荒川区

2023年9月25日 (月)

南千住

今日の散歩は、北の隅田川、南の都電荒川線に挟まれ、国道4号(=日光街道)の西側に広がる荒川区南千住1丁目と6丁目をブラブラしてきたので、気になった数件を紹介する。 1万2千歩 




● 江戸時代に“南千住”という地名はなかった。 慶長9年(1604)日本橋を起点として五街道が定められ、奥州街道の第一の宿場が千住宿であった。 千住宿の中心は本宿と呼ばれ、現在の北千住(足立区)である。 千住宿は次第に発達し、南北に伸びていった。 南に伸びた千住宿は、大川(=現:隅田川)の南(対岸)にあった当時の小塚原村・中村など村にも広がり、明治時代には“南千住町”となる。 つまり、南千住は千住の南外側に位置する町である。、、、、現:南千住駅は、JR常磐線、東京メトロ日比谷線、つくばエキスプレス線が乗り入れるターミナル。 西側の駅前には賑わいはなく、静かな駅だ!(駅の東側、汐入地区にはタワマンが建ち並び、ショッピング街もある) 

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● 南千住6丁目には、昭和37年に完成したプロ野球大毎オリオンズ(現:ロッテ)の「東京球場(=東京スタジアム)」があった。 35000人収容の東京球場は当時大毎オリオンズのオーナーで大映映画社長、永田雅一の発案により、竹中工務店の施工で、28億円の巨費を投じて建設され、その年から大毎オリオンズ(昭和39年から東京オリオンズ)のホーム球場となる。、、、、その後、球場は下町のファンに愛され続けたが、集客は伸び悩み、昭和46年(1971)、大映は球団の経営権をロッテに譲渡し本社の経営再建に乗り出すものの倒産。 関連子会社の東京スタジアムも赤字が膨らみ、経営権は翌47年に国際興業社主の小佐野賢治の手に移った。 小佐野は球場を使用するロッテに球場の買取を求めたが、ロッテとの交渉は決裂し、昭和47年球場の閉鎖となる。 開場からわずか11年目のことだった。、、、、昭和52年(1977)都が買収し、球場を撤去し、跡地は大半が荒川区の管理する荒川総合スポーツセンター・南千住警察署などに変わった。(現在、球場跡を示す遺構は何も残っていない)


・・・・・・・・・・ 東京救助跡地に建つ荒川総合スポーツセンター南千住警察署
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・・・・・・・・・・ 東京球場の建設は戦後の話、では建設前の東京球場の敷地は?、、、、ここ荒川区南千住には、明治12年(1879)に操業を開始した官営の千住製絨所(明治新政府によって設立され、被服生地を製造 )があった。 同工場は戦後は民間に払い下げられ、大和毛織が所有する生地工場となったが、昭和25年代(1950年代)に入ると業績が悪化。 工業用水として使用していた井戸の枯渇や様々な規制、労使間争議の慢性化などによって経営難に陥り、昭和35年(1960)に閉鎖された。 閉鎖された大和毛織の跡地は、当時の大映の永田雅一が約10億円で取得し、東京球場が建設されることとなった。、、、、東京球場跡の北側にある、スーパーマーケットのLIFE、都立荒川工科高等学校なども千住製絨所の跡地である。


・・・・・・・・・・ LIFEの脇に残る製絨所の煉瓦壁の一部。 都立荒川工科高等学校のグランド脇にも煉瓦塀の一部が残っているが、今日は煉瓦塀が仮囲いで覆われて、何やら改修工事してるようだ。、、、、貴重な文化財であり、産業遺産、風景遺産でもある煉瓦塀、大切に保存してもらいたい。

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南千住6丁目にある、私好みのチョイト古そうで興味をそそる建物

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● 南千住6丁目の南隣は1丁目。 南千住1丁目には都電荒川線始点・終点である三ノ輪橋停留場(みのわばしていりゅうじょう)がある。、、、、明治44年(1911)4月16日、東京鉄道の停留場として開業。当時は終点。 大正2年(1913)には、王子電気軌道の停留場が開業、東京市電との接続地点となる。 昭和17年(1942)に王子電気軌道が東京市に買収され、東京市電三河島線(現・荒川線)となる。、、、、お年寄りが多く利用する、昭和の下町の停留場。 バラが咲くころはカメラマンも多くなるね!

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● 三ノ輪橋停留場の脇には、長さ約400mの下町商店街「ジョイフル三の輪」があります。 都電荒川線の前身である王子電気軌道の開通が大きく影響して形成された商店街。 映画・TVドラマのロケ地としても使われている、昭和レトロな商店街。、、、、午前9時、どちらの店もまだ営業準備中で、静かな商店街!

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・・・・・・・・・・ 商店街の中程に、嘉永年間(1848~1854)創業のそば屋「砂場総本家」がある。 日本で1番古い「砂場」である。 営業時間内に来たら、ぜひぜひ食することをお薦め!

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・・・・・・・・・・ 商店街から一本裏道に入ると、開運・芸術・延寿の神として中島弁財天が祀られている。 東日本大震災で配管が壊れ廃業した至近の銭湯「弁天湯」から像を譲り受けた商店街が、ほこらを作って祭ったそうだ。 高さ70cm程、大正時代創業の「弁天湯」女湯脱衣場の庭にあった弁天さまらしい。 女を視る目には相当の年季が入っている神さまかも?
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● 南千住6丁目を中心に歩き疲れ、南千住駅前からバスで帰る!

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2023年7月 5日 (水)

南千住から鶯谷へ

連日の30℃超えも今日はひと休みで、熱中症警戒レベルも下がったらしい。 早速、朝から散歩に出てきた。 我が家のある浅草橋駅前から、南千住行きの都バスに乗り、終点の南千住から散歩を始める。 荒川区東日暮里の町をとおり抜けJR鶯谷駅まで、9千歩の散歩。



● 「南千住駅」は、荒川区にあるJR常磐線・地下鉄日比谷線・つくばエクスプレス線の3線が乗り入れる駅である。 明治29年(1896)12月25日、日本鉄道の駅として開業。 以来、明治39年(1906)には、日本鉄道が国有化され官設鉄道の駅となる。 昭和36年(1961)に、帝都高速度交通営団(営団地下鉄)日比谷線の駅が開業。 平成17年(2005)首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス線の駅も開業する。、、、、駅周辺の再開発も進み、駅もキレイになり、多くのタワーマンションもたち、住みやすい町となり、通勤通学客が多い。(かつては、日雇い労務者の街“山谷”に近く、ガラの悪い駅であったが、変わった!)

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● 南千住と言えば、江戸時代から明治初期にかけ、「小塚原刑場(こづかっぱらけいじょう)」が存在していた。 江戸時代にはそれぞれ江戸の入り口に存在した大和田刑場(八王子)、鈴ヶ森刑場(大田区)とともに三大刑場といわれた。 刑場では、死体は丁寧に埋葬せず申し訳程度に土を被せるくらいだったので夏になると周囲に臭気が充満し、野犬やイタチの類が食い散らかして地獄のような有様だったらしい。 この刑場での刑死者を弔うため、寛文7年(1667)に本所回向院の住職が隣接する場所に常行堂(後に回向院となる)を創建した。 小塚原刑場の跡には、首切り地蔵のある「延命寺」、多くの刑死者を弔った「回向院がある。 、、、、今日、私は朝8時前に来たので、延命寺は開門前であった。 門の隙間から首切り地蔵をパチリ。 回向院では、吉田松陰・鼠小僧などの刑死者が弔われている史蹟エリアをパチリ。

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● 南千住5丁目の裏道を歩き、南千住駅と三河島駅の間に、明治29年(1896)開通の日本鉄道土浦線(現:常磐線の旧呼称)の煉瓦造のガードが3ヶ所残っている。 その一つ、アーチ型の「第3三の輪ガード」の前に出てきた。、、、、トンネル上部の笠石には、雁木(がんぎ)といわれる煉瓦を傾けて凹凸をつける装飾的な煉瓦積みが施されているのだが、煉瓦積みが劣化し脱落を防止するためネットで覆われている(チョイト判りにくいね) 貴重な鉄道遺産なので、キレイに改修してほしいね!

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● ガードを抜けると浄閑寺の裏だ!、、、、浄土宗寺院の「浄閑寺は栄法山清光院と号す。 明暦元年(1655)に創建、近くに吉原遊廓が誕生した明暦3年(1657)よりも2年早い。 病気などで死んだ遊女は、吉原遊廓の場合、投げ込み寺と呼ばれた浄閑寺に、文字通り投込まれたそうだ。 また、大正12年(1923)の関東大震災、昭和20年(1945)の東京大空襲で死んだ遊女の霊もまつられている。 吉原遊女約11,000人を埋葬。、、、、遊女を祀る「新吉原総霊塔」の石垣には、「生まれては苦界 死しては浄閑寺」の花又花酔の句が刻まれている。、、、、また、近くの“山谷”の労務者を弔う「ひまわり地蔵」もある。 

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● 地下鉄日比谷線の三ノ輪駅に近い浄閑寺から、荒川区東日暮里の町を南西方向に歩く。 千住の方から来た常磐線が上野駅に入る手前:日暮里駅付近で大きくカーブする処である。 東日暮里の町は、町工場の多い下町であり、朝鮮半島の人の多く住む町であり、かつては昭和レトロな建物も多く残っていたが最近は建て替えが進んでいる。

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● 東日暮里の町には、私の足を止めるようなものもなく、ただただ歩いて来た! そのまま、JR「鶯谷駅に到着。、、、、明治45年(1912)7月11日に、東北本線の駅として開業。 北口は地上駅舎のようになっているが、南口は橋上駅舎になっている。、、、、北口はラブホテル街のイメージが強いが、根岸の方から都道をまっすぐ歩いてくると、キョロキョロしない限り、そこまでラブホ・風俗の雰囲気はない。

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2022年11月 3日 (木)

天王寺

先日は天台宗の大本山:寛永寺の子院である、上野の「護国院に行き、一昨日は真言宗豊山派大本山「護国寺に行ってきた。、、、、そこで疑問は、“院”と“寺”の違いとは? 調べてみたら・・・・寺の名前には、山号、院号、寺号があり、これら全てを持つ場合、このうちのいくつかを持つ場合など、寺によって様々である。 もともと“寺”とは客を宿泊させる場所を意味し、転じて僧侶が居住する建物を指すようになった。 一方、院は寺の一部の建物を指すことが多く、特に寺の中にあって人が居住することもできる施設のことでもあった。 さらに、院号は平等院鳳凰堂で有名な平等院などのように、貴人の建立した寺院の称号としてつけられる場合もあった。 山号は、昔、寺院を山中に建てることが多かったことから、寺のある山の名を別称としてつけたそうだ。、、、、山号+院号+寺号の例:浅草の浅草寺は金龍山伝法院浅草寺、山号+ 寺号の例:比叡山延暦寺、また法隆寺・興福寺・東大寺など奈良時代以前に建立された寺に山号はない。 要するに、山号、院号、寺号の適当な組み合わせで寺院名を表しているのだ!

ココまで調べたら、“護国”つながりで「護国山」と名乗る寺院があるか、チョイト調べてみたくなり、さらに調査。 結果は、ナント身近にあった。 しかも、以前に何回か訪れたことがある寺院だ! 私が住む“東京都台東区”、同じ区内で台東区谷中の天台宗寺院「護国山天王寺」・・・・と、言うことで、今日の散歩はJR日暮里駅に近い天王寺に行き、護国院経由で上野駅まで、7千歩の散歩。


● 日暮里駅で祝日の空いた電車から降りる。 今日は谷中の天王寺へ行くので、行先選定に悩むことなく「
日暮里駅南口」へ向かう。 南口は緑のトンガリ屋根の橋上駅舎が可愛らしい。 駅前の人道跨線橋は、西側(崖上)の紅葉坂と東側(崖下)の日暮里駅東口を繋ぐ利用度の高い歩道橋で、昭和3年頃に架設され、昭和45年(1970)に現在の幅に拡張された。

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・・・・・・・・・・ もみじばしに続く「紅葉坂」 坂の上は天王寺。 坂の名は、この辺りの紅葉の美しさから名付けられたそうだ、現在は坂の傍に樹木はないが、情緒ある景色だ。

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● 現在の台東区谷中7丁目は、江戸時代その大部分が天王寺の寺域であった。 谷中7丁目は、現:天王寺はもとより、都立谷中霊園の全域を含む広い町である。 言い換えると、現在の谷中霊園は天王寺のものであった。、、、、天王寺の歴史は、鎌倉時代後期、日蓮上人に帰依した土豪関長燿の草創にはじまる。 当時は「長耀山感応寺」と称した。 早くから日蓮宗不受不施派に属し、江戸幕府から弾圧された。 元禄11年(1698)には強制的に改宗させられ、以後天台宗寺院として、比叡山より毘沙門天像を迎え本尊とした。 元禄13年(1700)から江戸幕府公認の富くじが興行され、目黒不動、湯島天神と共に「江戸の三富」として賑わっていたが、天保13年(1842)には禁止される。 また、天保4年(1833)には、名称を「護国山天王寺」に改める。 明治元年(1868)彰義隊の兵火により本坊、五重塔以外は焼失となり、明治7年(1874)境内地の一部を東京府に移管され、これが現在の「都立谷中霊園」(園内には、寛永寺、天王寺の墓所が入り組んでる)となっている。

 

・・・・・・・・・・ 紅葉坂を上がると天王寺がある。 天王寺は、度々の火災で建物を焼失し、現在の本堂は昭和57年(1982)の再建である。、、、、山門は木造の古いものと、平成10年(1998)に新築のモダンな新山門がある。、、、、境内の樹々は秋の色に染まってきた!、、、、鉄筋コンクリート造の本堂だが、威圧感もなく、静かに迎えてくれる、、、、木造の毘沙門堂

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・・・・・・・・・・ 境内の
銅造釈迦如来坐像」は、像背面銘文によって、元禄3年(1690)に神田鍋町に住む太田久右衛門が鋳造したもの。 日蓮宗時代の鋳造である。 青銅を材料とし、割型の製法で鋳造されたもの。 大きさは像高2.96m。 この像ははじめ旧本堂の脇に建てられ、明治7年(1874)の谷中墓地開設のため、墓地西隅に残されていた。 さらに、昭和8年(1933)現在地に基壇を新築し、修理を加えて移され、基壇には納骨堂が設置されてる。

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・・・・・・・・・・ 天王寺山門の脇にある地蔵尊。 江戸時代には富みくじをしていたから、地蔵も一儲けできたかな?

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・・・・・・・・・ 山門前の「さくら通り」は、かつて天王寺詣りの参道であった、今は桜の名所として谷中霊園のメインストリート。、、、、この道を、道なりに800m程南に歩くと上野公園の東京藝術大学に至る。 東京藝術大学の隣りに「東叡山寛永寺 護国
」がある。 “護国山”と“護国院”を結ぶ道だ!

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・・・・・・・・・・ 天王寺山門とさくら通りを挟み向かいに天王寺墓地がある。 東西を都立谷中霊園に挟まれているが、一般人にはそれぞれの霊園の境界が判らない。、、、、今日は、天王寺霊園の敷地内にあると思われる、植物学者:牧野富太郎、彫刻家:朝倉文夫、浅草「神谷バー」の創設者でハチブドー酒を出荷した:神谷伝兵衛の墓 を紹介。 いずれも、立派な墓だ!

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・・・・・・・・・・ 天王寺墓地の区域に、ひときわ目立つ仏塔がある。 それは「東京大学医学部納骨堂」。 東京大学医学部で、解剖に供した遺体を弔う施設。

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・・・・・・・・・・ 谷中霊園内に残る天王寺の銅造釈迦如来坐像台座跡」 天王寺の銅造釈迦如来坐像は、はじめ旧本堂の左手に建てられ五重塔と向かい合っていた。 明治7年(1874)の谷中墓地開設のため、墓地西隅に残されていたところ、昭和8年(1933)現在地に基壇を新築、修理を加えて移された。、、、、移される前の台座跡は、虚しい状態で公営の墓地の中に残っている。

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・・・・・・・・・・ こちらは、谷中霊園内に残る「天王寺五重塔跡」、、、、谷中霊園の中央付近には、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルになった「
天王寺五重塔の跡」がある。 天王寺の最初の五重塔は、寛永21年(1644)に建立されたが、130年ほど後の明和9年(1772)目黒行人坂ぎょうにんさかの大火で焼失した。 罹災から19年後の寛政3年(1791)に再建された五重塔は、震災・戦災をくぐり抜け、長く谷中のランドマークになっていたが、昭和32年(1957)7月6日、残念ながら放火により焼失し、現在はその基礎部分のみが残されている。

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● 天王寺から、さくら通りを南に向かい、東京藝術大学の方へ歩く。、、、、「旧吉田屋酒店」(明治43年築)前を通り、藝大前の和菓子屋「桃林堂」に出る。

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・・・・・・・・・・ 桃林堂から、チョイト西へ100m「護国院」に来た! 護国山から護国院へ、ゴコクロ~サン、お疲れさん!

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2022年10月19日 (水)

上中里~町屋

京浜東北線の上中里駅で下車し、目的地なく気ままに歩き、東尾久の町を抜けて京成本線の町屋駅まで、1万歩の散歩です。



● 上野の方から来ると、田端駅で山手線と京浜東北線は別れ、京浜東北線の次のが「上中里駅」である。 地理的には都心の駅とは言い辛いが、準都心駅である。 しかし、上中里駅の一日平均乗降客数は、東京23区のJR駅としては越中島駅(4,404人/2021年実績)の最下位と競って、ワースト2位(6,157人)である。 今日も、一電車から降りるのは最寄りの女子高生と数人の通勤客、乗るのも10数人ほど、と寂しい。、、、、島式ホーム1面2線の地上駅で、橋上駅舎を有している。、、、、我が家の最寄り駅:浅草橋駅には、エスカレータが設置されてないが、ここ上中里駅にはエスカレータがある。 負けた!

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● 上中里駅は台地の斜面部に造られており、線路・ホームは台地の下、駅舎は台地の上にある。 上中里駅から直線距離で300m程歩き、滝野川女子学園の前から、東北新幹線の高架と京浜東北線の線路の間を抜ける跨線橋「車坂跨線橋」がある。 この跨線橋を渡り、台地を下りると、京浜東北線および東北新幹線と尾久駅を通る上野東京ライン(宇都宮線)に挟まれた上中里2丁目の町がある。 また、ここにはJR東日本尾久車両センター、田端操車場、新幹線車両センターなどがある。 まずは、尾久車両センターと田端操車場の間を歩くことにした。

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・・・・・・・・・・・・車両センターと田端操車場の間(北区上中里2-2付近)に「中里貝塚」がある(現在は埋め戻され、公園として利用されている)。、、、、縄文時代中期から後期(約4600~3900年前)の貝塚で、最大で厚さ4.5m以上の貝層が広がる、縄文時代の海浜低地に形成された巨大な貝塚である。、、、、大正15年(1926)、この地に操車場ができた時は「貝塚操車場」と称したそうだ。

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・・・・・・・・・・・・尾久車両センターと田端操車場を結ぶ「東北回送線 王子街道南亘り踏切

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・・・・・・・・・・・・踏切から50m南に「西新井弘法大師道」の道標がある。 道標に沿って大師道を東に向かうと「第三下田端踏切」を越えて、田端新町3丁目交差点(明治通り)に出た。

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● 荒川区西尾久1丁目に、江戸時代からの尾久の旧家に残る煉瓦造りの蔵がある。 この小柄な蔵は、明治中頃に建てられたそうだ。 震災・戦災を免れ、今日まで残った貴重な建物。、、、、荒川区尾久の隅田川沿いには、明治時代から多くの煉瓦工場があり、煉瓦は舟で東京市内に運ばれ近代化に貢献した。

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● 西尾久一丁目交差点から「尾久本町通り」を歩き「町屋二丁目停留場」の前に出る。、、、、所々に昭和の建物が残る、チョイト寂れた商店街を歩く

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● 「町屋二丁目停留場」から「町屋駅前停留場」までは都電通りを歩く。、、、、都電を見ながらのんびり歩く!

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● 京成本線「町屋駅」から帰宅する、、、、昭和6年(1931)12月19日、京成電気軌道(現・京成電鉄)の町屋駅が開業。 島式ホーム1面2線の高架駅。

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2021年3月10日 (水)

遺跡の町や!

もうしばらくコロナで自粛。 でも、チョイトだけなら外出してもいいだろう(?) 気持ちは緩みっぱなし!、、、、今日も乗降客数の少なそうな駅から歩くことにした。 頭に浮かんだ駅名は京成本線の「新三河島」、ここから歩いて尾竹橋まで、1万歩の散歩です。




● JR日暮里駅で京成本線に取り換えて、一つ隣りの「新三河島駅」へ行く。、、、、新三河島駅で、下車したのは数名、乗車したのは十名ぐらい。 2019年度の1日平均乗降人員は6,031人で、京成線内69駅中、堂々の第48位である。 駅が開いている朝6時から、夜12時までの18時間で換算すると、1時間に平均335人が乗降する。 乗る人・降りる人が半々とすると168人が降りて、168人が乗ることになる。 上り・下りとも10分間隔で運転されていると仮定すると、1時間に20本の列車が運転されており、1本当たりの乗車員数は、168人÷20=8.9人 一列車が到着すると、約9人が降りて、約9人が乗る駅である。 都心の駅としてはチョイト寂しい駅だ!、、、、新三河島駅は昭和6年(1931)12月19日に隣の日暮里駅と共に開業した。 この時、既に国鉄の三河島駅が存在していたので、“新”を冠し「新三河島」と名付けられた。 また、「三河島」という地名の由来は3説あり。 中川、古利根川、荒川の3河川に囲まれた島状の地であるという説。 徳川家康とともに三河国から来た伊藤一族が住みついた地という説。 木戸三河守孝範の屋敷があった地という説。(お好きな説をどうぞ!)、、、、駅は島式ホーム1面2線の高架駅。 ホームの一部は明治通りの上まで伸びている。 出入口と改札口は明治通りに面し、高架下の一ヵ所のみ。 駅前には一軒のパチンコ屋しかなく寂しそうだ。

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● 新三河島駅から明治通りを西へ100m程行くと、「尾久の原 防災通り」がある。 またの名を「消防道路」、さらに「疎開道路」と云う。、、、、疎開道路(そかいどうろ)は、第二次世界大戦中に空襲による延焼防止を目的に建物を疎開させ敷設・拡幅された道路をいう。 東尾久と町屋・荒川を分ける約1360mの「尾久の原防災通り」は、疎開道路であったものを、戦後、消防のために整備され「消防道路」と称した。、、、、♪♪ 戦時中は 疎開道路と呼ばれたの 戦後は消防道路と名乗ったの 防災通りが整備されたその日から あなたがさがして くれるのを待つわ 昔の名前で出ています ♪♪

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● 防災通り東側の裏道(荒川5丁目・6丁目)を行く、、、、曲がりくねった道、消防車・救急車も入りづらい道、「雅万歩」はこういう道が大好きだ!、、、、「町屋二丁目」停留場前に出た!

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● 都電の停留場から50m程西へ、赤い派手な山門と鉄筋コンクリート造のモダンな本堂の浄土宗寺院「満光寺」(読みは小声で“Mankoji” )がある。 その創建は南北朝末か室町時代と伝えられている。 浄土宗寺院としての開山は、智天上人。 開祖は上野二葉村(現:台東区)名主二葉和泉守。 上野不忍池付近にあったものが、寛永寺の造営でこの地に移転してきたと言われている。 境内には、永和元(1378)年銘を始めとする板碑や庚申塔、二葉地蔵、二羽稲荷、二葉閻魔大王等が祀られている。 二葉閻魔大王は木造の閻魔坐像で、頭部の内側に「元禄十六年七月」の銘があるそうだ。 酒の飲み過ぎ(?)顔真っ赤!

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● 都電荒川線の北側、町屋4丁目に「町屋実揚(みあがり)町会」がある。 この町会の建物の前に「町屋四丁目実揚遺跡」の案内板があり、そこに『本遺跡名は現在の住居表示と旧小字名「実揚」を合わせて命名されたものである。700mほど北には隅田川が流れ、荒川低地の中の微高地上に位置する。 この辺りには、中世の板碑を所有している旧家が点在し、中近世から集落が形成されていたと考えられていた。 近年の発掘調査の成果により、この付近で弥生時代末から古墳時代前半を中心とした周溝・溝・井戸などの跡、土師器・須恵器などの遺物が見つかり、古くから人びとの暮らしが営まれてきたことが明らかになってきた。(以下略)』と記されている。、、、、つまり、この付近には地下に埋蔵文化財があるのだ! 土木・建築工事着手前には届出が義務付けられており、必要に応じ発掘調査が行われる町である。 大判・小判でも出てくればいいのだが、土器や鹿の骨や貝などではチョイトつまらないかも!

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● 新三河島駅から歩き、北東の隅田川に架かる「尾竹橋」に着いた。、、、、今日の散歩はココまで、都バスで帰ることにした。

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2020年12月20日 (日)

客の少ない足立小台

近頃は連日、最悪の感染者数を記録している“コロナ”、高齢者に属する私も外出自粛を心がけている。 でも、内緒で、少しぐらい、密を避けて、の散歩なら許されるだろう! 今日は、日曜なので通勤通学客も少ないので、日暮里舎人ライナーの足立小台駅で下車し、尾竹橋経由で京成本線の町屋駅まで歩いてきた。 1万歩。




● 日暮里舎人ライナーの「足立小台駅(あだちおだいえき)」と聞いて、駅を思い出せる人は少ないと思う。 それもそのはず、足立小台駅は、北の荒川と南の隅田川に挟まれた狭い中洲状の土地に位置しており、駅から1km圏内には、戸建て住宅はほとんどなく、隅田川岸にマンションが数棟ある程度。 観光名所は飛んでも“無い” 駅の並びに、家電量販店の「ケーズデンキ」とホームセンター「島忠ホームズ」がある。 駅から西へ1km程歩くと、「小台」、「宮城」の住宅地となる。

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・・・・・・・・・・・・昨年春に公開された、東京都の駅別乗降客数(2018年 平成30年度)のデータによると、足立小台駅の一日当たりの乗降客数は3,938人。 JR、私鉄、三セク、都電、ケーブルカーなど都内の全749の駅・停留所を対象にした中で、下から数えて“堂々の54位”である。 54の中には、都電の停留場が27、ケーブルカーの駅が4含まれている。 実質的にはワースト20にランク入りできそうだ! ちなみに、下から60位前後には、小田急線の南新宿、多摩都市モノレールの万願寺、東武亀戸線の亀戸水神、東武伊勢崎線の堀切、東京モノレールの新整備場などの駅がランクインしている。

・・・・・・・・・・・・足立小台駅は平成20年(2008)3月30日に、日暮里舎人ライナーの開通と同時に開業した。 ホームは島式1面2線構造で3階にある。 出口は1ヶ所のみで、尾久橋(隅田川)と扇大橋(荒川)の間に出る。 駅前にはロータリーがあるが、このロータリーは堤防の最上部を走る道路面の高さである。 実はこの下に、旧来の道路面がある。

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・・・・・・・・・・・・駅前のロータリーから下の道路に下る階段、、、、川沿いの工場、事務所などは全て、この下の道路に面している。

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・・・・・・・・・・・・隅田川を渡る日暮里舎人ライナー、、、、後ろの尾久橋には都道が通っている

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・・・・・・・・・・・・荒川を渡る日暮里舎人ライナー、、、、並行するのは扇大橋

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・・・・・・・・・・・・足立小台駅から堤防上を東に向かい歩く、チョイト寒いね。、、、、写真:右側のマンションの後ろには隅田川が流れている。 左側は荒川。、、、、足立小台駅を利用するのは右側の住人と、工場などに勤める人ぐらい!

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・・・・・・・・・・・・マンション前を通り過ぎ、工場、倉庫がある辺り、堤防上から眺めると、、、、最上段の堤防上の道路に私がいる、その下にバス通りがある、さらに下にマンション・倉庫・工場が並び面する道路がある。、、、、三段腹の道路!

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・・・・・・・・・・・・二段目のバス道路から眺めると、上にも、下にも道路がある。(あたり前田のクラッカー!) 

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● 足立小台駅から堤防上を1km程歩き、下の道路を歩くと、UR都市機構の「リバーサイド桜木団地」がある。 昭和56年(1981)に完成した団地。、、、、隅田川と荒川に挟まれた団地は、気のせいか、寒い! ホットコーヒーを買うコンビニがない! 何やら、落ち着かない! このままだとズボンを濡らし、大変なことになる! 恥ずかしさをこらえ、通りがかりの主婦に聞いた『この辺にトイレありませんか?』 親切に公園を教えてくれた、これにて一件落着!!
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・・・・・・・・・・・・この先は、尾竹橋を渡り町屋駅まで歩く。、、、、尾竹橋を渡ると荒川区

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2020年12月14日 (月)

汐入公園

ガラガラ・空き好き電車に乗って、東武伊勢崎線の牛田駅で下車。 牛田駅から千住汐入大橋を渡り足立区から荒川区に入り、隅田川の右岸を歩いて石浜神社まで、9千歩の散歩です。




● 昭和7年(1932)9月1日に開業した、東武伊勢崎線の「牛田駅  牛田駅は足立区の南端部にある駅で、浅草~北千住間の全ての駅に停車する列車(つまり各駅停車)のみが停車する駅。 牛田駅前に京成本線の京成関屋駅があり、多数の乗換客が利用する。、、、、牛田駅と聞いて、イメージが浮かぶ人は、おそらく戦後生まれの牛田育ちか、乗換で当駅を利用する人であろう。 一日当たりの乗降客数は約22,000人、その内の半数ぐらいは乗換客と思われるので、実質の乗降客はかなり少なそうだ。、、、、北千住駅の隣り駅である「牛田」は、むかし牛田圦(うしだいり)と呼ばれた農業用水路が近くにあり、そこから駅名を頂戴したらしい。

・・・・・・・・・・・・空いている南栗橋行き区間準急(北千住まで各駅に停車)から降り、改札を出ると・・・・・

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・・・・・・・・・・・・京成関屋駅から、ゾロ・ゾロ・快傑ゾロと乗換客が牛田駅に向かってくる。

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・・・・・・・・・・・・『チョイト失礼します!』と京成関屋駅構内を通り抜けると、そこは都道461号(墨堤通り)である。

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● 墨堤通りを南へ250m程歩くと千住曙町交差点がある。 そこを、西へ曲がれば隅田川に架かる「千住汐入大橋」、、、、千住汐入大橋は隅田川に架かる橋の中でも新しく、平成18年(2006)2月19日に開通した。 その名のごとく、足立区千住地区と荒川区汐入地区を結ぶ、橋長158.6mの2径間連続鋼床鈑箱桁橋。 都道314号を通す。、、、、隅田川が大きく蛇行する処に架かり、対岸には汐入公園がある、景色はGood!


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● 隅田川を越えると元の荒川区南千住汐入(隅田川が弓のように大きく東側に張り出した処で、鉄道の貨物基地、工場などがあった)である。 現在は再開発により、工場は無くなり、貨物基地は縮小しJR貨物の隅田川駅となり、川沿いには都立汐入公園、その奥にはタワーマンションを含む高層住宅が建ち並んでいる。

・・・・・・・・・・・・面積13hrの汐入公園は冬支度。 芝の緑も落ち葉で黄彩に変る!

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・・・・・・・・・・・・公園内を縦断する都道314号は、胡録トンネル瑞光トンネルの2ヶ所で芝生の下を抜けて行く!、、、、荒川区にトンネルがあることを知らない人が多いかも?

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・・・・・・・・・・・・公園の中程にある水神大橋の北側に、「隅田川旧防潮堤」の一部がモニュメントとして残されている。、、、、隅田川の下流部一帯は海抜ゼロメートル以下の地域が広がっている、このため都では、高潮や洪水の対策として昭和32年(1957)から隅田川のコンクリート防潮堤建設に着手し、昭和50年(1975)に概成した。 その結果、高潮や洪水に対する危険は大幅に減少したが、カミソリ堤防によって隅田川と町は分断され、親しみある隅田川から都民を遠ざけることとなった。 そこで、高潮や洪水に対し、より安全性が高く、都民が河川と親しめる潤いのある水辺環境に配慮したスーパー堤防へと造り替えている。、、、、モニュメントを見ていると、コンクリートの味気ないカミソリ堤防が、川岸に延々と伸びていたのと、メタンガスが発生する汚れた昭和(高度成長期)の隅田川を思い出すね。

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・・・・・・・・・・・・汐入公園の中央から対岸の墨田区東白鬚公園に架かる「水神大橋」を見ながら、土手を行く。、、、、水神大橋は平成元年(1989)に竣工した、橋長157.0mの3径間連続ニールセンローゼ桁橋。

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● 汐入公園に続き「荒川区立瑞光橋公園」がある。 瑞光橋公園は、鉄道と貨物船を結ぶための運河跡地(入江)に造られた公園です。 隅田川のスーパー堤防と入江を利用した公園で、面積は約13,000㎡、平成18年(2006)に開園した。 入江に架かる瑞光橋に因む公園名とした。

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・・・・・・・・・・・・公園内に汐入水門跡がある。 この水門跡は、隅田川貨物駅(現:JR貨物隅田川駅)と隅田川を結びつける唯一の遺構である。、、、、隅田川貨物駅は明治30年(1897)に石炭の集散地として開設された駅である。 常磐線で運ばれてくる石炭を、隅田川の水運で東京市中へ配送するため、荷の揚げ下ろしをする運河が造られた。 元来この汐入地域は土地が低く、運河の護岸は荷物の揚げ下ろしの関係上、低く造られていたため、満潮時には付近に浸水し、さらに台風などの異常な高潮時には南千住ばかりでなく、浅草方面まで被害をこうむっていた。 水門は、この水害を防ぐために昭和28年(1953)に建造されたのである。 しかし貨物の輸送が船による河川輸送から鉄道 ・トラックによるコンテナ輸送に切り替わると、運河は不用となり昭和45年頃には全て埋め立てられ、水門もその役割を終えた。 現在は水門のゲートを支えていたコンクリート製の柱が2本、門柱のように残されている。 

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● 堤防の上を歩くと、球形のガスタンクが3基見える。 このガスタンクは明治26年(1893)から、この地(荒川区南千住3)に工場を建てた東京ガスのガスタンクだ。 終戦直後は円筒形のガスタンク3基であったが、昭和60年頃から球形のガスタンクに変わった。 形は変われども3基のガスタンクは、昔も今も、この南千住のランドマークである。、、、、北千住の「おばけ煙突」とランドマークを競ったのか?

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・・・・・・・・・・・・近づくと、ガスタンクの手前に社が見える、ここが「石浜神社」である。

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・・・・・・・・・・・・「石浜神社」は、神亀元年(724)聖武天皇の命により創建したと伝えられる古社です。 祭神は天照大御神・豊受大御神。 源頼朝が藤原泰衡討伐の折に当社に祈願、大勝したことから社殿を造営されたといいます。、、、、本殿は伊東忠太設計で、昭和12年(1937)落成の木造神明造り、拝殿は昭和63年(1988)落成の木造銅板葺神明造り。 以前は川岸寄りにあったが、昭和63年に護岸工事のため移転を余儀なくされ、現在地に移された。 本殿は曳家で移されたそうだ。、、、、境内の紅葉は今が最高!

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・・・・・・・・・・・・境内からガスタンクを見ると、『アレ? 御神体はガスタンク!』

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● 石浜神社前の明治通りから南側は私の住む台東区。 区内を循環するコミュニティーバスが、タイミングよく、やって来た。 100円で浅草橋の我が家まで、空いて座れて楽々帰宅!、、、、今日も“コロナ”に感染せずに、散歩ができたようだ!

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2020年10月24日 (土)

六地蔵の四番目

江戸六地蔵の四番目は日光街道(奥州街道)沿いの東禅寺に安置されている。 今日の散歩は、東禅寺はもちろんだが、旧日光街道の一部であった現在の都道464号線を踏破してきた。 1万2千歩の散歩。

・・・・・・・・都道464号線とは、、、、台東区浅草6丁目(言問橋西交差点)を起点とし、山谷、南千住駅を通り、荒川区南千住7丁目(南千住交差点)を終点とする、2.5km程の都道である。 全線が旧日光街道(奥州街道)の一部にあたる。 なお、台東区側は「吉野通り」、荒川区側は「コツ通り」の愛称がついている。




● 浅草橋(我が家)から都バスで飛ばして、「墨田公園」バス停で下車。 バス停は言問橋西交差点にある。 言問橋方向には、早朝の輝く太陽とスカイツリーが重なり、カメラを覗く目はまぶしい!

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・・・・・・・・・・・・・・交差点から北に伸びる2本の都道。 右は隅田川沿いに汐入・堀切方面へ伸びる都道314号線、左は旧日光街道(吉野通り)の都道464号線

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● 交差点から約200m、チョイト「待乳山聖天」に寄って行く。 仏壇には、数本の大根が供えられていた。、、、、これからの季節、お下がりの大根は“おでん”にするかな?

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● 待乳山聖天付近の都道464号線。 土曜日だから? 早朝だから? 車の少ない旧日光街道。、、、、この付近は『観音さま(浅草寺)の裏』と言ってもいいのだろう、江戸時代の常設芝居小屋である、「中村座」「市村座」「森田座」の猿若三座があった処。 今は、当時を偲んで石碑が建立されている。

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● 都立浅草高等学校の付近で、都道464号線が通っていた「吉野橋」の親柱が道路両側に残されている。 下を流れていたのは山谷堀、上流は北区飛鳥山付近の音無川で、台東区に入ると吉原付近を流れ、吉野橋の先で隅田川に注いでた。 “おだいじんさま”は、“猪牙船”で隅田川・山谷堀と遡り吉原へ通ったのだ。、、、、当時、『 GO TO 吉原! 最大40%オフ』なんてあったら江戸幕府の人気は大いに上がったであろう! 

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・・・・・・・・・・・・山谷堀は埋め立てられ、現在は「山谷堀公園」として、かつての川筋に伸びている。

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● 吉野橋から500m程北へ歩くと、東浅草2丁目に浄土宗寺院の春慶院がある。 春慶院は、月光山覚道寺と号す。 霊厳寺末として寛永5年(1628)に建立した。、、、、寺と云うより、和風住宅と云う趣の建物。

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・・・・・・・・・・・・ここ春慶院に、吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は11人いたともいはれる「高尾太夫」の墓がある。11人の高尾太夫は、いずれも三浦屋四郎左衛門方の抱え遊女であった。 この墓は、世に万治高尾、あるいは仙台高尾と謳われ、幾多の伝説巷談を生んだ二代目高尾太夫の墓と云われている。、、、、この墓は、初代の高尾太夫のもの。 いやまて、三代目高尾太夫の墓だ! 諸説あるらしい。 いずれにしても、「高尾太夫の墓」である。


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● 春慶院の北西50m程に処、旧日光街道からチョイト脇に入った処に、
洞雲山東漸寺(東浅草2)がある。 東禅寺は寛永元年(1624)に創建された。 寺の正面に、江戸六地蔵の一つ銅造地蔵菩薩坐像が鎮座し、左隣には、アンパンの銀座木村屋総本店:開業者・木村安兵衛妻ブナの夫婦像がある。、、、、本堂・像などを、狭い境内に押し込めたようで、変わった配置の寺だ!

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・・・・・・・・・・・・東禅寺の六地蔵(地蔵菩薩坐像)の高さは2.71m。 品川寺に次いで第2番の宝永7年(1710)に造立された。 他の六地蔵は鍍金が施されているのに対し記録では本像は像の表面を布目条にやすりをかけ、弁柄色の漆を塗った上に金箔を置いたあとが残っていたとそうだ。 永年の風雨により、損傷が著しかったため、平成11年(1999)に修復工事を行った。 また、胎内仏として小形の銅造六地蔵地蔵菩薩坐像等が現存するそうだ。 なお東禅寺は昭和3年に、山谷堀近くの今戸町から現在地に移ってきた。、、、、この像も今戸から引っ越したためか、他の六地蔵と異なり、石の台座が無い!

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● 東禅寺から西へ向かえば吉原はスグソコ! 今日は北へ歩き都道464号線の終点を目指す。、、、、かつてのドヤ街山谷・泪橋交差点を通り南千住駅へ。

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● 南千住に入ると都道464号線は愛称「コツ通り」となる。 “コツ”とは何ぞや? 私は、小塚原刑場跡があるので、“骨”のことかと想像し、縁起でもない名だと思い、調べた。 答えは、地名「小塚原」を略し“コツ”としたそうだ。 “骨”のコツではない。 いずれにせよ、チョイト、気になる名だ!

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● そのコツ通り(都道464号線)が日光街道(国道4号線)にぶつかる南千住交差点が都道464号線の終点である。 南千住交差点には素盞雄神社(すさのおじんじゃ)が鎮座。、、、、賽銭をはずみ(50円)、しっかりと家族(母、妻、娘家族 計8名)の健康・長寿を祈願、安いね!

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2020年9月19日 (土)

東日暮里

台東区の北の端、明治通り(都道306号)と吉野通り(都道464号)が交わる「泪橋(なみだばし)交差点」。 早朝の空いた道を飛ばす都バスに乗り、「泪橋」バス停で降りる。 ここより西へ、JR日暮里駅まで歩いてきた。


● 明治通りが台東区と荒川区の境となっており、泪橋小塚原刑場跡(荒川区南千住)の近くの思川(おもいがわ)に架かっていた橋。 現在では思川は全て暗渠化され橋の面影はなく、その名前は交差点やバス停に残るだけ。、、、、【知ってて嬉しい、いい加減な知識】 「涙」と「泪」と「涕」の違い。 どれも「なみだ」と読む。 「涙」は一般的で、切れ目なく流れでる涙。 「泪」は一般的に用いず、演歌などで用いる、チョイト色っぽく、せつない涙。 「涕」は悪ガキが怒られた時出す、鼻水とコラボした涙。

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● 東日暮里一丁目を歩く・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・明治通りから一本裏通り(東日暮里1-4)へ入ると、戦前(?)のモルタル塗りの2軒長屋が数棟まとまってる。 空襲で焼けなかったのか?

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・・・・・・・・・・・・また、別な裏道(東日暮里1-6)には御影石が敷き詰められている。 ひょっとすると、都電の敷石の再利用かな?

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・・・・・・・・・・・・一丁目の中央を貫く「正庭通り」、、、、店舗は少なく、サクラの木が多い商店街。 「正庭」と書いて「まさにわ」と読む。 かつては三河島村字正庭だったそうだ、現在は東日暮里一丁目。 地名の由来は判りませ~~ん!

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● 東日暮里二丁目を歩く・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・家内工場があり、マンションがあり、商店があり、保育園・小学校があり、雑多な建物が並ぶ下町。、、、、東日暮里も、私の住む浅草橋も、どちらも同じような街並みだ!

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・・・・・・・・・・・・オヤ?古そうなタバコの自販機発見!(東日暮里2-27)、、、、ラークが300円、フィリップモーリスが300円、マルボロ320円、10年以上前の値段だ! 現在はラーク460円、マルボロ520円などである。 もちろん、現在、自販機は利用できない!(私は10数年前に禁煙に成功し、一日60本のヘビィスモカーから脱した!)

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・・・・・・・・・・・・・・東日暮里一丁目から三丁目までを東西に横切る「かんかん森通り」、、、、二丁目付近には、ソメイヨシノ50本の桜並木がある。
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● 東日暮里三丁目を歩く・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・かんかん森通りを歩き東日暮里三丁目に入ると、消防署の前に「猿田彦神社」がある。 この社がある処を「神々森」(かんかんもり)と呼んだそうだ。、、、、猿田彦神社は、汐入の胡録神社の分霊を勧請して祀ったと伝えられ、第六天社と称していたといい、明治に入り胡録神社、次いで猿田彦神社と改称している。、、、、神社自体は小さいが、境内の大谷石造りの神輿庫を見ると神輿は多そうだ。

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・・・・・・・・・・・・猿田彦神社の北側には「東京朝鮮第一初中級学校」がある。 日本の小学校・中学校と同じらしい。 この学校も、新型コロナの影響があったのか? 生徒が登校していた。

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・・・・・・・・・・・・チョイト裏道を歩くと、トタン張りの家、懐かしい銭湯、綺麗に揃ってる長屋などが見られる。

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・・・・・・・・・・・・・・東日暮里三丁目の逸品は、東日暮里3-34~37に残る文化住宅である。 敷地そのものを高くしたのか、周囲の道路からは階段を上がった処に建ち、戦前の建築と思われる木造板張りの住宅である。 2階建てで、1階と2階に1所帯づつ入り、玄関は並んでいる。 つまり、2所帯の長屋(?)建築が町の一画にズラリ並んでいる。、、、、建築史的には貴重な建造物群と思われるが、保存すると云った話は無いようだ。 でも、住んでいる人には申し訳ないが、残したい気もするね!

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● 東日暮里三丁目を抜け、尾竹橋通りを横断し、日暮里繊維街を西へ歩けばJR日暮里駅

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2020年9月16日 (水)

南千住から町屋

都電荒川線沿いに、線路の南側を歩き、南千住駅から京成本線町屋駅までの散歩です。



● 浅草橋駅前からバスで南千住駅へ、、、、南千住駅の隣り、JR貨物の隅田川駅を見下ろし、常磐線・貨物線に沿って西へ向かう。

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● 常磐線の南千住駅と三河島駅の間に、明治29年(1896)開通の日本鉄道土浦線の煉瓦造のガードが3ヶ所残っている。 その一つ、アーチ型の「第3三の輪ガード」が国道4号(日光街道)に出る手前(南千住2)にある。 トンネル上部の笠石には、雁木(がんぎ)といわれる煉瓦を傾けて凹凸をつける装飾的な煉瓦積みが施されているのだが、ネットで覆われチョイト判りにくい。 煉瓦積みが劣化してきたか?しっかり改修して、保存して欲しいね!、、、、【おまけ】2014年撮影の雁木部分の写真

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都電荒川線の起点、三ノ輪橋停留場。 停留場の周辺は下町の雰囲気が残り“画”になる、好きだ!

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・・・・・・・・・・・・停留場の南側には常磐線が走り、ここに、明治29年以来の「第1三の輪ガード」(南千住1)がある。

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● 三ノ輪橋停留場から荒川一中前停留場まで都電に並行して伸びる「ジョイフル三ノ輪」商店街の請願により、平成12年(2000)11月11日に開業した「荒川一中前停留場」。 都電荒川線では70年ぶりに開業した、一番新しい停留場である。

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・・・・・・・・・・・・・・停留場近くの裏道は、なぜか「通り抜 禁止」、、、、また、同じ処の電柱には中国語・韓国語(ハングル)で書かれたゴミ出しのルール、、、、何となく、しっくりしない、歩きにくい道だ!

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● 「荒川区役所前停留場」(明治通り)から「町屋駅前停留場」(都道306号)までの区間、都電の南側を並行する道路が都市計画に沿って拡張されるため、用地取得が進められている。 あちらにも、こちらにも、フェンスが組まれ、住民は檻の中。

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・・・・・・・・・・・・・・フェンスを見ながらの散歩はつまらないので、チョイト荒川2丁目の裏道へ入る。 他人の家を覗きながらの散歩。 チョイト失礼しました!

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・・・・・・・・・・・・・・「荒川七丁目停留場」、、、、乗降客はなし、それでも電車は停まってた、律儀な運転手さん!

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● 京成本線町屋駅の手前(荒川7)に、床屋のような名の寺がある。、、、、臨済宗妙心寺派の寺院「大雄山泊船軒」。 泊船軒は、海禅寺の塔頭寺院として、玉蜂與首座禅師(正保4年(1647)寂)が開山した。 関東大震災後、現在地に移転してきた。 入口の立派な山門を入ると、静粛な境内が禅寺の様相で迎える、正面には釈迦如来を祀る本堂。 右は庫裏、客殿。 左は墓地。

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町屋駅は昭和6年(1931)に開業。 幅の狭い島式ホーム1面2線の高架駅。 ホーム中程には待合室が設置されている。

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