人形の町:岩槻
今朝の新聞に『わたしのふるさと便 埼玉県 さいたま市「岩槻」 ひな飾りが彩る城下町』と題した記事があった。 記事には東武野田線岩槻駅の東口周辺の町(人形の町)で行われている「まちかど雛めぐり」が紹介されていた。 ひな祭りシーズンに愛宕神社の参道石段で行われてる「大雛段飾り」も写真つきで紹介されていた。 この記事を見た私と妻は、朝食を済ませ、岩槻に行ってみることにした。、、、、、ということで、春到来の日曜日、夫婦で岩槻の町を歩いてきた。
● 私の住む浅草橋からは、都営浅草線で押上へ、押上からは東武伊勢崎線で春日部へ、野田線に乗り換え岩槻まで。 所要時間約1時間、岩槻駅で下車する。、、、、、岩槻駅(いわつきえき)は昭和4年(1929)11月17日、北総鉄道野田線粕壁駅(現:春日部駅)~大宮駅間開通時に「岩槻町駅」として開設。 その後、北総鉄道は総武鉄道に社名を変更。 昭和14年(1939)に岩槻町駅から岩槻駅へ改称。 昭和19年(1944)東武鉄道が総武鉄道を吸収合併したことに伴い、同社野田線の駅となる。、、、、、単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、計2面3線と電留線3線を有する橋上駅である。 2024年度の1日平均乗降人員は35,091人である。 駅舎は落ち着いた清潔感漂う駅。、、、、、日曜日でもあり、岩槻駅では“人形の町”の歓迎イベントをしているかもと期待して下車したが、なにもなくただ静かな駅であった。 



・・・・・・・・・・ 駅舎2階の観光案内所は開いているが人影は無し、ドアの前に町歩きマップが置かれていたので、それを黙って頂戴した。 マップを見て、観光地を巡るコースを妻と相談する。 駅から反時計回りに町を巡ることにした。
● まずは駅の南側にある、曹洞宗寺院の太平山芳林寺に参る。 芳林寺は戦国時代の岩槻城主太田家の菩提寺。、、、、、芳林寺は、かつて比企郡松山にあり地蔵寺と号していた、太田道灌が文明18年(1486)上杉定正の館で暗殺された際には、道灌の遺骨や遺髪を越生町の龍穏寺と当寺に納められたといわれてる。 永正17年(1520)八月火災に罹ったため、太田大和守資高が自分の居城であった岩槻へ当寺を移転、太田資朝の母(陽光院殿芳林妙春大姉)が永禄10年(1567)逝去した際に、芳林寺と寺号を改めた。、、、、明治4年(1871)、県庁が一時岩槻に置かれた際、芳林寺は仮庁舎として使用された。、、、、、境内には人影もなく(町ぐるみでひな祭りのイベントをしているとは思えない)、紅白の梅が咲いていた、河津桜も開花し、静かな寺のワンポイント!



● 次は岩槻郷土資料館へ行く。、、、、、この建物は、昭和5年(1930)に建てられた岩槻警察署旧庁舎。 天井の梁や窓にみられるアーチ状の造形やアールデコ調の装飾が随所に施され、警察署庁舎としての機能性と装飾性を兼ね備えた建物のデザインがみられる。 平成28年(2016)に、国の有形文化財に登録された。、、、、資料館としての展示面積・量はそれほど多くない、疲れず、時間を気にせず全部を見切れる。 岩槻城の解説は多く、地元の歴史を知る上では、良き資料となると思う。 


● 町の所々には、城下町の雰囲気を残す建物が点在する。、、、、、歩きながら観光客と思われる何組かの人とはすれ違うが、人形店はどこも閉まっており、私『雛まつりのイベント・飾りが見当たらないね? 日曜日だからか?』、妻『日曜日だからやるんじゃないの! チョイと寂しいね』



・・・・・・・・・・ 大正10年(1921)に建設された旧中井銀行の建物。 その後は銀行の建物として存続したものの経営統合を経て昭和32年(1957)に富士銀行(現:みずほ銀行)岩槻支店から人形の東玉に譲渡された。 現在は東玉大正館。 国登録有形文化財。、、、、、ここも閉まってた! 
● 「岩槻藩遷喬館(せんきょうかん)」は、寛政11年(1799)に、岩槻藩に仕えていた儒者・児玉南柯(こだま なんか)が開いた私塾。 後に藩校となり、岩槻藩の武士の子弟が勉学や武芸の稽古に励んだ。 明治4年(1871)に藩校が廃止になった後は、おおむね民家として使用されていたが、昭和14年(1939)に埼玉県の史跡に指定された。 平成15年(2003)から3年間、解体修理・復原工事を行い、公開している。 埼玉県内では唯一現存する藩校の建物。 ここでは藩士の子弟が6~7歳で入学し、20歳で終了するまで学んでいた。 最大40人ほどの生徒が学んでいた。、、、、、 「遷喬館」の名前の由来は、詩経(中国最古の詩集)の「伐木」の一節、「出自幽谷 遷于喬木(幽谷より出でて 喬木に遷る)」に由来している。 学問を欲し友を求めることを「鳥が友を求めて深い谷から高い木に飛び移ること」にたとえた内容で、学ぶ者に高い志を持つことを促す意味が込められている。、、、、、児玉南柯とは、江戸時代の後半、延享3年(1746)に甲州の豊島家で生まれ、11歳で岩槻藩士の児玉親繁(ちかしげ)の養子になり、16歳のとき藩主大岡忠喜(ただよし)に仕えた。 18歳で江戸の藩邸に勤務し、以後様々な要職を歴任し、35歳の安永9年(1780)南京船漂着事件の処理で名声を上げました。43歳のときに職を辞し、54歳の寛政11年(1799)に私塾・遷喬館を開設し、岩槻藩の子弟教育に情熱を注いだそうだ。、、、、、建物は極めて質素な造作だが、子弟の教育に私財を投げ打った儒学者の心意気に関心する。偉い!


● 岩槻人形博物館は、人形のまち岩槻にある人形をテーマとした日本初の公立博物館。 外見程大きくはないが、展示室は3つある。 まずは、人形製作の道具や材料などが展示された展示室1。 次に、日本画家で人形玩具研究家の西澤笛畝(にしざわてきほ 1889〜1965)コレクションをはじめとした日本人形を展示した展示室2がある。 展示室3では、様々なテーマにもとづく企画展が開催され、今日は「ミニチュア×にんぱく雛祭り ~江戸の職人芸から近代の創作まで~」が開かれ、小さなお雛さまが展示されていた。、、、、、日本全国の人形が展示されてはおらず、岩槻の人形が中心の博物館である。 私の期待とはチョイト違ったが、ここはここで、岩槻のひな人形を中心とした展示で面白さがあった。


● 市指定文化財「時の鐘」は、江戸時代中期の享保5年(1720)に鋳造された銅鐘。もとは、その49年前の寛文11年(1671)に当時の岩槻城主阿部正春が鋳造させたものであるが、ひびにより鐘の音に不具合が生じたため、改鋳されました。 それが、現在の鐘です。そしてこの鐘は、江戸時代以来の場所で、江戸時代に建てられた鐘楼にかけられ、今なお一日に3回(朝6時、正午、夕方6時)、鐘がつかれ、その音色が時を告げているとのこと。(残念ながら、私は音色を聴くことができなかった)
● 岩槻人形博物館の向かい側にある、曹洞宗寺院の大龍寺は、雲居山と号す。 大龍寺は、徳川家光の傅役を務めた老中、岩槻城主青山伯耆守忠俊(大龍寺殿春室宗心居士、寛永2年1625年寂)が開基となり、一峯麟曹(元和9年1623年寂)が開山したといいます。、、、、、昭和29年(1954)本堂が火災により焼失し、平成17年(2005)に再建された。 山門や本堂には立派な龍が彫刻されています。 境内には、岩槻人形の中興の祖と言われている橋本重兵衛の墓があるとのこと。

● 岩槻の町を反時計回りに巡り、最後は石段に飾られたひな人形を見るため、駅の近く、大龍寺の裏手にある愛宕神社にやって来た。 歩く先に鳥居が見える、近づくと石段と拝殿が見える。 私『アレ? ひな人形が飾られてない、どうなってんの?』 妻『何か間違っていない』 神社の掲示板に「大雛段飾り」の写真付きの案内があった。 私『なんじゃ、実施日は2/21・22・23・28・3/1の5日だけだ!』 社務所の女性も同情してくれたようだ。 『見たかった~!』、、、、、岩槻愛宕神社の創建年代等は不詳ながら、天正年間(1580代頃)に築かれた土塁(岩槻城大構)の上に鎮座、火防の神として愛宕神を祀り、寛永年間に創建した三光寺(廃寺)の境内社だったといいます。



● 我が家に帰宅後、新聞をよく見ると、記事の隅に枠入りで、開催日が示されていた。 さらに、岩槻の町のイベントも2/21(土)~3/8(日)までと記述されていた。 完全に私の早とちり・失敗・ミス!














































































































































































































