世田谷区

2024年10月24日 (木)

駒沢給水塔

久しぶりに駒沢の給水塔に行ってみた。 東急田園都市線桜新町駅から三軒茶屋駅まで、1万1千歩の散歩です。



● 東急田園都市線の桜新町駅は、チョイト珍しい構造で、地下2階が下り線と地下3階が上り線の2層構造で、それぞれの階に1面1線の単式ホームと壁に隔てられて隣に通過線がある。 改札は地下1階。、、、、明治40年(1907)4月1日に玉川電気鉄道(後の東急玉川線)の桜新町電停として開業。 昭和44年(1969)に、地下化のため、玉川線は廃止となる。 昭和52年(1977)4月7日、新玉川線(現:田園都市線)の桜新町駅が地下駅として開業する。、、、、桜新町駅は、主要道の国道246号(道路上には首都高が走る)からは、チョイと脇道にそれたような位置にあり、駅前は“世田谷”らしいセンスあるオシャレな町である。 (駅構内が薄暗いのは、只今天井の改装工事中のため)
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・・・・・・・・・・ 駅前ではサザエさんの像がお出迎え! ここは『サザエさん』の原作者:長谷川町子が住んでいた町である。
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● 桜新町駅から駒沢給水所へ向かう途中、駅から200m弱チョイト歩くと桜神宮がある。、、、、神社の組織体である「東京都神社庁」のHPで紹介されていない神社(?) 三重県の伊勢神宮と同じ天照大御神などがご祭神で、世田谷のお伊勢さんと呼ばれているそうだ。 明治15年(1882)、伊勢神宮の祢宜が創建したらしい。 古式神道を守る神社で、鎮火式(火渡り)や探湯式(熱湯を浴びる)などの神事もおこなわれている。 ご祭神は、安産の神(水天宮)、商売の神(稲荷)、学問の神(菅原)、伊勢神宮の神(天照、豊受)など、など、全てで19神。 どんなことでも、御利益がありそうだ! 参拝の作法も、一般の神社は“二拝二拍手一拝”だが、ここでは“二拝四拍手一拝”。 “四拍手”の部分はリズムのとり方が難しく、本番ではチョイと戸惑うね!、、、、明治15年(1882)創建。 創建者の芳村正秉は明治時代に誕生した神道系の宗教・神習教の創始者。 正秉は神社や神道のあり方に疑問を持っており、本来の神社の姿に復することを目的として神習教を創始した。 桜神宮では、天照大神をはじめ19神を祀り、古事記・日本書紀を経典としている。 創建時は東京神田にあったが、大正8年(1919)に神託により現在地に移転した。
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● 桜神宮の脇から駒沢給水塔までは水道道路が一直線に伸びている。 道路の正面に、王冠のような形の給水塔頂部が見える。
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● まずは、駒沢給水所の正面に行ったが、無人管理で施錠された門の奥は草木が茂り、給水塔は見えず。 堂々と中に入れる野良猫が羨ましいね! (セキュリティ上の理由から公開していないとのこと)
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・・・・・・・・・・ 正門から見えるスクラッチタイル張りと思われるポンプ建屋(昭和8年完成)は、平成24年(2012)、土木学会選奨土木遺産に認定された。

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・・・・・・・・・・ 駒沢給水所は、我が国の近代水道の父と呼ばれる中島鋭治博士により設計され、豊多摩郡渋谷町の町営水道施設として大正13年(1924)に完成した。 多摩川の伏流水を水源とする砧下浄水所から送水された水をポンプで2基の給水塔に貯留、落差圧を強めて自然流下で渋谷地区方面に給水する構想は、当時の日本では斬新なものであった。 現在は、施設の老朽化に伴い給水所としての機能を休止し、非常時用の応急給水槽として活用している。、、、、給水塔は2基ともギリシャ風のレトロな装飾が施されている。 鉄筋コンクリート造の円筒形の建物の周囲には12本のピラスター(付け柱)が設置され、屋上には避雷針を設けたドームを中心に、周囲に12個の紫色の照明灯を配置するという凝った造り。、、、、諸元:内径:12.12m~14.55m、塔高:約30m、有効水深:18.18m、容量:2,750㎡、設計者:中島鋭治、竣工年:第2号給水塔(北側)は大正12年(1923)3月、第1号給水塔(南側)は大正12年(1923)11月、給水塔も平成24年(2012)に土木学会選奨土木遺産として認定された。、、、、鉄筋コンクリート造り円筒形の2基の給水塔(愛称:双子の給水塔)の上部には、王冠を模した装飾が施されてる。 大正ロマンを感じさせるその独創的な意匠は、街のシンボルとして地域住民に親しまれているそうだ。 しかし、今日来てみて、給水塔がよく見えない! 給水所の周囲は民家・マンションが隣接し、さらに給水所内には樹木が生い茂り、周囲を一周したが給水塔の全容は見ることができなかった。 残念、ガッカリ!
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・・・・・・・・・・・・・ 以前、東京都水道局のホームページに載っていた10年程前の駒沢給水塔Photo_2_20241025122401


● 駒沢給水所をあとにして、弦巻通り(つるまきとおり)を歩く。 この道の正面には三軒茶屋の26階建てのキャロットタワーが見える。 途中、駒留陸橋の下をぬけ、ひたすら三軒茶屋を目指す。
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・・・・・・・・・・ 三軒茶屋に到着、キャロットタワーを見上げて、『ああ疲れた、歳を感じたね!』
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● 渋谷からの玉川通り(=R246)が世田谷通りと別れる、その分岐点の三角地帯にあるのが「エコー仲見世商店街」、短い2本の通りに昔からの洋品屋さん、肉屋さん、飲食店など、小さな店が並ぶ昭和レトロの香りが残るエリアです。 この商店街は昭和25年(1950)に誕生し今年で74年だ!
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● 東急田園都市線の三軒茶屋駅に着いた。 三軒茶屋駅は明治40年(1907)3月6日に玉川電気鉄道(後の東急玉川線)が開業。 昭和44年(1969)玉川線が廃止。 昭和52年(1977)新玉川線(現:田園都市線)が開業。 駅は相対式ホーム2面2線を有する地下駅。、、、、私が住む浅草橋駅とは乗客の雰囲気がだいぶ違うね! 若い人が多く、垢抜けしてる!
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2024年5月 6日 (月)

招き猫の豪徳寺

連休は家で“じっと我慢の男の子” 最終日の今日、夫婦で世田谷の豪徳寺(ごうとくじ)に行ってきた。




● 新宿から小田急線の各駅停車で10駅目、豪徳寺駅で下車する。 豪徳寺駅は昭和2年(1927)4月1日に開業した。 駅は、東急世田谷線(大正14年(1925)開業 )と立体交差するため、当初から盛土の上にあり高架化されていた。 現在の豪徳寺駅は、複々線化された高架駅で、緩やかなカーブ上に相対式ホーム2面4線を有する。、、、、駅名は、そのものズバリ、近くの古寺の名を拝借。(ただし、寺の豪徳寺最寄り駅は世田谷線の“宮の坂駅”)、、、、私は大学生頃から小田急線を利用しているが、下北沢、経堂、成城学園前などの駅と比べると、乗り換え駅であるにもかかわらず目立たない地味な駅である。 いつまでも、各駅停車しか停まらない駅!

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・・・・・・・・・・ 豪徳寺駅ホーム下を走る東急世田谷線

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・・・・・・・・・・ 豪徳寺駅から東急世田谷線沿いの商店街を歩いて豪徳寺に向かう

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豪徳寺(ごうとくじ)は、元臨済宗の寺院で、今は曹洞宗の寺院。 山号は大渓山(だいけいざん)。、、、、世田谷城主吉良政忠が、文明12年(1480)に亡くなった伯母の菩提のために臨済宗弘徳院として創建したと伝えられている。 天正12年(1584)に曹洞宗に改宗。 高輪泉岳寺初世の門奄宗関が中興開山、寛永10年(1633)世田谷領が彦根藩領となり、豪徳寺が井伊家の江戸における菩提寺となったことから、寺号を2代藩主井伊直孝の法号「久昌院殿豪徳天英大居士 」より豪徳寺と改号した。、、、、緑で覆われた広い境内の空気は爽やかなり。

・・・・・・・・・・ 松が並ぶ参道を通り「山門」に至る。 山門の扁額には「碧雲関」という文字が書かれてる。 「外の世界と境内を隔てるために建てられた門」を意味するらしい。

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・・・・・・・・・・ 山門を入ると正面に延宝5年(1677)建立の「仏殿」がある。 仏殿の正面に篆額「弎世佛」があり、現在・過去・未来の三世を意味する諸佛などが安置されている。

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・・・・・・・・・・ 仏殿の奥に、昭和42年(1967)に造営された「法堂(本堂)」がある。 堂内には聖観世音菩薩立像、文殊菩薩坐像、普賢菩薩座像、地蔵菩薩立像が安置され、さらに寺宝の「井伊直弼肖像画(井伊直安作)」が飾られているそうだ。

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・・・・・・・・・・ 法堂のさらに奥に「開祖堂」があるが、開放されておらず、見ることができなかった。 堂内には、豪徳寺を開山した和尚や大師の像、歴代住職、藩主の位牌が安置されているそうだ。



・・・・・・・・・・ 境内のシンボル的な建物として、平成18年(2006)に落慶した、高さ22.5mの「三重塔」がある。 塔には釈迦如来像、迦葉尊者像、阿難尊者像、招福猫児観音像が安置されているらしい。

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・・・・・・・・・・ 豪徳寺と言えば“”、、、、さて、豪徳寺と猫の繋がりは、寺のHPには『ある日、この地を通りかかった鷹狩り帰りの殿様が、お寺の門前にいた猫に手招きされ、立ち寄ることに。 寺で過ごしていると、突然雷が鳴り雨が降りはじめました。 雷雨を避けられた上に、和尚との話も楽しめた殿様は、その幸運にいたく感動したそうです。 それが彦根藩主の井伊直孝でした。 豪德寺は、直孝に支援され、寛永10年(1633年)に再興しました。 その後、豪德寺では、福を招いた猫を「招福猫児(まねきねこ)」と呼び、お祀りする招福殿が建てられました。招福殿には、家内安全、商売繁盛、開運招福を願うたくさんの参詣者が訪れています。 堂内には招福観音菩薩立像が安置されています。』と記されてる。、、、、その「招福殿」の周囲には、参拝者が奉納した招き猫がウジャウジャ。 堂には、アニメの聖地となったのか(?)、外人がウジャウジャ。 ちなみに奉納する招き猫は、一匹500円(小)から7000円(大)なり。 我が家の妻は、1000円の小ぶりの招き猫を奉納。 猫に奉納するより、亭主に奉納した方が御利益あると思うよ! 

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・・・・・・・・・・ 豪徳寺は井伊家の菩提寺、墓所には幕末の大老13代直弼の墓、豪徳寺中興開基2代直孝の墓をはじめ、歴代藩主や正室たちの墓が並んでいます。 平成20年(2008)に国史跡に指定された。 広い墓所に、一家合計300基の墓石が並んでいるそうだ。

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● 豪徳寺から再び豪徳寺駅に戻るのはつまらないので、一駅新宿寄りの梅ヶ丘駅まで歩いてきた。、、、、梅ヶ丘駅は昭和9年(1934)4月1日 に開業。 2面4線を保有する高架駅で、乗降人員は1日あたり3万人を数えているが、各駅停車しか停まらない駅。

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2024年4月26日 (金)

“代田”巡り

小田急線の世田谷代田駅から、京王井の頭線の新代田駅をとおり、京王線の代田橋駅まで、“代田”3駅を巡る1万歩の散歩です。




● 小田急線の世田谷代田駅は昭和2年(1927)4月1日、世田ヶ谷中原駅として開業した。 昭和20年(1945)7月1日には空襲により被災し営業休止し、翌年6月15日営業再開する。 昭和21年8月20日、世田谷代田駅に改称。 平成16年(2004)から地下化・複々線化工事に着手し、平成30年(2018)地下化・複々線化工事はほぼ完了した。、、、、現在は、地下2階に島式ホーム1面2線の緩行線が運行され、さらにその直下(地下3階)をホームのない急行線が通過している。 地上には小柄であるがモダンな駅舎があり、改札口はコンコースの両側に設置されている。 さすが、セレブの住む世田谷区をとおる小田急線らしいシャレた駅だ! 

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・・・・・・・・・・ 小田急線は、新宿から来ると東北沢駅の手前で地下にもぐり、世田谷代田駅の先(梅が丘駅側)で地上に顔を出す。 世田谷区立代田小学校前の公園の下に複々線が見える。

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・・・・・・・・・・ 地名“代田”(だいた)の由来、、、、“代田”の地には昔、大きな窪地があった。 その窪地は、想像上の巨人「ダイダラボッチ」の足跡と言われ、代田村の名のダイタは確かにこの足跡に基いたものらしい。 現在の世田谷区代田の町の中央に世田谷代田駅はある。




● 小田急線の世田谷代田駅と京王井の頭線の新代田駅間は、かつて線路で繋がっていた。 それを説明する案内板が世田谷代田駅前に設置されている。 そこには『代田連絡線 1945(昭和20)年5月の戦火で大半の電車が被災した帝都線(現在:京王井の頭線)に電車を送り込むため、代田二丁目(現:新代田)駅と当駅を結ぶ右の地図のような線路が急遽敷設されました。当初は、電車を人力で移動させたといわれています。当駅北側の通路は、その代田連絡線を模ったデザインとしています。』と記されていた。 隣の地図では、方位は約90度傾いているが、小田急線と井の頭線が大きな円弧で結ばれていた。 (参考に昭和23年の航空写真を添付)、、、、世田谷代田駅から新代田駅まで、この代田連絡線の遺構を探しながら歩いて見た。 歩いて見たが、残念ながら遺構らしきものは何も見つけられず。 円弧の中程(現:代田5丁目17)の付近では住宅が密集し、線路跡を想わせる物は一切見ることはなかった。

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● 京王井の頭線の新代田駅は、昭和8年(1933)8月1日に帝都電鉄の代田二丁目駅として開業した。 昭和41年(1966)に新代田駅に改称。、、、、相対式ホーム2面2線を有する地上駅で、環状七号線の道路に面する橋上駅舎を持つ。 ホームは掘割内にあり、駅の上に環状七号線が通っている。、、、、当駅の周辺にも代田連絡線の痕跡らしきものは残っていなかった。

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● 新代田駅近く、住宅の駐車場の横(世田谷区羽根木1-5)に稲荷神社とその脇に庚申塔と地蔵尊があった。 稲荷神社はさておいて、立派な庚申塔と地蔵尊が並んでる。 右から一番目にあるのは板碑型の庚申塔で、高さは118㎝、造立年は元禄12年(1699)で、青面金剛の下に三猿が描かれており、下部には願主の名前が彫ってある。 隣の角柱型の庚申塔は、青面金剛と三猿が描かれ、高さは136㎝。 この庚申塔が最も古く、貞享4年(1687)の造立。 三番目は、少しだけ小さめの駒型の庚申塔。青面金剛に三猿である。造立は正徳元年(1711)。 さて左端の 舟型の地蔵立像は、念仏講中の立てた供養塔である。造立は元禄10年(1697)。 どれもこれも、彫りの深い立派な石仏だ!

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● 京王線の代田橋駅に到着したが、チョイト“代田橋”の橋がどこにあったか、探すことにした。、、、、“代田橋”は玉川上水に架かっていた橋と聞いていたので、代田橋駅の北側に平行する甲州街道を越えて杉並区に入り「水道道路」の方へ行ってみた。

・・・・・・・・・・ 『沖縄タウン 和泉明店街』なる飲食店街がある。 沖縄タウンは平成17年(2005)甲州街道の歩道橋改装に合わせてオープンした、70数店舗で構成する、総延長380mの懐かしい雰囲気の商店街。 沖縄の物産を売る店やソーキそば等を食べさせる食堂がある。

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・・・・・・・・・・ 和泉明店街の周辺には“代田橋”があったと思われる場所はなく、商店街で掃除してるおばさんに訊ねると、どうやら玉川上水の上を越えていた甲州街道に架かっていた橋らしい。 その部分の玉川上水は暗渠化され橋の跡は無いそうだ。 暗渠の入り口が甲州街道の下にあるから行ってみるように案内されたので、チョイト見て来た。、、、、『代田橋は、この辺りに架かっていたのか』自分を納得させる。

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● 代田橋駅に戻る。、、、、京王線の代田橋駅は、大正2年(1913)4月15日に京王電気軌道の駅として開業。 現在の駅構造は、相対式ホーム2面2線を持つ地上駅であるが、平成26年(2014)から連続立体交差事業に着手し、数年後には島式ホーム1面2線の高架駅となる予定。

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2023年12月 4日 (月)

九品仏

9時過ぎに浅草橋の我が家を出て、都営浅草線の中延で、東急大井町線に乗換え九品仏で下車する。 九品仏駅に至近の浄土宗浄眞寺に参る。 参拝の後は、ブラブラ歩いて自由が丘駅まで、8千歩の散歩です。、、、、このルートで散歩するのは3度目である。

 

● 東急大井町線の5両編成の電車に乗って、九品仏駅(くほんぶつえき)で下車する。 九品仏駅は昭和4年(1929)11月1日の開業。 駅名は九品仏浄眞寺にちなんだもの。 島式ホーム1面2線を有する地上駅。、、、、九品仏駅ホームの両端には踏切があり、4両分の長さしかないホームは延伸できず、停車する電車は二子玉川寄り1両のドアを開けることが出来ず、ドアカットが行われている。 東急では唯一、ドアカットが行われてる駅。、、、、中高年の降車客が多いと思ったら、皆、私と心は同じ浄眞寺に紅葉狩り!2312041006381

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● すでに、過去2回参拝しており、浄眞寺の詳細はコチラを見てね!→→→ 夏の浄眞寺(2015年撮影) 秋の浄眞寺(2018年撮影) 

・・・・・・・・・・ 浄土宗寺院の浄真寺は、九品山唯在念佛院と号す。 九品仏浄真寺は、越後国村上泰叟寺の珂碩上人(元禄7年1694年寂)を請うて延宝6年(1678)当地に創建した。 三仏堂が三宇あり、中央の堂に上品上生・上品中生・上品下生、北の堂に中品上生・中品中生・中品下生、南の堂に下品上生・下品中生・下品下生の計九品の阿弥陀如来像が納められ、九品仏として著名。、、、、浄真寺の地は、もともとは世田谷吉良氏系の奥沢城であった。 小田原征伐後は廃城となった。

・・・・・・・・・・ 参道から仁王門へ、、、、都心の秋(チョイト寒かった)を満喫2312041010090

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・・・・・・・・・・ 新築なった閻魔堂2312041113090

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・・・・・・・・・・ 本堂2312041058110

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・・・・・・・・・・ 三棟並ぶ三仏堂
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● お帰りは自由が丘から電車に乗って・・・・・

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2023年4月22日 (土)

池尻大橋から

東急田園都市線の池尻大橋駅からほぼ南に向かって歩き、東急目黒線の武蔵小山駅まで、1万2千歩の散歩です。




● 「尻大橋駅(いけじりおおはしえき)」は、世田谷区と目黒区に跨る東急田園都市線の駅である。 頭上に走る首都高3号渋谷線が走る玉川通り(国道246号)の地下に駅はある。 ホームは相対式2面2線で地下2階、改札口は地下1階にある。 改札口は1ヶ所だけだが、出口はいずれも玉川通り沿いにあり、東西南北の4ヶ所ある。、、、、駅名は近くの目黒川に架かる“池尻大橋”に由来すると云うのはまっ赤な嘘。 “池尻大橋”という“橋”はない。 本当は、玉川線(田園都市線の前身)時代にあった池尻駅(世田谷区)と大橋駅(目黒区)の合成で、池尻大橋駅となった。、、、、今日は土曜日で通勤客が少ないからか、学生の多さに驚いた!

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● 池尻大橋駅から南側の住宅地に入ると、細い坂道の途中に「池尻庚申堂」(世田谷区池尻2)がある。 堂の中に庚申塔が2基、左側の庚申塔は元禄5年(1692)、右側の庚申塔は延宝8年(1680)の造立らしい。 堂の外には宝永元年(1704)の地蔵の像、常夜灯(大正元年銘)の上には猿の石像もある(狛犬ならぬ狛猿だ!)

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● 陸上自衛隊三宿駐屯地の北側、目黒区立東山公園がある、ここには、昭和33年(1958)から昭和54年(1979)までの間、建設省(現国土交通省)国土地理院がこの地にあった。 現在は「国土地理院跡地記念碑」がたってる。 分度器と丸い地球をデザインしたような記念碑だ! 記念碑の脇には、四個の石で囲まれた「一等水準点」もある。、、、、この地で、地形図などが作成されていたのかな?

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● 自衛隊三宿駐屯地沿いに南に向かうと“龍雲寺通り”に出る、その通り上の目黒区と世田谷区の区界に「庚申供養塔」があった。 彫った文字が読みにくいのでメガネをはずしてシッカリ読んだ、角柱型の正面には「奉納庚申供養 東 ▢戸道」、左側面「南 ゆふてん寺(祐天寺)道」、右側面「北 上めぐろ道」と彫られてる。 道標も兼ねていたようだ!、、、、道標に従い、細い道を南に向かうことにした(私は、幼少のころから素直な性格)

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● 道標に従って道なりに歩くと、目黒区五本木1丁目と世田谷区下馬5丁目の区界、道路中央に中州状の島がある。 そこには、「芦毛塚(あしげづか)之碑」が立っていた。 案内板によると、源頼朝が藤原泰衡を討伐するために鎌倉を出発して、奥州平泉へ向かってこの土地を通った時のこと、頼朝が乗っていた芦毛の馬が死んだので埋葬したと記されていた。(馬の墓だ!)

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● 「五本木一丁目商店街」、「五本木商店街」、五本木小学校前の東横線ガード守屋図書館、「中央中通り商店街」、「清水稲荷通り共栄会」と歩いて来たが、、、、“商店街”から店が消え、“消店街”となったのか!

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● 東急目黒線「武蔵小山駅」についた。 本日の散歩はココまで!

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2021年7月14日 (水)

島津藩菩提寺

京王線明大前駅から、築地本願寺和田堀廟所、永福寺、大圓寺と巡り地下鉄丸ノ内線方南町駅まで、1万1千歩の散歩。




● 朝8時前の京王線「明大前駅、、、、これから都心へ出社のサラリーマン、多摩の方へ通う学生が電車に乗る時刻となった。 上りも下りも、ホームには人が並ぶ。 新宿と多摩方面を結ぶ京王本線、渋谷と吉祥寺を結ぶ京王井の頭線の乗り換え駅でもあり、駅構内を行き来する人も多い。、、、、明治大学学生の登校時間にはまだ早い! 8時半頃になると、明治の可愛い女子大生も登校してくるはずだが、待てない!

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● 明大前駅は世田谷区、駅前の甲州街道を渡り明治大学は杉並区にある。 明大前駅が誕生した大正2年には「火薬庫前駅」という名であった。、、、、この“火薬庫”というのは、明治大学和泉キャンパスと大学の西隣にある築地本願寺和田堀廟所の敷地にあった、江戸幕府の塩硝蔵(鉄砲弾薬等の貯蔵庫)の跡のこと。 塩硝蔵は、当初、多摩郡上石原宿(調布市)にあったと伝えられ、宝暦年中(1750代)に「和泉新田御塩硝蔵」としてこの地に設置され、敷地はおよそ18,896坪(約62,000㎡)あり、御蔵地(貯蔵庫)は5棟・2町2反9畝5歩(約23,000㎡)の規模であったといわれている。 当時塩硝蔵は、御鉄砲玉薬方同心3人が年番で交代居住し、警備や雑用には付近の16ヶ村に対して、昼夜交代で3人づつの課役が徴せられていた。 明治維新の際、塩硝蔵は官軍に接収され、その弾薬は上野彰義隊や奥州諸藩の平定に使用され、その威力を発揮したといわれている。 その後兵部省管理を経て、陸軍省和泉新田火薬庫として再開され、中に当番官舎、衛兵所等が設けられ、麻布の歩兵連隊が警備を任されていたが、大正12年の軍縮で廃止された。、、、、現在は遺構らしきものもなく、大学のフェンスの前に説明版が設置されているだけ。

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・・・・・・・・・・・・明治大学の西隣に浄土真宗築地本願寺の墓地「築地本願寺 和田堀廟所」がある。、、、、大蔵省から払い下げを受けた12,000坪の陸軍火薬庫跡地に京橋区内にあった檀家墓地を移し、富士が望める閑静な我国初の近代的公園式墓地(霊園)を作って一般から墓地の分譲を募集し霊園経営の新形式を作り、昭和11年(1936)に真宗寺を置いた。 入口直ぐの建物は光寿閣といい信徒会館。 正面の極楽橋を渡った先の建物は本堂。、、、、広い墓苑には多くの著名人が眠っている。 一世を風靡したお笑い芸人のレオナルド・熊、横綱吉葉山、内閣総理大臣佐藤栄作、明大マンドリン倶楽部創設者古賀政男、作家樋口一葉、青い山脈の服部良一、ブギの女王笠置シズ子、俳人中村汀女、などなど書ききれない!

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● 和田堀廟所の西側、永福橋で神田川を越えて北へ300m程歩くと、町名「永福」、駅名「永福町」の由来元である、「万歳山永福寺」がある。、、、、万歳山永福寺は曹洞宗の寺。 本尊は十一面観音像で、脇侍の不動・毘沙門両像とともに、鎌倉期の仏師快慶の手になるものと伝えられている。 寺伝によれば、開創は大永2年(1522、室町時代)、、、、寺の歴史は古いが、昭和20年(1945)被災し建物は鉄筋コンクリート造にて昭和36年(1961)に再建された。

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・・・・・・・・・・・・また寺の西門脇には正保3年(1646)・天和元年(1681)銘の庚申塔元禄4年(1691)銘の地蔵石像が安置されている。、、、、400年余りこの地で祀られている像であるが、保存状態良好。 仏を大事にしましょう!

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・・・・・・・・・・・・永福寺西門前には「永福稲荷神社」がある。 永福稲荷神社は、享禄3年(1530)に永福寺の開山秀天和尚が、永福寺境内の鎮守として創建した。

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● 井の頭線永福町駅前を通過し、井の頭通りを横断し、北へ向かう。

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● 永福町駅から北へ700m程、杉並区和泉3丁目の「泉谷山大圓寺」に立ち寄る。 この寺には2年ぶりだ。、、、、大圓寺(だいえんじ)は曹洞宗(禅宗)の寺院で、本尊は阿弥陀如来。 慶長8年(1603)赤坂溜池の辺りに徳川家康が開基となって建立され、開山は諦巌桂察和尚(武田信玄の弟)とされる。 寛永18年(1681)正月、江戸の大火に遭い伊皿子に移転。 その頃から大渕寺の寺名を大圓寺に改める。延宝元年(1632)薩摩藩主島津光久の嫡子綱久の葬儀を行って以来、島津家の江戸における菩提寺となり、福寿院・門能院の塔頭二院もそれぞれ大名保科・旗本五井・松平・本多・土方の諸家中、町人衆を檀家として隆盛を極めた。 明治41年に塔頭二院を併合して現在地(杉並区和泉)に移転した。、、、、今日も山門前の石像の仁王がお出迎え。 顔を見ていると、浅草仲見世で売っている人形焼きを思い出した。、、、、山門には徳川の葵紋、本堂にはさらに島津の十字紋、苔むした墓地には明治元年戊辰の役戦死者没者の墓、日向都城主島津筑後守の墓及び殉死者の墓、大刀八木八郎の墓(君命にて巨石を捧げ、死後墓石となす十九才)、赤﨑海門・鞍岡蘇山(共に儒学者)の墓、横山正太郎安武(政府に建白、自刃)の墓などがある、徳川家や島津家とも縁のある寺院である。 また、飯野藩保科家墓所もある。 しかし、いずれの墓も案内がなく、どれが誰の墓か、この墓は誰のか、この人はいずれの士か、いずれの姫か、さっぱり判らん! 教えて欲しいが、墓の数がありすぎて聞いても馬の耳に念仏かも?

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● 大圓寺から東へ歩き、東京メトロ丸ノ内線の「方南町駅」から帰宅する。、、、、熱中症予防に歩きながら飲んだ、「ソルティーライチ」、「コカ・コーラ」の合計500㎖×2本=1000㎖が効きすぎて、熱中症の症状はなし。 でも、腹痛と尿意は限界に達する! 急げ!!

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2021年7月11日 (日)

井の頭通りを直線に!

早朝の下北沢の街をブラブラ、井の頭通りをテクテク、和田堀給水所をグルリ、代田橋駅をイッタリキタリ、京王線の踏切をウロウロ、明大前からサッサと帰る。 1万歩の散歩




● 今日の散歩は下北沢駅からはじめることにした、、、、小田急線「下北沢駅」は3層構造で、1階は出口(改札)・駅事務室など、地下1階は緩行線ホーム、地下2階は急行線ホームとなっている。

・・・・・・・・・・・・新宿で空いている各駅停車に乗って、朝7時半、通勤通学客のいない下北沢駅ホームに降りる。 地下1階のホームに乗客の姿は数人だけ! ガラガラ電車にガラガラホーム、いずれもコロナ感染の心配無用!、、、、地下1階は地上から掘削して造る開削工法により駅が造られた。 床・壁・天井が箱型に構成され、中央に島式ホーム1面2線がある。

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・・・・・・・・・・・・地下2階は、2本の円筒を並べた、メガネ型シールド工法により掘られている。 壁に丸みがある。 中央に島式ホーム1面2線を有する。

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・・・・・・・・・・・・1階は、広いコンコースに、京王井の頭線への乗り換え改札、出口などがある。 井の頭線は高架で2階を走る。

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下北沢の街はまだ寝ているようだ! 店はもちろん閉まってる、人影は少ない、騒々しい雰囲気もなく、静かなものだ。、、、、細い裏道が入り組んで、よそ者の自分は、“現在地不明”、“方向感覚鈍し”の症状が出る。 “どうせ散歩だ、適当に歩こう!”

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● 広い通りに出た! 地図を出し調べると「井の頭通り」だ、この道を西に歩くと京王線代田橋駅に近い「和田堀給水所」にぶつかる。 『ヨシ、給水所に行ってみよう!』

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・・・・・・・・・・・・井の頭通りは、渋谷駅前を起点とて和田堀給水所をとおり、武蔵野市の境浄水場を終点とする道路。 全体的には、かつての“水道道路”をベースとする、ほぼ直線の道路である。 しかし、和田堀給水所の処だけは、直線とはならず、四角い給水所の外周(北側)を半周する部分があり、かつ道幅も狭くネックとなっている。 道路を管理する東京都では、井の頭通り直線化に取り組み、具体的には、和田堀給水所の南側に道路用地を確保して、環七通り「大原2交差点」から甲州街道「松原交差点」へつなげるらしい。(赤線部分は私の推定したルート)

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・・・・・・・・・・・・環七通りと交差する「大原2交差点」、、、、ここから先は給水所の北側を回り、道幅も狭くなる。

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・・・・・・・・・・・・給水所西側の住宅地の一部では、用地取得が済んだようで、フェンスに囲われた空き地が見える。 同じようにフェンスで囲われた空き地は、京王線を越え、甲州街道の手前まで点在する。

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・・・・・・・・・・・・「和田堀給水所」は只今老朽化により整備工事の真っ最中、、、、フェンスの隙間から、チョイトのぞき見。 昭和9年(1934)に完成した円形の1号配水池が見える。

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京王線「代田橋駅」にも寄ってみる。 こちら京王線でも、笹塚~仙川間の連続高架化工事が始まった。 その新宿寄りの第一工区(大林・京王JV)に代田橋駅が含まれる。 チョイト駅周辺を歩いてみたが、まだ本格的には着工していないようだ。

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● 代田橋駅で、『まだ帰るには早い、もっと歩ける』と自身に言って、隣の明大前駅まで京王線高架化工事の第二工区(大成・竹中土木JV)を見ながら歩くことにした。、、、、踏切から左右の現場をチラチラ。 こちらも工事は本格的には進んでいない。 

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● 京王線と井の頭線の接続駅「明大前駅」に到着。 地下1階は井の頭線のホーム、1階は改札口、2階は京王線ホーム。 ホームはいずれも相対式ホーム2面2線。 大正2年(1913)4月15日 陸軍の火薬庫に近かいことから、京王電気軌道の火薬庫前駅として開業した。 駅名が「明大前」となったのは昭和10年(1935)のことである。 その名のごとく、駅近くの甲州街道沿いに明治大学の和泉キャンパスがある。、、、、平日は改札から学生がどっと流れ出てくる。 その中には、結構ドキッとする娘もいるね!

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2021年7月10日 (土)

青い目のお不動さん

年とったせいか目覚めが早く、今朝も4時半に目が覚める。 外を見るとめずらしく雨が降っていない。 『コリャ、久しぶりに散歩ができそうだ』と、あらためて天気予報で確認。 鹿児島は大雨警報が発せられたが、東京は熱中症警戒情報が出ている。 新型コロナに熱中症、『まあ、何とかなるだろう!』と、散歩に出る! 行先は?、、、、『三軒茶屋、続きだ!』

東急田園都市線の三軒茶屋駅から、北に向かって、小田急線の下北沢駅まで、1万歩の散歩。




● 『十日間のご無沙汰でした。 忘れないでね、雅万歩でございます』、、、、雨で散歩を休んでいたら、その間、脚は弱り足がつり、体重は減り腹はへっこみ、腰は痛み整形外科に、今日の散歩は、お供に腰の湿布とコルセット、、、、二回のワクチン接種も終わり、チョイト混んだ電車も強気で安心。

・・・・・・・・・・・・土曜日の早朝のせいか、若い女性も少なく、楽しくない電車に乗って、三軒茶屋で下車する。 

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・・・・・・・・・・・・玉川通り(国道3号)から世田谷通りが分岐する二股の角にある三軒茶屋駅出口から外に出る。 この出口の脇に、不動明王が乗った「追分道標」がある。 この道標は寛延2年(1749)に建立され、文化9年(1812)に再建されたもの。 正面に【左相州通大山道】、左側に【此方二子通】、右側に【右富士、登戸、世田谷通】 と刻まれてる。 道標のある場所は「三軒茶屋」と呼ばれ賑わった場所で、この付近に石橋楼・角屋・田中屋の三軒の茶屋が実在したそうだ。

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● “三軒茶屋と言えば目青不動”、これ、昔の江戸っ子の常識(?)、、、、ここ三軒茶屋に来たら、「目青不動」に参ることにした。 東急世田谷線三軒茶屋駅西口(踏切側)に山門がある。

・・・・・・・・・・・・こちらの三軒茶屋駅西口の斜め前に、「最勝寺教学院不動堂」の山門がある。 

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・・・・・・・・・・・・天台宗寺院の教学院は、竹園山最勝寺と号します。教学院は、慶長9年(1604)江戸城内紅葉山に創建、後に赤坂三分坂、継いで青山南町4丁目へ移転、当地へは明治41年に移転した。 貞享4年(1687)には相州小田原城主大久保加賀守の菩提寺となる。 明治15年(1882)、廃寺となった観行寺の本尊であった江戸五色不動の「目青不動」を移したことから、青山のお閻魔さまとも称されたといいます。、、、、本堂は樹木の陰で存在感が薄い。

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・・・・・・・・・・・・江戸五色不動の「目青不動」を閻王殿に祀っている。、、、、観行寺の本尊であった不動明王像は、円仁(慈覚大師)の作と言われている。江戸五色不動の1つの目青不動は、秘仏とされ公開されていない。前立ちの青銅製不動明王像は寛永19年(1642)の作である。、、、、目青不動の隣りに閻魔像が祀られている。 内部は薄暗く、仏壇前の金網が邪魔し像が見ずらい! 秘仏の青い目をした異人のお不動さまを見たいものだ!

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● 目青不動の教学院をあとに、三軒茶屋と下北沢を結ぶ「茶沢通り」をしばらく歩く。

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・・・・・・・・・・・・茶沢通りから東に入り真言宗豊山派の「円泉寺」(世田谷区太子堂3)に寄っていくことにした。、、、、円泉寺は、聖王山法明院と号し、賢恵僧都が大和国久米寺から聖徳太子像と十一面観世音を背負って関東に下向し、文禄4年(1595)当地に円泉寺を創建した。 太子堂(中は覗けず、残念)に安置されている聖徳太子像は弘法大師の作と云われ、当地名「太子堂」の由来である。

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・・・・・・・・・・・・円泉寺の西側、境内脇の路地の奥に「林芙美子旧居」がある。、、、、案内板には、『林芙美子旧居 (太子堂三丁目29)  此の路地奥の二軒長屋は、林芙美子の不遇時代の寓居です。その一軒には壷井繁治・栄夫妻が住み、若い頃の平林たい子も度々訪れました。芙美子の処女作「放浪記」には、この頃の太子堂での生活の一こまが描かれています。壷井栄の「はたちの芙美子」にも当時の生活が記されています。芙美子のすぐれた文学性が磨かれた場所として文学史上、記念されるべき場所と言っていいでしょう。 昭和47年3月 世田谷教育委員会』と記されてる。、、、、近所の御老人によると、この建物、実は三軒長屋で造られ、その後二軒に改築されたそうだ。、、、、写真1枚目:中央茶色の建物が林芙美子旧居、写真2枚目:手前白い建物と奥の茶色の建物は棟続きの長屋。

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● 再び茶沢通りに戻り、淡島通りと交差する代沢交差点から200m程北に歩くと、茶沢通りに面して小堂がある。 堂の中には、舟形浮彫りの地蔵で、像右に「光明真言 女中講」、像左に「天明元年辛丑年十月吉日」と刻まれた「女中講地蔵尊」が祀られている。 願主は「治左衛門母」とある。、、、、“光明真言”とは、真言宗で最も大切なお経のこと。 “女中講”とは、江戸時代の地蔵信仰は小さな村単位で講を作り、そのグループ内の女子で寄り合って結成した信仰集団。 現在のママ友集団と思えばよい。、、、、この地蔵さまは、ママ友集団により、天明元年(1781)に造立され、その代表は治左衛門のママだったのか? 

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● 代沢3丁目の浄土宗寺院「森巖寺(しんがんじ)」にもお立ち寄り、、、、森巖寺は八幡山浄光院と号す。森巖寺は、家康の二男:結城中納言秀康が帰依した越前国一乗寺の万世和尚に一寺の創建を依頼、万世和尚の弟子孫公和尚が結城中納言秀康卿の位牌所として、慶長13年(1608)当地に創建した。、、、、下北沢に近いとは思えない静かな雰囲気の森巖寺。 寺は質素であるが、歴史を感じる雰囲気だ!

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・・・・・・・・・・・・森厳寺の墓地には、昭和30年代に八波むと志・南利明と「脱線トリオ」を結成し、その後、多くの映画・TVにも出演した、喜劇俳優の由利徹(本名:奥田清治、日本喜劇人協会会長)が眠っている。、、、、名実共に(?)好色家の喜劇役者で私を楽しませてくれた、チョイト、手を合わせてきた。

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・・・・・・・・・・・・森厳寺の東側には、かつて森厳寺が別当であった「北澤八幡神社」がある。 こちらにも、チョイトご挨拶を!

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● 森厳寺と北澤八幡神社の間の通りを下北沢の方に歩いていくと、昭和11年(1936)創立のプロテスタント教会「富士見丘教会」の前に出た。、、、、教会の建物は昭和12年(1937)に建てられた木造2階建て。 設計は加藤俊一、施工は加藤建築株式会社。 白い壁と緑の屋根がただいまさな教会。 国の登録有形文化財、、、、只今、コロナにより教会は閉じられ立入禁止、礼拝もできない、残念!

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● 来るたびに騒々しくなっていくように感ずる駅周辺。 年寄りにはチョイト不向きかも? そんな街の中に下北沢駅があるように感じる、、、、散歩はここまで!

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2021年6月30日 (水)

柿の木坂は駅まで何里?

時おり雨粒が落ちてくるが、傘を必要とするほどでもない、チョイトいやな空模様である。 一昨日の散歩の終点、都立大学駅から歩きはじめ、最初は西へ、途中から北へ、たどり着いたは東急田園都市線の三軒茶屋駅まで、1万3千歩の散歩です。




● 朝7時半、通勤・通学客が行きかう「都立大学駅」で下車、、、、東急東横線は、電車通学する小中高の子女が多いようだ。 沿線には有名私立が多く、資産家・セレブも多く、わかる・判る・なんとなく判るね! 女学生が可愛く見えるね!

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● 駅から東西南北どっちへ歩こうか? とりあえず、駅から西へ目黒通りを横断し、以前参拝したことがある「八雲氷川神社」(目黒区八雲2)に寄ってみた。、、、、チョイト長い参道を歩き、緑多い境内の八雲氷川神社に参る。 神社は古くより創建され、旧衾(ふすま)村(八雲周辺)の鎮守である。 祭神は素盞嗚尊、稲田姫命、大己貴命の三柱。 創建の年代は詳らかではないが、内陣に文化14年(1817)奉納の記載があり、また社殿の改築が安政2年(1855)に行われているところからみて、かなり古いと推察できる。、、、、この神社は、古くから「癪封じの神」として広く知られ、下総や相模からも参詣人が詰めかけたそうだ。

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・・・・・・・・・・・・【地名の八雲?】明治22年頃、この辺りは碑衾(ひぶすま)村大字衾(ふすま)であった。 昭和7年には、目黒区衾町・宮前町。 昭和39年の新住居表示により衾町・宮前町の全部に大原町・芳窪町・中根町の各一部をあわせた町域を現行の「八雲」とした。、、、、何処から「八雲」の名を持ってきたか? 新住居表示の時、当然のこととして「衾町」としたかったし誰にも異論はなかったが、「衾」が当用漢字にないので却下された。 さらに、“衾”を「ふすま」と読むことが時の日本人に難しいということで、「それでは別の名前」というんで思いついたのが〝八雲〟だった。 由来は、明治4年太子堂郷学校(現世田谷区立若林小学校)の分校として創立した衾村分校が、明治7年に独立するとき、村の鎮守の氷川神社に伝わる奉納舞「剣の舞」、素盞雄尊が奇稲田姫を救うために八岐大蛇を退治してその尾から天叢雲剣を得て、奇稲田姫と新居を持つときに詠んだ歌。『八雲立つ出雲八重垣妻ごみに 八重垣作るその八重垣を』から校名を拝借して「八雲学校」(現八雲小学校、目黒区最古の学校)とした。 地名はこの八雲を採用した。 小学校の校名でパクリ、地名でパクリ!



・・・・・・・・・・・・八雲氷川神社の西隣に真言宗智山派の寺院「金蔵院」がある。 金蔵院は、氷川山虚空蔵寺と号す。 慶長5年(1600)頃に頼栄上人が創建、明治7年に一旦廃寺となったものの明治14年(1881)には再興された。 氷川神社の別当寺。、、、、檀家のない寺で、無住となった時(明治4年)、八雲小学校が創立して、この寺を教室としたという。

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● 氷川神社で近くに吉良家の菩提寺があると聞いた。 “吉良”と聞いて、私の頭は“上野介” 忠臣蔵の話が好きな私にはとっては、行かねばならない菩提寺だ! その名は「東光寺」、来た道を戻る方角にある。 金蔵院から再び氷川神社の境内を横切り、足は東へ、、、、曹洞宗寺院の東光寺は、泰陽山霊徳院と号します。東光寺は、世田谷城主吉良冶部大輔冶家が、その嫡子祖朝の追福のために臨済宗東岡寺として貞治4年(1365)に創建したといいます。その後東光寺と改め、天文19年(1550)には寺領30石の御朱印状を拝領、後曹洞宗に宗旨を改めています。、、、、東光寺が祀る“吉良家”は、忠臣蔵よりはるか昔、南北朝時代の世田谷城主:吉良治家と子の祖朝の時代のことであった。 ちなみに、忠臣蔵の上野介の墓は中野の万昌院功運寺にある。

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● 東光寺の東隣にもう一寺あった、、、、日蓮宗寺院の「小杉山常円寺」である。 常円寺は、江戸谷中の感応寺(現谷中天王寺)の住僧日長上人の師でもあった日信上人が営んでいた庵室をはじめとし、日信上人の没後の天正18年に、世田谷城主の近臣:小杉甚七が開基となり、常円寺と号した。

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● 常円寺は「柿の木坂通り」に面してる。 ここまで来たら、柿の木坂通りを歩いてみることにした、、、、、柿の木坂通りは、都立大学駅付近から北にのびて環七通りの目黒区と世田谷区の境「野沢交差点」までである。 道路の愛称となった「柿の木坂」があるのは、環七通りと目黒通りの交差点“柿の木坂陸橋”付近から,東横線のガードをくぐって南西側までの目黒通り上の350m程。 つまり、“柿の木坂通り”には“柿の木坂”はない! なぜだ? 実は、目黒通りと柿の木坂通りと環七通りで囲まれる三角形の地域の地名が「目黒区柿の木坂」で、“柿の木坂通り”はその町の一辺となる、、、、整理すると、昔からあったのは目黒通りの坂で「柿の木坂」、その柿の木坂の北側の町が「目黒区柿の木坂」(昭和7年命名)、その柿の木坂の町を囲う道路の一本を「柿の木坂通り」とした。、、、、ついでに、都立大学駅は昭和2年(1927)に開業し、開業後4年間の駅名は「柿の木坂」であった。、、、、さらに、話はややっこしく、青木光一のヒット曲『柿の木坂の家』の柿の木坂はモデルが広島県で目黒区柿の木坂とは無関係!

さて、「柿の木坂通り」を歩いてビックリ、見てビックリ、なんと小さな店が並ぶシャレた通りで、高級住宅地を歩いてる感じだ! 道の途中にはコンサートホールもあり、文化の薫りも漂うね!

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● 野沢交差点で環七通りを横断し、世田谷区に入ると野沢3丁目に臨済宗妙心寺派寺院の「大沢山龍雲寺」がある。、、、、龍雲寺は、節外大和尚(特賜大慈妙応禅師)が廃寺となっていた下馬引沢村(下馬)の智見寺を引き継ぐ形で野沢に元禄12年(1699)創建した。、、、、現本堂は昭和38年(1963)に起工。 同40年(1965)に鉄筋コンクリート平屋造りの本堂をはじめ、山門、鐘楼、庫裡の諸堂を落慶した。、、、、広い境内に、美しい樹木が良く手入れされている。 落ち着いた静かな寺。

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● 龍雲寺の山門前を北東に歩くと下馬4丁目に、天台宗系単立寺院の「世田谷山観音寺」がある、、、、古い由緒ある寺かと思ったら、観音寺は、事業家であった大僧正睦賢和尚(パン屋「静養堂」の主人:太田陸賢)が昭和25年に創建した寺(?) 本尊は聖観世音菩薩、他に不動明王・阿弥陀如来・仁王尊・特攻観音をまつる御堂があります。  パン屋の主人は金を持っていたらしく、保有する文化財は関東一といっても過言ではないそうだ。 仏教オタクのパン屋が創った、私設仏教博物館といったところ。、、、、広い大きな境内には、三重塔のほか数々の建物があります。 また、特攻隊の慰霊碑もあり、都会の中の静かなお寺で平和を祈るとともに、英霊の安らかな眠りを祈るほかない場所でないかと思います。、、、、百聞は一見に如かず!

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● 観音寺から裏通りを抜けて、東急田園都市線の「三軒茶屋駅から帰宅、、、、改札から出てくるのは、若い娘バッカシ、なんだ!コリャ! しばし、改札前で“
茫然自失”、顔は“喜色満面”、そして“顔厚忸怩”  何はともあれ、嬉し楽しい駅だ!

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2020年1月22日 (水)

緑の街「海軍村」

昨日、TVを見ていると、“自衛隊の中東派遣”と、“駐韓米国大使の髭”のニュースが流れた。 私の頭の中で、2つのニュースが化学反応を起こし“東郷元帥”が思い出され、“日本海軍”を思い、さらになぜか“海軍村”を思い出した。 『数年前に見た古い建物は取り壊されたか?』、気になり今日の散歩では「海軍村」に行ってきた。

東急目黒線の奥沢駅で下車し、「海軍村」の跡を求めて奥沢2丁目を歩き廻り、東急大井町線の緑が丘駅まで、8千歩の散歩。




●ここは世田谷だ! ・・・・・・・奥沢駅(おくさわえき)は東急目黒線で唯一世田谷区の駅である。 両隣の大岡山駅、田園調布駅は、それぞれ、目黒区、大田区にある。、、、、大正12年(1923)3月11日、目黒蒲田電鉄が目黒~丸子(現:沼部)間を開業させた時にできた。 ホームは下り用の単式ホーム1面1線と上り用の島式ホーム1面2線で構成される地上駅。 改札は上下ホームにそれぞれある。 駅の横には留置線があり、電車のお休み処。、、、、駅名の奥沢は元の地名「荏原郡玉川村字奥沢」から頂戴した。 その「奥沢」は、呑川支流の九品仏川の奥深い沢(九品仏浄真寺の北側の湿地帯)に由来するそうだ。、、、、駅を利用する、女学生・OL・パートのおばさん・病院通いのお婆さん、世田谷の駅では誰もが美人に見える、私の住む下町の浅草橋駅とは質が違うのか?
年をとり目もイカレテきたか?

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●大蛇がいた! ・・・・・・・・駅の北側150m程に奥澤神社はある。 奥澤神社の創建年代は不詳ですが、世田谷城吉良氏の家臣、大平氏が奥沢城を築くにあたり、世田谷郷東部の守護として八幡社を勧請したと伝えられている。、、、、社殿は昭和45年(1970)に完成し、尾州檜材を用い、室町期の様式を採用したもので、都内においても他に類を見ない。、、、、江戸中期、疫病が流行した時、名主の夢枕に八幡様が立たれ、藁で造った蛇を祀るとよいというところから「厄除大蛇」が鳥居にかけられるようになり、今も続いている。 今日、もう一匹の大蛇が、社殿の中で、とぐろを巻いてお休み中であった。

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・・・・・・・・・・・・鳥居をくぐって、スグ左にある如意輪観音の道標。 大音寺(奥沢1)近くの呑川脇の何処かにあったものらしい。 観音の下部に、「右品川ミち 左めぐろミち」と標されている。 なぜか裏を見ると出羽三山(出羽山・月山・湯殿山)の名が出てくる?

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・・・・・・・・・・・・そして、神社鳥居前から東に向かい緑が丘駅前に至るバス通りは「奥沢大蛇通り」と言う。 毎年9月の祭礼では、藁で造った長さ約9m、直径26cm、重さ150㎏の大蛇が、町を練り歩く(?)そうだ。 この大蛇通りを!

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●緑豊かな海軍村! ・・・・・・・世田谷区奥沢2丁目、奥沢大蛇通りと、東急大井町線で挟まれた一帯をかつて通称「海軍村」と云った。、、、、数年前、世田谷に「海軍村」があると聞いて、なぜ“海軍”が海のない世田谷に居るのか疑問であった。 大正12年(1923)の関東大震災後の郊外移転ラッシュ、同じ年の目蒲線開通による利便性向上、奥沢は虎ノ門の海軍省と横須賀鎮守府の間、セレブの住む“あこがれの田園調布”の隣町、などなどで、海軍士官がこの地に魅力を感じたらしい。 そこで、当時この地の地主であった原家が独力で区画整理を行い、海軍士官たちに借地として貸し与えた。 高いか安いか判らんが、賃借料は坪単価8銭だったそうだ。 昭和11年頃には30戸以上も集まり、主に主計関係の海軍士官が集住したので俗称「海軍村」と呼ばれたそうだ。(一部、陸軍軍人もいた)、、、、海軍村の建物は、特別な様式、材料、デザインなどで珍しいわけではない。ゴク普通の建物である。 現存する当時の建物は数棟で、殆どは建て替えられた。、、、、現在、奥沢2丁目の街全体を緑豊かな、季節感のある街にすべく、住民が街づくりに取り組んでいるようだ。

・・・・・・・・・・・・昭和初期頃の建築と思われる住宅、、、、現在、どの建物も住まわれており、覗き見はダメ!

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・・・・・・・・・・・・村の中心と思われる位置に建つ「海軍村跡」の碑、、、、電柱の陰で恥ずかし気に建っている
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・・・・・・・・・・・・建て替えられた家もおしゃれだ!

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●“ヶ”を“が”にした駅! ・・・・・・・東急大井町線の「緑が丘駅」は大岡山の東京工業大学のキャンパスに隣接する駅であるが、東工大の表門の駅が大岡山で、裏門の駅が緑が丘と云う感じ。 緑が丘駅は目黒区であるが、駅前の道路を横断すると世田谷区奥沢となる。、、、、昭和4年(1929)12月25日、中丸山駅として開業。 昭和8年(1933)に緑ヶ丘駅に改称。 昭和41年(1966)には“ヶ”を“が”に変えて緑が丘駅となる。、、、、相対式ホーム2面2線の高架駅で、出入口は高架下の1箇所のみ。、、、、一日の平均乗降客数は、10,000人程と少ない。

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