隅田川

2018年6月17日 (日)

隅田川テラス

先の火曜日から、尿道を通し膀胱の中まで管を入れられ、排尿時に栓を開ける、フレキシブルなストローのようなものをつけられてしまった。(念のため、管はパンツの中に隠れ、外からは見ても判らないので、恥ずかしくはない。) 医者の話では『一週間ほど我慢してね』と云うことだ。 しばらく散歩に行きづらかったが、今日は管をつけたまま歩いてきた。、、、、、万が一、散歩中に“お漏らし”したら、ズボンの前が濡れ恥ずかしいので、今日は美人の少ない隅田川テラスを歩くことにした。、、、、総武線隅田川橋梁から出発し白鬚橋までの9千歩の散歩です。


隅田川テラス・・・・・・・・ 東京都が昭和60年(1985)から進めている事業で、隅田川両岸のほぼ全域総延長46.9kmの堤防を、人が水辺に親しみ遊歩道として歩けるように、親水テラス:「隅田川テラス」として整備されてきた。、、、、これまでは、橋の直下や水門の前は歩けなかったが、このほどテラス上を連続して歩けるように整備された。、、、、今日は隅田川右岸の台東区内に属する部分(総武線隅田川橋梁~白鬚橋)を歩いてきた。



総武線隅田川橋梁・・・・・・・・ 神田川が隅田川に合流する地点の上流側に架かるJR総武線の隅田川橋梁。 元土木学会会長:東京大学教授:田中豊(明治21年(1888)~昭和39年(1964))の設計で、昭和7年(1932)に竣工。 形式は3径間ゲルバー下路式ランガー桁で、橋長は172m、軽快な姿を隅田川に映す橋。
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・・・・・・・・・・ 橋の横(台東区柳橋)に隅田川テラスの入口がある
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・・・・・・・・・・ ここから見るスカイツリーは雅万歩では、おなじみ、、、、
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・・・・・・・・・・ ここ辺りの堤防は「なまこ壁」風にデザインされ、所々に大名の家紋が埋め込まれている。、、、、、昭和40年頃までは、「柳橋」の花柳界があり、川べりには桟敷が作られ夏の夜は提灯も下がっていた。 政財界人、文筆家、相撲取などが遊んだ処。
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NTT蔵前専用橋・・・・・・・・・ NTT東日本蔵前通信ビル(台東区蔵前)と対岸(墨田区横網)を結ぶ。 昭和42年(1967)の竣工当時は旧電電公社時代であり、「電電蔵前専用橋」と呼ばれた。 日本で初めての洞道(通信線トンネル)専用橋であるが、中央には水道管も敷設され水道橋を兼ねている。、、、、、蔵前橋の南側(下流側)に近接しており、チョイト武骨な白い箱形の躯体が景観を損ねているね。 川底に通せばよかった!
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蔵前橋 ・・・・・・・・ 昭和2年(1927)に完成した関東大震災の復興橋の一つ。 橋下から眺める黄色に塗られたアーチ部の鉄骨は綺麗に見える。
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厩橋 ・・・・・・・・ 西岸の台東区蔵前・駒形と、東岸の墨田区本所を結ぶ、橋長151.4mの3径間下路式タイドアーチ橋。 昭和4年(1929)に竣工した、こちらも復興橋の一つ。、、、、、橋下にもぐると、“綺麗”とか“面白い”という言葉より、なんだか変質者になったような気がした。 色のなす魔力か?
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駒形橋 ・・・・・・・・ 続いての復興橋は、優美なアーチ橋の駒形橋なのだが、只今アーチ部の塗装工事中。 昭和2年(1927)に竣工、橋長149.6m。、、、、、ブルーの線が明るさを感じさせる
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・・・・・・・・・・ 厩橋から駒形橋にかけこの辺りの堤防はレンガ調で仕上げられている。 みんなでジョギングを楽しむ人、一人で観光地を調べる人、二人で記念撮影する人。
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吾妻橋 ・・・・・・・・ 吾妻橋は、「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟があった場所に、安永3年(1774)に初めて架けられた。 以来、幾度か架け替えられ、明治20年(1887)には、隅田川最初の鉄橋が架橋された。 鋼製プラットトラス橋で、人道橋、車道橋、鉄道(東京市電)橋の3本が平行して架けられていた。 しかし、この橋は関東大震災で被災したため、昭和6年(1931)に現在の橋に架け替えられた。
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・・・・・・・・・・ 隅田川テラスは吾妻橋の両端にある橋台の中をトンネルのように通り抜ける。
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東武伊勢崎線隅田川鉄橋 ・・・・・・・・・ 東武鉄道伊勢崎線を通す、中路カンチレバーワーレントラス橋という形式の橋長166mの橋。 昭和6年(1931)竣工。 この橋も、総武線隅田川橋梁を設計した東京大学教授の田中豊である。、、、、川に架かる景観と車窓から見る景色に配慮し、トラス部分を低くしたデザインが特徴的な鉄道橋。
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・・・・・・・・・・ 橋の南側(下流側)では、対岸にスカイツリー、墨田区庁舎、アサヒビール本社など、おなじみの景色が見える。
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・・・・・・・・・・ この付近ではテラスに水生植物がみられる。 緑も多く癒される散歩道
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言問橋 ・・・・・・・・ 昭和3年(1928)に竣工した復興橋。 3径間ゲルバー鈑桁橋と云う形式で、橋長は238.7mの橋。 橋の上からは、スカイツリーが正面に見える、“絵”になる橋。、、、、、、橋下は、チョイト薄暗く、湿っぽくもあり、鉄骨が骨のように見え、恐竜の胃袋に入っている感じだ!
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・・・・・・・・・・ この付近では、隅田川テラスに彩も鮮やかに花が植えられていた。、、、、持って帰っちゃ、ダメだ!
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桜橋 ・・・・・・・・・ 台東区と墨田区が共同で架けた歩行者専用橋。 隅田川上でX字形に広がる特異な平面形の橋。、、、、、両側(両区)の隅田公園を結ぶ、お花見に盛り上がる橋。、、、、、、桜橋付近になると、外人観光客の姿もなく隅田川テラスにも人影がまばらとなる。
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・・・・・・・・・・ 桜橋から白鬚橋までは、チョイト距離がある。、、、、、堤防側には緑が続き、歩きやすい
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白鬚橋 ・・・・・・・・ 隅田川に架かる復興橋。 西岸は台東区橋場と荒川区南千住で、台東区では最北の橋である。 昭和6年(1931)に大林組の施工で竣工した。 骨太な鉄骨は重量感を感じさせる。

・・・・・・・・・・ 白鬚橋に近づいたと思ったら、隅田川テラスは工事中、これ以上先にはテラスを歩けない。、、、、、、今日の散歩はココまでとする。
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2017年3月 1日 (水)

勝鬨橋・築地大橋

隅田川最上流の新神谷橋(岩淵水門は橋梁ではないので数に入れず)から始めた隅田川の橋めぐりも、いよいよ今日が最後である。 今日は、37番目の勝鬨橋と、いずれ38番目:最下流の橋となる築地大橋の二橋を見てきた。、、、、、都営浅草線東銀座駅から2橋を見て、東銀座駅に戻る、1万3千歩の散歩。



歌舞伎座 ・・・・・・・・・まだ朝の8時になったばかり、どこの店もビルも閉まっている。  歌舞伎座の地下の店も開店前の準備中、立ち止まることもなく築地に向かう。、、、、、現在の歌舞伎座は平成25年(2013)3月1日にオープンしたので、今日は4年目の誕生日。
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築地市場・・・・・・・・・・・最近いろいろ話題となる築地市場の場内を、ブラブラ歩いてみることにした。 8時過ぎの市場は、商売のピークも過ぎたようだ。、、、、市場のある地は、江戸時代後期、松平定信(1758~1829)の下屋敷に作られた汐入回遊式庭園「浴恩園」(よくおんえん)があった処である。 明治維新以降は海軍関係の用地となり、海軍発祥の地である。 関東大震災で、日本橋にあった魚市場が被災したため、その後、魚市場が海軍省から敷地を借り受け移転した。 これが、築地市場の始まりである。、、、、今後の移転先は迷走状態、さて、どうなることやら?


・・・・・・・・・・・・・まずは、市場の屋上からパチリ!パチリ!

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・・・・・・・・・・・・・・商売の邪魔をしないように、静かに、おとなしく、市場の中に潜入、、、、、建物は古く、汚れ、狭く、アレレどっちに行ったらいいのかな? これでは、豊洲移転を早めないとダメか?

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・・・・・・・・・・・・・・トランプさんの国から取材に来たようだ!

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・・・・・・・・・・・・・・場内の飲食店は観光客で行列

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・・・・・・・・・・・・・・築地市場に隣接する波除稲荷神社。 「築地」とは埋立地の別称で、築地市場付近は、万治元年(1658、=江戸時代)頃から埋め立てが始まったが、工事は波に洗われて難航した。 そのころ、海中から見つかった稲荷神の像を祀ったところ、風波が和らぎ工事が完了したとされ、これが「波除」の由来となった。 厄除けや航海安全の神として信仰されている。

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勝鬨橋・・・・・・・・・・・昭和15年(1940)に竣工した跳開橋であるが、昭和45年(1970)以降、一度も開いていない残念な橋。 私が学生の頃までは橋の上を都電が走り、橋が開くとき都電は、赤信号の点灯で開閉する部分の直前で止まり、船の通過を見送っていた。  のんびりした時代には、もう、戻りそうもないね!、、、、、中央径間:シカゴ型二葉式跳開橋、側径間:下路式タイドアーチ橋、橋長:246m、幅員22m。 昭和8年(1933)に着工し、昭和15年(1940)6月14日竣工。

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・・・・・・・・・・・・・・橋の際(中央区築地側)には、勝鬨橋が完成するまで運航していた「勝鬨の渡し」の碑がある。 碑は明治38年(1905)、日露戦争の旅順陥落を記念して建てられた。

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築地大橋・・・・・・・・・・勝鬨橋の下流に建設中の築地大橋。 橋は平成23年度より下部工事に着手し、平成26年度に鋼けた架設工事が完了した、現在、橋はほぼ完成状態であるが、御存じの通り、築地市場の豊洲移転に急ブレーキがかかり、築地側の道路が未完の為、開通は???、、、、、橋長:245m、幅員:32.3m~48.0m、形式:鋼3径間連続中路式アーチ橋。、、、、、まだ、橋に近寄れないため、遠くから撮影。

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●・・・・・・・・・・・・以上、約2か月かけ、隅田川に架かる38橋梁と相生橋、そして岩淵水門を制覇した。 自分に一言、『ご苦労様』

2017年2月27日 (月)

佃大橋

東銀座駅から、36番目の佃大橋を渡り月島駅まで、1万1千歩の散歩です。



看板建築・・・・・・・・・・・中央区役所の近く銀座1丁目に、1階にはグローリー(喫茶)が営業する3軒長屋の店舗兼住宅がある。 昭和初期の看板建築と思われる。 3階上部にはレリーフもしっかり残っている。 喫茶のグローリーは40年以上前に開店したそうだ。
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鈴木ビル・・・・・・・・・銀座1丁目の中央区役所の北側にある、昭和4年(1929)に竣工した鈴木ビル。 外壁はスクラッチタイル、テラコッタで仕上げ、丸窓・出窓・屋根窓とデザインに変化をつけた、モダンなビル。、、、、設計は山中節治建築事務所、施工は新工務所による、昭和4(1929)12月に竣工した。 鉄筋コンクリート5階/地下1階。
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・・・・・・・・・・・・・6年前に撮影した鈴木ビルの外壁と内部

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岩瀬博美商店・・・・・・・・・・鈴木ビルの右隣に並ぶ昭和初期の建物。 建てた当時は、乳業関連事業を営んでいたそうだ。 軒先やガラス戸には商号が刻まれ、3階には半円の窓、軒先の古そうな照明器具、外壁を覆うスクラッチタイル、どれもこれも重厚感漂う昭和のビルを演出している。

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三吉橋・・・・・・・・・・・中央区役所の前に昭和4年(1929)に架けられた三吉橋(みよしばし)橋。 築地川の川筋が“T字型”になった地点に架けられたため、橋も“三又”となり“Y字型”となっている。、、、、、昭和37年(1962)までは築地川が流れていたが、残念なことに築地川は首都高に変わり、今は橋の下に車が流れている。、、、、、三股型単純鋼鈑桁橋、橋長23.98m×3、幅員15m、昭和4年(1929)12月に竣工した震災復興橋。

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・・・・・・・・・・・・・・空から見ると

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佃大橋・・・・・・・・・・・・佃大橋は隅田川最後の渡船場として320余年続いていた「佃の渡し」の位置に架けられた橋で、中央区の明石と佃を結んでいる。、、、、昭和36年(1961)に着工し、昭和39年(1964)8月27日に竣工した橋は、戦後の“昭和”を象徴するように、無味乾燥とした橋で見た目には面白くない。、、、、、『大ブロック工法』として、桁をかけるとき、大きなブロック(長さ40m、重量150ton)を造っておき、当時の日本最大のクレーン船で組み立てる、最新の施工技術で架橋した。 工法に隠れた面白さのある橋。、、、、、橋長は476.3m、幅員は25.2m、橋桁製作は地元の石川島播磨重工業(現IHI)佃島工場。

・・・・・・・・・・・・・・下流側から見る佃大橋。 後ろは「大川端リバーシティ21

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・・・・・・・・・・・・・・上流側から見る佃大橋。 後ろは「聖路加ガーデン

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・・・・・・・・・・・・・・・佃大橋から見る上流側。 中央大橋、大川端リバーシティ21を見る。

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・・・・・・・・・・・・・・・佃大橋の両端に「佃島渡渡船場跡」の碑が残されている。、、、、、私も中学生の頃、浅草橋の我が家から自転車で、何度か私に乗りに来た。 50年以上前の懐かしい思い出。

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佃島住吉神社周辺・・・・・・・・・・・ブラブラ、、、、、詳細はまたの機会に!

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旧月島警察署西仲通交番・・・・・・・・・・月島の「もんじゃストリート」の中程に現存する、日本最古の交番建築。 現在は「西仲通り地域安全センター」と呼んでいるが、平成19年頃までは「日本最古の交番」であった。 建物は大正15年(1926)に建てられた。

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2017年2月24日 (金)

中央大橋・相生橋

隅田川の最上流から数えて35番目の橋は中央大橋。 上流の永代橋と中央大橋の間で、隅田川は隅田川派川(はせん、=分流)と分岐する。 その派川には相生橋が架かる。、、、、、今日の散歩は、都営浅草線宝町駅から、八丁堀、中央大橋、相生橋と歩き、東西線門前仲町駅まで、1万2千歩です。



江戸湊の碑・・・・・・・・・中央区新川2丁目(旧:霊岸島)の隅田川岸に建てられた江戸港発祥跡の碑、、、、、、慶長年間江戸幕府がこの地に江戸湊を築港し、水運の中心地とした。昭和11年(1936)まで、伊豆七島など諸国への航路の出発点であった。、、、、、当時、東京から伊豆七島へ行くには、ここからボロ船に乗って1泊、2泊の船旅であったと想像すると、船酔いに弱い私には、もうダメだ! 死を覚悟して、ナムアミダブツの旅である。
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霊岸島水位観測所・・・・・・・・江戸湊の碑の前、隅田川に立つ三角に組まれたパイプと斜方12面体と呼ばれる立方体のオブジェ。 これぞ霊岸島水位観測所(無人)、、、、、日本の標高は東京湾の平均海面を基準に測られる。その基準となる平均海面を測定していた場所が霊岸島水位観測所。 明治6年(1873)から観測を開始しているが、近年、この場所は埋め立てにより、隅田川の奥になり、観測には不向きとなった。 現在は油壺験潮所にその役割が移った 、、、、、、ちなみに、現在の日本の水準原点は国会議事堂前にある。

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中央大橋・・・・・・・・・・中央区新川(霊岸島)と中央区佃(佃島)を結び、平成5年(1993)3月に完成した。 橋長215mの鋼斜張ハープ橋。 佃の超高層マンション群を背景にした現代的なデザインだ!、、、、、橋桁製作は、かつて地元であった石川島播磨重工業。

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・・・・・・・・・・・・・上流(写真左側)から右奥に流れ下る隅田川。 中央の佃島の背後に流れて行くのは派川。

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大川端リバーシティ21・・・・・・・・・佃島は、佃神社周辺の旧来からの部分を除く、大半は明治以降石川島造船所に払い下げられ、昭和54年(1979)の操業停止まで造船所の敷地であった。、、、、、その後、造船所の跡地は、「大川端リバーシティ21」として、住宅市街地総合整備事業により、住宅・都市整備公団(現・都市再生機構)、東京都住宅局、東京都住宅供給公社、三井不動産によって超高層住宅を中心とした再開発が進められた。 各事業者は、個々の高さやデザインを少しずつ変えながらも全体として統一された外観で開発を進め、隅田川と調和した景観となった。 ちなみに、一番高いマンションは、高さ180m(地上54階/地下3階)の「センチュリータワー」で、786戸が入居している。、、、、、高所恐怖症の私が54階に住むのは、死を覚悟し、怖さで眠れず、不眠症になるようなものだ。 最後は、寝ぼけて54階から墜落か?

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相生橋・・・・・・・・・・右岸の中央区佃と左岸の江東区越中島を結ぶ橋。、、、、明治36年(1903)、築地・深川地区と佃を結ぶため川の中程にあった中之島を利用し2本の橋で架橋された。 この時、佃寄りの長い橋を「相生大橋」、越中島寄りの短い橋を「相生小橋」と命名した。 「相生」の名は、「相生の松」になぞらえた。、、、、関東大震災後は、大正15年(1926)に鉄鋼ゲルバー橋が再架橋された。、、、、昭和55年(1980)には小橋(越中島側)が埋め立てられ、中之島は地続きとなった。 さらに、平成10年(1998)には、老朽化した相生橋を、現在の橋に架け替えた。 現在の橋は、3径間鋼トラス桁橋で、橋長は149.1m、幅員は22.0m、昭和63年(1988)に着工し平成10年(1998)12月に開通した。

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・・・・・・・・・・・・・・・相生橋を渡り、江東区越中島に入ると、橋の際に東京海洋大学がある。 50歳以上の人には東京商船大学 と言った方が判りやすいね。 今日は正門前を通過

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黒船稲荷神社・・・・・・・・・・・江東区牡丹にある黒船稲荷神社は、応徳3年(1087)浅草黒船町に創建、享保17年(1733)に現在地へ遷座した。、、、、、ここは、江戸戯作界の第一人者、四世鶴屋南北の住居跡である。 住んでいた痕跡は皆無、案内板があるだけ、できたら表札ぐらい残しておいて欲しいね。

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2017年2月21日 (火)

隅田川大橋・永代橋

人形町・水天宮を抜け隅田川大橋を渡り、江東区側の川岸を歩いて永代橋へ、再び隅田川を越えて日本橋まで、1万1千歩の散歩です。



水天宮・・・・・・・・・・チョイと水天宮にお立ち寄り、、、、水天宮は、久留米藩主有馬頼徳公が現:港区赤羽の藩邸内に久留米市水天宮の分霊を文政元年(1818)に勧請して創建した。 その後、藩邸の移動に伴い、青山へ遷座し、さらに明治5年(1872)11月1日、現在の日本橋蛎殻町に遷座した。、、、、、平成28年(2016)4月より、建て替えられた新社殿への参拝が開始しされた。 新社殿は地下1階と1階が駐車場で、2階の人工地盤の上に社殿が建てられている。また、参集殿のある6階建ての下に参道の階段が設けられている。 これらの建物を地震から守るため境内全体を免振構造としている。 設計・施工は竹中工務店。
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日清製粉晴東寮・・・・・・・・・日本橋蛎殻町にある寮。 スクラッチタイル風の貼りものをした、木造3階建ての建物。 建築年代は不詳ですが、『古そうだ!』

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高尾稲荷・・・・・・・・・・中央区日本橋箱崎のIBM箱崎ビルの前に祀られている高尾稲荷、、、、、、万冶2年(1659)江戸の花街新吉原(現:台東区千束)の遊女で二代目高尾太夫(仙台高尾ともいう)、傾城という娼妓の最高位にあり、容姿端麗にして艶名一世に鳴りひびき、和歌俳諧に長じ、書は抜群、諸芸に通じ、比類のない全盛をほこったといわれる、当時19歳の太夫。  その高尾が仙台藩主伊達綱宗候に寵愛され大金をつんで見請けされたが、彼女にはすでに意中の人あり、操を立てて候に従わなかったため、ついに怒りを買って隅田川の楼船上にて吊り斬りにされ、川中に捨てられた。 その遺体が当地に漂着し、引き揚げられた。 そこで、彼女の神霊高尾大明神を祀ったのを起源としている。、、、、若いピチピチのもったいない美女の哀れな話、懇ろに手を合わせ、お賽銭も奮発し20円にした。、、、、、高尾太夫の辞世、「寒風に もろくも朽つる 紅葉かな」 

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隅田川大橋・・・・・・・・・・箱崎JCTから東に向かう首都高9号深川線が隅田川を越える橋が隅田川大橋である。 橋は2層構造で上が首都高、下が一般道の水天宮通り。、、、、、歩行者にとっては、車道と人道が完全に分離され安全で歩きやすいが、頭上に首都高が走り巨大な柱が上に向かって伸び、他の橋のように欄干によりかかり景色を眺める解放された雰囲気にはなりにくい。、、、、、、ついでの話、橋の下(地下)には地下鉄半蔵門線が通っている。、、、、、橋長385.3mの3径間連続鋼床鈑箱桁橋、昭和54年(1979)10月完成。、、、、、清洲橋、永代橋、両国橋などの昭和初期の優美な橋とは異なり、機能主義の武骨な昭和後期の橋である。

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・・・・・・・・・・・・・・箱崎JCTから隅田川大橋に向かう首都高

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・・・・・・・・・・・・・上流側の清洲橋を見る

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・・・・・・・・・・・・・下流側の永代橋、佃島を見る

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・・・・・・・・・・・・・・隅田川大橋を挟む巨大なビル2棟。 手前(左端)はIBM箱崎ビル(地上25階建て、1989年竣工)、中央のビルはリバーゲートビル(地上20階建て、1994年竣工)

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豊海橋・・・・・・・・・・隅田川大橋と下流の永代橋の間で、神田川から分岐した日本橋川が合流する。 その日本橋川が隅田川に合流する直前に豊海橋(とよみばし)が架かる。、、、、、豊海橋は昭和2年(1927)に震災復興橋として架設された。 この橋は、永代橋を意識し、梯子を横にしたような骨太な重量感あるデザインで設計された。、、、、、橋長約46m、設計は福田武雄、施工は横河橋梁製作所。

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永代橋・・・・・・・・・隅田川の上流から34番目の橋は永代橋である。 この橋も震災復興橋の一つで、国の重要文化財。、、、、橋は西岸の中央区新川と東岸の江東区佐賀・永代を結ぶ。 橋長184.7m、幅員25.0m、中央径間はスチールアーチ橋で両側は鋼桁橋。 大正13年(1923)12月に着工し、大正15年(1926)12月20日に竣工した、工期は短く約2年である。 工事費は2,924,000円也。、、、、、優美な清洲橋に対して、「帝都東京の門」と言われた永代橋はドイツのライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋をモデルにし、現存する最古のタイドアーチ橋で、かつ日本で最初に径間長100mを超えた橋でもある。

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・・・・・・・・・・・・・・・永代橋の下流で、隅田川は分流の隅田川派川(すみだがわはせん)と分岐する。 写真:右に向かうのは隅田川、左に向かうのは隅田川派川、その間は超高層マンション群のある佃島。、、、、、いつの間にか、超高層ビルも増え、私の知る60年前の漁師の島“佃島”のイメージはこの写真から想像できないね。

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2017年2月17日 (金)

清洲橋

今日の散歩は、32番目の清洲橋へ行く。 浅草橋の我が家から、明治座前をとおり清洲橋へ、橋を渡り江東区に入ると、清澄通り沿いに北上し、両国からは京葉道路を歩き、両国橋を渡り浅草橋に戻る、1万4千歩の散歩です。



浅草橋から清洲橋へ・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・家を出て、3分後、浅草橋駅を通過。、、、、、、『今日は、歩くぞ!』 
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・・・・・・・・・・・・・・朝8時ジャスト、浅草橋交差点を横断する。、、、、、まだ車も少ない時間帯、通勤する人も余裕の歩き

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・・・・・・・・・・・・・都営浅草線東日本橋駅を通過、、、、、、まだ8時10分だ! あまり早い出社は、若い人に嫌われるよ!

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・・・・・・・・・・・・・・浜町の笠間稲荷神社に立ち寄っていく。、、、、、安政6年(1859)創建の神社は、すでに扉を開き、朝の参拝客受け入れ準備OK! 私も、道中の安全を願い、賽銭箱に100円入れて『よろしく!』

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・・・・・・・・・・・・・・8時25分、明治座前。、、、、、甘酒横丁の店もまだ開いてないので、寄り道せず先へ。 

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・・・・・・・・・・・・・清洲橋通りと新大橋通りが交差する浜町中ノ橋交差点。、、、、、直進すれば清洲橋、左折すれば新大橋。 今日は迷わず直進。、、、、、信号待ちの間、通勤するOLを見て、小さな声で口ずさんでしまった。 ♪♪ 若い娘が~ウッフン お色気ありそで~ウッフン ♪♪ スリー・キャッツの「黄色いさくらんぼ」

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・・・・・・・・・・・・・・清州橋西詰の小さな神社は、昭和29年(1954)に建立された金刀比羅宮。、 、、、、、、近くの人形町は、江戸時代初期の吉原であった。 明暦の大火で吉原は浅草千束に移り、その後、現:人形町は葭町(よしちょう)として、町芸者を生み出し、花街として発展してていった。 現在では、料亭1軒、芸者10名程も規模となったが 、見番:「東京葭町組合」も現存している。、、、神社の玉垣には、その葭町の料亭・芸妓名が標され、華やかなりし時代を思い起させる。

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清洲橋・・・・・・・・・・・・中央区日本橋中洲と江東区清澄を結ぶ橋で、「清洲橋」と命名された。 大正14年(1925)に着工し、昭和3年(1928)に竣工した関東大震災復興橋の一つである。 構造形式は自碇式チェーン吊り橋、橋長は186.3m、幅員は22.0m。 設計:鈴木精一(内務省復興局技師)、施工:東京市復興局、橋桁製作:神戸川崎造船所。 総工費321万円。、、、、、、近代橋梁技術により、洗練された曲線、造形が優美な美しさを表現している。

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・・・・・・・・・・・・・・清洲橋のモデルとなった、当時最高に美しいと評判だったドイツケルンのヒンデンブルグ橋。 ウ~~ン確かに似ている、写真はケルン市のホームページより拝借。

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・・・・・・・・・・・・・・上流(新大橋方向)を望む

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清洲橋から我が家へ・・・・・・・・・・・

 

・・・・・・・・・・・・・・時刻は9時45分、清洲橋通りの北側の裏道を歩き深川稲荷神社の前を通る。 小さな神社だが、布袋尊が祀られ深川七福神の一つである。 深川稲荷神社は、寛永7年(1630)の創立。、、、、、、、以前、七福神めぐりで立ち寄った神社だが、布袋尊の姿を思い出せなかった。 私も老いたか?

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・・・・・・・・・・・・・・・清澄通りを北上し、小名木川を渡り、森下交差点の手前で、深川神明宮にもお立ち寄り。 こちらは七福神の寿老人が祀られている。、、、、神社の門前には、日本画家で朝丘雪路の父である伊東親水の誕生地跡の案内が立っていた。 『江戸っ子だってね。 深川の生まれよ!』

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・・・・・・・・・・・・・・・再び清澄通りに戻り、墨田区に入る。 堅川を二之橋で越えて、京葉道路に出る。、、、、、堅川の上を首都高が覆い、暗い川だ!

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・・・・・・・・・・・・・・両国6丁目、京葉道路に立つ本所松坂町跡の碑。 関東大震災後の区画整理で、本所松坂町の名が消えるのを惜しみ、、『おいらの松坂町の名が消えるぞ』、江戸っ子なら後世に残る石に刻んで町名を残そうと、考えたようだ。 昭和4年(1929)11月1日の日付が彫られていた。

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・・・・・・・・・・・・・両国橋を渡り、柳橋を渡り、我が家のある浅草橋へ。 『ただいま』とドアを開けたのは10時45分。

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2017年2月16日 (木)

両国大橋・新大橋

我が家(浅草橋)から、両国橋を渡り下流の両国大橋へ、さらに下流の新大橋へ、新大橋を渡り浜町河岸付近をぶらつき我が家まで、1万2千歩の散歩です。、、、、隅田川の最上流から数えて、いよいよ30番目の両国大橋と、31番目の新大橋。


両国大橋・・・・・・・・・・「両国大橋」こんな橋あったかな? 「両国橋」の間違いでは? 地元の人でも知らない人もいるが、名は知らねども、大川に架かる両国大橋、知らねばドライバーとは言えまい。、、、、両国大橋は、隅田川に架かる首都高の橋で、橋上は「両国ジャンクション」である。 箱崎から北上し、6号向島線と7号小松川線に分岐する地点である。、、、、西岸は中央区日本橋浜町、東岸は墨田区両国に架かる、巨大で立体的な構造が面白い橋梁である。 昭和44年(1969)12月に完成し、供用開始は首都高の開通に合わせ昭和46年(1971)3月21日。 設計は首都高速道路公団工務部、施工は石川島播磨重工業・日本橋梁・大林組。、、、、、、構造物としては面白いが、景観上は邪魔だね、どかせるものならどかして欲しい!
・・・・・・・・・・・・・・・両国橋から見る両国大橋。 写真:右側は中央区、左側は墨田区。
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・・・・・・・・・・・・・・上流(両国橋側)の隅田川テラスから見る。 対岸は、♪♪ 浮いた浮いたと 浜町河岸に 浮かれ柳の はずかしや 人目しのんで 小舟を出せば すねた夜風が 邪魔をする ♪♪、の浜町河岸。

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・・・・・・・・・・・・・お股から失礼して、お尻を拝見!

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・・・・・・・・・・・・・・墨田区側の岸から下流(新大橋)方向を見る。

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御臨幸記念碑・・・・・・・・・・中央区立日本橋中学校の校庭横に、浜町河岸に向いて「御臨幸記念碑」が建てられている。、、、、、、記念碑は、大正12年(1923)の関東大震災で被災した東京が見事に復興したした様子を、昭和5年(1930)に昭和天皇が日本橋中学校(当時は千代田小学校)の校庭に立ち寄り視察した記念に、昭和8年(1933)に建立された。 羽ばたく鳳凰をデザインし、菊の御紋を彫った、高さ3m程の立派な碑である。、、、、、、当時の天皇の威光を感じる。

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新大橋・・・・・・・・・・・・西岸(右岸)の中央区日本橋浜町と東岸(左岸)の江東区新大橋を結ぶ橋。、、、、、新大橋が最初に架けられたのは、元禄6年12月7日である。 当時、「大橋」と呼ばれていた両国橋は既に架けられており、両国橋に続く大橋として「新大橋」と名付けられたそうだ。、、、、、、江戸時代は木橋であったが、明治45年(1912)にトラス式の鉄橋に架け替えられた。 この鉄橋は震災。・戦災に耐え昭和50年(1975)まで使用されたが、その後は、愛知県の明治村に移築・保存され、老後の余生をのんびり送っている。、、、、、現在の橋は、2径間連続斜張橋、橋長は170.0m、幅員は24.0m、昭和51年(1976)に着工し、昭和52年(1977)3月27日に竣工した。 施工は石川島播磨重工業。、、、、、2本の黄色の塔が印象的で、シンプルな美しい橋である。

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・・・・・・・・・・・・・下流(清洲橋方向)を望む。

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・・・・・・・・・・・・・・旧橋のアールヌーボー調の親柱が東詰に保存されている。

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2017年2月13日 (月)

蔵前橋~両国橋

我が家から、蔵前橋、両国橋のどちらにも徒歩15分程で行ける。 JR総武線隅田川橋梁は10分程の位置にある。 つまりは、今日散歩した隅田川に架かる4橋梁は、我が家の庭の池に造られた橋のようなものである。 (おっと、間違えた! 我が家には庭はない。 庭を造るぐらい広い敷地があれば、マンションでも建てて、左団扇の生活だ!)、、、、、、今日の散歩は、我が家から、台東区・墨田区の両岸にある隅田川テラス を歩いて4橋を見てきた。 1万1千歩。、、、、、“4橋”とは、隅田川の最上流から数えて、26番目の蔵前橋、27番目の知る人も少ない地味なNTT蔵前専用橋、28番目のJR総武線隅田川橋梁、29番目の両国橋である。



チョイと、その前に・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・隅田川テラスに出るには、我が家から、江戸通りを横切り柳橋から河岸に下りる。
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・・・・・・・・・・・・・JRの高架沿いにチョッピリ歩くと、隅田川岸近くに石塚稲荷神社 (創建年代は不詳)がある。 かつて、柳橋芸妓組合(見番)がありし頃、その近くにあった祠である。 芸妓は座敷に出る前に手を合わせたであろう稲荷に、私もテラスに出る前に手を合わせた。 粗相なきよう心を込めて、二礼、二拍手、一礼。

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・・・・・・・・・・・・・高架橋の先に総武線隅田川橋梁が見える。 高架橋の左わきから隅田川テラスに下りる。

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蔵前橋・・・・・・・・・台東区蔵前と墨田区横綱を結び、橋上には「蔵前橋通り」(都道315号)を通す橋。 形式は3径間連続上路式ソリッドリブ2ヒンジアーチ/上路式コンクリート固定アーチ、橋長173.2m、石川島造船所の施工で大正13年(1924)9月に着工し、昭和2年(1927)11月26日に竣工した。 工事には東京市復興局が1,751,000円の工事費をかけてそうだ。 当時の物価は白米(10キロ)3円20銭、公務員の初任給75円の時代。 現在に換算すると、『ゴメン、計算できません。』、、、、、、橋名は、西岸(台東区側)架橋地点に幕府の米蔵があったことに由来する。 昭和50年代まで大相撲がおこなわれた蔵前国技館も橋の西詰にあった、今では懐かしい。

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・・・・・・・・・・・・・・橋の高欄には、力士のレリーフが施され、屋形船にのった柳橋芸者の姿もある。

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・・・・・・・・・・・・・東側(墨田区側)は、隅田川テラスの頭上を首都高向島線が走り、景観破壊だ!

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・・・・・・・・・・・・・橋から、下の道に直接下る階段も造られている。、、、、なんとなく“昭和”の景色だ。

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NTT蔵前専用橋・・・・・・・・・・・西岸(台東区蔵前)のNTT東日本蔵前通信ビルと対岸(墨田区横網)を結ぶ専用橋。 橋上には洞道(通信線トンネル)が敷設され、夏の高温対策に洞道内部を冷やす換気用の窓もあるそうだ。(実際には見たことなし!)、、、、、蔵前橋の下流側に並行に架けられ、景観上は邪魔な橋。、、、、、、3径間連続鋼箱桁橋、 橋長は155.4m、昭和42年(1967)3月の竣工である。

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・・・・・・・・・・・・・・対岸(台東区蔵前)にある白いビルがNTT東日本蔵前通信ビル

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・・・・・・・・・・・・・・墨田区側は首都高の下で道路下に潜り込んでしまう

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総武線隅田川橋梁・・・・・・・・・・・JR総武線、浅草橋駅と両国駅の間に架かる橋。 総武線が両国駅から御茶ノ水駅まで延伸するときに架けられた。 昭和7年(1932)の竣工である。 設計は元土木学会会長:東大教授:田中豊(たなかゆたか:1888~1964)で、日本の橋梁設計の大御所。 学会ではその業績を記念し、優れた特色を有する橋梁が毎年選考され、与えられえる土木学会田中賞の名称となっている。 「かつしかハープ橋」、「五色桜大橋 」、「新豊橋」などが受賞している。、、、、、、形式は3径間ゲルバー下路式ランガー桁(ランガー桁とは、桁とアーチの双方で荷重を支える補剛アーチ形式の一つ)、橋長は172m、橋桁製作は横河橋梁製作所。

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両国橋・・・・・・・・・・上流の総武線隅田川橋梁と同様に、このブログでは登場回数の多い橋である。、、、、、、西岸の中央区東日本橋と東岸の墨田区両国を結び、橋上には国道14号(京葉道路)を通す。 橋名の“両国”は、江戸時代、西岸は武蔵国で、東岸は下総国であった、その国境に架けられたことから命名された。、、、、、両国橋は江戸時代から何度も架け替えられたが、鉄橋が架けられたのは明治37年(1904)が最初である。 この橋は震災に耐え、その後南高橋 に転用された。、、、、、、現橋は、震災後に架け替えられたものである。 3径間ゲルバー式鋼鈑桁橋で、橋長は164.5m、昭和5年(1930)2月に着工し、昭和7年(1932)11月に竣工した。 施工は下部:間組、上部:石川島造船所。

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・・・・・・・・・・・・・車道と歩道の柵には、両国のイメージに合わせ、国技館と花火そして軍配がデザインされている。

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・・・・・・・・・・・・・・・東岸(墨田区側)から見る両国橋と柳橋

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・・・・・・・・・・・・・・両国橋の股から覗いた柳橋

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・・・・・・・・・・・・・両国橋から下流の浜町方向を望む。 見えるのは首都高向島線の橋

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2017年2月12日 (日)

駒形橋・厩橋

馬にちなむ二橋、駒形橋と厩橋を見てきた。 浅草橋の我が家から、蔵前をぬけて隅田川テラスを歩き押上駅まで、1万歩の散歩です。



蔵前神社・・・・・・・・・台東区蔵前3丁目に蔵前神社はある。 元禄6年(1693)、徳川五代将軍綱吉が石清水八幡宮を勧請したことをもって創祀とする。 江戸時代には、江戸城鬼門除けの守護神として、また徳川将軍祈願所の一社として篤い崇敬を受け、社領200石を寄進されていた神社。 社殿は戦災で焼失し、現社殿は戦後に再建されたものである。、、、、、、明治維新後に広大な社地を手放すことになったが、八幡神の強力なパワーは衰えず、今も境内の空気はピンとしている。、、、、、江戸時代は回向院、富岡八幡宮とともに勧進相撲を行い、相撲と縁のある神社の一つである。 玉垣には、戦後、近くに蔵前国技館があった頃活躍した力士(横綱:千代の山、鏡里、東富士、吉葉山 大関:栃錦、三根山、など)の名が並んでいる。 私にとっては、メンコ、キャラメルのカードなどで、毎日お会いしていた、懐かしい名だ!
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厩橋・・・・・・・・・・西岸(右岸)の台東区蔵前、駒形と、東岸(左岸)の墨田区本所を結ぶ厩橋(うまやばし)。 橋名は、西岸にあった蔵前の米蔵のための荷駄馬用の厩があった「御厩河岸」にちなむ。、、、、、、もともとこの地には、元禄年間頃から続いていた「御厩の渡し」のあった。 明治7年(1874)10月6日、長さ約150mの木橋が初めて架けられた。 次に、明治26年(1863)5月6日、プラットトラス形式、長さ約154mの鉄橋に架け替えられた。、、、、、その後、関東大震災で被災し、昭和4年9月、現在の橋に架け替えられた。 現橋は、東京市が施工を担当し、工事費は1,138,650円、3径間下路式タイドアーチ橋、橋長は151.4m、幅員22.0m、大正15年(1926)9月に着工し、昭和4年(1929)9月に竣工した。 橋は、馬をデザインしたレリーフなどが用いられている。 親柱には馬を連想させるステンドグラスもはめ込まれている。

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・・・・・・・・・・・・・4か所の親柱際に造られているコンクリート製のベンチ。 昭和初期の心遣いかな?

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・・・・・・・・・・・・・・下流側(蔵前橋方向)を望む

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駒形橋・・・・・・・・・・厩橋の上流約500mの位置に架かる駒形橋も関東大震災の復興橋の一つである。 優美なアーチが印象的な設計で、橋の途中には欄干が半円状に膨らんだところがあり、ゆっくりと川を眺められるように配慮されている。 総工費 1,899,591円で、大正13年(1924)7月に着工し、昭和2年(1927)6月25日に竣工した。 橋長149.6m、幅員 22.0m、中央径間は中路式ソリッドリブタイドアーチ橋、2か所の側径間は上路式ソリッドリブアーチ橋。、、、、、、、橋名は橋の西詰(台東区雷門2)にある、浅草寺本尊聖観音像の示現の地である「駒形堂」にちなみ命名された。

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・・・・・・・・・・・・駒形橋の上流、250m先には吾妻橋が見える

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スカイツリーを目指して歩く・・・・・・・・・・

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2017年2月11日 (土)

言問橋~吾妻橋

東武電車浅草駅から、言問橋、墨田区役所、吾妻橋、そして最初の浅草駅へ、ぐるり一回りしてきた。 1万歩。



東武鉄道浅草駅・・・・・・・・・・ターミナルデパートのはしりとなった駅ビルである。 昭和6年(1931)11月1日、東武鉄道浅草雷門駅(現:浅草駅)開業に際し、テナントとなったデパートは「松屋浅草支店」である。 当初のアール・デコ様式の外観は、一時、アルミカバーで覆われていたが、平成24年(2012)に復元された。、、、、、地上7階/地下1階の建物は、鉄道省の初代建築課長であった建築家:久野節(くの みさお、1882~1962)が設計、清水組の施工により、昭和6年(1931)10月に完成した。 久野節の作品は、千葉県佐倉高等学校記念館、近鉄宇治山田駅、旧蒲郡ホテルなどが、多くが現存している。、、、、券売機、ホームなどのある1・2階を除き、全フロアーを松屋が使用し、私が子供の頃は、7階が食堂、屋上が遊園地であった。 おもちゃ売り場は5階だったか? エレベータの扉上部には時計の針のように現在位置の階数が表示されていた。、、、、地下では地下鉄銀座線の浅草駅 につながり、さらに地下街もある。、、、、、懐かしい昭和の雰囲気が残る駅である。

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・・・・・・・・・・・・・・当初はビルの中から発車していた電車も今は長編成となり、ホームの先端はビルから飛び出し、隅田川の方向に大きくカーブしている。

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言問橋・・・・・・・・・・・隅田川の最上流から数えて21番目の橋は関東大震災復興橋。 大正14年(1925)5月に着工し、昭和3年(1928)2月10日に竣工した。(昨日が竣工89年目の誕生日であった) 構造形式は三径間ゲルバー鈑桁橋、橋長238.7m、幅員22.0m。、、、、「言問」の謂れは、在原業平の詠んだ 「名にし負はば いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」 という歌に因むそうだ。 ただし、業平が実際にこの歌を詠んだ場所は白鬚橋の付近であったとされている。

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・・・・・・・・・・・・・・言問橋の東詰(墨田区向島)にある、橋から隅田公園に下る階段。、、、、先っぽが丸く尖ったコンクリート製の柱に、鉄製のパイプで造られた手摺。 これを見て、昭和の時代に懐かしさを感じるのは私だけか?

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・・・・・・・・・・・・・・昭和3年(1928)頃の言問橋。 まだ工事中らしい。 右端に、チョイと写っている階段は上の写真の階段と思われる。

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・・・・・・・・・・・・・・【余談】 今日は浅草駅から、まず東武伊勢崎線隅田川鉄橋の下を歩き始めた。 すると、台湾から一人旅の女性が近付き、スカイツリーをバックに写真を撮ってくれとスマホを持ってきた。 私、『中国語わかりましぇ~~ん』と日本語で応え、ゼスチャーでOKし、パチリ!パチリ! 先方の女性は、『あれがとう・ござれます~~』と礼を言って先へ進んだ。 しばらくすると、先ほどの女性がスマホを持ってきて、私に見せた。 そこには『スカイツリーへの行き方を教えてください』と日本語表示されている。 スマホに翻訳ソフトをインストールして来日したみたいだ。 会話が通じない者どうし、便利なソフトだと一瞬思ったが、なんと、私の言葉は相変わらず通じない。 スマホに入力したくても、私には使えない。 『ええい~~、ここは男、頼られたらしょうがない! 異国の女性の一人旅、日本男児の優しさを見せてやろう! 途中まで連れて行ってやるから、付いてきな!』と、ゼスチャーと片言の英語で伝える。 やっと、通じたか笑顔が見えた。、、、、二人で、言問橋を渡り、牛嶋神社の前をとおり、スカイツリーの近くまでお見送り。、、、、この間、お互いに母国語で喋っていたが通じたのは、双方の名前だけ。 最後は、しっかり握手し『行ってらっしゃ~~い』、、、、、結局、言問橋の写真を撮りに来た道を戻ることとなったが、国際親善に一役かったね!




東武伊勢崎線隅田川鉄橋・・・・・・・・・・22番目の橋は、東武伊勢崎線が浅草駅を出て、スグに隅田川を渡る橋。 伊勢崎線はこの鉄橋上にポイントが設置されているため。 電車はノロノロ運転(制限速度は15km/h)で橋を渡る。、、、、、、形式は中路カンチレバーワーレントラス、橋長は166mの鉄道橋、着工は昭和2年(1927)、竣工は昭和6年(1931)5月25日、橋梁の設計は土木学会の会長であった田中豊(1888~1964)、橋桁製作は横河橋梁製作所。、、、、、設計では、隅田川の景観に配慮するとともに、車窓からの景観を考慮して、高いトラス橋にせず曲線の架線柱が採用され、今や、隅田川の代表的な景観の一つとなっている。

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・・・・・・・・・・・・・車窓から撮った、橋上のポイント

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勝海舟像・・・・・・・・・・・・・ご存じ、勝海舟は、文政6年(1823)1月30日、本所亀沢町(現:墨田区両国4)で生まれ、育ち、明治32年(1899)1月19日に赤坂の氷川邸で逝去した。、、、、、平成15年(2003)に海舟生誕180年を記念し、隅田公園横の墨田区役所に銅像が建てられた。 右手で遠くアメリカを指さし、新しい日本を創るべく旅経つ姿を表現しているらしい。 

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吾妻橋・・・・・・・・・・・23番目の橋は、雷門通りを通し、台東区浅草地区と墨田区吾妻橋地区を結ぶ「吾妻橋」。、、、、、、創架は安永3年(1774)で、それ以前は「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟があった。 当時は、通行料2文の有料橋であったそうだ。、、、、、明治9年(1876)に木橋としては最後になった橋が架けられた。 この時、正式に「吾妻橋」と命名されたそうだ。 明治20年(1887)には、隅田川最初の鉄橋として架け替えられた。、、、、、現在の橋は、関東大震災復興橋として昭和4年(1929)に発注され、銭高組が施工した。 開通は昭和6年(1931)6月である。 形式は鋼橋ヒンジアーチ橋、長さ150.0m。 雷門の色に合わせ、朱に塗られた橋は、“浅草”の橋としてふさわしいデザインで、連日、外人観光客が橋からスカイツリーをバックに記念撮影をする観光スポットである。

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