西日暮里・谷中
明日(10日)、明後日(11日)は寒波襲来で、日本全国寒さが増すらしい。 ここ数日、寒さで散歩せずにいたが、今日はチョイと寒くても歩いて来ようと家を出た。 行先は“谷中”、JR西日暮里駅で降り、道灌山から諏訪台通りを歩き鶯谷駅まで、寺社を巡って1万1千歩の散歩です。
● 昭和44年(1969)12月20日、帝都高速度交通営団(現:東京メトロ)千代田線の西日暮里駅が開業。 昭和46年(1971)4月20日、地下鉄千代田線との乗り換え駅として国鉄の「西日暮里駅」が開業した。 山手線のなかで、唯一“昭和”、それも“戦後の昭和”に開業した駅である。(令和2年(2020)に山手線には「高輪ケートウェイ駅」が開業) 西日暮里駅は島式ホーム2面4線を有する高架駅で、千代田線構内でJRへの乗り換えを可能にするための中間改札が地下にある。


・・・・・・・・・・ 開成学園(写真左側)と西日暮里公園(写真右側)を結ぶ歩道橋から撮影したJR西日暮里駅。中央の道路は道灌山通り。 東京メトロ千代田線の西日暮里駅は道灌山通りの地下。
・・・・・・・・・・ 「開成学園」は、開成中学校・高等学校からなる中高一貫教育を提供する私立男子中学校・高等学校。 令和7年(2025)の入試では、東大文系の合格者48名(現役32名、OB16名)、東大理系の合格者102名(現役75名、OB27名)という、超進学校! ちなみに、硬式野球部はあるが、あまり強くないみたい! 
・・・・・・・・・・ 開成学園や西日暮里公園のある台地は「道灌山」とよばれ江戸時代には眺めがよく、筑波や日光の連山、そして下総国府台(現市川市)などをのぞむことができる。 道灌山は、上野から飛鳥山へと続く台地上に位置する。 道灌山の地名の由来として、中世、新堀(日暮里)の土豪、関道閑が屋敷を構えたという説、江戸城を築いた太田道灌が出城を造ったという説などがある。、、、、、「西日暮里公園」のあるこの地は、明治7年(1874)、この一帯が旧加賀藩前田家に売却され同家の墓地となり、昭和48年(1973)その跡地に西日暮里公園が開設された。、、、、、公園は西日暮里駅ホーム前の崖上にあり、公園から電車を見下ろすことができる。
● 西日暮里公園の南側に「諏方神社(すわじんじゃ)」が鎮座する。、、、、、諏方神社は、元久2年(1202)豊島左衛門尉経泰が信州諏訪神社より勧請して創建した。 江戸期には慶安2年(1649)には社領5石の御朱印状を拝領、日暮里(新堀)村・谷中町の総鎮守として崇敬を集めただけでなく、日暮の里<ひぐらしの里>として江戸有数の景勝地としても有名だったといいます。、、、、、社名の「諏方神社」は、“諏訪”ではなく“諏方”としているのは、古来の表記である。 かつては“諏訪神社”の名には、“諏方神社”の方が多かった。 古来の表記を採用している“諏訪神社”は、現在全国で一万有余あるうち、三~四社のみになったとのこと。、、、、、境内は都心の神社にしては広く、木々が多く、静かでいい雰囲気。

・・・・・・・・・・ 神社の境内からJR西日暮里駅の西側脇に屈曲して下る急な階段坂「地蔵坂」がある。 坂の名は、諏方神社の隣りにある別当寺であった浄光寺の江戸六地蔵の三番目が安置されていることにちなむ。

・・・・・・・・・・ 諏方神社の隣りには、江戸六地蔵の三番目を祀る、真言宗豊山派寺院の「浄光寺」がある。 法輪山法幢院と号す。 山門の左手には元禄4年(1691)に空無上人が勧請した地蔵菩薩像(江戸六地蔵の三番目)、文化6年(1809)に再建した地蔵菩薩立像がある。、、、、、浄光寺は眺望にすぐれた諏訪の台地上にあり、特に雪景色がすばらしいというので「雪見寺」ともよばれたそうだ。 現在は眺望が良いか、私には(?) “雪見大福”でも売ると人気が出そう!



● 諏方神社、浄光寺の前の道「諏訪台通り」を歩いて南に向かう、、、、、諏訪台通りの付近は寺町で、たくさんの寺院があって風情があり、寺院巡りをするインバウンド客の姿もチラホラ見える。 高台であることから、昔は眺望が良かったと思われるが、今はどうだろう?
● 西日暮里公園から300m程歩いたところに、真言宗豊山派の寺院「養福寺」がある。 養福寺は補陀落山観音院と号す。 開創の確かな年代はわからないが、初代住職という乗蓮は寛永3年(1626)に没したと伝えられている。、、、、、養福寺の山門奥に朱塗りの仁王門が見える。 もとの本堂や観音堂などほかの建造物は戦災で失われましたが、宝永年問(1704~1711)建立と伝えるこの仁王門は焼失を免れて、江戸期の木造建造物として現在に残ったものだ。 門の表側には阿吽の表情の仁王像一対が出迎えてくれる。、、、、、境内は樹木も多く、落ち着いた雰囲気が感じられる寺院である。



● 諏訪台通りを南に歩き、日暮里駅北口から谷中銀座に向かう通りに出た。 ここには、慶応4年(1868)の上野戦争に敗れた彰義隊士が寺へ隠れたため、新政府の攻撃を受けた。 天保7年(1836)建立の山門には銃撃を受けた弾痕が今も残る、日蓮宗の寺院「経王寺」がある。 経王寺は明暦元年(1655)創建の日蓮宗の寺院で大黒山と号し、境内の大黒堂には日蓮上人作という大黒天が祀られています。、、、、、 門前は谷中銀座へ行く人が多く歩いているが、境内は静かで梅の花が咲いていた。

● 西日暮里駅から経王寺までは荒川区西日暮里。 諏訪台通りをそのまま延伸し、これより台東区谷中の町に入る。
・・・・・・・・・・ 写真の右側は「吉川錻力店」。 ブリキ屋である。 ブリキなどで屋根や壁を貼ったり雨どいを取り付けるような仕事かと思うが、なにか生活用具なども作っていたのかもしれない。、、、、、左側は、大丸松坂屋百貨店の創造型マーケティング組織「未来定番研究所」。 以前は、「銅菊」と称し、谷中で3代にわたって銅細工を手がけた職人の屋号です。、、、、、“お江戸”の“下町”だ!
・・・・・・・・・・ 「朝倉彫塑館」は、彫刻家朝倉文夫の住宅兼アトリエ(大正12年(1923)竣工)を、美術館として公開している。 この家の主、朝倉文夫は日本の近代彫塑の技法を確立し、生涯驚異的ともいえる数々の作品を製作した。 この建物は昭和3年(1928)から7年の歳月をかけて新築し、朝倉氏自らの設計によるものです。 本館は西洋建築のアトリエ棟と竹をモチーフとした日本建築の住居棟で構成されている。、、、、、今日は前を素通り、日を改めて来ます!
・・・・・・・・・・ 赤穂浪士ゆかりの寺 観音寺、、、、、新義真言宗の「観音寺」は、蓮葉山妙智院と号し、慶長年間(1596~1615)の創建。 赤穂浪士討入りに名を連ねた近松勘六行重と奥田貞右衛門行高が当寺第6世朝山大和尚の兄弟であったことから、赤穂浪士討入りの会合にもよく使われ、討入り後には赤穂浪士供養塔が建立された。
・・・・・・・・・・ 観音寺築地塀は国指定有形文化財、、、、、観音寺は明和9年(1772)の火災で灰燼に帰した後,文政年間頃に再興された。築地塀は境内の南面を画する延長37.6mのいわゆる練り塀で、瓦と粘土を交互に積み重ねて造り潜り戸一所を備える。 浅草と並ぶ江戸有数の寺町であった当時の面影を伝える。
・・・・・・・・・・ 観音寺から南へ100m程歩くと、浄土宗総本山知恩院の末寺である「功德林寺」がある。 その境内に、江戸時代から伝わるわらべ歌『向こう横丁のお稲荷さんへ一銭あげて ざっと拝んでお仙が茶屋へ……米の団子か 土の団子か』で知る人ぞ知る「お仙が茶屋」の笠森お仙がいた水茶屋(道端や寺社の境内で湯茶を飲ませた茶屋)で、笠森稲荷の赤い鳥居前にあった「鍵屋」のこと。 「鍵屋」を開いたのはお仙の父・五兵衛で、年頃となった彼女(お仙は“江戸三美人”の一人となる)が店で茶くみをするようになると、お仙を目当てにした客で大変繁盛した。 お仙のブロマイドならぬ錦絵は飛ぶように売れ、鍵屋では彼女をモデルに手ぬぐいや絵草紙などのグッズも販売したそうだ。 現在のアイドルのような存在でした。 功德林寺の境内には、そのお仙ゆかりの「笠森稲荷」が祀られている。 
● 谷中4丁目に安産飯匙(しゃもじ)の祖師を祀る瑞輪寺の祖師堂(東京七面山)がある。、、、、、堂に祀るは、江戸十大祖師の一人で、除厄・安産の飯匙祖師である。(“飯匙”と書いて“しゃもじ”と読む) 文永11年(1274)3月13日、日蓮が佐渡流罪から放免となって鎌倉に向かう途中、武蔵国の久米川あたりに関善左衛門という人がいて、その妻が難産に苦しんでいて、日蓮に助けを恋うた。日蓮は家にあった飯匙に御本尊をしたためて妊婦にいただかせた。するとたちまち母子ともにつつがなく安産となった。 そして一家一門感激して入信し、日蓮像を彫って、谷中に善性寺を恋うたて安置しました。後に感応寺に移して、庶民の間に安産のご利益が広まり信仰を集めた。 感応寺が改宗することになり、瑞輪寺に勧請して、現在までご利益を求める方々の信仰を集めている。、、、、、しゃもじを抱いて安産ができる、どこぞのマタニティクリニックで実行してみたら流行すかも?

● 真言宗豊山派寺院の「長久院」は、瑠璃光山薬師寺と号す。 長久院は、慶長16年(1611)2月宥意が神田北寺町に開山、慶安11年(1658)当地へ移転した。、、、、、 本堂前に、「六十六部造立石造閻魔王坐像及び両脇侍像」が祀られている。 その説明板には、『この石仏は、中央に閻魔王像、右左にそれぞれ司命、司録像を配しています。閻魔王は死者の生前の行いに応じて死後の行き先を決めるという冥界の王で、司命は閻魔王の判決を言渡し、司録は判決内容を記録する従者であるとされています。台座に刻まれた銘文によると、この三躰は六十六部聖(六部聖ともいう)の光誉円心という人物が享保11年(1726)に造立したものです。六十六部聖とは「法華経」を六十六部書写し、全国六十六箇所の霊場に一部ずつ奉納した聖のことをいいます。江戸時代になると経典の奉納の他に、石塔・石仏を各地に造立するようになりました。経典の書写や石塔・石仏の造立を重ねることは、生前の罪障を滅し、死後の往生に近づくこととされたためです。都内に現存する六十六部聖が造立した石仏を調べてみると、地蔵菩薩像が圧倒的に多く、閻魔王像は極めて稀であることが分かります。本像は六部聖が江戸時代の谷中でも活動していたことを裏付けるとともに、希少な石仏として貴重な文化財の一つです。』と記されてた。 この閻魔は、にこやかな顔をしており、「笑い閻魔」とも呼ばれているそうだ。 ウハウハ!


● 西日暮里から寺社巡りをして「鶯谷駅(うぐいすだにえき)」に到着。、、、、、明治45年(1912)7月11日に鉄道院東北本線の駅として開業。 ホームは既に電車運転を開始していた運転系統としての山手線のみに設置された。 このため実際上は上野駅 - 田端駅 -池袋駅 - 新宿駅 - 品川駅 - 烏森駅間に運転された山手線の駅としての開業であった。 大正14年(1925)には山手線の線路を利用し京浜線の運転が田端まで延長され、乗入路線数が2路線となる。、、、、駅正面にラブホテルが密集している“大人の駅”(?)でも、治安は悪くないようだ。(よく知らないが!)









































































































































































































