千代田区

2025年2月11日 (火)

伝通院

飯田橋駅から、伝通院、こんにゃく閻魔、シビックセンター、後楽園を巡り、水道橋駅まで、1万歩の散歩です。



● JR飯田橋駅で下車する。 JR飯田橋駅は島式ホーム1面2線の高架駅。 駅舎は東西に出口があるが、地形が傾斜しているため、東口側は高架駅舎のようになっており、西口側は橋上駅舎となっている。、、、、今日は東口から歩くことにした。 飯田橋駅では、中央・総武線のホームが令和2年(2020)に西側(新宿寄り)に約200m移設され、秋葉原寄りの東口に出るには、電車が停まらなくなったホームの部分を100m程歩くようになった。 年寄りには、短い距離も長く感じるホームである。
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● 飯田橋駅から、神田川を越え北へ歩く。 坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで「安藤坂」(距離:約250m)と呼ばれる坂を上る。 正面に伝通院の山門が見える。
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・・・・・・・・・・ 文京区小石川3丁目の高台にある伝通院(=傳通院、でんづういん)は、正式には「無量山 傳通院 寿経寺」という、浄土宗の寺。 徳川将軍家の菩提寺である。、、、、創建は応永22年(1415、室町時代)。 慶長7年(1602)に徳川家康の生母於大の方(水野氏)が京都見物中に伏見城で亡くなると、家康は母の遺骸を遺言通りに江戸へ運び、大塚町の智香寺(智光寺)で火葬した。 位牌は安楽寺(愛知県蒲郡市)に置かれ、光岳寺(千葉県関宿町)など各地に菩提寺を建立した。 慶長8年(1603)に家康は母の遺骨を現在の墓地に埋葬し、寿経寺をここに移転して堂宇を建て始め、生母於大の法名「伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」にちなんで院号を伝通院とした。、、、、昭和20年(1945)5月の米軍による空襲で小石川一帯は焼け野原となり、伝通院も江戸時代から残っていた山門や当時の本堂などが墓を除いてすべて焼失した。 かつての将軍家の菩提所としての面影は完全に消え去ったが、昭和24年(1949)に本堂を再建。 さらに、現在の本堂は、昭和63年(1988)に戦後2度目に再建されたものである。 平成24年(2012)には山門が再建された。
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・・・・・・・・・・ 伝通院の墓所には、於大の方以外に、千姫、三代将軍家光の正室孝子など、徳川家にゆかりのある女性や、将軍の三歳以下の子供たちが眠っている。、、、、侍女の墓もある。 死んでも徳川家の墓所に弔われるとは、羨ましいね!
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・・・・・・・・・・ 生母於大の墓と千姫の墓
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● 伝通院から東へ善光寺坂の途中に、浄土宗の「慈眼院(じげんいん)」がある。、、、、慈眼院の創建年代は不詳だが、元和6年(1620)に沢蔵司稲荷の別当寺になっていることから、この頃には慈眼院が創建していたと推定される。
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・・・・・・・・・・ 境内の崖下には「沢蔵司稲荷(たくぞうすいなり)」が祀られている。 別当寺は慈眼院。 「沢蔵司(たくぞうす)」とは、大田道灌によって千代田城(後の江戸城)に勧請され、その後元和年間に伝通院において仏法や学問を学んだとされる狐神。、、、、沢蔵司は。僅か3年で浄土宗の奥義を極めたという秀才で、「沢蔵司 てんぷらそばが お気に入り」と川柳に読まれたほど著名な僧(狐)だったといわれてる。 きつね蕎麦が好きだと共喰いになるからね!
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・・・・・・・・・・ 慈眼寺前の善光寺坂の道路の真ん中に一本の巨大な「椋の木」(樹高:約13m、主幹:約5m、樹齢:約400年)残っている。 この場所は江戸時代、伝通院の境内であった。 その後、伝通院の鎮守であった沢蔵司稲荷の神木として現在に至っているそうだ。、、、、今にも倒れそう、そろそろ樹命が来たかも?
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● 慈眼寺の隣りには善光寺坂の謂れとなった「善光寺」がある。、、、、浄土宗の善光寺は、慶長7年(1602)に伝通院の塔頭縁受院として創建、明治17年(1884)善光寺と改称し、信州の善光寺の分院になったといいます。
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● 善光寺坂を下り都道436号にでると、「こんにゃく閻魔」で有名な「源覚寺(げんかくじ、文京区小石川2)」にもお立ち寄り。、、、、浄土宗寺院の源覚寺は、常光山西向院と号す。 源覚寺は、寛永元年(1624)創建された。 本尊は阿弥陀三尊(阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩)。 特に徳川秀忠、徳川家光から信仰を得ていた。  江戸時代には四度ほど大火に見舞われ、特に天保15年(1848)の大火では本堂などがほとんど焼失したといわれている。 しかし、こんにゃくえんま像や本尊は難を逃れた。 再建は明治時代になったが、その後は、関東大震災や第二次世界大戦からの災害からも免れられた。しかし老朽化が進み現在の本堂は1979年に再建されたものである。
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・・・・・・・・・・ 当寺の別称にもなっている「こんにゃく閻魔像」は、鎌倉時代の作といわれ、像内から寛文12年(1672)に修復された記録が発見されている100.4センチの木造の閻魔大王の坐像である。 運慶派の仏師が造立した仏像である。、、、、閻魔像の右側の眼が黄色く濁っているのが特徴で、その原因となる伝説が残されている。 それは、宝暦年間(1751~1764)に一人の老婆が眼病を患いこの閻魔像に日々祈願していたところ、老婆の夢の中に閻魔が現れ、「満願成就の暁には私の片方の眼をあなたにあげて、治してあげよう」と告げたという。 その後、老婆の眼はたちまちに治り、以来この老婆は感謝のしるしとして自身の好物である「こんにゃく」を断って、ずっと閻魔に供え続けたといわれている言い伝えによるものである。 以来この閻魔像は「こんにゃく閻魔」の名で人々から信仰を集めている。 現在でも眼病治癒などのご利益を求め、閻魔像にこんにゃくを供える人が多い。(お供えのこんにゃくが山となって積まれていた。 住職の今宵の食事は、おでんと味噌田楽に、こんにゃくの芋煮かな?)
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● 文京区の本庁舎が入居する文京シビックセンターは、文京公会堂の跡地に平成11年(1999)に竣工。 地上28階・地下4階、高さ142m。 東京23区の区役所の中でも高い建物である。、、、、設計は日建設計、施工は清水建設・戸田建設・五洋建設・浅沼組・岩田建設・日本建設のJVによる。 文京シビックセンタービル単体の建築費は389億円といわれてる。、、、、『今日は、建国記念日で祝日、公開されていないかも』と心配しながら、展望台に寄って見ることにした。、、、、地上25階の無料展望台は公開されており、高所恐怖症の私にはチョイト怖いシースルーのエレベーターで、地上105mの展望台に上った。 東京の街並が一望できるほか、遠くは富士山なども望むことができ、眺望バツグン!
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● 後楽園ドーム球場をとおり抜けJR水道橋駅から帰宅。
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2024年11月30日 (土)

有楽町から浅草橋

土曜日の朝、人影の少ない銀座・日本橋の裏通りを歩いて、有楽町駅から浅草橋の我が家まで、1万1千歩の散歩です。



● 我が家から銀座・日本橋には都営浅草線を利用すれば、乗り換えなしの一本。 しかも、東京都のシルバーパスを利用すれば切符を買わなくても乗れる。 故に、もっぱら地下鉄を利用している。 今日は、久しぶりにJR有楽町駅で下車してみた。、、、、有楽町駅は明治43年(1910)6月25日、有楽町~烏森(現:新橋)間開業と同時に設けられた、国有鉄道東海道本線の始発駅である。 開業当初から京浜電車(後の京浜東北線)のみ停車する駅である。 しかし、始発駅としては明治43年9月15日に上野までの電車線が延伸開業するまでの、短命な始発駅であった。、、、、いまは一日の平均乗車人員は約12万人。 この乗客を2面4線の島式ホームでさばいてるラッシュ時の混雑度の高い駅である(今日、土曜日の早朝、混雑していない)、、、、私の若い頃(昭和30,40年代)は、「日比谷映画」「有楽座」など映画館街へ、デパート「SOGO」への買い物、銀座へブラブラ、いずれにしても国鉄有楽町駅を利用していた。 当時、有楽町駅で下車する時は、何となくワクワクしたものだ。 老いた今は、有楽町で下車すると、お上りさん状態、『アレ? なくなった! どっちだ?』
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・・・・・・・・・・ 中央口の脇に、レンガ作りの高架曲線が美しい、有楽町中央口架道橋がある。 明治43年開業時のレンガ造りの高架橋が見える(この上に、現在の山手線・京浜東北線が走っている)、、、、ドイツ人技師ルムシュッテルの設計案をもとに、逓信省技術顧問のバルツアーが市街高架線の設計・施工を指導。 彼はその耐震性について保証しており、大正12年(1923)の関東大震災でもこの区間は無傷だった。、、、、アーチの内側はコンクリートにより耐震補強され、レンガ積みの目地を見ることはできなくなったが、側面の大きなアーチの曲線を見ることができる。、、、、架道橋を抜けると、かっての「SOGO」デパート、今は「ビックカメラ」がある。2411300743490
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● 時刻は7時45分、まだ人影の少ない有楽町駅前から、東京高速道路の下を抜けて銀座通りに出る。 裏通りを歩いても、新しいビルばかり、『俺の知る あの店は何処に?』 裏道では、「並木通り」「銀座レンガ通り」などの道路名を見て、和泉雅子・山内賢が歌う『二人の銀座』を口ずさむ(誰も歩いていないので音痴でもOK) 小さな店は壊され、近代的で綺麗な大きなビルに変身、味の無いつまらなくなった銀座を歩く。
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● 銀座通りから宝町交差点に出て、昭和通りに面して並ぶ「兼松」「清水建設」「味の素」ビルを見ながら裏通りに向かう。
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・・・・・・・・・・ 裏通りには、大学1年の頃のバイト先があった。 20年前には私がサポートする、トラブルメーカの客先もあった。 いずれも新しいビルに変わり面影はないが、何となく懐かしい。
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・・・・・・・・・・ 浅草線の宝町駅から北東へ200m程、楓川の跡(首都高1号線)に陸上橋の宝橋が架かっている。 宝橋の西詰にひっそりと小さな祠があり、「宝地蔵尊」の旗が架かってる。 この宝地蔵尊の由来は『昭和29年(1954)夏の夕刻、当時8歳の児童が楓川に落ちて亡くなったそうだ。 その愛しい子供を供養するお地蔵さまである』 70年が過ぎた今でも、供養は続いているようだ。 私も合掌。、、、、楓川は1964年の東京五輪の際に埋め立てられ、首都高1号線に変わった。
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● 昭和通りに面し江戸橋の南詰に日本郵便日本橋郵便局がある。 ここ日本橋郵便局は「日本の郵便発祥の地」に相応しく、日本近代郵便の父と呼ばれる前島密(まえじまひそか)のブロンズ像が使用口脇に設置されている。、、、、明治4年3月1日(新暦換算:1871年4月20日)、日本における近代郵便制度の創設に伴い、現在の地(東京府豊島郡日本橋元四日市町 = 現在の東京都中央区日本橋1)に、駅逓司(現:日本郵政の前身)と四日市郵便役所(東京中央郵便局の前身)が設置された。 これをもって、この地は「日本の郵便発祥の地」と定められた。、、、、郵便発祥の地としてはブロンズ像だけではなく、郵便の歴史なども説明する、小さな説明コーナーなどが設置されるとうれしいね!
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江戸橋は、日本橋の下流側に架かる橋で、昭和通りを通す。 現在の江戸橋は、震災復興計画の一環として昭和4年(1929) に架けられた鋼製アーチ橋である。 親柱や欄干など、歴史のある江戸橋の名を汚さないようにと、力を入れて架設された橋だ。 しかし戦後、頭上を二重三重に走る首都高のおかげで、昼でも薄暗くその存在感が薄れてしまった。
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● 江戸橋を渡ると、椙森神社のある日本橋堀留町、繊維問屋街の日本橋横山町、そして浅草橋を渡ると我が家までは徒歩数分。 『ただいま!』
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2024年1月 6日 (土)

浅草橋から皇居まで

大変な幕開けとなった令和6年。 夫婦二人暮らしの我が家では、年末に妻が風邪をひき、老々介護のスタート。 クリスマスには私も風邪をひき、夫婦で咳の音色比べ。 そのまま年を越し、除夜の鐘は布団の中で、ゴホン・ゴホン。 元日、娘夫婦と年始を祝う中、能登半島地震のニュースが飛び込みテレビに釘付け、私の咳は止まった、妻の咳はより悪化。 5日には、朝一で内科に駆け込む妻、またまた一週間分の薬をもらい、ガラガラ声で『まだ治らない!』 

二週間程歩いてなかったので、今日は足慣らし。 我が家(浅草橋)から、江戸通り沿いに歩いて、皇居まで1万4千歩の散歩です。




浅草橋駅前から江戸通り(=国道6号)を日本橋室町方向に歩く。 土曜の朝8時過ぎ、歩く人もまばら。

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・・・・・・・・・・ 神田川に架かる浅草橋を渡ると中央区。 中央区の浅草橋交差点角には、年配の方なら見たことがあると思う鷲のマークの「イーグルノート」販売元の建物「イーグルビル」がある。 昭和初期に建てられたらしい?

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● 小伝馬町交差点から、一本裏道に入り十思公園(じっしこうえん)周辺の「伝馬町牢屋敷跡」に立ち寄る。、、、、伝馬町牢屋敷は慶長18年(1613)に常盤橋外より小伝馬町へ移転されたもので、明治8年(1875)に市ヶ谷囚獄へ移転までの江戸の牢獄であった。 面積は2600余坪で、現在の大安楽寺、身延別院、十思公園、十思小学校跡などを含む一帯である。 旗本の士用に揚座敷、士分僧侶用に揚屋、一般庶民用に大牢、百姓用に百姓牢、女性用に女牢など、身分を別けて獄舎や拷問蔵などがあったそうだ。 定員は350名程度だが、最大700名を収容できたといわれてる。 牢屋奉行には石出帯刀が世襲した。 安政の大獄(1859)では吉田松陰や橋本左内らが収容されていた。
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・・・・・・・・・・ 高野山真言宗の大安楽寺は、明治15年、牢屋敷跡だった当地に誰も住み着かず、大倉喜八郎と安田善次郎が寄進して、受刑者を弔うために創建された。 大安楽寺=“”倉+“”田+“楽寺”  現在の建物は昭和4年(1929)の再建。
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・・・・・・・・・・ 十思公園隣りの建物の壁際に「伝馬町牢屋敷石垣遺構」の一部がと逝くように再現されている。 十思公園は、伝馬町牢屋敷の一部があった場所で、実際に発掘調査された結果、石垣等の遺構が発見されている。 大きな石を並んだ石垣跡を見ると、牢屋ではなく、冷え切った監獄のような場所だったと想像できる。 江戸時代には処刑場だけでなく牢屋敷で処刑されることも珍しくなく、吉田松陰もここで処刑されたそうだ。、、、、私の時は、苦痛なくコロリと逝くように電気椅子にして欲しいね!
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・・・・・・・・・・ 幕末の長州藩士・吉田松陰は、幕府の条約調印に関して閣老間部詮勝の襲撃を謀ったとして捕らえられ、安政6年(1859)、ここ伝馬町牢屋敷で処刑された。 松陰は、兵学、洋学に通じ、また萩に「松下村塾」を開いたことでも有名で、木戸孝允、前原一誠、高杉晋作、久坂玄瑞、伊東博文、品川弥次郎らをそこから輩出しました。 「吉田松陰終焉之地」の碑がある。

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・・・・・・・・・・ 十思公園の隣り(伝馬町牢屋敷の跡)に建てられた旧十思(じっし)小学校の校舎が残っている。、、、、昭和3年(1928)に建てられた関東大震災復興小学校の一つである。 表現主義と呼ばれている、カーブ、円、半円などの形状をデザインした建築様式の建物。
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● 中央通りと交差する室町三丁目交差点を過ぎると、「中央区立常盤(ときわ)小学校」がある。、、、、屋上の『祝 常盤小学校開校150周年』、『祝 常盤幼稚園開園127周年』の横断幕が歴史を語ってる。 こちらも、昭和4年(1929)に建て替えられた復興小学校。 十思小学校と同じように、表現主義建築として半円形の窓が特徴的。 両校とも、東京都選定歴史的建造物に指定されている。 震災後の大変な時期であったがあ、中央区・台東区などでは丁寧な設計の建物が多く作られ現存している。、、、、ちなみに、常盤小学校の設立は、明治6年(1863)に日本銀行本店の近くに開校した旧東京市常盤尋常小学校。
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● 日本銀行の西側、千代田区大手町と中央区日本橋本石町を結んで、日本橋川に東京最古の橋の常磐橋(ときわばし)がある。、、、、常磐橋は、天正18年(1590)の架橋と言われ東京では最も古い橋のひとつ。 常盤橋門の見附橋として活躍した。 現在の橋は明治10年(1877)に建造された。 橋は老朽化し人道橋となり、車道橋の役割は、常磐橋を挟むように下流側の常盤橋と上流側の新常盤橋に譲った。、、、、【ここでチョイトややっこしい説明】 日本橋川には、“ときわばし”という名の橋が2つ、“しんときわばし”が1つあり、三つの橋が約100m間隔で並んでる。 上流側に新常盤橋、次は歩道橋となった石橋:常磐橋、下流側に関東大震災後に造られた復興橋:常盤橋が存在する。 そして、三橋を区別するため、石橋の方の「」の字は「般」の下に「石」が用いられ、上下流側の二橋は「般」の下に「皿」を用いた「」である。
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・・・・・・・・・・ 常盤橋は常磐橋(石橋)のやや下流に、昭和元年(1926)、関東大震災の復興計画の一環として新たに架けられた橋。
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・・・・・・・・・・ 新常盤橋は常磐橋の上流側に、大正9年(1920)、路面電車の開通に合わせて架けられた、コンクリート製の3連アーチ橋であった。 昭和63年(1988)に解体して架け替え、全長39.35m、全幅27.00mの鋼製桁橋。
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・・・・・・・・・・ 昭和元年に架けられた常盤橋の千代田区大手町側の橋詰に、小さな常盤橋公園がある。 公園は江戸時代に枡形の城門である常盤橋門があったところで、明治8年(1875)に財団法人渋沢青淵翁記念会(渋沢栄一記念財団)によって復旧整備が行われ、東京市の公園として公開された。 それ故に、園内に渋沢栄一の銅像(製作:朝倉文夫)が建っている。 
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● 大手町、東京駅前を通り抜け皇居に向かう
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● “二重橋”の謂れ・定義はどうでもよくて、皇居前広場から正門前の石橋とその奥にある鉄橋を眺め、新年の始まりとする。、、、、今年は波乱万丈の幕開けとなった。 これ以上災いが無いことを祈る。
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2023年8月28日 (月)

夏休みも終わり

そろそろ夏休みも終わり、まもなく二学期が始まる。 雅万歩も散歩を再開する予定。 今日は、循環器内科の定期診察日。 “足慣らし”で浅草橋の我が家から、水道橋のクリニックまで歩いて来た。 久しぶりに1万1千歩。




● 朝7時40分、出勤で駅から出てくる人はまだ少ない。 浅草橋駅西口は静かな都心のローカル駅。、、、、真っすぐ西に伸びる高架橋、その先には隣りの秋葉原駅がある。 今日は“足慣らし”のつもりで無理せず、線路沿いに歩いて水道橋へ向かうことにした。

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・・・・・・・・・・ 浅草橋駅西口の近くに奇妙なビルが建つ!、、、、竣工まじかのようだ。 道路からから見ると、窓が一つも見えない。 高架を走る電車から見ると窓はあるが、逆さまに造られた庇(?)で遮られ見下ろすことのできない窓! チョイト好奇心から覗いてみたくなる建物だ!、、、、建物は「MONOSPINAL」というオフィスビル、設計は山口誠デザイン、施工は清水建設、地下1階地上8階建てらしい。

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・・・・・・・・・・ 大きなアーチが特徴的な高架橋(昭和7年(1932)完成)を過ぎると、先に秋葉原駅がある。

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● 高架下に秋葉原駅昭和通り口がある、次はヨドバシカメラ前の中央改札口、そしてアトレがある電気街口と続く。、、、、昭和通り口には総武線が開通した昭和7年からエスカレーターが設置されていた。 中央改札口はつくばエキスプレスが開業した、平成17年(2005)に新設された出入口である。 電気街口のアトレは、戦後、アキハバラデパートが営業してた処である。、、、、私の祖父母が秋葉原駅の近くに住んでいて、毎日のように遊んでた青果市場は今は無い!

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・・・・・・・・・・ 秋葉原駅から御茶ノ水へ向かう高架橋の下で、“アマチュア無線”の文字を見る。 ネットの時代に廃れたと思っていたアマチュア無線が健在だった! 

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・・・・・・・・・・ 総武線は秋葉原駅を過ぎ昌平橋交差点では、日本最初のタイドアーチ式鉄道橋となった松住町架道橋(昭和7年(1932)竣工)を渡る。 交差点を対角線状に跨ぐため中間に橋脚を立てられないことから、支間を大きく取ることのできるアーチ橋が採用された。、、、、私が幼き頃、迷子になったのはこの近く、当時の旅籠町交番に保護された(うろ覚え!)

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・・・・・・・・・・ 松住町架道橋の次は、ハの字の形をした鋼製ラーメン形式の神田川橋梁。 この橋も昭和7年(1932)に完成した。

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● 昌平橋から淡路坂を上って聖橋の手前に、御茶ノ水駅の臨時改札口がある。 この改札は朝の通勤時間帯に使用する出口専用の改札である。 昭和62年(1987)に設置された。、、、、開設されて36年経過、いまだに“臨時”改札口?

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・・・・・・・・・・ これまでの聖橋口は只今建て替え工事中! 仮の聖橋口が使用されている。

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・・・・・・・・・・ 御茶ノ水橋口の駅舎は改装・増築されているが、昭和7年(1932)竣工当時の姿が残されている。 駅舎の設計は鉄道省、施工は大倉土木(現:大成建設)

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・・・・・・・・・・ 御茶ノ水駅を過ぎ、線路の南側「かえで通り」を歩き水道橋駅に向かう。

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・・・・・・・・・・ かえで通りが皀角坂(さいかちさか)となる処に、著名なフランス語学校「アテネ・フランセ」がある。 昭和37年(1962)に完成した建物は、ル・コルビュジエの弟子である吉阪隆正が設計した。 

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・・・・・・・・・・ 皀角坂からは、中央線快速・中央総武緩行線がよく見える。 しばし立ち止まり、数本の電車を見送る。

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● 皀角坂を下ると水道橋駅東口。、、、、東口の前は「白山通り」、私の中高学生時代は、ここから都電で白山方面に通学していた。 50数年程前の思い出多い通学路であった。

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・・・・・・・・・・ 水道橋駅西口はドーム球場に近い、JRAの場外馬券売り場には至近、そして私が受診するクリニックの最寄り駅。

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・・・・・・・・・・ 大動脈解離の手術を受けて今年で10年目、ドクターに『まだまだ長生きできる』と言われ、ニコニコ! 心臓をコントロールする薬の処方箋をもらい、アリガトウゴザイマシタ!



・・・・・・・・・・ 帰りは水道橋から電車で帰る

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2023年3月21日 (火)

速いぞ 時速130㎞

彼岸に入り、我が家ではいつもの如く八柱霊園(松戸市)、むさしの霊園(八王子市)へと、連日の墓参りを済ます。 一昨日の墓参りでは、帰路に孫と約束『21日につくばエクスプレスに乗りに行こう!』、、、、今日は、鉄道オタクの孫と時速130㎞のつくばエキスプレスの快速に乗ってきた。 起点の秋葉原駅から終点のつくば駅まで快速で片道45分の旅。 終点のつくば駅では、駅の近くの「つくばエキスポセンター」に寄り、プラネタリュームと内部の見学。 帰りも快速で秋葉原まで戻る。、、、、(万歩計は1万歩だった!)




つくばエクスプレスは、都心と筑波研究学園都市の間を結ぶ鉄道として、秋葉原~つくば間の全線58.3kmが平成17年(2005)8月24日に開業した。 路線は都心部では地下に建設され、江戸川を越えて千葉県、茨木県に入ると高架または掘割を走ることで、踏切は一切なしで、急カーブは少なくほぼ直線に近い。 秋葉原~つくば間の58.3kmを、最高速度130 km/h(通常125 - 129 km/h)と高速で運転し、所要時間45分で結んでいる。(我が孫はこの最高時速で走るつくばエクスプレスを体験したかったのだ!)

・・・・・・・・・・ つくばエクスプレスの「秋葉原駅」は、JR秋葉原駅と昭和通りの間に位置する。(知る人には「ヨドバシAkiba」前の都道の地下と云えば判ると思う) その地下33.6mに1面2線のホームがある。 

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・・・・・・・・・・ 孫も私も(二人の歳の差、約70)、先頭車両で高速運転を体感し、満足!

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・・・・・・・・・・ 終点「つくば駅」に到着、所要45分、やっぱり速いね!、、、、茨城県内初で、現在も唯一の地下駅としてつくば駅は平成17年(2005)8月24日に開業。 1面2線の島式ホームを持つ駅は筑波研究学園都市のセンター地区にある。 2018年度の1日平均乗車人員は18,849人である。

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● せっかく「つくば」まで来たのだから、このままUターンして帰るのはつまらない! 駅に近い「つくばエキスポセンター」を見て帰ろう!、、、、つくばエキスポセンターは、昭和60年(1985)に筑波研究学園都市で開催された国際科学技術博覧会(つくば万博)の閉幕後、最新の科学技術や身近な科学に親しみを持ってもらえるように開設された。 世界最大級の規模を持つプラネタリウムや、屋外に展示されている実物大のH-IIロケット(高さ50m)の模型が特徴である。、、、、プラネタリュームは約20年ぶりに見た私、久しぶりに見る満天の星空は素晴らしい!

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2022年7月21日 (木)

冷やし中華の発祥地

九段下から靖国通り沿いに歩き浅草橋(我が家)まで、1万歩の散歩です。



● 浅草橋駅から都営浅草線に乗り次の東日本橋駅(=馬喰横山駅)で乗り換え、都営新宿線の九段下駅で下車する。 今日の散歩は「九段下駅」からスタートする。、、、、、九段下駅は、東京メトロ東西線・半蔵門線、都営地下鉄新宿線の駅である。 駅名はその名のごとく九段坂の坂下に位置することに由来する。 昭和40年代頃までは、須田町方面と渋谷方面を結ぶ都電が走っており、30年代には私も通学に利用していた、懐かしの路線。、、、、地下鉄の開通は、昭和39年(1964)12月23日の東京メトロ東西線開通、昭和55年(1980)3月16日の都営新宿線、平成元年(1989)1月26日の東京メトロ半蔵門線が、順次開通した。 ホームは地下2階に相対式2面2線の東西線ホームがある、地下4階には半蔵門線と新宿線のホームが相対式2面2線の間に島式1面2線の構造で配されている。、、、、昭和47年(1972)、私が勤めるゼネコンが九段下駅~市ヶ谷駅間のシールドトンネル工事を施工しており、当時新人の私は、研修で九段下から工事現場に入らされた。 生まれて初めて、恐る恐る、ワクワク・ドキドキ、トンネルの工事現場に入った思い出ある地。

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・・・・・・・・・・・・ 地上に出ると、普段であれば『東西南北どちらに向かう?』と悩むのであるが、今日は、熱中症が心配なので寄り道せずに、靖国通り沿いに浅草橋(我が家まで)まで歩くことにする。、、、、九段下駅を出て、チョイト横丁に入ると、懐かしい構えの住宅(千代田区九段南1)があった。 2階の丸窓、最高!

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● 九段下から神保町に向かうと、まず首都高の下、日本橋川に「爼橋」が架かっている。 橋名の「爼橋(まないたばし)」は難読だ。 名前の由来は、橋が2枚の爼(まないた)を渡したような板橋であったことによるとする説と、近くに存在した台所町との関連で名付けられたとする説がある。、、、、最初の爼橋は江戸時代初期に架けられたそうだ。 関東大震災後は、大正通り(=靖国通り)の拡幅に合わせ、昭和4年(1929)に爼橋も長さ25.6m、幅42.0mの鉄筋コンクリートのアーチ橋に架け替えられた。 昭和42年(1967)上部に首都高が建設され、さらにその後、地下には地下鉄が建設されたのに伴い、昭和58年(1983)に現在の鋼桁橋に架け替えられた。

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● 専大前交差点から駿河台下交差点までは、靖国通りの南側に平行する「さくら通り」・「すずらん通り」を歩く。

・・・・・・・・・・・・ 専大(=専修大学)前交差点の南側「さくら通り」入口前にある、うなぎ専門店「今荘」 玄関は角地を切り欠いて設けられ、正面には唐破風、その上の2階には丸窓、最上部は神社のような破風がある、遊郭のような建物。 昭和初期(昭和8年らしい)の建築。、、、、建物もいいが、蒲焼もいいね!

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・・・・・・・・・・・・ さくら通りの神保町側入り口脇に、社会鍋でおなじみの「救世軍日本本営」の建物がある。 以前の建物は、現在と同じ場所に4階建て(?)の中世のヨーロッパの城のような雰囲気の建物だった。 当時中学生であった私にとっては、軍服を着た人が出入りする建物なので、チョイト怖そうで近寄りがたかった。

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・・・・・・・・・・・・ 白山通りを横断し、すずらん通りに入ると「揚子江菜館」がある。、、、、神保町交差点を中心に、さくら通り・すずらん通り界隈は、明治・大正期から華人が住み中華料理店を営み“中華街”であった。 現在でも約30店の中華料理屋が点在する。 その内の1店が揚子江菜館だ。、、、、夏になると、ここが発祥の店と言われている「冷やし中華」を食べに行く。 今年は、先週末に家族で食べてきた。 旨い!

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・・・・・・・・・・・・ すずらん通りの駿河台下側の入口には、「文房堂(ぶんぽうどう)」がある。、、、、明治20年(1887)神田小川町に創業。 日本で初めて大学ノート、便箋、五線譜などの文房具を製造発売した。 現在は画材関係の店として有名だ! 現在の建物は大正11年(1922)に完成した名建築。

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● 駿河台下からは靖国通りを歩き浅草橋へ・・・・・そろそろ暑くなってきた、熱中症の予防に「ソルティライチ」を飲みながら歩く。 小川町、岩本町を過ぎると浅草橋の交差点。

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浅草橋駅高架下のPCR検査場、予約なし・無料にもかかわらず、いままで閑古鳥が鳴いていたが、今日は行列ができていた。 東京都の感染者3万人超となれば、怖くなったのか!

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2022年7月18日 (月)

几号水準点巡り

例年より早く梅雨明けした東京、でも先週は『梅雨 再び到来』と言いたくなる連日の雨。 昨日、一週間ぶりに雨も上がった。 今日は、朝から『散歩してくるぞ!』

JR四ツ谷駅から、外濠通りを歩いて市ヶ谷へ、市ヶ谷からは外濠公園を通り抜け靖国神社へ、九段坂をおりて都営新宿線の九段下駅から帰宅。 1万歩の散歩



● 三連休の最期は『海の日』。 谷底のようなところにある「四ツ谷駅」ホーム、電車から降りる人は少なく、乗る人も少ない。 モグラのように駅ビル「アトレ」の下から地上に出る。、、、、四ツ谷駅は、明治27年(1894)10月9日、新宿駅~牛込駅間開通と同時に甲武鉄道の駅として開業した老舗。 現在のJR四ツ谷駅ホームはほとんどが千代田区麹町にあるが、駅ビル「アトレ」は千代田区と新宿区にまたがり、駅の正式所在地は新宿区四谷になっている。(利用者にとってはどちらでもいい話だ!)

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● 駅を出たら、どっちに向かうか? とりあえず、駅前の大通り「外濠通り」を市ヶ谷方向に歩く。 出がけにテレビでは、気温33℃の真夏日となる予報であったが、まだ暑くない。 今年初めてセミの鳴き声を聞く、“いいね、夏だ!”

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● 市ヶ谷駅手前で、道路の向かいのビルの間に「市谷亀岡八幡宮」77段の階段が見えた。 チョイト、寄って行く!、、、、市谷亀岡八幡神社は、太田道灌が文明11年(1479)に、市谷御門内(現:千代田区内)に鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を、江戸城西方の守護神として勧請、鶴岡八幡宮の「鶴」に対して、亀岡八幡宮と称したそうだ。 しかし、その後戦火にさらされ荒廃していったが、江戸時代に入り寛永13年頃(1636年頃)に江戸城の外堀が出来たのを機に現在地に移転した。、、、、ここの神社の境内は樹木が多く、雑草も多く、ヤブ蚊も多い。 参拝するたびに痒~い、痒~い経験をしたことを思い出し、今日は慎重に参る。 でも、やられた!足の脛が痒~い。

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・・・・・・・・・・・・ 市谷亀岡八幡神社には、私が探し歩いてる「几号水準点がある。 当神社の手水鉢台座にあるはずだ、チョイト見て行こう!、、、、几号水準点のある場所は知っているが、改めて見ると何となく安心するものだ!

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・・・・・・・・・・・・ 参拝を終えると、『そうだここまで来たら、今までどうしても見つけることのできなかった、市ヶ谷新見附橋の几号水準点を探しに行こう!』と決めた。 今日の散歩の行先は市ヶ谷新見附橋とした。



● JR市ヶ谷駅ホームの御茶ノ水寄りに立つと、前の濠に釣り堀がある。 その釣り堀の頭上に架かる橋が「市ヶ谷見附跨線水道橋」である。、、、、市ヶ谷見附跨線水道橋は、昭和4年(1929)に完成した。 外濠と複々線の線路を跨ぐこの水道橋は5径間の下路鋼鈑桁橋で、総長98.1mの橋には一本の送水管が載っている。 歩いて見ると、桁と高欄は見えるが水道管は見えない(新宿区側の正面からは見える)デザインで、景観を配慮したような粋な構造物だ!

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● 外濠通りから、濠の反対側(千代田区側)にある外濠公園を歩く。、、、、市ヶ谷新見附橋の几号水準点は、以前に『市ヶ谷駅と飯田橋駅の中間にある新見附橋の公衆便所近くにある』と聞いていた。 今日もその言葉を頼りに、JR線路東側の崖上の外濠公園(千代田区)を中心に探すことにした。、、、、地図を見ると、外濠公園には公衆便所は三か所ある。 一か所は市ヶ谷見附交番の隣り、もう一か所は新見附橋から飯田橋に寄った法政大学前、残る一か所は飯田橋駅前の牛込見附だ。 いずれも、これまで数回、几号水準点を探し回ったことのある公衆便所だ。

・・・・・・・・・・・ 市ヶ谷見附交番横の公衆便所周辺をキョロキョロ探すが、見つからず。 公衆便所を周りをキョロキョロ、チョイト、怪しい人物と思われたかも? 引き続き外濠公園内を歩く。 物置小屋のような建物周辺もキョロキョロ、ガサガサ。

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・・・・・・・・・・・・崖下には中央線快速、中央総武緩行線が走る。

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・・・・・・・・・・・・ 市ヶ谷駅と飯田橋駅の中間に「市ヶ谷新見附橋」がある。 周囲には公衆便所は無い。 この辺では無さそうだ! あきらめ次の便所へ探しに行くかと思いつつ、橋の横の「東京市 外濠公園」と標した石を撮影。 何気なく、そこから5m程離れた歩道上を見ると、几号水準点があった! 鮮やかに“不”の図形が刻まれている。 『やっと見つけた、でも便所は無い!』 後に判ったことだが、20年前には几号水準点の前に公衆便所があったそうだ。(歩道上に公衆便所の跡らしき形状で縁石が並んで写っている)、、、、これで私の几号水準点巡りに、1ヶ所プラスすることができた。

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● 予定より早く几号水準点が見つかったので、靖国神社の几号水準ても見て行こう!、、、、「靖国神社」では、16日まで盆に因んで英霊を慰霊する「みたままつり」が行われていた。 境内では大小3万を超える献灯、提灯や雪洞が掲げられていた。 壮観だ!(夜来るともっと凄いと思う!)、、、、提灯に書かれた、献者の名を見ていると、15年ほど前まで私の父が東京支部役員を務めていた「陸軍工科学校」同窓会の名があった。 書かれた文字を見てると、父の姿を思いだし、賽銭を奮発し改めて合掌する。

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・・・・・・・・・・・・ 靖国神社の神門をくぐり拝殿に向かって左右に灯篭がある。 その左側の灯篭台座に几号水準点がある。

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● 靖国神社の几号水準点を見たら、近くの田安門(武道館へ向かう門)にも几号水準点がある。 こちらも、チラリと見て行こう。

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● 「九段下駅」から都営新宿線で帰る。

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2022年2月 3日 (木)

ワクチン接種

連日各地で“過去最多”の記録を更新している新型コロナの感染者数。 私は、正月過ぎあたりから外出が怖くなり、家に籠ってパソコンゲームと写真整理で時間をつぶし、外に出るのは医療機関とコンビニに行く程度。 しかし、今週はチョイト忙しくなりそうだ。 三日前と昨日は、母を介助して病院へ、帰ってからは自分のリハビリで整形外科へ。 今日は午後から夫婦そろってワクチン接種、家の近くの区民館へ。 明日は上野の病院で泌尿器科の検診、明後日は中野の病院で眼科検診。 連日家に籠っての暗い自粛生活に比べると、医療機関が多いけど暇な年寄りには“良い気分転換”となる。



● 先週(1月下旬)、高齢者のワクチン接種券が送られてきた。 早速、予約センターに電話すると、『ファイザーは3月以降になります。モデルナは2月以降の接種が可能です』との返事。 我が夫婦は1回目・2回目はファイザーであった、モデルナを打つと交互接種となり、チョイト怖かった。 『急がば回るな、すぐに行け!』で、『何でもいいから打ってくれ!』と、今日の接種予約となった。 会場は我が家(台東区浅草橋)から、ゆっくり歩いても15分程の区民館(台東区台東)、接種会場には医師・看護師も含め、年寄りばかりで色気なし、14時の予約で40分程の時間で接種完了。、、、、このブログを書いている、只今時刻は22時、いまだ夫婦ともに副反応は出ていない。 いろいろ心配してみたが、終わってしまえば、ハイそれまでよ~~。 




● 接種会場となった「台東一丁目区民館」は、蔵前橋通りと凸版印刷本店の間に位置する複合施設。 低層階が台東地区センター、図書館、老人ホームなどで上層階はUR賃貸住宅のアクシス台東(106戸)になっている。、、、、この地は、平成2年(1990)に廃校となった二長町小学校の跡地である。 植え込みには、二長町小学校の校歌の碑がある。、、、、「二長(二丁)町」の由来は、この地が江戸時代より「二丁町」と呼ばれていたが、明治5年(1872)に、対馬の宗家厳原藩と伊勢国の久居に陣屋を構えた久居藩の邸地そして周辺の武家地を合併して「下谷二長町」とした。 「にちょう」とは、この地を東西に横切る小路に付けられたとされているが、その謂れは明らかではない。、、、、二長町の名は、昭和39年(1964)に消滅し、現在は台東区台東となっている。

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・・・・・・・・・・・・区が設置した案内板には旧町名:二長町の町域が緑で示されている。

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● 区民館の南側には、凸版印刷本社がある。 この地には江戸時代の芝居小屋「市村座」があった。、、、、凸版印刷の向いがわには、東京帝国大学附属病院の跡地で、明治39年(1906)に三井家総代三井八郎右衞門により設立した「三井慈善病院」(現:三井記念病院)がある。 私の腹を切り開いてくれた病院。

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● 三井記念病院の東側(千代田区神田和泉町2)には、終戦時まで「国立衛生試験所」があった。、、、、現在はスパーの「
LIFE」が建っている、、、、歩道に設置された案内板には、『国立衛生試験所発祥の地  国立衛生試験所(現、国立医薬品食品衛生研究所)は、わが国最初の国営の医薬品試験研究機関、東京司薬場として、1874年(明治7年)3月、現在の中央区日本橋馬喰町に発足し、1875年(明治8年)に現在の千代田区神田和泉町2番地で本格的業務を開始しました。 1945年(昭和20年)3月の東京大空襲に罹災し、世田谷区上用賀に移転したのち、2017年(平成29年)10月に川崎市に移転しています。』と記されている。、、、、写真では立派な建物だ、残念ながら、戦後生まれの私には記憶に無い建物である。

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・・・・・・・・・・・・三井記念病院の西側には、大正11年(1922、関東大震災の前年)に建てられた鉄筋コンクリート造2階建てを、煉瓦造り風に改修した「東京都下水道局和泉町ポンプ所」がある。、、、、建物は古いが、重要なインフラ施設。

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● 今日の東京の感染者は20,679人、身の回りに感染者がいても、おかしくない状態になってきた。 まだしばらく自粛は続きそうだ!

2022年1月24日 (月)

明治末期の架道橋

正月松の内も過ぎた頃から、オミクロン株の感染者が連日過去最高を記録し、高齢の私は家に籠って自粛を続けている。 しかし、今日は2カ月毎の循環器内科の受診日。 久しぶりに電車に乗って、水道橋のクリニックへ行ってきた。 “散歩”と言うほどの距離は歩いていないが、チョッピリ気晴らしができた!




● 誰もがみんな知っている東京ドームシティの最寄り駅、場外馬券売り場もある。 その名は「水道橋」。 駅名の由来は神田上水の掛桶(かけひ、水道の通る橋)が近くにあったことによる。、、、、明治39年(1906)9月24日、甲武鉄道の駅として開業したが、一週間後の10月1日には国有化により国有鉄道の駅となる。

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・・・・・・・・・・・・新宿方のホームにはホームドア取付け工事がすすめられている。 御茶ノ水方ホームはまだ工事が始まっていない。、、、、駅は度々改修されているが、ホーム上に古いレールを利用した架線柱などがあり昭和の雰囲気が残っている。

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・・・・・・・・・・・・改札口にズラリ並ぶ自動改札機。 野球・コンサートが始まる前は自動改札を出るとダフ屋がウロウロ! 終われば、改札前は帰宅する人であふれる。

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● 私が通うクリニックへ行く手前にJR中央・総武緩行線が走る「小石川橋架道橋」がある。 今日は、チョイト写真を撮ってきたのでご紹介する。
・・・・・・・・・・・・まず「小石川橋」とは、水道橋と飯田橋の間で、神田川に架かる橋。 ここには、かつて江戸城外濠の「小石川門」があった。 明治時代には門は撤去され、木橋が架かっていたが、関東大震災後(昭和2年)に鋼橋に架け替えられた。 平成24年(2012)には老朽化の為、現橋に改修された。、、、、この橋の正面に小石川橋架道橋がある。

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・・・・・・・・・・・・小石川橋架道橋は、神田川から分岐する日本橋川に架かる。 写真:右奥のトラス橋が小石川橋架道橋で手前の青い橋は道路橋の「三崎橋」 左端の奥にはグレーのシートに覆われた水道橋(工事中)がチラッと見える。 神田川に架かる小石川橋から撮影。

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現:三崎橋は、昭和29年(1954)に架け替えられ、その後昭和62年(1987)に橋の両側に歩道橋が新設された。

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・・・・・・・・・・・・三崎橋の隣りに架かるトラス橋が「小石川橋架道橋(ガード)」である。、、、、この橋が架けられたのは、甲武鉄道の時代(明治時代)で、日本で鉄道の建設はもっぱら諸外国に頼っており、お雇い外国人が活躍した時代である。 当時、鉄道建設は、北海道ではアメリカ、本州ではイギリス、九州ではドイツを手本として進められた。 橋梁は輸入品を使用した。 その輸入先の一つに、ドイツの橋梁メーカーであるハーコート社があった。 小石川橋架道橋を挟む両側架道橋部分のガーター橋に明治37年(1904)のドイツハーコート社製を示すプレートがついているので、中央のトラス橋部分も同時期のものと思われる。

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2021年10月30日 (土)

お役所巡り

一昨日の続きで、『皇居から歩いてみよう!』と家を出た。


● 東京駅へは、普段はJRを利用して行くのだが、今日は浅草橋駅前から、都バス「東京駅八重洲口行き」のバスで行く。

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・・・・・・・・・・・・バスは八重洲口の大屋根「グランルーフ下のバスターミナルに停まる、チョイト、ペデストリアンデッキの上から駅前を眺めてみる。 駅前再開発が進められており、私の知るビルはなくなり、超高層ビルを建築中!

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・・・・・・・・・・・・北口自由通路を歩き、八重洲口から丸の内口へ向かう。 時刻は7時半、人影も増えてきた!

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・・・・・・・・・・・・東京駅丸の内駅舎の正面から、
皇居前の和田倉門までまっすぐに伸びる全長約200m、幅約74mの大通りが「行幸通り」である。 行幸通りは、明治22年(1889)の中央停車場(現:東京駅)の位置決定に始まり、明治36年(1903)の市区改正の新設計により行幸通りの整備が決定され、これにより明治43年(1910)に行幸通りが整備された。、、、、整然とした綺麗な通りだ! 地下にはギャラリーがある。

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● 今日の散歩の出発地点:皇居前広場に到着。

・・・・・・・・・・・・皇居前広場から桜田門、日比谷公園方向を望む、、、、二重橋は右手奥

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・・・・・・・・・・・・ハ~イ、二重橋にやってきました、、、、手前の「正門石橋」と、奥に「正門鉄橋」(写真では石橋に隠れ見えない)、二つ合わせて「二重橋」、、、、二重橋の写真を見てると、古い田舎の家を思い出すね。 日露戦争に出征したお爺さんとお婆さんの写真の横に、明治天皇、昭和天皇の写真が並び、さらに隣に二重橋の写真もあった! どこの家も同じように飾ってた。

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・・・・・・・・・・・・皇居前広場を警備する懐かしい交番がある!、、、、「警視庁丸の内警察署 祝田町見張所」が正しい名前とおもわれる。 設計者不明。 交番の竣工は、正門石橋が明治21年(1888)ではないかという資料もあるから、それと同時期か後と考えられる。

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● 二重橋を見たら桜田門も、、、、皇居前の警視庁庁舎から来ると、まず簡素な「桜田門高麗門」がある、その奥に重厚な「桜田門櫓門」と続く。 二つの門は鍵の手に配され、二重の門となっている。


・・・・・・・・・・・・安政7年(1860)に、水戸藩浪士による大老井伊直弼の暗殺事件(桜田門外の変)が起きたのは、この桜田門高麗門の外側(警視庁側)である。

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・・・・・・・・・・・・高麗門から入ると右側に桜田門櫓門がある。

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・・・・・・・・・・・・この桜田門櫓門にも、私が探し訪ねる几号水準点がある。、、、、桜田櫓門を入り、左側の門の内側の石垣
にある。(写真赤〇の位置)

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● 桜田門、警視庁前から南の虎ノ門方面に伸びる道路が国道1号だ。 1号線の両側には官庁が並んでいる。 建物を見ながら虎ノ門へ向かう。

・・・・・・・・・・・・「警視庁本部庁舎」の建物を見ると、旧庁舎の空撮を背景にン~ン~ってハミングのテーマソングが流れる、TBSドラマ『七人の刑事』を思い出す。 建物は変わったが角地の尖がった形状は昔と同じ。 堀雄二の係長と、芦田伸介、美川洋一郎、佐藤英夫、城所英夫、菅原謙二、天田俊明の6人の刑事。 渋い役者ばかりのドラマで、忘れられない!、、、、現庁舎は昭和55年(1980)に竣工した。

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・・・・・・・・・・・・警視庁と向かい合わせに建っているは、重要文化財の「法務省旧本館 赤れんが棟」(=旧司法省)、、、、明治19年(1886)、明治政府はドイツの有名な建築家エンデとベックマンを日本に招き、近代国家への体制作りの一環として、ヨーロッパに劣らない官庁街を目指し、この二人の「お雇い外国人」に設計を依頼した。 そして、誕生したのが司法省と大審院(後の最高裁判所)である。、、、、司法省の着工は明治21年(1888)、その後7年をかけて竣工した堂々としたドイツのネオ・バロック様式の旧司法省である。 当時のドイツ国内においても同様式ではこれほど立派な建造物はなかったそうだ。、、、、そして、平成3年(1988)から明治の姿に復元・保存する本格的な工事が始められ、平成6年に竣工。

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・・・・・・・・・・・・国会議事堂から近く、すぐ見えるのが「外務省」で、建物は結構古い。 “口”字型に配された、北庁舎は昭和35年(1960)、中央・南庁舎は昭和45年(1970)、新庁舎は平成7年(1995)に竣工。 

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・・・・・・・・・・・・昭和9年(1934)に着工し、昭和14年(1939)に竣工した「財務省」(旧大蔵省)。 大蔵省営繕管財局の設計によるこの建物は、入り口のアーチを除けば、見事なほど簡素。 しかし、周囲の中央省庁の建物が次々と建て替えられる中、戦前から残る建物として今や貴重な存在となった。

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・・・・・・・・・・・・虎ノ門角に残る「文部科学省・文化庁」(旧文部省)、、、、建物は、昭和7年(1932)竣工の鉄骨鉄筋コンクリート造6階建、スクラッチタイル貼の戦前からの建物で、大蔵省営繕管財部の設計による。 しかし、現存するのは前面部分のみで、実質的には旧建物の背後に建つ高層ビルに内にオフィスがある。

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・・・・・・・・・・・・おまけでもう一軒、昭和40年(1965)に竣工した日本最初の超高層ビル「霞が関ビル」、、、、設計者:三井不動産、山下設計、施工:鹿島・三井建設共同企業体、地上36階(高さ147m)の超高層ビルで、当時は見学者も殺到するビルであった。 最上部には展望室もあった。、、、、いまは、話題になることも少なく、ひっそりと!

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● 虎ノ門交差点を過ぎ、愛宕山の西側崖下に浄土宗寺院の「久遠山栄閑院」がある。 栄閑院は、久蓮社俊誉園應和尚(寛永2年寂)が、天徳寺の塔頭として創建された。 寛永の頃に猿回しに扮した泥棒が、住職に改心させられた。 泥棒は猿を置いて諸国行脚に向かい、猿は寺の人気者になったことから「猿寺」と称されたそうだ。、、、、本堂脇には、蘭学者杉田玄白の墓がある。

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・・・・・・・・・・・・栄閑院の右隣に、浄土宗寺院の「知祖山興紹院」がある。 境内の閻魔堂には、天保9年(1838)刊行の『東都歳時記』に記載されている石造閻魔像が安置されている。 この閻魔は、眼病に霊験あらたかとして信仰され、祈願者の願いが成就した時には、そのお礼として「こんにゃく」を供えるならわしとなっていた。 現在その風習は失われているが、当時の民間信仰を知る貴重な像である。像高はおよそ1m、風化が進んでいるが、筍を持ち上方に開いた方形の冠をつけ、口を開いた忿怒の相であることは、僅かに窺い知ることができる。

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愛宕山のトンネルを抜け、芝公園から大門駅に出て都営浅草線で帰宅。、、、、1万3千歩の散歩