大田区

2025年1月13日 (月)

大井の大佛

今日は成人の日で祝日、浅草橋駅から都営浅草線西馬込行きに乗る。 学生はいない、サラリーマンの姿も見えず、朝8時の電車は空いている。 ガラガラの浅草線は久しぶりだ! 『さてさて、何処で降りようか?』 特に行先のあてもなく終点の一つ手前馬込駅で下車する。 駅前で地図を見て、JR大井町まで歩くことにした。 9千歩の散歩です。
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● 「馬込(まごめ)駅」は、昭和43年(1968)11月15日、浅草線(当時は都営1号線)西馬込~泉岳寺間開業時に設けられた駅。この区間の開業によって、浅草線は全通した。 ホームは島式1面2線構造で、地下2階にある。 改札口は地下1階に2か所あり、その内の1ヶ所の出入口は環七通りと第二京浜が交差する日本初の立体交差点「松原橋交差点」の下にある。(今日は、別の出入口を利用した)、、、、駅は第二京浜(=国道1号)の地下にあり、国道の交通量は多いと思うが、駅前には大きな店舗はなく、比較的静かな落ち着いた駅である。
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・・・・・・・・・・ 駅前の第二京浜
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● 南北に伸びる第二京浜を挟んで、東側は東馬込の町、西側は北馬込の町。 JR大井町駅を目指す私は、東馬込の町を抜け、品川区西大井の町を北東方向に歩き、大井町駅に向かうことにした。 馬込駅から東馬込の町に入ると、起伏の多いことに気が付いた。 到る所に階段・坂道があり、登ったり下ったり、年寄りにはキツイ町である。
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● 大田区東馬込から隣の品川区西大井の町に入ると天台宗寺院の「帰命山養玉院如来寺」がる。 この寺は、かつて上野(台東区)にあった養玉院と芝高輪(港区)にあった如来寺の2寺が大正12年(1923)に合併して成立し、前身二寺の名称から「帰命山養玉院如来寺」と号した。、、、、如来寺は寛永年間(1624~1644)に芝高輪に創立されら寺で、五智如来が安置されているところから、俗に高輪の大佛と呼ばれ、明治41年(1908)に現在地に移転した。 大壇越に大和高取藩主植村侯があり、歴代の墓域がある。、、、、養玉院は寛永12年(1635)に創立され、上野寛永寺の塔頭三明院がその前身である。 元禄11年(1698)に下谷坂本に移って養玉院と改め、この頃対馬の領主宗家の菩提寺となる。 大正12年(1923)如来寺と合併して、現在の場所に移った。、、、、私は、この寺に5年程前にも訪れてる。 久しぶりです!

・・・・・・・・・・ 平成元年(1989)に落慶した山門、、、、山門をから本堂まではチョイトした上り坂
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寛永5年(1628)頃建立された養玉院の本堂。 大正12年(1923)下谷坂本から移築したものである。 現在の本堂
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・・・・・・・・・・ 本堂の隣りに、
五智如来堂の瑞應殿(ずいおうでん)がある。 瑞應殿には五智如来像(大日如来、薬師如来、宝生如来、阿弥陀如来、釈迦如来)が安置されている。 五智如来とは密教の主尊である大日如来の有する5種の智恵を象徴したものである。 5体とも像高:約3mで、「大井の大佛(おおいのおおぼとけ)」として親しまれている。 ただし、薬師如来像以外は享保10年(1725)と延享2年(1745)の火災で焼失、その後再興された。
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・・・・・・・・・・墓地には
対馬厳原の藩主宗対馬守を弔う宗家墓所がある。、、、、宗氏(そうし)は、日本の氏族のひとつ。中世から近世にかけて対馬国を支配した守護・戦国大名・近世大名の氏族。秦氏の末裔惟宗氏の支族だが、室町時代中期頃より平知盛を祖とする桓武平氏を名乗るようになった。
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・・・・・・・・・・ また植村家墓所もある、、、、植村家保は天保8年(1837)、近江膳所藩主・本多康禎の七男として生まれる。 嘉永6年(1853)に高取藩の第12代藩主・植村家興が急死したため、その末期養子となって家督を継ぎ、第13代藩主となる。
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● 如来寺から300m程北東に歩くと、新幹線高架橋の下に金子跨線橋
(品川区西大井4)がある。 ごく普通のコンクリート橋で、これといった特徴もない。 建設年は不明であるが、昭和39年(1964)以前の東海道新幹線建設時に架けられたものと思われる。 新幹線は高架の上で、その高架下に跨線橋が架かり、跨線橋の下には堀割の底を横須賀線の電車が通るという三層構造になっている。

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● 裏道を歩き北東に向かうと、カメラのニコン本社のある「光学通り」に出た。、、、、ニコン本社の建物は、「本社/イノベーションセンター」と、既存の自社施設を改修した「イーストサイト」「ウエストサイト」の合計3棟から成る。 約400億円を投じて竣工した本社/イノベーションセンターには、本社勤務社員の7割超を占める約3000人がここで働く。 建物は鉄骨造6階建て。 全長約150mの東西に長い形状をしており、延べ面積は約4万2000m2。 設計は三菱地所設計、施工は安藤ハザマ。、、、、スマートな感じの建物だ!
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● ニコン本社ビルの向かい側、歩道の中に「元禄八年銘道標」がある。 脇の案内板には以下のように書かれてる。 『本道標は、元禄8年(1695)に品川用水に石橋を架けた大井村の寂証ら58名の念仏講中が、石橋の安寧と通行者の安全を願って建立。 正面に「南無阿弥陀仏」、側面には「従是(これより)池上本門寺道」「従是奥澤九品佛道」という行先を刻んでいる。 この道は東海道と中原街道を結ぶ道の途中にあり、池上本門寺と九品仏方面に至る分岐点に建てられたもの。 (以下略)』、、、、建てられてから300年以上経過し、彫られた文字も読みにくくなったようだ!
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● 光学通りを歩いて、JR大井町駅に到着。、、、、駅周辺には振袖の娘が目立つ『そうだ! 今日は成人の日』 大井町駅前の区民会館で祝の集いがあるようだ。、、、、私の成人式は60年程昔のこと、何をどこでやったかスッカリ忘れた!
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・・・・・・・・・・ 大井町駅から電車で帰宅
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2024年10月10日 (木)

六郷土手から京急蒲田

今日は、京浜急行本線の六郷土手駅で下車し、六郷神社、七辻を通り、京急蒲田駅までの、1万1千歩の散歩。



● 京急蒲田駅で普通に乗り替え、多摩川土手に接する「六郷土手駅(ろくごうどてえき)」で下車する。、、、、六郷土手駅は、明治39年(1906)10月1日、京浜電気鉄道の六郷堤駅として開業し、その後、現在の六郷土手駅に改称した。 駅は昭和20年の空襲で全焼し、戦後になって再建された。 昭和47年頃の六郷川鉄橋(現:六郷川橋梁)架け替えに伴い駅は高架化された。 ホームは相対式2面2線で、改札は高架下に設置されている。 駅はその名のごとく六郷川(多摩川)の土手上にある。 ホームの川崎寄りは京急六郷川橋梁に接するぐらい近い!、、、、高架駅ではあるが薄暗い高架下の雰囲気はレトロ感があり、“六郷土手”という何となく泥臭い駅名と共に昭和の匂い漂う駅である。
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● 六郷土手駅を出て、多摩川に向かうと「北野天神」がある。、、、、第8代将軍徳川吉宗の乗馬が暴走した際に落馬をを止めたことから、東海道を往来する武士から「落馬止め天神」と称されるに至り、この加護にあやかり将軍指南役の柳生家留守居役が近くに屋敷を構えた。 農民や町民は「止め天神」と呼んだそうだ。、、、、神社は天満宮本来の学問のみならず、災いや痛みを止め、「落ちない」ことを祈願すると、御利益があるらしい。
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● 北野天神の脇から多摩川土手に上がると、多摩川(=六郷川)の対岸には川崎市のビルが建ち並び、右手に京急六郷川橋梁、左手に第一京浜(=国道15号)の六郷橋が見える。

・・・・・・・・・・ 京急六郷川橋梁 、、、、京急の電車が初めて多摩川を渡ったのは、明治34年(1901)2月1日である。 このときは、単線の仮の木橋であった。 明治39年(1906)には、複線の木橋が架けられた。 明治42年(1909)に六郷川鉄橋の建設に着手し、2年後の4月1日に、6連のトラス橋、上路プレートガーダー、全長515.897mの堂々とした鉄橋が完成した。、、、、昭和47年(1972)3月31日に、現橋である京急六郷川橋梁が完成した。 プレートガーダー桁なしの8連トラス橋、全長550.56mである。 トラス橋が見事に連なり壮観である。
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・・・・・・・・・・ 六郷橋 、、、、京急六郷川橋梁の下流側に、第一京浜が走る六郷橋が架かっている。 現橋は、旧六郷橋を段階的に拡幅するために、昭和54年(1979)に着工し、平成9年(1997)に全ての工事が完了し、今の六郷橋となった。 長さ443.7m、幅34.4m。 橋の幅は倍以上となり、車道も片側3車線に増加した。 総工費は約125億円とのこと。
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・・・・・・・・・・ 六郷橋の六郷橋の北詰にある宮本台緑地(大田区側)に、大正14年(1925)に開通した旧橋の橋門・親柱が残されている。 鉄骨の橋門、石造の親橋ともに、かなり立派なもので、堂々とした橋であったことがうかがえる。
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● 六郷土手駅から500m程北東へ歩くと、第一京浜に面し六郷神社がある。(東六郷3)、、、、天喜5年(1057)源頼義、義家の父子が、この地の大杉の梢高く源氏の 白旗をかかげて軍勢をつのり、石清水八幡に武運長久を祈ったところ、士気大いに奮い、 前九年の役に勝利をおさめたので、凱旋後、その分霊を勧請したのが、六郷神社の創建と言われている。 文治5年(1189)源頼朝もまた奥州征定の時、祖先の吉例にならい、白旗を立てて戦いでの勝利を祈願したので、建久2年(1191)梶原景時に命じて社殿を造営した。、、、、現本殿は享保4年(1719)建立、拝殿は昭和62年(1987)に総檜権現造で建て替えられた。 また、現存する神門前の石造神橋は、梶原景時が寄進したものである。、、、、 六郷の総鎮守で、広い境内には立派な社務所もあり結婚式もできるそうだ、大きな神社である。
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・・・・・・・・・・ 境内には、明治7年(1874)に架けられた旧六郷橋木橋の親柱が残されてる
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● 第一京浜国道より一本東側に入った裏通りを歩くと東六郷と南蒲田の町境にある「七辻」の交差点に出た。 その名の如く、七本の道路が交差する交差点である。 交差する道路の道幅はさほど広くはないが、それなりに交通量は多いようだ。 しかし信号機はない! ドライバーの譲り合いの精神により信号機は不要なのかも?、、、、七辻をパノラマ風に撮影したが、7本の道路判るかな?
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・・・・・・・・・・ 七辻の上空写真
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● 七辻から「日の出銀座商店街」を歩き環八通りに出る。 日の出銀座商店街は、およそ550mの道路と、中程で分岐する道路沿いを含めた、およそ50件ほどの商店で構成された、地元密着型の商店街である。、、、、午前10時頃、人影はまばら、シャッターの下りた店もある。 チョイト商店街としては寂しいね!
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● 環八通りを横断し京急蒲田駅に到着。、、、、京急蒲田駅は、明治34年(1901)2月1日に、蒲田駅として開業。 大正14年(1925)に京浜蒲田駅に改称。 昭和62年(1987)に京急蒲田駅に改称。 平成13年(2001)に高架化工事に着手し、平成22年(2010)に上り線の高架化完成、平成24年(2012)10月21日には下り線の高架化も完成した。、、、、駅は2階・3階に島式ホーム2面6線を有する高架駅。 本線と空港線の分岐点である。
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2024年6月17日 (月)

西糀谷・大森中

近ごろ起床時間が早くなり、4時過ぎには目が覚めていることが多い。 今朝も4時半過ぎに起床し、5時には新聞を読んでいた。 私が早起きになったため、妻もつられて起きてくる。 6時には朝食も済ませ、『さて、今日は何処へ散歩に行こうかな?』と声をかけると、妻は『私も一緒に行くよ!』と返事。 しかし、5分後には『やっぱり、行かない。 一人で行ってきな!』 その妻の心は『高島屋(デパート)で孫の服を買ってくる』、、、、と、云うことで、今日は一人で散歩する。

6時半に浅草橋の地下鉄ホームに立ち『どこへ行こうか』思案橋。 次の電車は『羽田空港行だ。 ヨシ、これに乗ろう』、、、、乗っては見たが『どこで降りよか?』迷い橋。 いつの間にか、京急蒲田を過ぎ “次は 糀谷!こうじや”と、聞いて慌てて飛び降りて、気まりが悪い、照れ屋橋。 糀谷で降りてみたが、東西南北何処へ行く? 気ままに歩いて9000歩、着いたところは「大森町」(京急の駅)

 

● 京浜急行の「糀谷駅(こうじやえき)」は、明治35年(1902)6月28日に羽田支線として蒲田~稲荷橋間 (3.6km) の開通と同時に開業した。 思った以上に古い駅である。 現在の高架駅に変わったのは平成22年(2010)~平成24年(2012)。、、、、“糀谷”の地名の由来は判らないが、現在は糀谷駅の北側が“西糀谷”で、西糀谷と羽田空港に挟まれた一帯が“東糀谷”。 東西を冠しない、単なる“糀谷”の地名は消滅した。

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● 糀谷駅から駅前商店街をさけて、西糀谷の裏通りを歩く

・・・・・・・・・・ まずは、“裏通り”と言うより“裏路地”(西糀谷4)を歩いて見たら、ズ~ット奥で行止まり。 

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・・・・・・・・・・ 西糀谷4丁目に「糀谷神社」がある。 糀谷神社の創建年代は不詳だが、村民久左衛門が創建したといわれてる。(久左衛門と言われても、知ってる人はいるのだろうか? もちろん私も知らない) 明治維新後には村社に列格した。、、、、ここの神社の鳥居の横には天祖神社の社号標がある。(この糀谷・羽田地区付近には天祖神社が多いので間違いやすい)

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・・・・・・・・・・ 糀谷小学校の前を歩き、右に曲がって、また右に、次は左に歩いていたら、「叶仏堂(かなぶつどう)」(西糀谷1)の前に出た。、、、、堂内の中央に「庚申塔」がある。延宝6年(1678)に糀谷村庶民有氏で造立。 右隣には大日如来像がのった「六十六部供養塔」がある。 糀谷村の信仰を物語る石仏だ!

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・・・・・・・・・・ 叶仏堂から北へ歩くと、住宅地の路地の奥に「仲江名天祖神社」と刻まれた社号標がある神社が見える。 小さな境内だが、踏石が敷かれた参道を進むと鉄筋コンクリート造の社殿があります。 社殿も含めて境内が近年整備されたようだ、この神社も村民久左衛門が創建したと伝えられてる。 現在の社名は「東仲江名天祖神社」(西糀谷2)である。

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● 西糀谷の北端に流れる呑川。 そこに架かる「北糀谷橋」を渡ると北糀谷の町。

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● 北糀谷小学校の前をとおり、「大森中(おおもりなか)」の町に入る。 下町の雰囲気が残る町。

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・・・・・・・・・・ またまたあった小さな神社「堀之内三輪神社」、、、、大森周辺は武蔵国大森と称し、堀之内は大森の本村として伝承された古い地名だ。 堀之内は本村として早くから開け、住民は農業と漁業を生業として集落を形成し、氏神が住民の支柱だった。 三輪神社は、享徳年間(1452~1456)に土地開拓の神として大国主命を祀り、村人の崇敬を集めたのが創始と伝わる。

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● 大森中の町を抜けると第一京浜(=国道15号)に出る。 国道を横断すれば京急の「大森町駅」

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● 「大森町駅(おおもりまちえき)」は、明治34年(1901)2月1日、六郷橋~官設大森駅間開通時に開業。 開業時は道路上の停留所であったが、明治39年(1906)に新設軌道上に移行し、のちに大森山谷駅と改称した。 現在は高架駅となった。、、、、綺麗で立派な駅だが、普通列車しか停車しない駅、チョイト可哀そう!

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2023年11月28日 (火)

羽田の下町

京浜急行空港線の天空橋駅で降り、大田区羽田6丁目と羽田3丁目の町をじっくり散歩して、穴守稲荷駅から帰って来た。 1万歩の散歩




● 京浜急行空港線で、海老取川を渡り羽田空港のある空港島に入ってスグの位置に在る天空橋駅で下車する。 駅は空港島の地下に造られた、相対式2面2線の地下駅。 同じく地下駅の東京モノレールの天空橋駅と乗り換えできる。、、、、京浜急行空港線は、明治35年(1902)穴守線として大森~穴守稲荷間が開業した。 その後、海老取川を越えて空港島に延伸したが、戦後は空港島が連合軍に接収され、しばらく海老取川を越えることなく、川の手前に羽田空港駅を開業した。 平成5年(1993)、空港の沖合展開事業が進み、現在の天空橋駅がある位置に地下駅:羽田駅を開業した。 同時期に東京モノレールも羽田駅を開業し、共に地下で接続した。 その後、空港のターミナル(ビックバード)に京浜急行と東京モノレールが乗り入れ、羽田駅は単なる途中駅となり、名前も海老取川に架かる人道橋名の「天空橋」に変えた。、、、、京浜急行の天空橋駅は、出入口が1ヶ所のみ。 地下から地上に出ると幅広い道路の先に、複合施設のイノベーションシティが見えるが、駅の出入口周辺は殺風景だ!

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● 天空橋駅から海老取川に沿って歩き、羽田の大鳥居がある弁天橋を渡る。、、、、弁天橋を渡り、左側(多摩川河口側)一帯が羽田6丁目の町である。

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● 空港島が埋め立てられる以前は、多摩川河口の先端の町であった羽田6丁目と3丁目。 かつて漁村であった。 現在は、6丁目に約1200世帯(約2300人)、3丁目には約1300世帯(約2500人)が暮らす、下町の匂い漂う街。 弁天橋から蒲田駅方面に向かうバス通り:弁天橋通り沿いにはビル・マンション・工場が建っている。 しかし、一本裏道に入ると、主に住宅とアパートが密集し、防災上最も危険な木造密集地区である。、、、、今日の散歩は、多摩川と弁天橋通りに挟まれた、羽田6丁目・3丁目の細い裏道を、神社を探しながら行ったり来たり。


・・・・・・・・・・ 多摩川河口に長さ50間(90m)にわたって、洪水による侵食から守るために護岸として石積みの沈床が設けられたことが“五十間鼻”の名の由来。 もともと、多摩川河口は、潮流の影響で海からの漂流物が多い場所。 関東大震災の火災、昭和20年の東京大空襲(死者は11万5000人超)による火災で、多くの市民が多摩川などの河川に逃げ、河口の五十間鼻に漂着し、無縁物となった水難者も多かった。  水難者を供養する角塔婆が、地元の人々によって河口の川の中に「五十間鼻無縁仏堂」として建立されている。、、、、海に突き出すように祀られている。 犠牲者のご冥福を祈り 合掌

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・・・・・・・・・・ 五十間鼻無縁仏堂から多摩川沿いに50m程歩くと、堤防の下、民家に挟まれ小さなお稲荷様が祀られている。 福守稲荷だ。

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・・・・・・・・・・ さらに堤防上を50m程歩くと、公園のような境内に、玉川弁財天、水神社、妙力地蔵尊が祀られている。、、、、玉川弁財天の創建年代は不詳だが、古くより弁天社として祀られ、弘法大師が護摩の灰を固めて自ら制作した神体があり、龍王院が別当寺となっていたと言われてる。 昭和20年(1945)連合軍の強制立退命令により、玉川弁財天は水神社のあった当地に遷し現在に至ってる。、、、、弁財天の向かいに、なぜか白い鳥居(?)と一回り小さな社殿の水神社が祀られてる。 水神社の創建年代は不明。 毎年5月11日に「水神祭」が執り行われ、船で羽田沖に向かい、神酒を海に捧げ、海上安全と大漁を祈願しているそうだ。、、、、境内の隅に祀られている妙力地蔵尊は、数年前までは、弁天橋通りに面し、穴守稲荷の残された鳥居や白魚稲荷神社の近くに祀られていたが、付近一帯の取り壊しで現在地に移った。

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・・・・・・・・・・ 玉川弁財天前の堤防沿いの道路に、煉瓦造の旧堤防が残っている。 煉瓦堤防は大師橋の先まで約2㎞ほど続く。、、、、かつての多摩川は、かなりの暴れ川で、たびたび洪水を起こしていた。 大正7年(1918)から行われた河川改修工事で、この煉瓦造りの堤防が築かれた。、、、、今ではこの堤防の外側にシッカリとした堤防が築かれており、この煉瓦堤防は役割を終えた。 堤防沿いの住宅は、この煉瓦堤防をチョイト低い塀と思い利用しているようだ!

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・・・・・・・・・・ 玉川弁財天の北西60~80m程の処に、新しい鳥居の小さな藤崎稲荷神社がある。 由緒書など無く一切不明、、、、ひょっとすると。 藤崎家の邸内社かも? どうでもいいか!

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・・・・・・・・・・ 緊急車両はもちろん軽自動車も入れない裏道。 でも、生活道路だ!

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・・・・・・・・・・ 芸術的なタイル張りの塀。 色も模様も異なるデザインの塀で囲まれた住宅。 御主人はタイル屋さんかも? 

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・・・・・・・・・・ 羽田6丁目の多摩川べりに国土交通省が管理する羽田第一水門がある。 昭和63年(1988)竣工、大成建設施工の堂々とした水門で、水門の裏側には高潮時緊急避難用の船溜まりがある。、、、、羽田の住民を高潮から守る、頼れる水門らしい。

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・・・・・・・・・・ 水門から北西に100m程、道幅の狭い住宅地の中に鷗稲荷神社がある。 鷗稲荷神社は、付近には鷗が多く、大漁の兆しとしてまつられたことから鷗稲荷神社と称されるようになったと言われてる。 鷗稲荷神社の創建年代は不詳だが、境内鳥居に弘化2年乙巳年3月吉祥日と刻まれていることから、弘化2年(1845)には創建されていたものと推測される。

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・・・・・・・・・・ 鷗稲荷神社の前の道は“羽田道”である。 羽田道は、東海道から内川橋際(大森東2丁目)で分かれ、羽田方面に至る道。 内川橋から大鳥居交差点(東糀谷3丁目)まで旧道が残っている。 産業道路ができるまで、羽田でとれた魚などを運ぶ生活道路であった。

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・・・・・・・・・・ 羽田3丁目に入る、、、、3丁目も道幅の狭い通りが多い(私好みの路だ!)

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・・・・・・・・・・ 狭い路の片隅に鎮座するのは弥五エ門稲荷神社。 神社の由緒は不明だが、弥五エ門は恐らく江戸時代の猟師町の名主:鈴木弥五右衛門のこと。 多摩川河口にできた低湿地の土地を、羽田村の名主石井四朗右衛門に折衝し譲り受け、羽田請負新田として幕府に願い出て開墾し、“鈴木新田”を作った。 その鈴木弥五エ衛門に因んで祀られたお稲荷さんか?

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・・・・・・・・・・ 引き続き、裏道を歩き京浜急行穴守稲荷駅に向かう

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● 今日は穴守稲荷には立ち寄らず、穴守稲荷駅から帰る

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2023年6月13日 (火)

チョッピリ旧街道

朝から雨が上がり、梅雨の晴れ間か? 京浜急行梅屋敷駅から立会川駅まで旧東海道を歩いて来た。 1万1千歩



● 普通列車しか停車しない「梅屋敷駅」だが、駅の開業は明治34年(1901)2月1日と古い、今年で開業122年になる。 開業当時は道路上の停留所だったそうだ(私はまだ生まれておらず、知らない!) 今は立派な高架駅。

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● 京急線の東側に平行する国道15号(=第一京浜)を横断し、大田区大森中の「梅屋敷東通り」商店街を歩く。 戦後発足した地元密着型の商店街、まだ9時前なのでシャッターが下りてる店が多い。

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・・・・・・・・・・ 商店街の中に数件(5件以上ありそうだ)の八百屋がある。 なぜか、八百屋だけはどの店もシャッターを上げ営業準備中。、、、、そんな中に、一軒の粋な店があった、その名は『八百長』 屋号に“激安”を冠し、本当か?

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・・・・・・・・・・ 八百長の正面奥に、日蓮宗の寺「大林寺(だいりんじ)」がある。 創建年代は不詳、旧真言宗薬王院として創建され、長享2年(1488)に日蓮宗に改めた。 

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・・・・・・・・・・ 大林寺山門脇に「池上道道標」が残されてる、、、、享保14年(1729)に、大森村の日蓮徒で組織された甲子講の人々が建てたもので、東海道から分かれて池上本門寺に至る大森中宿の池上道の追分にあったが、京浜急行梅屋敷駅付近に移され、さらに道路拡張などの事情により現在地に移された。 道標の旧位置から、十五町(約1.5㎞)で池上本門寺に至り、更にそのまま品川宿に行けることを示している。 旧東海道の道筋にあった、現存する道標としては極めて少なく、しかも高さ1.6mという大型のもので貴重なものだ。

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● 大森警察署前交差点から「旧東海道」に入り、品川方向に歩く。 国道15号から1車線の細い道に入る、これが旧東海道。 現在は「美原通り」の愛称がある(以前は「三原通り」と呼ばれていた) 美原通りは、途中で環七通りと交差し、京急平和島駅の北側で国道15号に出る。、、、、旧東海道と言っても、街道の雰囲気を残す旅籠・茶屋などの建物はない。 チョイト残念!

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・・・・・・・・・・ 旧東海道(美原通り)の途中に大小二寺がある。、、、、まずは、浄土真宗本願寺派の「海松山 徳浄寺」 徳浄寺は、寛永4年(1627)四ツ谷に創建され、元禄年間(1688~1704)に現在地へ移転した。 ガンダーラ風の現本堂は昭和35年(1960)に建てられた。

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・・・・・・・・・・ もう一寺は、真言宗の寺院で昭和25年(1950)に建てられた比較的新しい寺。 こじんまりとした境内は、正面に本堂、右手にお稲荷さん、お地蔵さん。 そして、お百度石もある。 趣のある寺だ!、、、、でもチョイト一言、「美原不動院」と言う名は、私には、何となく“美原美容院”と聞こえるような?

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● 国道15号を北へ約400m歩くと、大森海岸駅の手前に「磐井神社(いわいじんじゃ)」がある。 チョイトお立ち寄り。、、、、磐井神社は、敏達天皇(在位572~585)の代に創建された、延喜式神名帳にも記載されている式内社の古社である。 貞観元年(859)に武蔵国従五位磐井神社官社に列し、武州八幡社の惣社に定められた。、、、、参道にはアジサイの鉢が並び、参拝者をお出迎え!

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・・・・・・・・・・ 神社前の歩道の縁にある井戸が社名の謂れとなった「磐井の井戸」 神社の真ん前の歩道にあるのだが、チョイト気づきにくい。 この井戸は、かつて神社の境内にあったが、国道15号の拡張で境内が削られたためこうなった。、、、、江戸期には東海道を行き交う人々の渇きを癒し、名水の名が高かった井戸である。

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● 大森海岸駅の付近で、北に向かってる私は大田区から品川区に入る。、、、、大森海岸駅鈴ヶ森刑場遺跡旧東海道天祖神社に立ち寄って、立会川駅から帰宅。(大森海岸駅から立会川駅までは、こちらをみてね!

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2023年6月 6日 (火)

雑色から梅屋敷

京浜急行の雑色駅から、裏通りを歩いて、糀谷駅前を抜け梅屋敷駅まで、1万歩の散歩です。




● 京浜急行本線の「雑色駅(ぞうしきえき)」で下車し、散歩を始める。 駅前に立ってはみたが、行先決まらず『さて、いずれの方向に歩くか?』 しばし、駅前で考え、これまでに歩いたことのない裏通りを歩いて見ることにした。、、、、雑色駅は普通列車のみが停車する駅だが、乗降客は比較的多く、京急線全72駅中16位である。 

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・・・・・・・・・・ 駅からの通勤客の多くは、駅前の国道15号(=第一京浜国道)を横断し、海側の工場が多い町へ向かって行く。 私も、
昭和の雰囲気が残る商店街「水門通り」を歩く!

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● 水門通りから、東六郷の町の裏道に入る。、、、、細い裏道、おはよう!、路地にアジサイ、通学時間、ゲートボール 

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● 東六郷・
荻中(はぎなか)の町を抜けると、京浜急行空港線の「糀谷(こうじや)駅、、、、今日は駅前を通過!

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● 糀谷駅前の商店街から横に入ると「西仲天祖神社」がある、チョイト手を合わせて行こう!、、、、西仲天祖神社の創建年代は不詳、村民久左衛門が創建したといわれてる。 村民久左衛門とは?、謎の人物か? 

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・・・・・・・・・・ 天祖神社から北へ、呑川に架かる宝来橋を渡ると東蒲田の町である。、、、、橋の両側は大田区の下町で、景色も大差なし!

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● 裏通りから東蒲田の「大田区総合体育館」の脇に出てきた。、、、、大田区総合体育館は以前の体育館が老朽化したため、平成24年(2012)に、現在のモダンな体育館に、「みる」スポーツと「する」スポーツを基本コンセプトに建て替えられた。 総工費は約51億円。 収容人数:約4,000人、設計者:石本建築事務所、施工:フジタ・幸建設・河津建設・甲田建設JV、鉄筋コンクリート造、一部鉄骨造、地上2階/地下2階の建物である。

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● 大田区総合体育館の正面に駅名:梅屋敷の由来となった「梅屋敷跡」がある。、、、、現在は「聖蹟蒲田梅屋敷公園」となっている。、、、、公園の案内板には、『梅屋敷と和中散売薬所跡  「和中散」は、食あたり、暑気あたり等に効く、道中常備薬としてつくられ、旅人に珍重された。 元禄から正徳にかけて(1688~1716)大森村中原、谷戸、南原に三店が開業した。 このうち南原にあった店が、のちに北蒲田村の忠左衛門に譲られ、この地に移転したという。 文政年間(1818~1830)の初め、忠左衛門の子の久三郎の代に庭園に梅の銘木を集めて、休み茶屋を開いた。 亀戸の梅林とともに梅の名所「梅屋敷」として有名になり、広重の浮世絵にも描かれた。 昭和50年3月19日指定 大田区教育委員会』と記されてる。

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・・・・・・・・・・ 梅屋敷跡から約300m歩き、京浜急行本線の「梅屋敷駅」から帰ることにした。

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2023年6月 1日 (木)

雑色へ

東急池上線池上駅から、京急本線雑色駅まで、9千歩の散歩です。




● 今日は、2年前の令和3年(2021)に駅ビル「etomo池上」が開業した「池上駅」から散歩を始める。、、、、駅ビルは相対式ホーム2面2線の地上駅の跨ぐように、線路上に建てられた5階建てビル。 1階はホーム、2階は改札、3階はスーパー、4階は区立池上図書館、5階は池上総合病院付属クリニックが入居している。 レトロな雰囲気の残っていた木造の旧駅舎はモダンな駅ビルとなり、本門寺参拝の風情はなくなりチョイト残念! これも時代の流れかな!

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● 池上駅から、本門寺を背にして、南の多摩川へ向かって歩く。

・・・・・・・・・・ 駅前の踏切を越え、池上6丁目の町を抜ける。 私の興味を引き付けるものは見当たらない。 

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・・・・・・・・・・ 東矢口1丁目に入っても、街並みは変わらず、もくもくと歩くだけ! 『何か面白そうなものはないかな!』、、、、【おまけの話】“東矢口(ひがしやぐち)”の地名は、“矢口”の東側の町だから。 では、“矢口”の地名の由来は、日本武尊が東征のとき矢合わせ(矢合戦)をしたところといわれている。 多摩川の対岸の川崎市には、“矢向”・“矢上”の地名が残っている。 話の真偽は???

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・・・・・・・・・・ 東急多摩川線の踏切を越えると新蒲田の町

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・・・・・・・・・・ 新蒲田3丁目に「道塚神社」がある。 道塚神社の創建年代は不詳だが、江戸期には日月宮と称し、隣接する大楽寺が別当寺を勤めていた。 天保2年(1831)天祖神社と改称し、大正3年(1914)に近隣の油山稲荷大明神、神明宮、熊野大権現、茅場稲荷大明神を合祀し、旧地名に因んで道塚神社となる。、、、、“道塚”は新蒲田に変わる前の旧地名

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・・・・・・・・・・ 道塚神社の隣りにあるのは、真言宗智山派寺院の「金剛法山 大楽寺」。 天応3年(1319)、当地に一宇を建立したのが始まりと伝えられている。、、、、山門は2階式の立派なもの。 本堂は黒塗りの鉄筋コンクリート造、、、、ペットの霊園もある!

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・・・・・・・・・・ 池上から道なりに真直ぐ歩き、西六郷の町に入る。 町の西側には多摩川が流れてる。 私は東側に折れ、雑色駅に向かう。

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・・・・・・・・・・ 東海道線・京浜東北線の「雑色踏切」を越えると雑色駅は近い

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● 踏切を越え、商店街を抜けると、京浜急行本線の「雑色駅(ぞうしきえき)」、、、、雑色駅は、明治34年(1901)2月1日、京浜電気鉄道の駅として六郷橋 ~ 官設大森間の開通と同時に開業。 平成22年(2010)から平成24年(2012)にかけ、ホームの高架化を行い、相対式ホーム2面2線の高架駅となった。、、、、“雑色(ぞうしき)”とは辞典によると『 平安時代以後、公家・武家の家の従者。 雑役をつとめる

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2023年5月28日 (日)

西馬込から池上へ

朝食時に『これから歩いてくる』と言うと、妻が『どこへ?』 『西馬込から池上方面かな?』と応えると、年寄り二人の生活はする事がない“閑な生活”、運動不足が心配な妻は『私も行く!』、、、、と言うことで、夫婦で池上本門寺詣り、、、、帰りは日本橋のデパートでお買い物

都営浅草線の西馬込駅で下車し、本門寺に参り、池上線の池上駅まで、1万歩の散歩です、、、、このコースは以前歩いた処と全く同じなので、ブログの内容もチョイト省略する。 6年前のブログはコチラ!




● 都営浅草線の終点「西馬込駅」で下車し、国道1号(=第二京浜国道)を南へ歩く、、、、この付近、天下の“国道1号”なのに、歩道の幅が狭すぎる! 車椅子のすれ違いは要注意!

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● 駅から400m程歩くと、都営浅草線の馬込検車場(車庫)を跨ぐ、跨線橋「道々女木橋(どどめきばし)」がある。 車庫を橋の上から見るのは、嬉しい、楽しい一時だ!、、、、年寄り夫婦が橋の上から、嬉しそうに電車を眺める姿、人に見られて恥ずかしい!

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● お山を裏(北側)から上り日蓮宗大本山「池上本門寺」へ入る、、、、今日は日曜日だが特別な行事もなく、境内は空き空き、ガラガラ。 本殿・日蓮上人御廟所・大堂(祖師堂)・墓地など一通り参拝する。

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・・・・・・・・・・ 参拝済ませて帰りは石段を下り、総門から出る。、、、、【ところで、余談だが】 毎度思うことだが、都営浅草線の検車場(車庫)のある所に新駅を設置すると、本門寺に近く、参拝が楽になるのだが。 新駅から本門寺までは階段を上らず、エスカレーターで上れば、“全て良し!”

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● 東急池上線「池上駅」から電車に乗る

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2023年5月16日 (火)

山王越え

三日続いた雨も上がり、今日はポカポカ陽気。 JR京浜東北線の大森駅から、山王の山を越えて都営浅草線西馬込駅まで、1万歩の散歩です。




● 久しぶりに山王の住宅地を歩いて見ようと思い、「大森駅」は西口に出る。、、、、大森駅の改札は山王口、中央口があり、それぞれ東口と西口の出口がある。 西口側は山王の丘陵が迫っているので駅前に広場がないが、東口側(海側)は広くて多数のバス停がある。 今日は中央口改札をとおり西口に出た。 駅ビルの前は「池上通り」で、飲食店が多い商店街。 朝から鰻を焼く、いい匂いがする店もある、朝食を満足に食べず家を出た人には残酷だ!

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● 大森駅西口前の急な石段を登ると「天祖神社」である。 天祖神社は、その名の通り祭神が天照大神。 草創の年代は明らかではない。、、、、八幡太郎義家が奥州征伐におもむく途中、この社で戦勝の祈願をした。 そのとき境内にあった松の木の枝に鎧を掛けたと言われる”鎧掛の松”の伝説がある。 この松の木は安藤広重の絵になって、八景坂とともに名勝として広く世間に知られていたが、残念ながら枯れてしまい、今は跡形もない。、、、、やぶ蚊に注意の貼り紙がある、チョイト危険な神社!

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● 山王の地に、木造二階建地下室付の住宅「塚崎邸」がある。 大谷石を多用し、深い水平軒を伸ばす。 外観は一階をスクラッチタイル、二階をハーフティンバーでまとめた洋風住宅。 建物に合わせたスクラッチタイル貼の塀もモダンなデザインだ! 大正13年(1924)築のこの建物は国の登録有形文化財

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● 山王にある「大森テニスクラブ」の駐車場の一角に「日本帝國小銃射的協會跡」の碑がある。、、、、ここのテニスクラブは明治21年(1888)頃~昭和12年(1937)の間、小銃の民間訓練場だった。 明治15年(1882)、西郷従道らが本郷向ヶ岡に射的場を創立し、東京共同射的会社と称した。 明治21年(1888)に大森に移転が決まり、翌年に完成した。 昭和12年(1937)頃になると、周辺に住宅が増えはじめ、射的場は鶴見に移転した。 現在跡地は、多面のコートを備えたテニスクラブに変わった。、、、、昔も今も、球を打つ(撃つ)ことに変わりなし!

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大田区山王2丁目の住宅地、、、、山王は、大正12年の関東大震災後、安全利便な郊外住宅地として人気を博し、各界の名士が移り住んだほか、大森停車所もあり外国人も多く住んでいた。 昭和初期には時代を代表する文学者が数多く集まり、馬込文士村の一角を形成した。 住宅は“お屋敷”と呼ばれる建物、洋館も多く、高級住宅地であった。 今は、広いお屋敷も遺産相続等により分割され、木造建物は劣化し、往時を偲ばせる建物は年々少なくなっている。 今は、建て替えが進み洒落たマンションも建ち並ぶ。、、、、『SECOM』のステッカーに違和感を感じさせない町だ!

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● 山王の山を下り環七通りを横断し南馬込の町に入り、馬込東中学校の西側を歩くと、天文年間(1532~1555)に創建された「北野神社」がある。、、、、松とイチョウの大木が境内を演出してる。

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・・・・・・・・・・ 北野神社の先(南馬込2-24)には、小さな庚申堂。 花も水も供えられ、今なを続く庚申信仰

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・・・・・・・・・・ 庚申堂の斜め向かいには、文政7年(1824)に馬込村を中心とするの富士講の人々が寄進した常夜灯「富士講燈籠」がある。 台石に刻まれた銘文から、品川と池上に至る道に、道標を兼ねて建てられたことが判る。

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● 南馬込の曹洞宗「萬福寺」に6年ぶりに立ち寄った、、、、萬福寺は慈眼山無量院と号す。 建久年間(1190~99)大井村丸山の地に密教寺院として創建された。 開基は梶原平三景時公と伝えられている。 元応2年(1320)火災にあい、第六代の梶原掃部助景嗣が居城とともに馬込へ移転した。 天文3年(1534)鎌倉の禅僧明堂文竜が曹洞宗に改め中興し、現在の萬福寺へと続いた。 本尊は阿弥陀三尊。

・・・・・・・・・・万福寺の山門は切妻造り茅葺きの山門で、小高い位置にあり、見上げる景色が印象的。

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・・・・・・・・・・ 本堂前では3名のお年寄が玉砂利を清掃中。 邪魔をしないように、合掌する

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・・・・・・・・・・ 境内から眺める南馬込

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● 「大田区立郷土博物館」にも立ち寄って、、、、大森貝塚に代表される古代遺跡が多く存在する区なので、展示品も関連する土器・石器などの遺物が多い。 また、馬込文士村に関連する遺品・書・原稿・本などもある。 3階建ての立派な区の施設だが、見学者は数名、しかも無料。 コスパは最高!

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● 帰りは都営浅草線の起点駅「西馬込駅」から、浅草橋まで乗り換えなしの30分。 

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2023年5月11日 (木)

多い大盛り

長いGWが終り平時の状態の戻ると、我が家では耳鼻科で検査だ!、内科で喉の薬もらうのだ!、眼科は定期診断だ!、整形外科で腰のリハビリだ!、銀行の営業が来る日だ!、ワクチン接種でつながりにくい電話予約だ!、さらに私は補聴器買うのだ!、妻は春の服を買うのだ!、旅行の宿を予約するのだ!、とここ数日大忙し。 今日は身も心も落ち着き、朝は4時16分に地震で起こされ、5時にベッドから立ち、6時にゴミ出し、6時半に朝食、そして7時に『散歩してくる!』と妻に言い、8時前には大井町駅に到着。 大井町駅から大森駅まで、チョイト少なめ9千歩の散歩です。




● 京浜東北線の「大井町駅」から散歩を始める。、、、、明治5年(1872)新橋~横浜間が開業し、4年後の明治9年(1876)大森駅が開業。 明治13年(1880)には品川~大森間の複線化完了。 大正3年(1914)東京~横浜高島町間が開通、京浜線(京浜東北線の前身)の電車運転が開始される。 この時、大井町駅も同時開業した。 大正14年(1925)上野と東京が繋がって山手線が環状線になると、同じ線路を走る京浜線も東京駅から上野駅まで延伸される。 東北線田端駅~赤羽駅間が電化された昭和3年(1928)には、京浜線が東北線に乗り入れて赤羽駅まで延伸され「京浜東北線」と呼ばれるようになった。 現在の大井町駅、大森駅は京浜東北線の駅である。、、、、東急の大井町線、東京臨海高速鉄道のりんかい線が乗り入れ、乗降客の多い(大井)駅だ。

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● 京浜東北線の西側を大森に向かって歩く、、、、京浜東北線、東海道線の列車がひっきりなしに走り去る。、、、、【蛇足】私は“江戸っ子”なので、“ひ”と“し”が区別できず発音は全て“し”となってしまう。 “あさししんぶん”である! “ひっきりなし”も“しっきりなし”だ。

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● 大井4丁目の住宅地に小さな社の「作守稲荷」がある。、、、、作守稲荷は、元薩州侯抱屋敷内に祀られていた稲荷社を、慶応年間(1865~1868)に平林九兵衛が譲り受け、その稲荷社を平林九兵衛が当地開拓に際して当地に勧請、作守稲荷と称したもので、社地は明治30年に平林氏が寄附したと言われてる。 作物を守る、ってことから「作守」となったのだろうか?、、、、「美化推進モデル地区」にある稲荷は、境内も綺麗に掃き清められ、ゴミがない!

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● 作守稲荷から南へ200m程、「西光寺」(品川区大井4)がある。 西光寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、栄松山と号し、もと麻布善福寺末である。 昨年も訪れたが、今日も門前を素通りするわけにはいかず、チョイト手を合わせてきた。

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・・・・・・・・・・ 本堂脇の奥に「石造地蔵菩薩供養塔」がある。 最前列の三基の供養塔は、寺の東にあった倉田地蔵堂の本尊だった。 左側の明暦元年(1655)のもので、おたつ・おこちよ・およめなど16名のご婦人が建立したもので、また右側の寛文9年(1669)の阿弥陀如来を刻んだ念仏供養塔もおいな・おむつ・おはななど12名の女性によって建立されたもの。 もう一基、中央の寛文13年(1673)大井村講中によって造立された阿弥陀如来立像を彫った「笠塔姿型庚申塔」がある。 いずれも、江戸初期に造立されたもので、石像美術品としても保存状態がよく貴重なものであるらしい。、、、、今の時代、女性の名も『美波、史緒里、珠美、楓、麗乃』などと、指名したくなる名前が多く石仏に刻むとモダンだね!

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● 京浜線複々線時代の橋台が使用されている、JRの「鹿島谷架道橋」をくぐりぬけ、品川区大井4から南大井5の町に入る。

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● 大森駅の北東に東京都住宅供給公社の「大森駅前住宅」がある。、、、、昭和45年(1970)に建てられた、13階建て、総戸数 759戸の集合住宅。、、、、築後50年が経過したが、建物は健在? 現在の売買価格は2LDK/55.31㎡で4000万円程、高い? 安い?

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● 大森駅東口駅前広場の一画に、明治45年(1912)に当時の鐵道院の命によって鋳造された、かつて大森駅の階段に使用された鉄柱が保存されている。 2本の鉄柱には、
「鉄道院」の銘と、製造元の「合資会社高田商会柳島製作所」の社名、「明治四十五年七月製造」の製造年月が鋳造されている。、、、、現在は公園のオブジェかな?

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● 「大森駅」は、鉄道開業4年後の明治9年(1876)にできた駅。 隣の蒲田駅の開業は明治37年(1904)なので、駅としてはかなり先輩格である。都内では、新橋駅、品川駅に次いで3番目に古い駅である。、、、、現在のホームは地上島式1面2線構造。 改札口は中央口と北口の2ヶ所で、それぞれ別々の橋上駅舎内にある。 中央口側の駅舎は駅ビルを併設するたいへん立派なものだ。、、、、ホームには、「日本考古学発祥の地」と書かれ、上に“深鉢式土器”の模型が載せられた碑がある。

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