荒川区

2024年10月16日 (水)

田端から宮城まで

JR京浜東北線・山手線の田端駅から旧小台通りを歩き、小台橋を渡り足立区小台に入り、豊島橋東詰の宮城二丁目バス停まで、1万歩の散歩です。



● 今日の散歩は田端駅北口からスタート。、、、、田端駅の歴史は古く、開業は明治29年(1896)4月1日、日本鉄道の駅として、後に東北本線となる路線上に開設された。 同じ明治29年12月には田端~土浦間(後の常磐線)が開業。 明治36年(1903)には、常磐の石炭などを横浜港へ運搬するために大塚支線(田端~池袋間 後の山手線)も開業した。その後、明治38年(1905)には、日暮里~三河島間(現:常磐線)が開業し、上野~土浦間の列車(現:常磐線)は田端駅を経由しなくなり、田端~三河島間は貨物線となる。  そして、明治39年(1906)11月1日、日本鉄道の国有化により国鉄の駅となる。、、、、現在の田端駅は、島式ホーム2面4線の地上駅で、ホームの柱には大正末期か昭和初期頃の古いレールが再利用されて現存している。 改札口は南北の2か所あり、北口は橋上駅舎で、線路上の人工地盤上に駅ビルがある。 南口は、線路脇の崖上にあり、小さく可愛らしい駅舎である。
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● 駅前の跨線橋「新田端大橋」を渡り、田端駅と尾久駅の中間にある田端機関区(田端運転所)と尾久車両センターをつなぐ回送線の「王子街道南亘り踏切」近くに古い道標(北区東田端2)がある。、、、、「左 王子道」「右 □阿弥陀 西新井弘法大師道」と彫られている。 文政11年(1828)とあるので、古くから存在する古道の道標だ! 踏切が在るのは「王子道」にあたり、私の散歩は右に折れて西新井弘法大師道に向かうことにした。

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・・・・・・・・・・ 西新井弘法大師道といっても普通の2車線道路である。、、、、先へ進むと、「東北回送線 第三下田端踏切」、「東北線 第三下田端架道橋」がある。、、、、さらに都道306号を横断した先には、比較的新しい道標(北区田端新町3)がある「右 西新井大師道」と彫られてる。 昭和48年(1973)の銘、おそらく信者の方が建立したものであろう。
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● 西新井大師道を道なりに北上すると、四つ角の先の街路灯に「小台(おだい)銀座」の文字が見える。 ここからは“北区”から“荒川区”に変わりる。 小台銀座の商店街が、約600mの長さで都電荒川線の「小台停留所」のある交差点まで伸びている。 西新井大師道の一部が小台銀座になったものと思われる。 小台銀座の商店街は、南側半分が「小台本銀座商店街」、北側半分が「小台本銀座通り柳会」と言う、二つの商店街で構成されてるそうだ。 この小台銀座の通りは、「旧小台通り」と言うらしい、名標も立ってる。、、、、まだ朝の8時半過ぎ、営業してる店は無く、シャッターも下りたまま、すれ違う人の数も少なく、商店街はまだ寝てるようだ!
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・・・・・・・・・・ 小台銀座の通りに面しチョイト大きな建物は、銭湯の「梅の湯」と総合病院の「佐藤病院」、どちらも地元密着の“頼れるありがたい施設”だ!
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・・・・・・・・・・ 小台銀座通り沿いに、「條里南道」と記された石碑がある。 この碑は、明治20年(1887)頃、人文地理学者の小田内通敏が東京府史跡調査を行った際に、このあたりに残っていた条里制の遺構の保存を進言して建てられたものだ。 条里制とは、古代の耕地の区画制度であり、基盤の目のような整然とした地割りが行われた。このように区画された耕地は、7世紀末ごろ制定されたという班田収授の法に基づき、農民に口分田として分け与えられた。 かつて荒川流域には多くの条里制の遺構があったが、現在では上・中流域にわずかにみられるのみらしい。
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・・・・・・・・・・ 條里南道の石碑の近く(荒川区西尾久5)に、道祖神がある。 3基の塔、いつの時代のものなのか、なぜにこの地にあるのか、由緒・謂れはさっぱり判らん、誰か教えて!
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● 小台銀座を抜けると、都道458号(小台通り)を歩く。 小台橋にて隅田川を越え、荒川区西尾久から足立区小台へ入る。、、、、小台橋架橋前は付近に「小台の渡し」があり、江戸時代より江北・西新井・草加方面への交通の要所として賑わっていた。 西新井大師や六阿弥陀のひとつである沼田の恵明寺に詣でる人々も多く利用した。 小台橋が最初に架橋されたのは昭和8年(1933)で、関東大震災後の都市復興事業により架橋された。 その後老朽化により、平成4年(1992)に現在の橋に架け替えられた。 現橋の型式は鋼ニールセンローゼ桁橋、橋長は122.0m、幅員は15.0m、都が管理する橋である。
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・・・・・・・・・・ 小台橋から上流を眺めると、左側の岸に「あらかわ遊園」の観覧車が見える。 右側は足立区。
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● 都道458号(小台通り)が荒川土手で都道449号に合流する地点(足立区小台2)に、天保期(1831~1845)の弘法大師道標と文久3年(1863)の地蔵尊がある。、、、、ここも、西新井大師道の一部かな?
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● 小台2丁目、荒川沿いの民家の一画に、保存状態の良い7基の庚申塔を祀った小堂「小台の七庚申」がある。 ここ一か所に7基もの庚申塔があるのは、足立区教育委員会の説明文では、『大正初期にはじまった荒川放水路の開削工事で、立退きの対象となった地から下川家(当地の地主)と共にここに移転安置したものである。承応三年(1654)から元文元年(1736)に造立された堂々とした造りで、江戸期庚申信仰が盛んであったことを物語っている。武州下足立郡淵江領宮城村の刻銘があるが、ここの地名をとって小台の七庚申と呼ばれ、人々の信仰を集めている。多くの民俗資料が消滅していくなかで、区民の努力によって保護保存されている代表的なものである。』と書かれている。、、、、荒川開削時に河床に沈んだ村から退避された庚申塔群。一つ一つの庚申塔にはそれぞれの歴史があるだろう、その歴史を勝手に想像すると面白そうだ!
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● 足立区小台・宮城の町を歩き隅田川に架かる豊島橋の東詰まで来ると都バス「宮城二丁目」バス停があった。 疲れがドット出て、もう歩けない! バスに乗ろう!、、、、今日の散歩はここまで。
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2024年2月13日 (火)

八広から南千住

天気予報では、暖かくなり散歩日和となるそうだ。 今日は、京成押上線の八広駅で降り、東武伊勢崎線の鐘ヶ淵駅前をとおり、南千住駅まで1万歩の散歩です。



● 関東大震災があった大正12年(1923)9月1日より2カ月程前の、7月11日に「荒川駅」として開業したが「八広駅」の始まりである。 荒川駅は荒川(当時は荒川放水路)の土手上に位置していたことに由来している。 駅名は平成6年(1994)4月1日に「八広駅」に改称したが、駅の位置は変わっておらず、ホームの先には荒川橋梁がある。、、、、駅名の「八広」は町名の八広に由来する。 町名の「八広」は、昭和40年(1965)の住居表示実施に伴い寺島町6・8丁目、隅田町4丁目・吾嬬町西5~9丁目の8地区が合併して成立したため、「八」の字を採り、その字体から「末広がり」の縁起を担いで命名された。、、、、駅の高架化が完成した平成11年(1999)からは、ホームは3階となり、1番線が片面、2・3番線が島式の2面3線構造。 朝ラッシュ時には1番線が通過列車専用となり、2番線が上り、3番線が下りホームとなる。 改札は2階で1ヶ所のみ。

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・・・・・・・・・・ 駅周辺には大きなスーパーは無く、駅前の喫茶店は無く、パチンコ屋も無く、カラオケも無く、下町の家並みだけが目に入る!

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● 八広駅から鐘ヶ淵駅に向かう、鐘ヶ淵通り(都道:補助第120号線)の拡幅工事が始まっている。 現在は「Ⅰ期区間」として、墨田区墨田3丁目~東向島5丁目の約370mの幅員を20~23m(既存の道路幅の倍以上)に拡幅してる。 拡幅の目的は、防災拠点への避難路(補助120号線)の整備と沿道の不燃化促進による延焼遮断帯の形成を目指し、街路整備と沿道まちづくりの一体的な整備を行っているそうだ。、、、、いずれ起きると思われる、大震災に向けての対策か? 整備を着実に進めて欲しいね。

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鐘ヶ淵駅前を歩く。 この駅前踏切を見ると、必ず“自らの脱臼事件”を思い出し、以来、踏切の横断、写真撮影などに注意するようになった。、、、、思い出多い踏切である。

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● 隅田川に架かる「水神大橋」を渡り、墨田区堤通から荒川区南千住の町に入る。、、、、水神大橋(すいじんおおはし)の橋名は東岸の墨田区堤通2にある「隅田川神社(水神宮)」に因む。 橋が架けられたのは平成元年(1989)3月で、隅田川の橋としては新しい方だ。 工事は橋の組み立てを陸上で行い、橋桁を台船に乗せて干満の差を利用して橋脚に乗せるという方法を利用した。、、、、両岸の汐入公園(荒川区)、東白鬚公園(墨田区)は東京都の防災拠点として位置づけられており、そのため双方を繋ぐ連絡橋として千住汐入大橋と共に計画された。 当初は歩行者専用橋で、接続する道路の整備が完了した平成8年(1996)より自動車道路供用が開始された。、、、、橋の諸元は、種別:鋼道路橋、形式:3径間連続ニールセンローゼ桁橋、橋長:157.0m、最大支間:102.0m、幅員:17.0m、着工:昭和59年(1984)、竣工:平成元年(1989)

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● 水神大橋の上から汐入公園の方を見ると、川岸に「隅田川旧防潮堤」の一部が残されている。 公園が整備される以前は、この防潮堤が川の両岸に構築され、高度成長期の“どぶ川”として隅田川は親しみある川ではなかった。 今は、川下の中央区まで「隅田川テラス」が整備され親しみやすい川となった。

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● 汐入公園を抜けると、JR南千住駅の東側に広がるJR貨物の隅田川駅がある。 フェンスの隙間から覗きながら南千住駅へ向かう。 電気機関車が並んでる、鉄道オタクにはたまらん光景!

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南千住駅に到着。 駅前に、東京駅行きのバスが停車してる。 『ラッキー このバスは浅草橋駅前を通る しかも敬老パスで料金は払わずOK』 我が家までのんびりバスに揺られて帰ることにした。

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2023年11月 9日 (木)

三河島

山手線の鶯谷駅から、常磐線の三河島、京成本線の新三河島の各駅前をとおり、日暮里舎人ライナーの赤土小学校前駅まで路地・裏道を歩いて、1万歩の散歩です。




● 東京国立博物館の北側、寛永寺の霊園を挟み鶯谷駅(うぐいすだにえき)がある。 博物館と霊園は上野公園の高台にあるが、鶯谷駅のホームは崖下にある。 駅の南口は崖上の霊園脇にあり、北口は崖下のラブホテル街の中央にある。 南口から乗るときは『博物館、美術館に行ってきたんだ』と胸を張って入場、北口から乗るときは何故かチョイト下を向いて足早に入場。、、、、明治45年(1912)7月11日、鉄道院東北本線の駅として開業。 ホームは既に電車運転を開始していた運転系統としての山手線のみに設置された。 開業111年の歴史ある駅だ!、、、、、今日は北口から出て、足早に駅を離れ東日暮里の方に向かう。

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● 鶯谷駅北口からほぼ真北に約400m歩くと、荒川区東日暮里に都立竹台高等学校(とりつ たけのだいこうとうがっこう)がある。、、、、都立竹台高等学校は、昭和10年(1935)に第四東京市立高等女学校として設立した。 昭和25年(1950)に都立竹台高等学校に変更。 今年の偏差値は50にチョイト足りない程度。、、、、小説家の有吉佐和子、タレントの片岡鶴太郎、落語家の林家正蔵(9代目)・林家三平(2代目)兄弟などの母校。、、、、校舎は最近改築し、鉄筋コンクリート造地上5階建ての近代的な建物に変わった。 なお、施工は北野建設。

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● 荒川区東上野5丁目・6丁目の裏道を歩く、、、、物干し台が並ぶ路地裏の家並み、、、、真直ぐ歩けない路地、、、、明治時代に建てられ、その後、北星鉛筆(株)の倉庫となた煉瓦倉庫も健在だ

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● JR常磐線の三河島駅がある、、、、“三河島”と聞くと死者160名の大惨事「三河島事故を思い出す。 当時、私は高校生であった。 おそらく、現在の中高年以上の人は事故の記憶があると思う。 悲惨な事故であったため、“三河島”の地名は暗いイメージとなり、荒川区の住居表示では消えた! 地名は“三河島”から“荒川”に変わり、“三河島”はJRと京成の駅名に残るのみ。、、、、JRの三河島駅は明治38年(1905)4月1日、日本鉄道の駅として開業。 令和4年(2022)度の1日平均乗車人員は約1万人で、常磐線(上野~取手間)の駅の中では最も少ない。、、、、15両の長~い編成の列車が停まる駅だが、改札はホームの東端(南千住寄り)に1ヶ所あるのみ。 上野寄りの車両に乗りたい方は15両分ホームを歩くことになる、我慢・我慢!

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● 三河島駅から北へ50m程歩くと「茶の池田園」がある。 昭和初期の味のある建物と思われる? 以前店に立ち寄った時には、店の中には骨董のようなレジスターや古い茶壷が並んでいた。、、、、今日立ち寄って見ると、店の前には貼り紙があり、2年前に店主が亡くなり、約90年続いたお茶屋を閉店したそうだ。 

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● JRの三河島駅、京成の新三河島駅の周辺には朝鮮半島出身の人が多い、町のアチラコチラに韓国系の教会、飲食店、店舗が目に付く。 これは、戦前から済州島出身者を中心として多くの半島出身者が住みつきコリアタウンがつくられたそうだ。 (大久保のコリアタウンは戦後つくられたもの)、、、、大久保のように観光地的な賑わいはなく、日本にしっくりとなじんだようだ。

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● JR三河島駅から北西に約600m離れて京成本線の新三河島駅(西日暮里6)がある。 昭和6年(1931)12月19日開業の島式ホーム1面2線を有する高架駅。 ホームの一部は明治通りのガード上にまで伸びている。 こちらの駅も乗降客は少なく、一日当たり約5千人で、都内にある京成の駅では最小である。、、、、駅名の“新”は、先に常磐線の“三河島駅”があったから。

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● 新三河島駅から、再び裏道を歩き約1㎞、日暮里舎人ライナーの駅前:赤土小学校(荒川区東尾久4、あかどしょうがっこう)に出る。

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赤土小学校前駅は平成20年(2008)3月30日、日暮里舎人ライナーの開通と同時に開業。 ここの駅も、令和4年(2022)度の1日平均乗降人員は約5千人で、日暮里・舎人ライナー全13駅中11位と少ない。、、、、駅名に小学校名がつくのは珍しく、全国でも富山港線の萩浦小学校前駅の2駅ぐらいかも?

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2023年10月23日 (月)

東尾久の町

JR山手線の西日暮里駅(にしにっぽりえき)から東尾久の町に入り、裏道を行ったり来たり迷ったり、京成本線の町屋駅まで、1万歩の散歩です。




JR西日暮里駅は道灌山下の窪地に、昭和46年(1971)4月20日に開業した駅(当時は国鉄の時代)。 開業2年前の昭和44年(1969)に、帝都高速度交通営団(現:東京メトロ)千代田線の西日暮里駅が開業している。 国鉄の西日暮里駅は、地下鉄千代田線との乗り換えのために設けられた駅で、日暮里駅からは500m程しか離れていない。 JR西日暮里駅は島式ホーム2面4線の高架駅、改札口は1ヶ所のみで1階にある。 駅前の道灌山通りの地下には千代田線のホームがあり、JRと千代田線を直接乗り換えるための中間改札が地下1階にある。(日暮里・舎人ライナーの西日暮里駅は少し離れている)、、、、乗り換え客重視の構造で、幅広の地下鉄連絡改札がホーム下中央に鎮座し、普通の改札はその横で狭く申し訳なさそうに設置されている。

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日暮里・舎人ライナーの西日暮里駅は、JRの西日暮里駅からはチョイト離れて、尾久橋通りの頭上にある。 平成20年(2008)3月30日に開業した。 JRに乗換えるなら隣の日暮里駅が便利、千代田線に乗換えるなら西日暮里駅が近い。 戦前は、至近距離に京成本線の道灌山通駅(昭和9年~昭和18年まで営業)があったそうだ。、、、、朝は日暮・里舎人ライナーからJR、千代田線に乗換える通勤客がゾロゾロと降りてくる。

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● 日暮里・舎人ライナー西日暮里駅の北側に、「冠新道(かんむりしんどう)」がある。 広い道幅の両脇には、昭和レトロの雰囲気を残す商店が立ち並ぶ商店街「冠新道商興会」だ。 春には桜も綺麗に咲く、全長約600mの商店街。 “冠”とは、新道の建設に際して土地を提供した地権者の名前を取ったものだとか。、、、、今朝8時、店は開いておらず、商店街を歩いてもつまらない! 途中から脇道に入る。

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・・・・・・・・・・ 脇道に入り、出たのは明治通り(=都道306号)。 道路を越えると東尾久の町。

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● 東尾久の町に入る。 東尾久の町は1丁目から8丁目まであり、広い! 今日は1丁目から3丁目まで、迷路のような裏道をウロウロ、クネクネと歩いて来た。 

・・・・・・・・・・ 東電荒川事務所尾久変電所横の路地を入ると、浄土真宗の金相寺がある。 石川県珠洲市金相寺の住職が昭和10年(1935)退隠後に上京し、浄土真宗系単立同念教会を当地に設立、昭和21年金相寺を設立したと言われてる。 歴史は浅い。 本堂は木造で前庭も狭い。

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・・・・・・・・・・ 下町の迷路のような裏道を行ったり来たり迷ったり!

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・・・・・・・・・・ 道に子供のチョーク絵を発見! 私も子供の頃、蝋石(ろうせき)で道に絵を描いて遊んだことを思い出した、懐かしいね!2310230831260



・・・・・・・・・・ 街角(東尾久2)で見つけた地蔵尊。 「腹祓地蔵尊」と書いてある、この地蔵のご利益は何だ!?、、、、どうやら、昔々、幼くしておなかの病によって亡くなった子が、自分のように苦しいでいる子供たちの痛みや病を癒したいので、ぜひ地蔵様として祀ってほしいと、家主にお告げをしたそうだ。 以来、家主は地蔵を彫り屋敷内に祀ったとのこと。、、、、ダイエットにご利益は期待できるかな?

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・・・・・・・・・・ 東尾久3丁目、天台宗寺院の二葉山尾久院満光寺の門前に出た。、、、、満光寺の創建は南北朝末か室町時代と伝えられている。 堂々とした赤い立派な山門とモダンな本堂が見える。 ここに来たのは、今日で3回目、二葉閻魔大王にも手を合わせる。

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● 都電通りに沿って京成本線町屋駅へ向かう。 いつ見ても飽きない都電の雄氏!

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京成本線の町屋駅から帰る。

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2023年9月25日 (月)

南千住

今日の散歩は、北の隅田川、南の都電荒川線に挟まれ、国道4号(=日光街道)の西側に広がる荒川区南千住1丁目と6丁目をブラブラしてきたので、気になった数件を紹介する。 1万2千歩 




● 江戸時代に“南千住”という地名はなかった。 慶長9年(1604)日本橋を起点として五街道が定められ、奥州街道の第一の宿場が千住宿であった。 千住宿の中心は本宿と呼ばれ、現在の北千住(足立区)である。 千住宿は次第に発達し、南北に伸びていった。 南に伸びた千住宿は、大川(=現:隅田川)の南(対岸)にあった当時の小塚原村・中村など村にも広がり、明治時代には“南千住町”となる。 つまり、南千住は千住の南外側に位置する町である。、、、、現:南千住駅は、JR常磐線、東京メトロ日比谷線、つくばエキスプレス線が乗り入れるターミナル。 西側の駅前には賑わいはなく、静かな駅だ!(駅の東側、汐入地区にはタワマンが建ち並び、ショッピング街もある) 

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● 南千住6丁目には、昭和37年に完成したプロ野球大毎オリオンズ(現:ロッテ)の「東京球場(=東京スタジアム)」があった。 35000人収容の東京球場は当時大毎オリオンズのオーナーで大映映画社長、永田雅一の発案により、竹中工務店の施工で、28億円の巨費を投じて建設され、その年から大毎オリオンズ(昭和39年から東京オリオンズ)のホーム球場となる。、、、、その後、球場は下町のファンに愛され続けたが、集客は伸び悩み、昭和46年(1971)、大映は球団の経営権をロッテに譲渡し本社の経営再建に乗り出すものの倒産。 関連子会社の東京スタジアムも赤字が膨らみ、経営権は翌47年に国際興業社主の小佐野賢治の手に移った。 小佐野は球場を使用するロッテに球場の買取を求めたが、ロッテとの交渉は決裂し、昭和47年球場の閉鎖となる。 開場からわずか11年目のことだった。、、、、昭和52年(1977)都が買収し、球場を撤去し、跡地は大半が荒川区の管理する荒川総合スポーツセンター・南千住警察署などに変わった。(現在、球場跡を示す遺構は何も残っていない)


・・・・・・・・・・ 東京救助跡地に建つ荒川総合スポーツセンター南千住警察署
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・・・・・・・・・・ 東京球場の建設は戦後の話、では建設前の東京球場の敷地は?、、、、ここ荒川区南千住には、明治12年(1879)に操業を開始した官営の千住製絨所(明治新政府によって設立され、被服生地を製造 )があった。 同工場は戦後は民間に払い下げられ、大和毛織が所有する生地工場となったが、昭和25年代(1950年代)に入ると業績が悪化。 工業用水として使用していた井戸の枯渇や様々な規制、労使間争議の慢性化などによって経営難に陥り、昭和35年(1960)に閉鎖された。 閉鎖された大和毛織の跡地は、当時の大映の永田雅一が約10億円で取得し、東京球場が建設されることとなった。、、、、東京球場跡の北側にある、スーパーマーケットのLIFE、都立荒川工科高等学校なども千住製絨所の跡地である。


・・・・・・・・・・ LIFEの脇に残る製絨所の煉瓦壁の一部。 都立荒川工科高等学校のグランド脇にも煉瓦塀の一部が残っているが、今日は煉瓦塀が仮囲いで覆われて、何やら改修工事してるようだ。、、、、貴重な文化財であり、産業遺産、風景遺産でもある煉瓦塀、大切に保存してもらいたい。

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南千住6丁目にある、私好みのチョイト古そうで興味をそそる建物

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● 南千住6丁目の南隣は1丁目。 南千住1丁目には都電荒川線始点・終点である三ノ輪橋停留場(みのわばしていりゅうじょう)がある。、、、、明治44年(1911)4月16日、東京鉄道の停留場として開業。当時は終点。 大正2年(1913)には、王子電気軌道の停留場が開業、東京市電との接続地点となる。 昭和17年(1942)に王子電気軌道が東京市に買収され、東京市電三河島線(現・荒川線)となる。、、、、お年寄りが多く利用する、昭和の下町の停留場。 バラが咲くころはカメラマンも多くなるね!

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● 三ノ輪橋停留場の脇には、長さ約400mの下町商店街「ジョイフル三の輪」があります。 都電荒川線の前身である王子電気軌道の開通が大きく影響して形成された商店街。 映画・TVドラマのロケ地としても使われている、昭和レトロな商店街。、、、、午前9時、どちらの店もまだ営業準備中で、静かな商店街!

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・・・・・・・・・・ 商店街の中程に、嘉永年間(1848~1854)創業のそば屋「砂場総本家」がある。 日本で1番古い「砂場」である。 営業時間内に来たら、ぜひぜひ食することをお薦め!

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・・・・・・・・・・ 商店街から一本裏道に入ると、開運・芸術・延寿の神として中島弁財天が祀られている。 東日本大震災で配管が壊れ廃業した至近の銭湯「弁天湯」から像を譲り受けた商店街が、ほこらを作って祭ったそうだ。 高さ70cm程、大正時代創業の「弁天湯」女湯脱衣場の庭にあった弁天さまらしい。 女を視る目には相当の年季が入っている神さまかも?
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● 南千住6丁目を中心に歩き疲れ、南千住駅前からバスで帰る!

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2023年7月 5日 (水)

南千住から鶯谷へ

連日の30℃超えも今日はひと休みで、熱中症警戒レベルも下がったらしい。 早速、朝から散歩に出てきた。 我が家のある浅草橋駅前から、南千住行きの都バスに乗り、終点の南千住から散歩を始める。 荒川区東日暮里の町をとおり抜けJR鶯谷駅まで、9千歩の散歩。



● 「南千住駅」は、荒川区にあるJR常磐線・地下鉄日比谷線・つくばエクスプレス線の3線が乗り入れる駅である。 明治29年(1896)12月25日、日本鉄道の駅として開業。 以来、明治39年(1906)には、日本鉄道が国有化され官設鉄道の駅となる。 昭和36年(1961)に、帝都高速度交通営団(営団地下鉄)日比谷線の駅が開業。 平成17年(2005)首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス線の駅も開業する。、、、、駅周辺の再開発も進み、駅もキレイになり、多くのタワーマンションもたち、住みやすい町となり、通勤通学客が多い。(かつては、日雇い労務者の街“山谷”に近く、ガラの悪い駅であったが、変わった!)

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● 南千住と言えば、江戸時代から明治初期にかけ、「小塚原刑場(こづかっぱらけいじょう)」が存在していた。 江戸時代にはそれぞれ江戸の入り口に存在した大和田刑場(八王子)、鈴ヶ森刑場(大田区)とともに三大刑場といわれた。 刑場では、死体は丁寧に埋葬せず申し訳程度に土を被せるくらいだったので夏になると周囲に臭気が充満し、野犬やイタチの類が食い散らかして地獄のような有様だったらしい。 この刑場での刑死者を弔うため、寛文7年(1667)に本所回向院の住職が隣接する場所に常行堂(後に回向院となる)を創建した。 小塚原刑場の跡には、首切り地蔵のある「延命寺」、多くの刑死者を弔った「回向院がある。 、、、、今日、私は朝8時前に来たので、延命寺は開門前であった。 門の隙間から首切り地蔵をパチリ。 回向院では、吉田松陰・鼠小僧などの刑死者が弔われている史蹟エリアをパチリ。

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● 南千住5丁目の裏道を歩き、南千住駅と三河島駅の間に、明治29年(1896)開通の日本鉄道土浦線(現:常磐線の旧呼称)の煉瓦造のガードが3ヶ所残っている。 その一つ、アーチ型の「第3三の輪ガード」の前に出てきた。、、、、トンネル上部の笠石には、雁木(がんぎ)といわれる煉瓦を傾けて凹凸をつける装飾的な煉瓦積みが施されているのだが、煉瓦積みが劣化し脱落を防止するためネットで覆われている(チョイト判りにくいね) 貴重な鉄道遺産なので、キレイに改修してほしいね!

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● ガードを抜けると浄閑寺の裏だ!、、、、浄土宗寺院の「浄閑寺は栄法山清光院と号す。 明暦元年(1655)に創建、近くに吉原遊廓が誕生した明暦3年(1657)よりも2年早い。 病気などで死んだ遊女は、吉原遊廓の場合、投げ込み寺と呼ばれた浄閑寺に、文字通り投込まれたそうだ。 また、大正12年(1923)の関東大震災、昭和20年(1945)の東京大空襲で死んだ遊女の霊もまつられている。 吉原遊女約11,000人を埋葬。、、、、遊女を祀る「新吉原総霊塔」の石垣には、「生まれては苦界 死しては浄閑寺」の花又花酔の句が刻まれている。、、、、また、近くの“山谷”の労務者を弔う「ひまわり地蔵」もある。 

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● 地下鉄日比谷線の三ノ輪駅に近い浄閑寺から、荒川区東日暮里の町を南西方向に歩く。 千住の方から来た常磐線が上野駅に入る手前:日暮里駅付近で大きくカーブする処である。 東日暮里の町は、町工場の多い下町であり、朝鮮半島の人の多く住む町であり、かつては昭和レトロな建物も多く残っていたが最近は建て替えが進んでいる。

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● 東日暮里の町には、私の足を止めるようなものもなく、ただただ歩いて来た! そのまま、JR「鶯谷駅に到着。、、、、明治45年(1912)7月11日に、東北本線の駅として開業。 北口は地上駅舎のようになっているが、南口は橋上駅舎になっている。、、、、北口はラブホテル街のイメージが強いが、根岸の方から都道をまっすぐ歩いてくると、キョロキョロしない限り、そこまでラブホ・風俗の雰囲気はない。

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2022年11月 3日 (木)

天王寺

先日は天台宗の大本山:寛永寺の子院である、上野の「護国院に行き、一昨日は真言宗豊山派大本山「護国寺に行ってきた。、、、、そこで疑問は、“院”と“寺”の違いとは? 調べてみたら・・・・寺の名前には、山号、院号、寺号があり、これら全てを持つ場合、このうちのいくつかを持つ場合など、寺によって様々である。 もともと“寺”とは客を宿泊させる場所を意味し、転じて僧侶が居住する建物を指すようになった。 一方、院は寺の一部の建物を指すことが多く、特に寺の中にあって人が居住することもできる施設のことでもあった。 さらに、院号は平等院鳳凰堂で有名な平等院などのように、貴人の建立した寺院の称号としてつけられる場合もあった。 山号は、昔、寺院を山中に建てることが多かったことから、寺のある山の名を別称としてつけたそうだ。、、、、山号+院号+寺号の例:浅草の浅草寺は金龍山伝法院浅草寺、山号+ 寺号の例:比叡山延暦寺、また法隆寺・興福寺・東大寺など奈良時代以前に建立された寺に山号はない。 要するに、山号、院号、寺号の適当な組み合わせで寺院名を表しているのだ!

ココまで調べたら、“護国”つながりで「護国山」と名乗る寺院があるか、チョイト調べてみたくなり、さらに調査。 結果は、ナント身近にあった。 しかも、以前に何回か訪れたことがある寺院だ! 私が住む“東京都台東区”、同じ区内で台東区谷中の天台宗寺院「護国山天王寺」・・・・と、言うことで、今日の散歩はJR日暮里駅に近い天王寺に行き、護国院経由で上野駅まで、7千歩の散歩。


● 日暮里駅で祝日の空いた電車から降りる。 今日は谷中の天王寺へ行くので、行先選定に悩むことなく「
日暮里駅南口」へ向かう。 南口は緑のトンガリ屋根の橋上駅舎が可愛らしい。 駅前の人道跨線橋は、西側(崖上)の紅葉坂と東側(崖下)の日暮里駅東口を繋ぐ利用度の高い歩道橋で、昭和3年頃に架設され、昭和45年(1970)に現在の幅に拡張された。

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・・・・・・・・・・ もみじばしに続く「紅葉坂」 坂の上は天王寺。 坂の名は、この辺りの紅葉の美しさから名付けられたそうだ、現在は坂の傍に樹木はないが、情緒ある景色だ。

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● 現在の台東区谷中7丁目は、江戸時代その大部分が天王寺の寺域であった。 谷中7丁目は、現:天王寺はもとより、都立谷中霊園の全域を含む広い町である。 言い換えると、現在の谷中霊園は天王寺のものであった。、、、、天王寺の歴史は、鎌倉時代後期、日蓮上人に帰依した土豪関長燿の草創にはじまる。 当時は「長耀山感応寺」と称した。 早くから日蓮宗不受不施派に属し、江戸幕府から弾圧された。 元禄11年(1698)には強制的に改宗させられ、以後天台宗寺院として、比叡山より毘沙門天像を迎え本尊とした。 元禄13年(1700)から江戸幕府公認の富くじが興行され、目黒不動、湯島天神と共に「江戸の三富」として賑わっていたが、天保13年(1842)には禁止される。 また、天保4年(1833)には、名称を「護国山天王寺」に改める。 明治元年(1868)彰義隊の兵火により本坊、五重塔以外は焼失となり、明治7年(1874)境内地の一部を東京府に移管され、これが現在の「都立谷中霊園」(園内には、寛永寺、天王寺の墓所が入り組んでる)となっている。

 

・・・・・・・・・・ 紅葉坂を上がると天王寺がある。 天王寺は、度々の火災で建物を焼失し、現在の本堂は昭和57年(1982)の再建である。、、、、山門は木造の古いものと、平成10年(1998)に新築のモダンな新山門がある。、、、、境内の樹々は秋の色に染まってきた!、、、、鉄筋コンクリート造の本堂だが、威圧感もなく、静かに迎えてくれる、、、、木造の毘沙門堂

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・・・・・・・・・・ 境内の
銅造釈迦如来坐像」は、像背面銘文によって、元禄3年(1690)に神田鍋町に住む太田久右衛門が鋳造したもの。 日蓮宗時代の鋳造である。 青銅を材料とし、割型の製法で鋳造されたもの。 大きさは像高2.96m。 この像ははじめ旧本堂の脇に建てられ、明治7年(1874)の谷中墓地開設のため、墓地西隅に残されていた。 さらに、昭和8年(1933)現在地に基壇を新築し、修理を加えて移され、基壇には納骨堂が設置されてる。

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・・・・・・・・・・ 天王寺山門の脇にある地蔵尊。 江戸時代には富みくじをしていたから、地蔵も一儲けできたかな?

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・・・・・・・・・ 山門前の「さくら通り」は、かつて天王寺詣りの参道であった、今は桜の名所として谷中霊園のメインストリート。、、、、この道を、道なりに800m程南に歩くと上野公園の東京藝術大学に至る。 東京藝術大学の隣りに「東叡山寛永寺 護国
」がある。 “護国山”と“護国院”を結ぶ道だ!

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・・・・・・・・・・ 天王寺山門とさくら通りを挟み向かいに天王寺墓地がある。 東西を都立谷中霊園に挟まれているが、一般人にはそれぞれの霊園の境界が判らない。、、、、今日は、天王寺霊園の敷地内にあると思われる、植物学者:牧野富太郎、彫刻家:朝倉文夫、浅草「神谷バー」の創設者でハチブドー酒を出荷した:神谷伝兵衛の墓 を紹介。 いずれも、立派な墓だ!

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・・・・・・・・・・ 天王寺墓地の区域に、ひときわ目立つ仏塔がある。 それは「東京大学医学部納骨堂」。 東京大学医学部で、解剖に供した遺体を弔う施設。

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・・・・・・・・・・ 谷中霊園内に残る天王寺の銅造釈迦如来坐像台座跡」 天王寺の銅造釈迦如来坐像は、はじめ旧本堂の左手に建てられ五重塔と向かい合っていた。 明治7年(1874)の谷中墓地開設のため、墓地西隅に残されていたところ、昭和8年(1933)現在地に基壇を新築、修理を加えて移された。、、、、移される前の台座跡は、虚しい状態で公営の墓地の中に残っている。

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・・・・・・・・・・ こちらは、谷中霊園内に残る「天王寺五重塔跡」、、、、谷中霊園の中央付近には、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルになった「
天王寺五重塔の跡」がある。 天王寺の最初の五重塔は、寛永21年(1644)に建立されたが、130年ほど後の明和9年(1772)目黒行人坂ぎょうにんさかの大火で焼失した。 罹災から19年後の寛政3年(1791)に再建された五重塔は、震災・戦災をくぐり抜け、長く谷中のランドマークになっていたが、昭和32年(1957)7月6日、残念ながら放火により焼失し、現在はその基礎部分のみが残されている。

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● 天王寺から、さくら通りを南に向かい、東京藝術大学の方へ歩く。、、、、「旧吉田屋酒店」(明治43年築)前を通り、藝大前の和菓子屋「桃林堂」に出る。

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・・・・・・・・・・ 桃林堂から、チョイト西へ100m「護国院」に来た! 護国山から護国院へ、ゴコクロ~サン、お疲れさん!

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2022年10月19日 (水)

上中里~町屋

京浜東北線の上中里駅で下車し、目的地なく気ままに歩き、東尾久の町を抜けて京成本線の町屋駅まで、1万歩の散歩です。



● 上野の方から来ると、田端駅で山手線と京浜東北線は別れ、京浜東北線の次のが「上中里駅」である。 地理的には都心の駅とは言い辛いが、準都心駅である。 しかし、上中里駅の一日平均乗降客数は、東京23区のJR駅としては越中島駅(4,404人/2021年実績)の最下位と競って、ワースト2位(6,157人)である。 今日も、一電車から降りるのは最寄りの女子高生と数人の通勤客、乗るのも10数人ほど、と寂しい。、、、、島式ホーム1面2線の地上駅で、橋上駅舎を有している。、、、、我が家の最寄り駅:浅草橋駅には、エスカレータが設置されてないが、ここ上中里駅にはエスカレータがある。 負けた!

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● 上中里駅は台地の斜面部に造られており、線路・ホームは台地の下、駅舎は台地の上にある。 上中里駅から直線距離で300m程歩き、滝野川女子学園の前から、東北新幹線の高架と京浜東北線の線路の間を抜ける跨線橋「車坂跨線橋」がある。 この跨線橋を渡り、台地を下りると、京浜東北線および東北新幹線と尾久駅を通る上野東京ライン(宇都宮線)に挟まれた上中里2丁目の町がある。 また、ここにはJR東日本尾久車両センター、田端操車場、新幹線車両センターなどがある。 まずは、尾久車両センターと田端操車場の間を歩くことにした。

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・・・・・・・・・・・・車両センターと田端操車場の間(北区上中里2-2付近)に「中里貝塚」がある(現在は埋め戻され、公園として利用されている)。、、、、縄文時代中期から後期(約4600~3900年前)の貝塚で、最大で厚さ4.5m以上の貝層が広がる、縄文時代の海浜低地に形成された巨大な貝塚である。、、、、大正15年(1926)、この地に操車場ができた時は「貝塚操車場」と称したそうだ。

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・・・・・・・・・・・・尾久車両センターと田端操車場を結ぶ「東北回送線 王子街道南亘り踏切

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・・・・・・・・・・・・踏切から50m南に「西新井弘法大師道」の道標がある。 道標に沿って大師道を東に向かうと「第三下田端踏切」を越えて、田端新町3丁目交差点(明治通り)に出た。

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● 荒川区西尾久1丁目に、江戸時代からの尾久の旧家に残る煉瓦造りの蔵がある。 この小柄な蔵は、明治中頃に建てられたそうだ。 震災・戦災を免れ、今日まで残った貴重な建物。、、、、荒川区尾久の隅田川沿いには、明治時代から多くの煉瓦工場があり、煉瓦は舟で東京市内に運ばれ近代化に貢献した。

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● 西尾久一丁目交差点から「尾久本町通り」を歩き「町屋二丁目停留場」の前に出る。、、、、所々に昭和の建物が残る、チョイト寂れた商店街を歩く

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● 「町屋二丁目停留場」から「町屋駅前停留場」までは都電通りを歩く。、、、、都電を見ながらのんびり歩く!

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● 京成本線「町屋駅」から帰宅する、、、、昭和6年(1931)12月19日、京成電気軌道(現・京成電鉄)の町屋駅が開業。 島式ホーム1面2線の高架駅。

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2021年3月10日 (水)

遺跡の町や!

もうしばらくコロナで自粛。 でも、チョイトだけなら外出してもいいだろう(?) 気持ちは緩みっぱなし!、、、、今日も乗降客数の少なそうな駅から歩くことにした。 頭に浮かんだ駅名は京成本線の「新三河島」、ここから歩いて尾竹橋まで、1万歩の散歩です。




● JR日暮里駅で京成本線に取り換えて、一つ隣りの「新三河島駅」へ行く。、、、、新三河島駅で、下車したのは数名、乗車したのは十名ぐらい。 2019年度の1日平均乗降人員は6,031人で、京成線内69駅中、堂々の第48位である。 駅が開いている朝6時から、夜12時までの18時間で換算すると、1時間に平均335人が乗降する。 乗る人・降りる人が半々とすると168人が降りて、168人が乗ることになる。 上り・下りとも10分間隔で運転されていると仮定すると、1時間に20本の列車が運転されており、1本当たりの乗車員数は、168人÷20=8.9人 一列車が到着すると、約9人が降りて、約9人が乗る駅である。 都心の駅としてはチョイト寂しい駅だ!、、、、新三河島駅は昭和6年(1931)12月19日に隣の日暮里駅と共に開業した。 この時、既に国鉄の三河島駅が存在していたので、“新”を冠し「新三河島」と名付けられた。 また、「三河島」という地名の由来は3説あり。 中川、古利根川、荒川の3河川に囲まれた島状の地であるという説。 徳川家康とともに三河国から来た伊藤一族が住みついた地という説。 木戸三河守孝範の屋敷があった地という説。(お好きな説をどうぞ!)、、、、駅は島式ホーム1面2線の高架駅。 ホームの一部は明治通りの上まで伸びている。 出入口と改札口は明治通りに面し、高架下の一ヵ所のみ。 駅前には一軒のパチンコ屋しかなく寂しそうだ。

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● 新三河島駅から明治通りを西へ100m程行くと、「尾久の原 防災通り」がある。 またの名を「消防道路」、さらに「疎開道路」と云う。、、、、疎開道路(そかいどうろ)は、第二次世界大戦中に空襲による延焼防止を目的に建物を疎開させ敷設・拡幅された道路をいう。 東尾久と町屋・荒川を分ける約1360mの「尾久の原防災通り」は、疎開道路であったものを、戦後、消防のために整備され「消防道路」と称した。、、、、♪♪ 戦時中は 疎開道路と呼ばれたの 戦後は消防道路と名乗ったの 防災通りが整備されたその日から あなたがさがして くれるのを待つわ 昔の名前で出ています ♪♪

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● 防災通り東側の裏道(荒川5丁目・6丁目)を行く、、、、曲がりくねった道、消防車・救急車も入りづらい道、「雅万歩」はこういう道が大好きだ!、、、、「町屋二丁目」停留場前に出た!

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● 都電の停留場から50m程西へ、赤い派手な山門と鉄筋コンクリート造のモダンな本堂の浄土宗寺院「満光寺」(読みは小声で“Mankoji” )がある。 その創建は南北朝末か室町時代と伝えられている。 浄土宗寺院としての開山は、智天上人。 開祖は上野二葉村(現:台東区)名主二葉和泉守。 上野不忍池付近にあったものが、寛永寺の造営でこの地に移転してきたと言われている。 境内には、永和元(1378)年銘を始めとする板碑や庚申塔、二葉地蔵、二羽稲荷、二葉閻魔大王等が祀られている。 二葉閻魔大王は木造の閻魔坐像で、頭部の内側に「元禄十六年七月」の銘があるそうだ。 酒の飲み過ぎ(?)顔真っ赤!

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● 都電荒川線の北側、町屋4丁目に「町屋実揚(みあがり)町会」がある。 この町会の建物の前に「町屋四丁目実揚遺跡」の案内板があり、そこに『本遺跡名は現在の住居表示と旧小字名「実揚」を合わせて命名されたものである。700mほど北には隅田川が流れ、荒川低地の中の微高地上に位置する。 この辺りには、中世の板碑を所有している旧家が点在し、中近世から集落が形成されていたと考えられていた。 近年の発掘調査の成果により、この付近で弥生時代末から古墳時代前半を中心とした周溝・溝・井戸などの跡、土師器・須恵器などの遺物が見つかり、古くから人びとの暮らしが営まれてきたことが明らかになってきた。(以下略)』と記されている。、、、、つまり、この付近には地下に埋蔵文化財があるのだ! 土木・建築工事着手前には届出が義務付けられており、必要に応じ発掘調査が行われる町である。 大判・小判でも出てくればいいのだが、土器や鹿の骨や貝などではチョイトつまらないかも!

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● 新三河島駅から歩き、北東の隅田川に架かる「尾竹橋」に着いた。、、、、今日の散歩はココまで、都バスで帰ることにした。

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2020年12月20日 (日)

客の少ない足立小台

近頃は連日、最悪の感染者数を記録している“コロナ”、高齢者に属する私も外出自粛を心がけている。 でも、内緒で、少しぐらい、密を避けて、の散歩なら許されるだろう! 今日は、日曜なので通勤通学客も少ないので、日暮里舎人ライナーの足立小台駅で下車し、尾竹橋経由で京成本線の町屋駅まで歩いてきた。 1万歩。




● 日暮里舎人ライナーの「足立小台駅(あだちおだいえき)」と聞いて、駅を思い出せる人は少ないと思う。 それもそのはず、足立小台駅は、北の荒川と南の隅田川に挟まれた狭い中洲状の土地に位置しており、駅から1km圏内には、戸建て住宅はほとんどなく、隅田川岸にマンションが数棟ある程度。 観光名所は飛んでも“無い” 駅の並びに、家電量販店の「ケーズデンキ」とホームセンター「島忠ホームズ」がある。 駅から西へ1km程歩くと、「小台」、「宮城」の住宅地となる。

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・・・・・・・・・・・・昨年春に公開された、東京都の駅別乗降客数(2018年 平成30年度)のデータによると、足立小台駅の一日当たりの乗降客数は3,938人。 JR、私鉄、三セク、都電、ケーブルカーなど都内の全749の駅・停留所を対象にした中で、下から数えて“堂々の54位”である。 54の中には、都電の停留場が27、ケーブルカーの駅が4含まれている。 実質的にはワースト20にランク入りできそうだ! ちなみに、下から60位前後には、小田急線の南新宿、多摩都市モノレールの万願寺、東武亀戸線の亀戸水神、東武伊勢崎線の堀切、東京モノレールの新整備場などの駅がランクインしている。

・・・・・・・・・・・・足立小台駅は平成20年(2008)3月30日に、日暮里舎人ライナーの開通と同時に開業した。 ホームは島式1面2線構造で3階にある。 出口は1ヶ所のみで、尾久橋(隅田川)と扇大橋(荒川)の間に出る。 駅前にはロータリーがあるが、このロータリーは堤防の最上部を走る道路面の高さである。 実はこの下に、旧来の道路面がある。

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・・・・・・・・・・・・駅前のロータリーから下の道路に下る階段、、、、川沿いの工場、事務所などは全て、この下の道路に面している。

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・・・・・・・・・・・・隅田川を渡る日暮里舎人ライナー、、、、後ろの尾久橋には都道が通っている

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・・・・・・・・・・・・荒川を渡る日暮里舎人ライナー、、、、並行するのは扇大橋

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・・・・・・・・・・・・足立小台駅から堤防上を東に向かい歩く、チョイト寒いね。、、、、写真:右側のマンションの後ろには隅田川が流れている。 左側は荒川。、、、、足立小台駅を利用するのは右側の住人と、工場などに勤める人ぐらい!

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・・・・・・・・・・・・マンション前を通り過ぎ、工場、倉庫がある辺り、堤防上から眺めると、、、、最上段の堤防上の道路に私がいる、その下にバス通りがある、さらに下にマンション・倉庫・工場が並び面する道路がある。、、、、三段腹の道路!

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・・・・・・・・・・・・二段目のバス道路から眺めると、上にも、下にも道路がある。(あたり前田のクラッカー!) 

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● 足立小台駅から堤防上を1km程歩き、下の道路を歩くと、UR都市機構の「リバーサイド桜木団地」がある。 昭和56年(1981)に完成した団地。、、、、隅田川と荒川に挟まれた団地は、気のせいか、寒い! ホットコーヒーを買うコンビニがない! 何やら、落ち着かない! このままだとズボンを濡らし、大変なことになる! 恥ずかしさをこらえ、通りがかりの主婦に聞いた『この辺にトイレありませんか?』 親切に公園を教えてくれた、これにて一件落着!!
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・・・・・・・・・・・・この先は、尾竹橋を渡り町屋駅まで歩く。、、、、尾竹橋を渡ると荒川区

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