世田谷区

2023年4月22日 (土)

池尻大橋から

東急田園都市線の池尻大橋駅からほぼ南に向かって歩き、東急目黒線の武蔵小山駅まで、1万2千歩の散歩です。




● 「尻大橋駅(いけじりおおはしえき)」は、世田谷区と目黒区に跨る東急田園都市線の駅である。 頭上に走る首都高3号渋谷線が走る玉川通り(国道246号)の地下に駅はある。 ホームは相対式2面2線で地下2階、改札口は地下1階にある。 改札口は1ヶ所だけだが、出口はいずれも玉川通り沿いにあり、東西南北の4ヶ所ある。、、、、駅名は近くの目黒川に架かる“池尻大橋”に由来すると云うのはまっ赤な嘘。 “池尻大橋”という“橋”はない。 本当は、玉川線(田園都市線の前身)時代にあった池尻駅(世田谷区)と大橋駅(目黒区)の合成で、池尻大橋駅となった。、、、、今日は土曜日で通勤客が少ないからか、学生の多さに驚いた!

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● 池尻大橋駅から南側の住宅地に入ると、細い坂道の途中に「池尻庚申堂」(世田谷区池尻2)がある。 堂の中に庚申塔が2基、左側の庚申塔は元禄5年(1692)、右側の庚申塔は延宝8年(1680)の造立らしい。 堂の外には宝永元年(1704)の地蔵の像、常夜灯(大正元年銘)の上には猿の石像もある(狛犬ならぬ狛猿だ!)

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● 陸上自衛隊三宿駐屯地の北側、目黒区立東山公園がある、ここには、昭和33年(1958)から昭和54年(1979)までの間、建設省(現国土交通省)国土地理院がこの地にあった。 現在は「国土地理院跡地記念碑」がたってる。 分度器と丸い地球をデザインしたような記念碑だ! 記念碑の脇には、四個の石で囲まれた「一等水準点」もある。、、、、この地で、地形図などが作成されていたのかな?

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● 自衛隊三宿駐屯地沿いに南に向かうと“龍雲寺通り”に出る、その通り上の目黒区と世田谷区の区界に「庚申供養塔」があった。 彫った文字が読みにくいのでメガネをはずしてシッカリ読んだ、角柱型の正面には「奉納庚申供養 東 ▢戸道」、左側面「南 ゆふてん寺(祐天寺)道」、右側面「北 上めぐろ道」と彫られてる。 道標も兼ねていたようだ!、、、、道標に従い、細い道を南に向かうことにした(私は、幼少のころから素直な性格)

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● 道標に従って道なりに歩くと、目黒区五本木1丁目と世田谷区下馬5丁目の区界、道路中央に中州状の島がある。 そこには、「芦毛塚(あしげづか)之碑」が立っていた。 案内板によると、源頼朝が藤原泰衡を討伐するために鎌倉を出発して、奥州平泉へ向かってこの土地を通った時のこと、頼朝が乗っていた芦毛の馬が死んだので埋葬したと記されていた。(馬の墓だ!)

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● 「五本木一丁目商店街」、「五本木商店街」、五本木小学校前の東横線ガード守屋図書館、「中央中通り商店街」、「清水稲荷通り共栄会」と歩いて来たが、、、、“商店街”から店が消え、“消店街”となったのか!

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● 東急目黒線「武蔵小山駅」についた。 本日の散歩はココまで!

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2021年7月14日 (水)

島津藩菩提寺

京王線明大前駅から、築地本願寺和田堀廟所、永福寺、大圓寺と巡り地下鉄丸ノ内線方南町駅まで、1万1千歩の散歩。




● 朝8時前の京王線「明大前駅、、、、これから都心へ出社のサラリーマン、多摩の方へ通う学生が電車に乗る時刻となった。 上りも下りも、ホームには人が並ぶ。 新宿と多摩方面を結ぶ京王本線、渋谷と吉祥寺を結ぶ京王井の頭線の乗り換え駅でもあり、駅構内を行き来する人も多い。、、、、明治大学学生の登校時間にはまだ早い! 8時半頃になると、明治の可愛い女子大生も登校してくるはずだが、待てない!

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● 明大前駅は世田谷区、駅前の甲州街道を渡り明治大学は杉並区にある。 明大前駅が誕生した大正2年には「火薬庫前駅」という名であった。、、、、この“火薬庫”というのは、明治大学和泉キャンパスと大学の西隣にある築地本願寺和田堀廟所の敷地にあった、江戸幕府の塩硝蔵(鉄砲弾薬等の貯蔵庫)の跡のこと。 塩硝蔵は、当初、多摩郡上石原宿(調布市)にあったと伝えられ、宝暦年中(1750代)に「和泉新田御塩硝蔵」としてこの地に設置され、敷地はおよそ18,896坪(約62,000㎡)あり、御蔵地(貯蔵庫)は5棟・2町2反9畝5歩(約23,000㎡)の規模であったといわれている。 当時塩硝蔵は、御鉄砲玉薬方同心3人が年番で交代居住し、警備や雑用には付近の16ヶ村に対して、昼夜交代で3人づつの課役が徴せられていた。 明治維新の際、塩硝蔵は官軍に接収され、その弾薬は上野彰義隊や奥州諸藩の平定に使用され、その威力を発揮したといわれている。 その後兵部省管理を経て、陸軍省和泉新田火薬庫として再開され、中に当番官舎、衛兵所等が設けられ、麻布の歩兵連隊が警備を任されていたが、大正12年の軍縮で廃止された。、、、、現在は遺構らしきものもなく、大学のフェンスの前に説明版が設置されているだけ。

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・・・・・・・・・・・・明治大学の西隣に浄土真宗築地本願寺の墓地「築地本願寺 和田堀廟所」がある。、、、、大蔵省から払い下げを受けた12,000坪の陸軍火薬庫跡地に京橋区内にあった檀家墓地を移し、富士が望める閑静な我国初の近代的公園式墓地(霊園)を作って一般から墓地の分譲を募集し霊園経営の新形式を作り、昭和11年(1936)に真宗寺を置いた。 入口直ぐの建物は光寿閣といい信徒会館。 正面の極楽橋を渡った先の建物は本堂。、、、、広い墓苑には多くの著名人が眠っている。 一世を風靡したお笑い芸人のレオナルド・熊、横綱吉葉山、内閣総理大臣佐藤栄作、明大マンドリン倶楽部創設者古賀政男、作家樋口一葉、青い山脈の服部良一、ブギの女王笠置シズ子、俳人中村汀女、などなど書ききれない!

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● 和田堀廟所の西側、永福橋で神田川を越えて北へ300m程歩くと、町名「永福」、駅名「永福町」の由来元である、「万歳山永福寺」がある。、、、、万歳山永福寺は曹洞宗の寺。 本尊は十一面観音像で、脇侍の不動・毘沙門両像とともに、鎌倉期の仏師快慶の手になるものと伝えられている。 寺伝によれば、開創は大永2年(1522、室町時代)、、、、寺の歴史は古いが、昭和20年(1945)被災し建物は鉄筋コンクリート造にて昭和36年(1961)に再建された。

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・・・・・・・・・・・・また寺の西門脇には正保3年(1646)・天和元年(1681)銘の庚申塔元禄4年(1691)銘の地蔵石像が安置されている。、、、、400年余りこの地で祀られている像であるが、保存状態良好。 仏を大事にしましょう!

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・・・・・・・・・・・・永福寺西門前には「永福稲荷神社」がある。 永福稲荷神社は、享禄3年(1530)に永福寺の開山秀天和尚が、永福寺境内の鎮守として創建した。

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● 井の頭線永福町駅前を通過し、井の頭通りを横断し、北へ向かう。

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● 永福町駅から北へ700m程、杉並区和泉3丁目の「泉谷山大圓寺」に立ち寄る。 この寺には2年ぶりだ。、、、、大圓寺(だいえんじ)は曹洞宗(禅宗)の寺院で、本尊は阿弥陀如来。 慶長8年(1603)赤坂溜池の辺りに徳川家康が開基となって建立され、開山は諦巌桂察和尚(武田信玄の弟)とされる。 寛永18年(1681)正月、江戸の大火に遭い伊皿子に移転。 その頃から大渕寺の寺名を大圓寺に改める。延宝元年(1632)薩摩藩主島津光久の嫡子綱久の葬儀を行って以来、島津家の江戸における菩提寺となり、福寿院・門能院の塔頭二院もそれぞれ大名保科・旗本五井・松平・本多・土方の諸家中、町人衆を檀家として隆盛を極めた。 明治41年に塔頭二院を併合して現在地(杉並区和泉)に移転した。、、、、今日も山門前の石像の仁王がお出迎え。 顔を見ていると、浅草仲見世で売っている人形焼きを思い出した。、、、、山門には徳川の葵紋、本堂にはさらに島津の十字紋、苔むした墓地には明治元年戊辰の役戦死者没者の墓、日向都城主島津筑後守の墓及び殉死者の墓、大刀八木八郎の墓(君命にて巨石を捧げ、死後墓石となす十九才)、赤﨑海門・鞍岡蘇山(共に儒学者)の墓、横山正太郎安武(政府に建白、自刃)の墓などがある、徳川家や島津家とも縁のある寺院である。 また、飯野藩保科家墓所もある。 しかし、いずれの墓も案内がなく、どれが誰の墓か、この墓は誰のか、この人はいずれの士か、いずれの姫か、さっぱり判らん! 教えて欲しいが、墓の数がありすぎて聞いても馬の耳に念仏かも?

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● 大圓寺から東へ歩き、東京メトロ丸ノ内線の「方南町駅」から帰宅する。、、、、熱中症予防に歩きながら飲んだ、「ソルティーライチ」、「コカ・コーラ」の合計500㎖×2本=1000㎖が効きすぎて、熱中症の症状はなし。 でも、腹痛と尿意は限界に達する! 急げ!!

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2021年7月11日 (日)

井の頭通りを直線に!

早朝の下北沢の街をブラブラ、井の頭通りをテクテク、和田堀給水所をグルリ、代田橋駅をイッタリキタリ、京王線の踏切をウロウロ、明大前からサッサと帰る。 1万歩の散歩




● 今日の散歩は下北沢駅からはじめることにした、、、、小田急線「下北沢駅」は3層構造で、1階は出口(改札)・駅事務室など、地下1階は緩行線ホーム、地下2階は急行線ホームとなっている。

・・・・・・・・・・・・新宿で空いている各駅停車に乗って、朝7時半、通勤通学客のいない下北沢駅ホームに降りる。 地下1階のホームに乗客の姿は数人だけ! ガラガラ電車にガラガラホーム、いずれもコロナ感染の心配無用!、、、、地下1階は地上から掘削して造る開削工法により駅が造られた。 床・壁・天井が箱型に構成され、中央に島式ホーム1面2線がある。

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・・・・・・・・・・・・地下2階は、2本の円筒を並べた、メガネ型シールド工法により掘られている。 壁に丸みがある。 中央に島式ホーム1面2線を有する。

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・・・・・・・・・・・・1階は、広いコンコースに、京王井の頭線への乗り換え改札、出口などがある。 井の頭線は高架で2階を走る。

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下北沢の街はまだ寝ているようだ! 店はもちろん閉まってる、人影は少ない、騒々しい雰囲気もなく、静かなものだ。、、、、細い裏道が入り組んで、よそ者の自分は、“現在地不明”、“方向感覚鈍し”の症状が出る。 “どうせ散歩だ、適当に歩こう!”

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● 広い通りに出た! 地図を出し調べると「井の頭通り」だ、この道を西に歩くと京王線代田橋駅に近い「和田堀給水所」にぶつかる。 『ヨシ、給水所に行ってみよう!』

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・・・・・・・・・・・・井の頭通りは、渋谷駅前を起点とて和田堀給水所をとおり、武蔵野市の境浄水場を終点とする道路。 全体的には、かつての“水道道路”をベースとする、ほぼ直線の道路である。 しかし、和田堀給水所の処だけは、直線とはならず、四角い給水所の外周(北側)を半周する部分があり、かつ道幅も狭くネックとなっている。 道路を管理する東京都では、井の頭通り直線化に取り組み、具体的には、和田堀給水所の南側に道路用地を確保して、環七通り「大原2交差点」から甲州街道「松原交差点」へつなげるらしい。(赤線部分は私の推定したルート)

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・・・・・・・・・・・・環七通りと交差する「大原2交差点」、、、、ここから先は給水所の北側を回り、道幅も狭くなる。

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・・・・・・・・・・・・給水所西側の住宅地の一部では、用地取得が済んだようで、フェンスに囲われた空き地が見える。 同じようにフェンスで囲われた空き地は、京王線を越え、甲州街道の手前まで点在する。

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・・・・・・・・・・・・「和田堀給水所」は只今老朽化により整備工事の真っ最中、、、、フェンスの隙間から、チョイトのぞき見。 昭和9年(1934)に完成した円形の1号配水池が見える。

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京王線「代田橋駅」にも寄ってみる。 こちら京王線でも、笹塚~仙川間の連続高架化工事が始まった。 その新宿寄りの第一工区(大林・京王JV)に代田橋駅が含まれる。 チョイト駅周辺を歩いてみたが、まだ本格的には着工していないようだ。

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● 代田橋駅で、『まだ帰るには早い、もっと歩ける』と自身に言って、隣の明大前駅まで京王線高架化工事の第二工区(大成・竹中土木JV)を見ながら歩くことにした。、、、、踏切から左右の現場をチラチラ。 こちらも工事は本格的には進んでいない。 

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● 京王線と井の頭線の接続駅「明大前駅」に到着。 地下1階は井の頭線のホーム、1階は改札口、2階は京王線ホーム。 ホームはいずれも相対式ホーム2面2線。 大正2年(1913)4月15日 陸軍の火薬庫に近かいことから、京王電気軌道の火薬庫前駅として開業した。 駅名が「明大前」となったのは昭和10年(1935)のことである。 その名のごとく、駅近くの甲州街道沿いに明治大学の和泉キャンパスがある。、、、、平日は改札から学生がどっと流れ出てくる。 その中には、結構ドキッとする娘もいるね!

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2021年7月10日 (土)

青い目のお不動さん

年とったせいか目覚めが早く、今朝も4時半に目が覚める。 外を見るとめずらしく雨が降っていない。 『コリャ、久しぶりに散歩ができそうだ』と、あらためて天気予報で確認。 鹿児島は大雨警報が発せられたが、東京は熱中症警戒情報が出ている。 新型コロナに熱中症、『まあ、何とかなるだろう!』と、散歩に出る! 行先は?、、、、『三軒茶屋、続きだ!』

東急田園都市線の三軒茶屋駅から、北に向かって、小田急線の下北沢駅まで、1万歩の散歩。




● 『十日間のご無沙汰でした。 忘れないでね、雅万歩でございます』、、、、雨で散歩を休んでいたら、その間、脚は弱り足がつり、体重は減り腹はへっこみ、腰は痛み整形外科に、今日の散歩は、お供に腰の湿布とコルセット、、、、二回のワクチン接種も終わり、チョイト混んだ電車も強気で安心。

・・・・・・・・・・・・土曜日の早朝のせいか、若い女性も少なく、楽しくない電車に乗って、三軒茶屋で下車する。 

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・・・・・・・・・・・・玉川通り(国道3号)から世田谷通りが分岐する二股の角にある三軒茶屋駅出口から外に出る。 この出口の脇に、不動明王が乗った「追分道標」がある。 この道標は寛延2年(1749)に建立され、文化9年(1812)に再建されたもの。 正面に【左相州通大山道】、左側に【此方二子通】、右側に【右富士、登戸、世田谷通】 と刻まれてる。 道標のある場所は「三軒茶屋」と呼ばれ賑わった場所で、この付近に石橋楼・角屋・田中屋の三軒の茶屋が実在したそうだ。

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● “三軒茶屋と言えば目青不動”、これ、昔の江戸っ子の常識(?)、、、、ここ三軒茶屋に来たら、「目青不動」に参ることにした。 東急世田谷線三軒茶屋駅西口(踏切側)に山門がある。

・・・・・・・・・・・・こちらの三軒茶屋駅西口の斜め前に、「最勝寺教学院不動堂」の山門がある。 

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・・・・・・・・・・・・天台宗寺院の教学院は、竹園山最勝寺と号します。教学院は、慶長9年(1604)江戸城内紅葉山に創建、後に赤坂三分坂、継いで青山南町4丁目へ移転、当地へは明治41年に移転した。 貞享4年(1687)には相州小田原城主大久保加賀守の菩提寺となる。 明治15年(1882)、廃寺となった観行寺の本尊であった江戸五色不動の「目青不動」を移したことから、青山のお閻魔さまとも称されたといいます。、、、、本堂は樹木の陰で存在感が薄い。

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・・・・・・・・・・・・江戸五色不動の「目青不動」を閻王殿に祀っている。、、、、観行寺の本尊であった不動明王像は、円仁(慈覚大師)の作と言われている。江戸五色不動の1つの目青不動は、秘仏とされ公開されていない。前立ちの青銅製不動明王像は寛永19年(1642)の作である。、、、、目青不動の隣りに閻魔像が祀られている。 内部は薄暗く、仏壇前の金網が邪魔し像が見ずらい! 秘仏の青い目をした異人のお不動さまを見たいものだ!

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● 目青不動の教学院をあとに、三軒茶屋と下北沢を結ぶ「茶沢通り」をしばらく歩く。

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・・・・・・・・・・・・茶沢通りから東に入り真言宗豊山派の「円泉寺」(世田谷区太子堂3)に寄っていくことにした。、、、、円泉寺は、聖王山法明院と号し、賢恵僧都が大和国久米寺から聖徳太子像と十一面観世音を背負って関東に下向し、文禄4年(1595)当地に円泉寺を創建した。 太子堂(中は覗けず、残念)に安置されている聖徳太子像は弘法大師の作と云われ、当地名「太子堂」の由来である。

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・・・・・・・・・・・・円泉寺の西側、境内脇の路地の奥に「林芙美子旧居」がある。、、、、案内板には、『林芙美子旧居 (太子堂三丁目29)  此の路地奥の二軒長屋は、林芙美子の不遇時代の寓居です。その一軒には壷井繁治・栄夫妻が住み、若い頃の平林たい子も度々訪れました。芙美子の処女作「放浪記」には、この頃の太子堂での生活の一こまが描かれています。壷井栄の「はたちの芙美子」にも当時の生活が記されています。芙美子のすぐれた文学性が磨かれた場所として文学史上、記念されるべき場所と言っていいでしょう。 昭和47年3月 世田谷教育委員会』と記されてる。、、、、近所の御老人によると、この建物、実は三軒長屋で造られ、その後二軒に改築されたそうだ。、、、、写真1枚目:中央茶色の建物が林芙美子旧居、写真2枚目:手前白い建物と奥の茶色の建物は棟続きの長屋。

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● 再び茶沢通りに戻り、淡島通りと交差する代沢交差点から200m程北に歩くと、茶沢通りに面して小堂がある。 堂の中には、舟形浮彫りの地蔵で、像右に「光明真言 女中講」、像左に「天明元年辛丑年十月吉日」と刻まれた「女中講地蔵尊」が祀られている。 願主は「治左衛門母」とある。、、、、“光明真言”とは、真言宗で最も大切なお経のこと。 “女中講”とは、江戸時代の地蔵信仰は小さな村単位で講を作り、そのグループ内の女子で寄り合って結成した信仰集団。 現在のママ友集団と思えばよい。、、、、この地蔵さまは、ママ友集団により、天明元年(1781)に造立され、その代表は治左衛門のママだったのか? 

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● 代沢3丁目の浄土宗寺院「森巖寺(しんがんじ)」にもお立ち寄り、、、、森巖寺は八幡山浄光院と号す。森巖寺は、家康の二男:結城中納言秀康が帰依した越前国一乗寺の万世和尚に一寺の創建を依頼、万世和尚の弟子孫公和尚が結城中納言秀康卿の位牌所として、慶長13年(1608)当地に創建した。、、、、下北沢に近いとは思えない静かな雰囲気の森巖寺。 寺は質素であるが、歴史を感じる雰囲気だ!

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・・・・・・・・・・・・森厳寺の墓地には、昭和30年代に八波むと志・南利明と「脱線トリオ」を結成し、その後、多くの映画・TVにも出演した、喜劇俳優の由利徹(本名:奥田清治、日本喜劇人協会会長)が眠っている。、、、、名実共に(?)好色家の喜劇役者で私を楽しませてくれた、チョイト、手を合わせてきた。

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・・・・・・・・・・・・森厳寺の東側には、かつて森厳寺が別当であった「北澤八幡神社」がある。 こちらにも、チョイトご挨拶を!

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● 森厳寺と北澤八幡神社の間の通りを下北沢の方に歩いていくと、昭和11年(1936)創立のプロテスタント教会「富士見丘教会」の前に出た。、、、、教会の建物は昭和12年(1937)に建てられた木造2階建て。 設計は加藤俊一、施工は加藤建築株式会社。 白い壁と緑の屋根がただいまさな教会。 国の登録有形文化財、、、、只今、コロナにより教会は閉じられ立入禁止、礼拝もできない、残念!

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● 来るたびに騒々しくなっていくように感ずる駅周辺。 年寄りにはチョイト不向きかも? そんな街の中に下北沢駅があるように感じる、、、、散歩はここまで!

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2021年6月30日 (水)

柿の木坂は駅まで何里?

時おり雨粒が落ちてくるが、傘を必要とするほどでもない、チョイトいやな空模様である。 一昨日の散歩の終点、都立大学駅から歩きはじめ、最初は西へ、途中から北へ、たどり着いたは東急田園都市線の三軒茶屋駅まで、1万3千歩の散歩です。




● 朝7時半、通勤・通学客が行きかう「都立大学駅」で下車、、、、東急東横線は、電車通学する小中高の子女が多いようだ。 沿線には有名私立が多く、資産家・セレブも多く、わかる・判る・なんとなく判るね! 女学生が可愛く見えるね!

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● 駅から東西南北どっちへ歩こうか? とりあえず、駅から西へ目黒通りを横断し、以前参拝したことがある「八雲氷川神社」(目黒区八雲2)に寄ってみた。、、、、チョイト長い参道を歩き、緑多い境内の八雲氷川神社に参る。 神社は古くより創建され、旧衾(ふすま)村(八雲周辺)の鎮守である。 祭神は素盞嗚尊、稲田姫命、大己貴命の三柱。 創建の年代は詳らかではないが、内陣に文化14年(1817)奉納の記載があり、また社殿の改築が安政2年(1855)に行われているところからみて、かなり古いと推察できる。、、、、この神社は、古くから「癪封じの神」として広く知られ、下総や相模からも参詣人が詰めかけたそうだ。

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・・・・・・・・・・・・【地名の八雲?】明治22年頃、この辺りは碑衾(ひぶすま)村大字衾(ふすま)であった。 昭和7年には、目黒区衾町・宮前町。 昭和39年の新住居表示により衾町・宮前町の全部に大原町・芳窪町・中根町の各一部をあわせた町域を現行の「八雲」とした。、、、、何処から「八雲」の名を持ってきたか? 新住居表示の時、当然のこととして「衾町」としたかったし誰にも異論はなかったが、「衾」が当用漢字にないので却下された。 さらに、“衾”を「ふすま」と読むことが時の日本人に難しいということで、「それでは別の名前」というんで思いついたのが〝八雲〟だった。 由来は、明治4年太子堂郷学校(現世田谷区立若林小学校)の分校として創立した衾村分校が、明治7年に独立するとき、村の鎮守の氷川神社に伝わる奉納舞「剣の舞」、素盞雄尊が奇稲田姫を救うために八岐大蛇を退治してその尾から天叢雲剣を得て、奇稲田姫と新居を持つときに詠んだ歌。『八雲立つ出雲八重垣妻ごみに 八重垣作るその八重垣を』から校名を拝借して「八雲学校」(現八雲小学校、目黒区最古の学校)とした。 地名はこの八雲を採用した。 小学校の校名でパクリ、地名でパクリ!



・・・・・・・・・・・・八雲氷川神社の西隣に真言宗智山派の寺院「金蔵院」がある。 金蔵院は、氷川山虚空蔵寺と号す。 慶長5年(1600)頃に頼栄上人が創建、明治7年に一旦廃寺となったものの明治14年(1881)には再興された。 氷川神社の別当寺。、、、、檀家のない寺で、無住となった時(明治4年)、八雲小学校が創立して、この寺を教室としたという。

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● 氷川神社で近くに吉良家の菩提寺があると聞いた。 “吉良”と聞いて、私の頭は“上野介” 忠臣蔵の話が好きな私にはとっては、行かねばならない菩提寺だ! その名は「東光寺」、来た道を戻る方角にある。 金蔵院から再び氷川神社の境内を横切り、足は東へ、、、、曹洞宗寺院の東光寺は、泰陽山霊徳院と号します。東光寺は、世田谷城主吉良冶部大輔冶家が、その嫡子祖朝の追福のために臨済宗東岡寺として貞治4年(1365)に創建したといいます。その後東光寺と改め、天文19年(1550)には寺領30石の御朱印状を拝領、後曹洞宗に宗旨を改めています。、、、、東光寺が祀る“吉良家”は、忠臣蔵よりはるか昔、南北朝時代の世田谷城主:吉良治家と子の祖朝の時代のことであった。 ちなみに、忠臣蔵の上野介の墓は中野の万昌院功運寺にある。

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● 東光寺の東隣にもう一寺あった、、、、日蓮宗寺院の「小杉山常円寺」である。 常円寺は、江戸谷中の感応寺(現谷中天王寺)の住僧日長上人の師でもあった日信上人が営んでいた庵室をはじめとし、日信上人の没後の天正18年に、世田谷城主の近臣:小杉甚七が開基となり、常円寺と号した。

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● 常円寺は「柿の木坂通り」に面してる。 ここまで来たら、柿の木坂通りを歩いてみることにした、、、、、柿の木坂通りは、都立大学駅付近から北にのびて環七通りの目黒区と世田谷区の境「野沢交差点」までである。 道路の愛称となった「柿の木坂」があるのは、環七通りと目黒通りの交差点“柿の木坂陸橋”付近から,東横線のガードをくぐって南西側までの目黒通り上の350m程。 つまり、“柿の木坂通り”には“柿の木坂”はない! なぜだ? 実は、目黒通りと柿の木坂通りと環七通りで囲まれる三角形の地域の地名が「目黒区柿の木坂」で、“柿の木坂通り”はその町の一辺となる、、、、整理すると、昔からあったのは目黒通りの坂で「柿の木坂」、その柿の木坂の北側の町が「目黒区柿の木坂」(昭和7年命名)、その柿の木坂の町を囲う道路の一本を「柿の木坂通り」とした。、、、、ついでに、都立大学駅は昭和2年(1927)に開業し、開業後4年間の駅名は「柿の木坂」であった。、、、、さらに、話はややっこしく、青木光一のヒット曲『柿の木坂の家』の柿の木坂はモデルが広島県で目黒区柿の木坂とは無関係!

さて、「柿の木坂通り」を歩いてビックリ、見てビックリ、なんと小さな店が並ぶシャレた通りで、高級住宅地を歩いてる感じだ! 道の途中にはコンサートホールもあり、文化の薫りも漂うね!

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● 野沢交差点で環七通りを横断し、世田谷区に入ると野沢3丁目に臨済宗妙心寺派寺院の「大沢山龍雲寺」がある。、、、、龍雲寺は、節外大和尚(特賜大慈妙応禅師)が廃寺となっていた下馬引沢村(下馬)の智見寺を引き継ぐ形で野沢に元禄12年(1699)創建した。、、、、現本堂は昭和38年(1963)に起工。 同40年(1965)に鉄筋コンクリート平屋造りの本堂をはじめ、山門、鐘楼、庫裡の諸堂を落慶した。、、、、広い境内に、美しい樹木が良く手入れされている。 落ち着いた静かな寺。

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● 龍雲寺の山門前を北東に歩くと下馬4丁目に、天台宗系単立寺院の「世田谷山観音寺」がある、、、、古い由緒ある寺かと思ったら、観音寺は、事業家であった大僧正睦賢和尚(パン屋「静養堂」の主人:太田陸賢)が昭和25年に創建した寺(?) 本尊は聖観世音菩薩、他に不動明王・阿弥陀如来・仁王尊・特攻観音をまつる御堂があります。  パン屋の主人は金を持っていたらしく、保有する文化財は関東一といっても過言ではないそうだ。 仏教オタクのパン屋が創った、私設仏教博物館といったところ。、、、、広い大きな境内には、三重塔のほか数々の建物があります。 また、特攻隊の慰霊碑もあり、都会の中の静かなお寺で平和を祈るとともに、英霊の安らかな眠りを祈るほかない場所でないかと思います。、、、、百聞は一見に如かず!

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● 観音寺から裏通りを抜けて、東急田園都市線の「三軒茶屋駅から帰宅、、、、改札から出てくるのは、若い娘バッカシ、なんだ!コリャ! しばし、改札前で“
茫然自失”、顔は“喜色満面”、そして“顔厚忸怩”  何はともあれ、嬉し楽しい駅だ!

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2020年1月22日 (水)

緑の街「海軍村」

昨日、TVを見ていると、“自衛隊の中東派遣”と、“駐韓米国大使の髭”のニュースが流れた。 私の頭の中で、2つのニュースが化学反応を起こし“東郷元帥”が思い出され、“日本海軍”を思い、さらになぜか“海軍村”を思い出した。 『数年前に見た古い建物は取り壊されたか?』、気になり今日の散歩では「海軍村」に行ってきた。

東急目黒線の奥沢駅で下車し、「海軍村」の跡を求めて奥沢2丁目を歩き廻り、東急大井町線の緑が丘駅まで、8千歩の散歩。




●ここは世田谷だ! ・・・・・・・奥沢駅(おくさわえき)は東急目黒線で唯一世田谷区の駅である。 両隣の大岡山駅、田園調布駅は、それぞれ、目黒区、大田区にある。、、、、大正12年(1923)3月11日、目黒蒲田電鉄が目黒~丸子(現:沼部)間を開業させた時にできた。 ホームは下り用の単式ホーム1面1線と上り用の島式ホーム1面2線で構成される地上駅。 改札は上下ホームにそれぞれある。 駅の横には留置線があり、電車のお休み処。、、、、駅名の奥沢は元の地名「荏原郡玉川村字奥沢」から頂戴した。 その「奥沢」は、呑川支流の九品仏川の奥深い沢(九品仏浄真寺の北側の湿地帯)に由来するそうだ。、、、、駅を利用する、女学生・OL・パートのおばさん・病院通いのお婆さん、世田谷の駅では誰もが美人に見える、私の住む下町の浅草橋駅とは質が違うのか?
年をとり目もイカレテきたか?

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●大蛇がいた! ・・・・・・・・駅の北側150m程に奥澤神社はある。 奥澤神社の創建年代は不詳ですが、世田谷城吉良氏の家臣、大平氏が奥沢城を築くにあたり、世田谷郷東部の守護として八幡社を勧請したと伝えられている。、、、、社殿は昭和45年(1970)に完成し、尾州檜材を用い、室町期の様式を採用したもので、都内においても他に類を見ない。、、、、江戸中期、疫病が流行した時、名主の夢枕に八幡様が立たれ、藁で造った蛇を祀るとよいというところから「厄除大蛇」が鳥居にかけられるようになり、今も続いている。 今日、もう一匹の大蛇が、社殿の中で、とぐろを巻いてお休み中であった。

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・・・・・・・・・・・・鳥居をくぐって、スグ左にある如意輪観音の道標。 大音寺(奥沢1)近くの呑川脇の何処かにあったものらしい。 観音の下部に、「右品川ミち 左めぐろミち」と標されている。 なぜか裏を見ると出羽三山(出羽山・月山・湯殿山)の名が出てくる?

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・・・・・・・・・・・・そして、神社鳥居前から東に向かい緑が丘駅前に至るバス通りは「奥沢大蛇通り」と言う。 毎年9月の祭礼では、藁で造った長さ約9m、直径26cm、重さ150㎏の大蛇が、町を練り歩く(?)そうだ。 この大蛇通りを!

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●緑豊かな海軍村! ・・・・・・・世田谷区奥沢2丁目、奥沢大蛇通りと、東急大井町線で挟まれた一帯をかつて通称「海軍村」と云った。、、、、数年前、世田谷に「海軍村」があると聞いて、なぜ“海軍”が海のない世田谷に居るのか疑問であった。 大正12年(1923)の関東大震災後の郊外移転ラッシュ、同じ年の目蒲線開通による利便性向上、奥沢は虎ノ門の海軍省と横須賀鎮守府の間、セレブの住む“あこがれの田園調布”の隣町、などなどで、海軍士官がこの地に魅力を感じたらしい。 そこで、当時この地の地主であった原家が独力で区画整理を行い、海軍士官たちに借地として貸し与えた。 高いか安いか判らんが、賃借料は坪単価8銭だったそうだ。 昭和11年頃には30戸以上も集まり、主に主計関係の海軍士官が集住したので俗称「海軍村」と呼ばれたそうだ。(一部、陸軍軍人もいた)、、、、海軍村の建物は、特別な様式、材料、デザインなどで珍しいわけではない。ゴク普通の建物である。 現存する当時の建物は数棟で、殆どは建て替えられた。、、、、現在、奥沢2丁目の街全体を緑豊かな、季節感のある街にすべく、住民が街づくりに取り組んでいるようだ。

・・・・・・・・・・・・昭和初期頃の建築と思われる住宅、、、、現在、どの建物も住まわれており、覗き見はダメ!

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・・・・・・・・・・・・村の中心と思われる位置に建つ「海軍村跡」の碑、、、、電柱の陰で恥ずかし気に建っている
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・・・・・・・・・・・・建て替えられた家もおしゃれだ!

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●“ヶ”を“が”にした駅! ・・・・・・・東急大井町線の「緑が丘駅」は大岡山の東京工業大学のキャンパスに隣接する駅であるが、東工大の表門の駅が大岡山で、裏門の駅が緑が丘と云う感じ。 緑が丘駅は目黒区であるが、駅前の道路を横断すると世田谷区奥沢となる。、、、、昭和4年(1929)12月25日、中丸山駅として開業。 昭和8年(1933)に緑ヶ丘駅に改称。 昭和41年(1966)には“ヶ”を“が”に変えて緑が丘駅となる。、、、、相対式ホーム2面2線の高架駅で、出入口は高架下の1箇所のみ。、、、、一日の平均乗降客数は、10,000人程と少ない。

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2019年9月17日 (火)

美しいモスク!

京王線代田橋駅から、小田急線代々木上原駅まで、1万1千歩の散歩です。

 

●再開発に着手! ・・・・・・・代田橋駅は、大正2年(1913)4月15日、京王電気軌道の駅として開業。 相対式ホーム2面2線の駅で、狭い敷地のため駅舎・改札は八王子寄りの地下に1か所のみある。、、、現在、京王線笹塚駅~仙川駅間の高架化事業が始まり、数年後には代田橋も高架駅に生まれ変わる。 また、駅前の和田堀給水所により、道路の一部が途切れていた井の頭通りも一直線の道路に変わる予定。 こうなると、代田橋駅前の再開発が巷の噂となって“あたり前田のクラッカー”。 世田谷区では計画実現に向け、真剣に取り組み始めているそうだ。、、、、通勤・通学時間、狭い駅前の通りは学生がゾロゾロ、快傑ゾロ!

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●区内唯一の酉の市 ・・・・・・駅の西50m程、線路沿いに大原稲荷神社がある。 天明2年(1782)五月、それまで代田村字大原の北外れを結界とし、村外からの悪霊を祓うため地元の人々の寄合地としてあった杉林に社を建て、遠く京都の伏見稲荷大社まで出向き、稲荷神社が勧請された。 境内社として大鳥神社があり、11月の酉の日には縁起物の熊手市が立ち、世田谷区内唯一の酉の市とあって大勢の人で賑わうそうだ。

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●丸は無くなり、四角ができる ・・・・・代田橋駅の南西に、大正から昭和にかけ建てられた規模の大きな和田堀給水所がある。 用地面積は約5,400㎡。 ここには、頑強な丸い造りの1号配水池(昭和9年完成)と、小さな山の様な四角い2号配水池(大正13年完成)があり、千代田区・港区・渋谷区・世田谷区・目黒区に給水していた。 2つの配水池の有効容量は合計60,000㎥だが、容量不足と老朽化により、平成23年(2011)から給水池の再構築と、給水所の北側を迂回するように延伸されている井の頭通りの直線化工事が行われている。 2号配水池は壊され、丸い1号配水池も今後壊される予定である。 その後、四角い2つの配水池が新たに造られる予定だ。 井の頭通りは配水池の地下を通るらしい。 完成すると、有効容量を60,000㎥から110,000㎥になるそうだ。、、、、工事も佳境に入り部外者は立入禁止、給水所の周りを歩いても、現場の中は見えずらい。 鉄柵越しに最後の姿を瞼に焼き付ける!

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●世田谷の和風住宅! ・・・・・・和田堀給水所の東、大原二丁目交差点を越え、大原1丁目の裏道に「柳沢の杜市民緑地 」がある。 庭の広い個人住宅の跡である。 ここは、かつてこの場所に暮していた柳澤君江が、生前「没後もこのままで残して欲しい」と願い、その意思に沿って残された和風庭園と住宅の跡である。 現在は、市民緑地として開放されているようだ。 庭の奥にある、伊東安兵衛(1908~1972、東京都生まれ、家具・木工のデザイナー。他方、建築設計も行う)の設計による、昭和26年(1951)に建てられた、国の登録有形文化財の建物も残されており、故人が暮らし、愛した風景に触れることができる。、、、、建物の中には入れず、残念!

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●“なつぞら”の空 ・・・・・・・今日の空は、青く澄んだ空に白い雲の映えるアニメのような“なつぞら”。 世田谷区北沢、渋谷区大山町の裏道を歩き代々木上原駅に向かう。、、、、“なつぞら”は暑い、久しぶりに汗が噴き出してきた。

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●凄い綺麗なモスク! ・・・・・渋谷区大山町、もうまもなく代々木上原駅だと思った時、目の前に尖塔が見えた。 アッ、あの尖塔は銭湯の煙突ではない、あれは紛れもなく、私が前から行って見たかった、イスラム教のモスク「東京ジャーミイ」だ! ヨシ、内部を拝見させてもらうぞ!

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・・・・・・・・・・・・・・東京ジャーミイ(Tokyo Camii)は、日本最大のイスラム教寺院である。 東京ジャーミイは、駐日本国トルコ共和国大使館の所属であり、宗教法人「東京トルコディヤーネットジャーミィ」によって運営されている。 モスクの光熱費などはトルコ共和国宗務庁が負担しており、責任者であるイマームも同庁からの派遣である。 東京ジャーミイには、1階にイスラム教(回教)やトルコの文化を紹介する「トルコ文化センター」があり、2階は最大2,000人収容可能な礼拝堂で、女性用の礼拝室も3階にある。 日本最大のモスクである。 敷地面積は734㎡、建物床面積は1,693㎡。 東アジアで最も美しいモスクと云われている。、、、、只今、建物外部は改装中。 内外の壁には大理石を多用し、今日の空の青さを背景に白さが際立っている。

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・・・・・・・・・・・・・・まずは、1階、トルコの美術品が展示されているトルコ文化センターを拝見。 チョイト旅のおつまみに、トルコ原産のナツメは食べ放題。(私は遠慮して3粒ほど頂戴してきた)

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・・・・・・・・・・・・・・2階は礼拝所。 東京ジャーミイの扉・天井・壁などにある装飾は全て意味がある模様・デザインである。 アラビア語の簡潔な文章で、神のメッセージや預言者ムハンマドの言葉がいたる所に記されている。 私はアラビア語はダメなので、すべてが模様のように見えてしまった。 ゴメン! ここで2000人が礼拝する様子を見てみたくなった。 圧倒されること間違いなし!、、、、3階は女性の礼拝室で男性は入室禁止。 残念だが、見るのはあきらめた!

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●懐かしさを感じたホームの売店 ・・・・・・・・代々木上原駅は、昭和2年(1927)4月1日、代々幡上原駅として開業。 昭和16年、代々木上原駅に改称。 昭和53年(1978)に営団地下鉄千代田線・代々木公園~代々木上原間が開通し、小田急小田原線との相互直通運転開始。、、、、現在は、島式ホーム2面4線の高架駅。 最近少なくなったように思えるホームの売店がある。


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2019年7月 3日 (水)

井の頭線 (下北沢~駒場東大前)

雨の上がった午前中に散歩をすべく、朝7時過ぎに家を出た。 行先は井の頭線の下北沢駅、今日はココから歩きはじめ駒場東大前駅まで、1万1千歩の散歩です。




●すし詰めラッシュ ・・・・・井の頭線沿線の散歩、今日は下北沢駅から。 まずは、井の頭線の下北沢駅で下車。

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・・・・・・・・・・・・・・吉祥寺方面から渋谷に出る通勤客にとっては、中央線新宿経由で渋谷に出ると、乗換1回、所要28分、運賃216円。 井の頭線で渋谷に出ると、直行、30分、195円。 自宅・勤務先の事情もあるだろうが、井の頭線の利用に魅力を感じる人も多いはずだ。 それ故に、朝8時の井の頭線下北沢駅ホームに到着する渋谷行の電車は超満員、“乗せて! 押して! 詰め込んで!”のラッシュ。 一方、吉祥寺行は“楽々座れますね!”

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●落ち着かない町! ・・・・・・下北沢の隣り駅:池ノ上駅まではわずか600m。 チョイト、裏道、回り道、寄り道を!

・・・・・・・・・・・・・・地下化された小田急線の地上の旧線路跡。 広い空間が、まだ整備されず・・・

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・・・・・・・・・・・・・・駅周辺には、大きな劇場、小さな劇場、数えたことはないが、自分の知るだけでも10軒以上はある!

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・・・・・・・・・・・・・・踏切を一つ、また一つ、線路の先には池ノ上駅が見える!

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●駅名の由来は単純! ・・・・・下北沢駅から600m、昭和8年(1933)8月1日に帝都電鉄の駅として開業した池ノ上駅。 駅名は“いけのうえ”と読む。 ノーなしは東急池上線の池上駅、間違えないで! 島式ホーム1面2線の地上駅で橋上駅舎を持つ。、、、、かつて駅の南方に細長い池があり、それから駅周辺の高台を「池の上」と呼ぶようになる。 その地名から駅名を「池ノ上」としたそうだ。
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●研究の成果を見たい! ・・・・・・池ノ上駅の西側、目黒区駒場に東大駒場リサーチキャンパスがある。 ここは、元々は駒場農学校(東大農学部の前身)の敷地だった。 関東大震災後は東大の工学部系の研究施設がつくられる。 現在は、先端科学技術研究センター、生産技術研究所、国際産学共同研究センターがつくられ、先端工学系の研究施設が集まるキャンパスとなっている。、、、、“駒場”の東大と言えば、誰もが東大教養学部の駒場キャンパスを思いだすが、そのキャンパスは「駒場東大前駅」の北側に広がっている。 ここは、教養学部のキャンパスとは駒場公園を挟んで西側にあるキャンパス。 東大でも一般にあまり知られていない、超最先端の研究をしている施設である。 セキュリティがシッカリしているので、内緒で機密情報をパクることは出来ません!、、、、文化財級の建物を除いて、研究室などがある近代的な建物は、京都駅を設計した原広司の設計である。、、、、

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 ・・・・・・・・・・・・・・最先端の研究をする施設群の中で、キャンパスの中央にシンボル的にたつのは「先端科学技術研究センター13号館」。 旧航空研究所本館で、登録有形文化財。 昭和4年(1929)完成。 設計は内田祥三、清水幸重。 施工は大倉土木(現:大成建設)。、、、、現在は、事務室と教室として使用されているようだ。

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・・・・・・・・・・・・・・13号館の真後ろたつ14号館。

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・・・・・・・・・・・・・・正門から入ると、13号館の右にたつ「試作工場」は、旧東京帝国大学航空研究所中央工場第1号館として昭和4年(1929)に建てられた。 鉄筋コンクリート造2階建て。 設計は内田祥三と清水幸重ほか、施工は大倉土木(現:大成建設)。

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・・・・・・・・・・・・・・13号館の左には、「旧:東京帝国大学航空研究所風洞部研究室」であった1号館がある。 設計:内田祥三、清水幸重など、施工は竹中工務店。
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●東西駒場駅の合作! ・・・・・・「駒場東大前駅」は、昭和40年(1965)7月11日に「駒場駅」と「東大前駅」を統合して開業した。 井の頭線で唯一戦後に開業した駅で、最も新しい駅である。 現:駒場東大前駅より吉祥寺寄りに駒場駅が、渋谷寄りに東大前駅があった。 両駅がその中間点に移動し、統合したものだ。

・・・・・・・・・・・・・・まず「駒場駅」について、、、、昭和8年(1933)8月1日に帝都電鉄の「西駒場駅」として開業。 昭和12年(1937)に「駒場駅」に改称した。、、、、駒場駅は現:駒場小学校の前辺りにあった。 (写真1枚目の中央)上り側:京王電鉄の保線詰所のような小さい建物が建っている処。  (写真2枚目の中央)下り側:ホームのようなコンクリート構造物がある処。

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・・・・・・・・・・・・・・「東大前駅」について、、、、昭和8年(1933)8月1日に帝都電鉄の東駒場駅が開業。 昭和10年(1935)には「一高前駅」に改称し、昭和26年(1951)に「東大前駅」に改称した。、、、、次の写真では、現駒場東大前駅の渋谷寄り東口階段を下り20m程渋谷側に寄ったあたりに、写真左端の看板がある処。 この付近ではコンクリートの中に鉄骨の一部が埋められたものを2m程の間隔に見ることができる。 当時の駅に関係する構造物の一部か?

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・・・・・・・・・・・・・・現在の駒場東大前駅は、島式ホーム1面2線の構造。 傾斜地にあるため、吉祥寺寄りは高架ホーム、渋谷寄りは通常の地平ホームとなっている。 改札口は、吉祥寺寄りホーム階下の西口と渋谷寄りの路盤上にある東口・東大口の2か所がある。

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2019年6月28日 (金)

井の頭線 (明大前~下北沢)

台風3号の影響で、今朝6時、東京は曇天である。 台風は小型で、しかも東京には立ち寄りそうもない。 台風一過の晴天を期待して、井の頭線沿線の散歩に出た。 明大前駅から下北沢駅まで、駅間距離はわずか1.9km、途中2駅である。 1万1千歩の散歩です。




●明大前は学生の町 ・・・・・・明大前駅で下車するのは明治大学の学生だけでなく、日大鶴が丘高校、二階堂高校、日本学園高校など高校生も多く、まさに学生の町だ。

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・・・・・・・・・・・・・・井の頭線と交差する京王線では、笹塚駅から仙川駅間付近にかけて、道路と鉄道との連続立体交差事業が着工されている。 この事業は、笹塚駅~仙川駅間約7.2kmの区間を高架化することで、25箇所の踏切を除却するとともに7箇所の都市計画道路を立体化し、あわせて側道を整備するものである。 これに伴い、代田橋駅・明大前駅~千歳烏山駅は高架駅となる。 明大前駅では、地下1階の掘割りを走る井の頭線については高架化工事の対象ではないそうだ。、、、、明大前駅部の工事は大成建設+竹中土木により始まった。 駅周辺では工事用地のも確保されている。

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・・・・・・・・・・・・・・駅名になった明治大学和泉(いずみ)キャンパス。 ここ和泉キャンパスは文系学部の教養課程で使用している。、、、、なみに、私の母校も明治大学だが、工学部なので、4年間、川崎市の生田キャンパスに通った。 残念ながら、こちらのキャンパスで学んだことはない。 (写真は2日前に撮影)

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●チョイト、松原2丁目をブラブラ ・・・・・・明大前駅の南側に広がる世田谷区松原2丁目の町を拝見!

・・・・・・・・・・・・・・京王線沿いに高井戸方向へ歩くと、カトリック松原教会があった。 聖堂は昭和40年(1965)に建てられたそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・教会の西側、アパートらしき建物(松原2-16付近)の角にあった石柱。 「靏美ヶ丘」か、「鶴美ヶ丘」か、これは何だ?・・・ 最初の文字は、雨冠に鶴で“靏”、「カク」、「つる」と読むらしい。 地名か? 「鶴美ヶ丘」と云う地名は神奈川県秦野市鶴巻南に存在していたが、ここからは遠すぎる! サッパリ・判らん!
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・・・・・・・・・・・・・・菅原神社(松原3)は、寛文5年(1665)に寺子屋を開いていた石井兵助直慶が建立したと考えられている。 松原地域の鎮守社として崇敬を集め、明治期には村社に列格していた。 現社殿は昭和40年(1965)に落成した。、、、、住宅地の中に、落ち着いた神社。
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・・・・・・・・・・・・・・松原2丁目の日本学園中学・高等学校の正門奥に1号館の建物が見える。 この建物は、卒業生である建築家:早稲田大教授:今井兼次の設計による昭和初期の建築で、国の登録有形文化財に指定されている。、、、、日本学園は、明治18年(1885)に神田錦町に創立。 昭和11年(1936)に現在の世田谷区松原に移転。 卒業生には、吉田茂、佐々木信綱、横山大観、永井荷風など、著名人、大物がズラリ! ドリフの荒井注も・・・

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・・・・・・・・・・・・・・井の頭線の線路脇を歩く。

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●窮屈な駅 ・・・・・・東松原駅は、昭和8年(1933)8月1日に帝都電鉄の駅として開業。 島式ホーム1面2線の地上駅、改札はホーム中間の橋上にある。 改札からは、駅西側(吉祥寺方)と東側(渋谷方)の出入口につながる。、、、、狭い構内に無理して造った駅を実感できる!

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●隣の駅まで500m ・・・・・・・・・・・・・東松原駅と次の新代田駅までの距離は500m、隣り駅が見えるようで見えない!

・・・・・・・・・・・・・・線路沿いを歩く。 『この先行止まり・・・』の案内が、わざわざ私道持主が、、、、坂道を上がるとナットク! 道路の中央に大木(羽根木1)が、コリャ、自動車は無理だ!、、、、自然保護?

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・・・・・・・・・・・・・・羽根木1丁目にステキなデザイナーズマンションが並ぶ一画がある。 和風の「亀甲新」とモダンな「羽根木インターナショナルガーデンハウス

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●代田、代田、代田! ・・・・・・・・・・・・・世田谷区の東を南北に走る環七通り、その通り沿いに北から、京王線の代田橋駅、井の頭線の新代田駅、小田急線の世田谷代田駅と、“代田”が紛らわしく並んでいる。、、、、井の頭線の新代田駅は、昭和8年(1933)8月1日に帝都電鉄の「代田二丁目駅」として開業。 昭和41年(1966)に「新代田駅」に改称。 ホームは掘割内にあり、駅の上に環七通りが通っているため、ホームの一部は道路下にある。 改札口は橋上駅舎として環七通りに面している。 相対式ホーム2面2線の地上駅。

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●幻となった廃線跡! ・・・・・・・井の頭線新代田駅と小田急線世田谷代田駅の間には、戦争中から戦後にかけて連絡線(代田連絡線)が引かれていた。 これは、空襲により井の頭線の電車がほとんど消失したために、急遽小田急線から電車を運び込むために用意されたものである。そのため、撤去後もしばらくの間は渡り線が放置されていたが、その後は宅地造成が進んだ。、、、、廃線跡と思われる付近を歩いてみたが、住宅が建ち並び、それらしき痕跡を発見することはできなかった! 
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●西口は地上、中央口は高架下の駅 ・・・・・井の頭線下北沢駅も、昭和8年(1933)8月1日に帝都電鉄の駅として開業した。 小田急線は昭和2年(1927)に開業しており、6年遅れての開業である。 井の頭線と小田急線は当駅で立体交差し、京王が高架駅、小田急が地下駅(以前は地上駅)となっている。、、、、井の頭線は島式ホーム1面2線を有する高架駅。 吉祥寺寄りのホームの端は地表と同じ高さで、ホームのすぐ脇に踏切がある。 踏切りの近くには西口がある。

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2019年6月26日 (水)

井の頭線 (浜田山~明大前)

井の頭線沿いの散歩も三日目。 今日は浜田山駅から明大前駅まで歩いてきた。 途中大圓寺に寄り道し、1万4千歩の散歩です。




●乗客の質が違うのか? ・・・・・・浜田山駅の出入口は一か所のみ。 電車が到着すると、通勤・通学客で混雑する。 乗る人、降りる人、どちらも、私の住む浅草橋駅(台東区)とはチョイト違うようだ、気のせいか、上品な人が多いように感じる。 “おばちゃん”、“おじちゃん”と呼ぶような人が少ないね!

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●山を見に行く! ・・・・・・地名「浜田山」なる“山”はどこだ?、、、、探してみましたが“山”らしき所はありません。 答えは、江戸時代、内藤新宿の商人:浜田屋が所有する林が近く(現:杉並区浜田山4付近)にあった。 この林の中には、浜田屋の墓地もあり、彼岸の時期などには浜田屋の人が墓参に詣で、その折には村人に銭・菓子が配られ賑わったそうだ。 そこで、村人はこの林を「浜田屋の山」と呼び、「浜田山」となった。 “林”を“山”と呼んだのだ。、、、、現在は林もなく、墓は永福にある理性寺の境内に移された。 
・・・・・・・・・・・・・・浜田山駅から、駅前の商店街、鎌倉街道のホンの一部を歩き、井の頭通りに出る。 浜田山4丁目、井の頭通りに面し「杉並南郵便局」がある。 この郵便局の付近に浜田屋の林があったと云われている。  

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・・・・・・・・・・・・・・井の頭通りから、井の頭線沿いの道に戻り、隣り駅「西永福」に向かう。 線路脇のアジサイは、そろそろ色も茶色に変わり、今年はお終い。

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●モダンな駅だ! ・・・・・・西永福駅は昭和8年(1933)8月1日、帝都電鉄の駅として開業。 島式ホーム1面2線を有する地上駅。、、、、平成20年(2008)に橋上駅舎化工事も完了し、小さいながらも、ユニバーサルデザインによるモダンな駅となった。  

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●隣り駅まで700m ・・・・・・・・西永福駅から隣の永福町駅までは700mしか離れていない。 西永福駅から線路沿いに駐輪場があるが、いずれいつの日か永福町駅まで繋がりそうだ! 駐輪場が切れると、かつての永福町検車区跡が見える。 検車区は昭和41年(1966)に廃止となり、現在は京王バスの営業所として利用されている。

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●またまたモダンな駅 ・・・・・・永福町駅も昭和8年(1933)8月1日の開業。 島式ホーム2面4線の地上駅。 平成22年(2010)より、それまでの地下駅舎に代わって橋上駅舎の供用を開始し、駅ビルも出来、これまたモダンな駅に変身した。、、、、エスカレーターのない総武線浅草橋駅を日々利用する私にとっては、エスカレーターのある駅は羨ましいかぎり。 年寄りには階段はキツイ!、、、、永福町という名の由来は、永福町駅の南400mにある、大永2年(1522)開創の古刹曹洞宗永福寺による。 

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●葵と丸に十 ・・・・・・永福町駅から北へ歩き、杉並区和泉3の薩摩島津家の江戸菩提寺:大圓寺(だいえんじ)に寄った。、、、、曹洞宗寺院の大圓寺は、泉谷山と号し、本尊は釈迦如来坐像。 大圓寺は、慶長8年(1603)江戸赤坂溜池の辺りに徳川家康が開基となって創建した。 寛永18年(1641)伊皿子(港区三田高輪辺)へ移転。 島津家の江戸菩提寺となり、明治維新後、寺院の発展を計り明治41年(1908)当地へ移転した。、、、、山門には葵の紋、本堂には葵の紋と丸に十の字。 ナットク!、、、、大きな寺ではないが、閑静な趣きのある寺である。 墓地には西郷隆盛の娘の墓もあるそうだが、どれもこれも古い墓で、どれがどれやら、サッパリ判らん!

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・・・・・・・・・・・・・・境内には、石像の仁王尊や寛永2年(1625)芝浦の海中から出現したといわれる潮見地蔵尊石像、また島津家の宝篋印塔・六地蔵尊があり、墓地には益満休之助他75名が刻されている「明治元年戊辰の役戦死者の墓」などがある。

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●2社1寺 ・・・・・・大圓寺から井の頭線に戻るついでに、和泉3丁目の2社1寺も訪ねてみた。

・・・・・・・・・・・・・・和泉熊野神社は、文永4年(1267)の創建と伝えられ、江戸期には別当龍光寺で和泉村の鎮守。

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・・・・・・・・・・・・・・和泉貴船神社は、和泉熊野神社の境外末社。 和泉貴船神社は、文永年間(1264~1275)に創建されたと伝えられている。 当社境内にある”御手洗の小池”はいかなる時でも涸れることがなかった湧水で、地名和泉の発祥地と云われている。

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・・・・・・・・・・・・・・真言宗室生寺派寺院の龍光寺は、泉涌山医王院と号す。 龍光寺は承安2年(1172)開創。 もと和泉熊野神社・貴船神社の別当であった。、、、、住宅街のなかに佇む、緑豊かな寺。 紅葉の時期には、綺麗な境内を見ることができるそうだ。 人も少なそうなので穴場かも?

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●・・・・・・・・・・・・・・井の頭線は、明治大学和泉キャンパス脇の切通しを走り、甲州街道の下を抜けて、明大前駅に向かう。

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・・・・・・・・・・・・・・明治大学の正門前を玉川上水が流れ、井の頭線はその下を抜ける。 そのため、江戸時代に造られた玉川上水を導水管で流し、人道橋も併設した「井の頭線玉川上水橋」が造られた。 ここには4本の線路が敷設できるように設計されていたが、2本は未使用のままだ。 この未使用の部分が、幻の鉄道である「東京山手急行電鉄」の遺構である。

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●チョイト狭いね! ・・・・・・明大前駅は、京王線、井の頭線の接続駅で、両線は当駅で立体交差している。 京王線・井の頭線ともに相対式ホーム2面2線を有し、2階が京王線ホーム、1階が改札口、地下1階が井の頭線ホームの3層構造である。、、、、明大前駅は、大正2年(1913)4月15日、京王電気軌道(現:京王線)の火薬庫前駅として開業した。 その後、昭和8年(1933)8月1日に帝都電鉄(現:井の頭線)の西松原駅として開業。 昭和10年(1935)には明大前駅に改称した。、、、、乗降客の増加で、駅全体に手狭感がある。

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