朽ちかけた閻魔堂
閻魔さまが好きな私は、南蔵院(練馬)の閻魔大王を思い出し、久々に寺を訪れてきた。 大江戸線の練馬駅から、南蔵院に参拝し、帰りは西武新宿線の都立家政駅から帰宅。 1万歩の散歩
● 練馬駅(ねりまえき)は、西武池袋線と都営大江戸線の駅である。 両線の練馬駅は至近距離にあり乗り換え駅であるが、駅舎は西武池袋線の高架駅、大江戸線の地下駅で、別々な構造となっている。 どちらの練馬駅とも、一日当たりの乗降客は、西武の約11万人、都営の約7万人と多い。、、、、近くには立派な練馬区役所が有る、駅周辺には昼のお店、夜のお店が半端なく多く、さすが練馬区の中心の駅。
● 駅前の飲食店が並ぶ裏通りを抜ける。
・・・・・・・・・・ 目白通りに面して高くそびえる、練馬区役所本庁舎は平成8年(1996)3月竣工。 地上21階・地下3階、高さ93.82 m。 東京23区の区役所の中では文京区役所(通称・文京シビックセンター、地上28階・高さ142 m)に次ぐ高さ。 最上階(20階)は展望ロビー、展望レストランがあるらしい。(一度は行ってみたいね!)
● 真言宗豊山派の南蔵院(練馬区中村1) は、瑠璃光山医王寺と号す。 南蔵院は、永正年間(1504~1520)或いは延文年間(1356~1361)、いずれにしても室町幕府の時代に開創したと言われてる。 江戸期には12石8斗の御朱印領を拝領、西光寺(廃寺、中村八幡神社境内にあった)、大日堂(廃寺)を末寺に擁していた。、、、、寺は、古くから、万病にきく「白龍丸」という薬を製造・頒布していた。「南蔵院の投げ込み」と称され、諸病に効験があるとして名高かったが、明治10年(1877)の「売薬規則」の発布により中止された。、、、、境内は街中にありながら緑にあふれ広い、その中に諸堂が並ぶ。 薬師堂は宝永4年(1707)、本堂・庫裏・閻魔堂などは宝暦3年(1753)の再建。 また、鐘楼門は江戸中期の様式と推定されており、区指定の文化財である。
・・・・・・・・・・ 南蔵院通りに面する山門
・・・・・・・・・・ 文禄年中(1592~1596)火災にあい堂塔伽藍、諸記録をほとんど焼失した。 宝暦3年(1753)には寺内の設備を整え、現在の本堂も完成した。 御本尊の薬師如来は秘仏で、33年毎に御開帳されるそうだ。、、、、、明治9年(1876)には、本堂を利用して豊玉小学校が開設された。
・・・・・・・・・・ 本堂の右には、同時期に建てられた庫裏がある
・・・・・・・・・・ 本堂の左には、宝永4年(1707)に再建された薬師堂
・・・・・・・・・・ 薬師堂の前には、宝暦3年(1753)に建立された閻魔堂がある。 6年ほど前に南蔵院に訪れた時、朽ちた閻魔堂、剥げ落ちた閻魔大王を見てから、閻魔大王の住環境が気になっていた。 今日の散歩は、その後どうなったか知りたく、訪れた次第なり。、、、、早速、中を覗いてみた。 照明のない薄暗い朽ちた堂内に、埃にまみれ剥げ落ちた閻魔大王が静かに座していた。 閻魔大王の後ろの壁には病気平癒祈願成就によって奉納された15cmほどの木彫の地蔵尊がズラリ千躰程並んでいるが、こちらもなんとなく薄汚れているみたい。、、、、悲しいかな、閻魔大王の住環境はますます悪化してるようだ! 閻魔堂は仏堂というよりガラクタ倉庫という感じ!
・・・・・・・・・・ 江戸時代中期に建てられた鐘楼門。 三間一戸、入母屋造りで赤く塗られている。 門の左右には仁王像、上階には正徳5年(1715)銘の梵鐘がある。
・・・・・・・・・・ 昭和7年(1932)首のない地蔵様が中村の道端にあった。 近所の住人が地蔵の首を酒代の形に持っていたので、継ぎ合わせたところピッタリと合った。 この不思議な仏縁から、「首継地蔵尊」と呼ばれている。 バラバラ事件の被害者となった地蔵さま、首が繋がり一安心。、、、、、首継地蔵尊は昭和60年頃(1985)までは、中村の八幡神社に祀られていたが、その後南蔵院に移された。
● 所々にマンションと畑が残る練馬区を南に向かって歩く。 道端には道標を兼ねた庚申塔もある。 新青梅街道を横断し中野区に入る。
● 西武新宿線の都立家政駅から帰る