも有名で、木戸孝允、前原一誠、高杉晋作、久坂玄瑞、伊東博文、品川弥次郎らをそこから輩出しました。 「吉田松陰終焉之地」の碑がある。
・・・・・・・・・・ 十思公園の隣り(伝馬町牢屋敷の跡)に建てられた旧十思(じっし)小学校の校舎が残っている。、、、、昭和3年(1928)に建てられた関東大震災復興小学校の一つである。 表現主義と呼ばれている、カーブ、円、半円などの形状をデザインした建築様式の建物。
● 中央通りと交差する室町三丁目交差点を過ぎると、「中央区立常盤(ときわ)小学校」がある。、、、、屋上の『祝 常盤小学校開校150周年』、『祝 常盤幼稚園開園127周年』の横断幕が歴史を語ってる。 こちらも、昭和4年(1929)に建て替えられた復興小学校。 十思小学校と同じように、表現主義建築として半円形の窓が特徴的。 両校とも、東京都選定歴史的建造物に指定されている。 震災後の大変な時期であったがあ、中央区・台東区などでは丁寧な設計の建物が多く作られ現存している。、、、、ちなみに、常盤小学校の設立は、明治6年(1863)に日本銀行本店の近くに開校した旧東京市常盤尋常小学校。
● 日本銀行の西側、千代田区大手町と中央区日本橋本石町を結んで、日本橋川に東京最古の橋の常磐橋(ときわばし)がある。、、、、常磐橋は、天正18年(1590)の架橋と言われ東京では最も古い橋のひとつ。 常盤橋門の見附橋として活躍した。 現在の橋は明治10年(1877)に建造された。 橋は老朽化し人道橋となり、車道橋の役割は、常磐橋を挟むように下流側の常盤橋と上流側の新常盤橋に譲った。、、、、【ここでチョイトややっこしい説明】 日本橋川には、“ときわばし”という名の橋が2つ、“しんときわばし”が1つあり、三つの橋が約100m間隔で並んでる。 上流側に新常盤橋、次は歩道橋となった石橋:常磐橋、下流側に関東大震災後に造られた復興橋:常盤橋が存在する。 そして、三橋を区別するため、石橋の方の「磐」の字は「般」の下に「石」が用いられ、上下流側の二橋は「般」の下に「皿」を用いた「盤」である。
・・・・・・・・・・ 常盤橋は常磐橋(石橋)のやや下流に、昭和元年(1926)、関東大震災の復興計画の一環として新たに架けられた橋。
・・・・・・・・・・ 新常盤橋は常磐橋の上流側に、大正9年(1920)、路面電車の開通に合わせて架けられた、コンクリート製の3連アーチ橋であった。 昭和63年(1988)に解体して架け替え、全長39.35m、全幅27.00mの鋼製桁橋。
・・・・・・・・・・ 昭和元年に架けられた常盤橋の千代田区大手町側の橋詰に、小さな常盤橋公園がある。 公園は江戸時代に枡形の城門である常盤橋門があったところで、明治8年(1875)に財団法人渋沢青淵翁記念会(渋沢栄一記念財団)によって復旧整備が行われ、東京市の公園として公開された。 それ故に、園内に渋沢栄一の銅像(製作:朝倉文夫)が建っている。
● 大手町、東京駅前を通り抜け皇居に向かう
● “二重橋”の謂れ・定義はどうでもよくて、皇居前広場から正門前の石橋とその奥にある鉄橋を眺め、新年の始まりとする。、、、、今年は波乱万丈の幕開けとなった。 これ以上災いが無いことを祈る。