木下街道

2016年6月10日 (金)

木下街道 (鎌ヶ谷大仏~白井)

木下街道(きおろしかいどう)の散歩。 今日は新京成線鎌ヶ谷大仏駅から北総線白井駅まで、1万2千歩、9kmです。

 

①鎌ヶ谷大仏駅・・・・・・・・今日の散歩はここからスタート

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・・・・・・・・・・・・駅前の日本一小さい大仏を横目でチラリ

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・・・・・・・・・・・・駅前の木下街道、車で混んでるが、歩道には人の姿はない。

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②オヤ?こんなところに旅館が!・・・・・・・・鎌ヶ谷大仏駅近くだが、駅前とは言えず、さりとて遠くないが、街道から横道に入った処に、旅館があった。 都心なら、人目を忍ぶ逢瀬の旅館という感じだが、こちらは鎌ヶ谷の歴とした旅館である。 ホームページを拝見すると、昭和43年創業、家族・ビジネス・慶事などに利用されているようだ。、、、、、街道に面せず、派手な看板もなく、営業を続けられるのは、地元に愛されている旅館かも。
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③魚文の句碑・・・・・・・印西市木下と市川市行徳を結ぶ木下街道は、古くからの物資の輸送路であり、江戸から鹿島方面への参詣の道でもあった、鎌ケ谷宿にも松尾芭蕉、渡辺崋山など多くの文人墨客が往来していた。、、、、、鎌ヶ谷駅から北に400m程歩いた処に、松尾芭蕉の流れをくむ俳人:三級亭魚文(ぎょぶん)が、旅の途中で鎌ケ谷宿を通った時に詠んだ句碑がある。 句碑には、正面に「ひとつ家へ 人を吹き込む 枯野かな 魚文」と刻まれている。 そして、街道の道標を兼ね、両側面に「右 木をろし道」、「左 中木戸道」と標されている。
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④白井市富士・・・・・・・・・・・富士は白井市の大字。 昔、富士山を望むことができた地か?

・・・・・・・・・・・・鎌ヶ谷大仏駅から1.5km程来ると、鎌ヶ谷市から白井市に入る。、、、、、気のせいか、道路幅が広がったように感じる。
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・・・・・・・・・・・・富士地区の中程に、「富士アーケード商店街」があった。 50mぐらいのアーケードの下に、シャッターの下りた店舗を含め、両側合わせて15店舗程が並んでいる。、、、、、何年か前は、チンドン屋がチンドン太鼓とクラリネットで「野崎小唄」を奏で、人を集めたであろうと思われるような商店街。 いまは数店舗が細々と営業中。
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・・・・・・・・・・・・なぜ(?)ここに「富士」の地名、私にはシックリこないね! 静岡県を散歩しているようだ。
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⑤白井市根・・・・・・・・・「富士」の次は「根(ね)」、一文字の地名、こちらも大字。 こりゃ、また珍しい!、、、、地図を見ると、「根」の東隣に「復」という大字もある。 さらによく見ると、「木」、「中」の大字名もみつかった。 チョイと、マニアックな地名だ!
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・・・・・・・・・・・・農家の匂いが残る「根」。 いい根!
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・・・・・・・・・・・・天神社、、、、、神社の由緒は不明。 社殿は昭和5年(1930)に改築されたそうだ。 境内には、横たわる狛犬、歴代の将軍と村の有力者名を標した石碑などもある。
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・・・・・・・・・・・・競馬学校、、、、、神社の隣には、木下街道から入る横道があり、その入り口には「競馬学校」と書かれた看板が出ている。 横道を入ると、奥に、昭和58年(1983)に開校した、JRA日本中央競馬会の競馬学校正門があった。 校舎や馬場は正門の奥の奥にあるようだ。 立ち入り禁止につき、門の前で引き返す、残念!、、、、ちなみに、学校では騎手、厩務員を養成している。 全寮制、3年制で騎手は10名程/年、厩務員は25名程/年が学んでいる。
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⑥白井大橋・・・・・・・・北総線上に架かり、木下街道を通す。 昭和52年(1977)12月竣工。
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⑦白井駅・・・・・・・・白井駅(しろいえき)は、白井市復にある北総鉄道北総線の駅。 昭和54年(1979)3月9日に開業した、島式ホーム1面2線の地上駅で、橋上駅舎を有する。、、、、、昼間の時間帯、電車は3本/時間しかなく、約20分の待ち時間は、かなり長く感じるものだ。 もう少し、運転本数を増やしてほしいね。
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2016年6月 8日 (水)

木下街道 (馬込沢~鎌ヶ谷大仏)

市川市鬼越を起点とする木下街道(きおろしかいどう)の続きを歩いてきた。 今日は、東武野田線馬込沢駅から新京成線鎌ヶ谷大仏駅までです。 1万1千歩、8km。

 



①馬込沢駅
・・・・・・・・船橋駅まではここから3駅目で、都心までは約1時間。 通勤には問題ないベッドタウンである。 船橋へ向かう電車は混んでいる。

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②馬込天満宮・・・・・・木下街道と野田線が交差する踏切の脇に鎮座する天神さま。 天満宮は、江戸時代に、この辺りを開墾した一族の氏神様として祀られたのが始まりといわれている。 社殿は大正9年に改築された。、、、、、境内には、この付近にあったと思われる庚申塔が集められ、並んでいる。
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③馬込町付近・・・・・・・・船橋市と鎌ヶ谷市の市境の近くをとおる木下街道。 馬込沢駅の東側を街道が抜ける町が「船橋市馬込町」。、、、、この付近は、船橋市であるが、総武線沿線の都会的雰囲気はなく、ダンプが飛ばして通る田舎町である。 私は、「狭い歩道を よたよた親爺 怖いダンプが すり抜ける」
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・・・・・・・・・・・・街道の脇には、墓石を集めてコンクリートで積み上げた塔もある。 事故防止のおまじない?
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④道標地蔵・・・・・・・・・木下街道が鎌ヶ谷市に入ったところに「清長庵」という寺院がある。 清長庵は特定の宗派には所属していないようだ。 明治5年(1872)、明治政府は、国民皆学を目指して学制を発布し、その2年後の明治7年(1874)、この清長庵を仮校舎として鎌ヶ谷小学校が創立されたらしい。、、、、、清長庵の境内に市内最古(正徳5年(1715))の道標である「道標地蔵」がある。 その名のごとく、道標を兼ねたお地蔵さまで、正面の両脇に「ゐんざい見ち」(印西道)、「加志ま道奈里」(鹿島道なり)と標されている。 右側面には、「志゛ん本うみち」(神保道)、左側面には、「可ま加゛い道」(釜ケ谷道)と彫られている。
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・・・・・・・・・・・・境内には、この他に、庚申塔や戦没者の古い墓石などが、ズラリ並んでいる。
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⑤ナニ?コレ!・・・・・・・南鎌ヶ谷1丁目にあった看板?
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・・・・・・・・・・・・店の名前は「カワカミ理容室」。 「十九八」は“とこや”と読むのだろう。、、、、、物好きな私は、横道に入り、店を見てきた。 『なんだ、ただの床屋か!』
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⑥延命寺・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・鎌ヶ谷大仏駅周辺は鎌ヶ谷宿と呼ばれたそうだ。 今は、“知らずば素通りする”宿場の面影が薄れた街道。
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・・・・・・・・・・・・延命寺は木下街道沿いに、寛永年間(1624~1644:江戸時代)に市川中山法華経寺の末寺として建てられた日蓮宗の寺。 鎌ヶ谷大仏駅前の飛地墓地に鎌ヶ谷大仏が安置されています。
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⑦旧旅籠「丸屋」・・・・・・・・鎌ヶ谷宿には、明治初年には旅籠屋が4軒あった、その内、唯一現存するのが丸屋である。、、、、明治20年代に新築された丸屋であるが、火事で焼失したそうだ。 その後、明治30年頃、新たに建てられたのが、現存する建物である。、、、、当時は、表に上げ戸の入り口があり、客は正面から入った。 1階は賄場、風呂、自宅部分などがあり、2階には床の間付きの客室あったらしい。 しかし、鉄道開通すると旅人の通行がなくなり、宿はアパートに改装された。 戦時中は軍人の宿泊に使われたが、昭和32年にアパートに改装した。 平成に入り、アパートも閉じた。 文化財として、ぜひ、旅籠を復元して欲しいね!
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⑧鎌ヶ谷八幡神社・・・・・・・鎌ヶ谷駅の隣りに鎌ヶ谷八幡神社がある。、、、、誉田別尊(応神天皇)を祭神とし、寛永6年(1629)に創建された。 鳥居の奥には立派な本殿と拝殿があり、境内はよく掃除が行届き、駅の隣にあるとは思えない神社である。
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・・・・・・・・・・・・参道に沿って、天保年間(1840頃)の庚申塔が、ズラリ100基並んでいる。 壮観だ!
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・・・・・・・・・・・・社殿は、小粒であるが、安定感がある。
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・・・・・・・・・・・境内には、庚申道標がある。 正面に「青面金剛王」と書かれ、台座部分に、「東さくら道」、「西こがね道」と書かれ、庚申塔と道標を兼ねたものである。
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⑨鎌ヶ谷大仏・・・・・・・・鎌ヶ谷八幡神社の前に延命寺の墓地があり、そこに大仏は座り続けている。 安永5年(1776)に鋳造された、青銅製で高さ1.80m、台座含めて2.30mの大仏。 大仏は墓地の入り口近くにあり、檀家の個人が先祖の霊の冥福を祈るために作らせ、墓地の近くに祀ったらしい。 現在も、個人の所有・管理で祀られている。、、、、「大仏」と言う、中くらいの仏さま。
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鎌ケ谷大仏駅・・・・・・・・・昭和24年(1949)1月8日に開業した、新京成電鉄の駅。 島式ホーム1面2線の地上駅で、橋上駅舎を有する。
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2016年5月31日 (火)

木下街道 (船橋法典~馬込沢)

一昨日の続きで、木下街道を船橋法典駅(JR武蔵野線)から馬込沢駅(東武野田線)まで歩いてきた。 1万1千歩、8km。


①船橋法典駅
・・・・・・・・・・起点:府中本町から、終点:西船橋まで、公営ギャンブル場を数珠つなぎする武蔵野線、船橋法典駅は中山競馬場最寄り駅。 ちなみに、府中本町駅は東京競馬と多摩川競艇の最寄り駅。 戸田ボート、川口オートは武蔵浦和、南浦和乗り換えでスグ。 浦和競馬は南浦和下車。 船橋競馬、船橋オートは西船橋の隣駅:南船橋駅が最寄り駅。 『オヤ?この中に競輪場がないね』、心配無用、新秋津駅で無料バスに乗り換えれば、20分で西武園競輪場。、、、、、いずれ、武蔵野線にギャンブル・ツアーに便利な『開運 ギャンブル号』が運行されるかも。

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・・・・・・・・・・・・駅前の木下街道にでる。、、、、チョイと曇り空が気にかかる
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②七面堂・・・・・・・・・船橋法典駅から400m程歩くと、木下街道に面して、階段の上に小さな七面堂(船橋市藤原2)がある。 江戸初期の天和(1681~1684)頃に創建されたものが再建されたそうだ。、、、、、七面さまは、身延山の守護神:七面天女(七面大明神)のことで、本地は竜女、弁才天、または吉祥天であるから美女である。 堂は閉じられ美女の御尊顔を拝することはできなかった。、、、、賽銭を入れたら、『チョットだけよ!』と言って、チラット姿を見せてくれると、ありがたいのだがね。
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・・・・・・・・・・・(上の写真)階段下の墓石の形をした石の左側に小さな標柱がある。 ここに「海軍」と刻まれている。 この地は海軍が管理していたのか?
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③藤原観音堂・・・・・・・・七面堂から街道を500m程歩くと、次は観音堂がある。 またもや美女系の仏を祀る堂、こんどこそ顔を見てみたいと思ったが施錠されていた。 賽銭を入れる穴からカメラを入れてパチリ。 撮ってガッカリ、艶っぽい観音様はどこにもいない。、、、、、あとで知ったことだが、観音堂に祀られる観音様は身代わり観音と呼ばれ、大切にされ、33年に一度御開帳される秘仏だそうだ。 次は2027年になるらしい、私が仏になっているかも?
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・・・・・・・・・・・・これも、あとで知った話だが、、、、、観音堂がある、この場所には、かつて修行中の宮本武蔵が住んでいたそうだ。(嘘か真か、武蔵のみぞ知る) 松尾芭蕉や十返舎一九も鹿島神宮詣で、木下街道を通ったので、観音堂に立ち寄ったかも、この観音堂は歴史ヒストリアの舞台かも?
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④藤原神社・・・・・・・・観音堂から更に200m程進むと、街道の左側には藤原神社(船橋市藤原3)がある。 神社のある藤原新田は開墾して延宝3年(1675)に村となった。 開墾発頭人:鈴木甚右衛門家が本姓”藤原氏”であったことに因んでいる。
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・・・・・・・・・・・・この付近では、街道を歩くにも歩道幅が狭く、横を大型のダンプが飛ばしていくと、風で飛ばされそう。 歩行者には危険な道である。
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⑤上山神明宮・・・・・・・木下街道を挟んで、藤原神社の向かいに、上山神明宮の参道入口の鳥居が見える。、、、、、チョイと街道から外れ参道を奥へ進む。
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・・・・・・・・・・・・上山神明宮(船橋市上山町2)は、旧上山新田村鎮守さま。 延宝2年(1674)の創建。 広い境内には、神明造の本殿のほかに、牛頭天王宮、三峰神社、古峯神社、稲荷大明神、道祖神等の境内社もある。、、、、木立に囲まれ、『おらが村の鎮守さま』の風情が残る。
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⑥船橋市藤原5丁目付近の木下街道・・・・・・・・・狭い街道 そんなに急いで どこへ行くのか わからない
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⑦上山町3丁目の住宅・・・・・・・・藤原5丁目付近の木下街道の南側は上山町3丁目で、一帯は新興住宅地のようだ。 チョイと街道をはずれ奥へ歩いてみた。 新しい、おしゃれな分譲住宅が並んでいる。
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⑧熱田神社・・・・・・・上山町の道に、方向感覚を狂わされ、階段、坂をアップ・ダウンし、熱田神社の前に出た。、、、、木下街道の南側をグニャグニャ歩いたようだ。
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・・・・・・・・・・・・熱田神社(船橋市旭町2)は、旧後貝塚村鎮守。 樹木の茂る境内は思ったより奥行きがあり広く感じた。 社殿は、木々が邪魔し、撮影できず。
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・・・・・・・・・・・・熱田神社に手を合わせ、木下街道に戻った
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⑨馬込沢駅・・・・・・・・・・大正12年(1923)、法典駅として開業し、翌年に馬込沢駅と改称した。 地名の「馬込沢」は、駅ホームの北側がかかる鎌ヶ谷市の地名である。 駅の南側は、船橋市藤原7丁目である。、、、、、、相対式ホーム2面2線を有する地上駅だが、盛土上にホームがある。 改札口はホーム下に、半地下の状態で造られている。
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2016年5月29日 (日)

木下街道 (下総中山~船橋法典)

先日、中山競馬場の方向へ歩くつもりが、法華経寺の方角へ向かってしまった。 その時、帰宅後、地図を見たら、競馬場の近くに「木下街道」が通っていることを知った。、、、、、今日は、総武線の下総中山駅で下車し、「木下街道」の起点から街道を歩き、武蔵野線の船橋法典駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。


木下街道
・・・・・・・・・木下(きおろし)街道は旧江戸川の本行徳河岸から八幡、鎌ヶ谷、白井を経て利根川の木下河岸(成田線木下駅近く)までの約9里の街道。 江戸時代中期(元禄の頃)、江戸の人口は100万人以上となり、江戸前の魚貝類だけでは供給が間に合わず、銚子沖で獲れた魚貝類を江戸に運ぶために整備された道である。 銚子で水揚げされた魚貝類は舟で利根川を遡り、木下河岸で馬に積み替え陸路で本行徳河岸まで運び、再び舟に乗せ替えて日本橋・小網町の河岸まで運ばれた。、、、、、、現在の木下街道は、「千葉県道59号市川印西線」で、千葉県市川市鬼越(鬼越二丁目交差点)を起点として、印西市大森(中ノ口交差点)を終点とする県道である。


①木下街道起点・・・・・・・国道14号(千葉街道)の「鬼越二丁目交差点」が木下街道の起点である

・・・・・・・・・・・・国道14号(千葉街道)から見る鬼越二丁目交差点

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・・・・・・・・・・・・木下街道から見る交差点。 T型交差点の正面には、国登録有形文化財の中村家住宅がある。、、、、、車が文化財の住宅に突っ込んでいきそうだ!

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・・・・・・・・・・・・中村家の前から見る木下街道

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②中村家住宅・・・・・・・・中村家は、明治時代には陸軍御用達の馬糧商(ばりょうしょう)を営み、大正時代になると味噌醸造業に転じた。 馬糧商時代の倉庫を転用するなどして、広大な味噌工場を有し、東京方面に出荷するほどの大規模醸造所であった。 敷地内に建つ、主屋、離れ、煉瓦蔵、土蔵、北蔵及び事務所、倉庫、稲荷社、防空壕、門及び石塀、これら全ては国登録有形文化財に指定されている。、、、、、どの建物も、明治時代以降のものだが、たくさんあるので、できることなら、博物館にして公開して欲しいね。
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③高石神社・・・・・・・・鬼越二丁目交差点から50m程北へ向かった地に鎮座する神功皇后を祀る神社。 創建年代は不詳であるが、室町時代の中期(1438年頃)以前らしい。
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④立体交差化・・・・・・・・・現在、京成本線と木下街道は平面交差のため、踏切遮断による交通渋滞が著しく、また、歩道が狭く歩行者も危険なため、県は、平成11年(1999年)度から平成32年(2020)度にかけて立体交差化事業を進めている。 総事業費:約63億円で、踏切を挟み465mの区間で、幅員を36m程に広げ、車道を掘り下げ踏切の下を通すことにするらしい。 只今、用地取得中!
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⑤泰福寺・・・・・・・・京成電鉄の踏切を越えて、街道の裏を250m程北東に進むと、日蓮宗の泰福寺がある。 開山の僧:日寂はもと浅草寺(天台宗)の僧であったが、弘安年間(1278~1288)に富木常忍(とき じょうにん、1216~1299)によって日蓮宗に改宗し、泰福寺の開祖となった。、、、、、、遠い昔は改宗する僧は多かったようだ、今のサラリーマンも転職が多いからね。
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・・・・・・・・・・・・泰福寺の境内を回るように、急な坂と塀で遮られた裏道がある。 その途中に、庭の木立に囲まれ、昭和初期の建築と思われる住宅:TA邸があった。
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⑥東山魁夷記念館・・・・・・・市川市中山1丁目、木下街道に面して建つ「東山魁夷記念館」。 この建物は、東山魁夷が、戦後、死去するまで暮らしていた自宅に隣接して建てられ、平成17年(2005)11月に開館した。 魁夷の留学の地:ドイツの雰囲気を意識した、八角形の塔のある西洋風外観の建物となっている。、、、、、、上野精養軒の直営のカフェレストランで、コーヒータイムと思ったが、時刻は9:00で開館1時間前、入ることもできず、“残念でした、またのおこしを!”
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⑦中山1丁目付近の木下街道・・・・・・・木下街道は、このあたりでは、市川市中山1丁目と市川市北方3丁目の境となっている。
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⑧北方十字路交差点・・・・・・・市川市若宮3、木下街道と千葉県道180号松戸原木線の交差点。、、、、、交差点の横には、中山競馬場があり、馬券を求めて今日も多くの人が“ご来場”。 交差点は混雑するぞ!
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⑨中山競馬場・・・・・・・中山競馬場の歴史は、明治40年(1907)、松戸競馬場が開設されたことに始まる。 大正7年(1918)に、松戸から船橋へ、大正12年(1923)には、現在地へ移転する。 昭和19年(1934)から昭和22年(1947)までは、日本軍、進駐軍などに接収され、競馬場は閉鎖された。 返還後、昭和29年(1954)には、日本中央競馬会中山競馬場となる。、、、、、今日は、中山でのレースは開催されていないが、馬券は売っている、中へ入ってきた。 本日は日本ダービー(東京競馬場にて)、馬券を求めてファンがゾロゾロ。
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・・・・・・・・・・・・熱心に新聞読む人、床に座って予想する人、階段で横になって考える人、、、皆さん熱心だ!
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・・・・・・・・・・・・正門前に復元した旧正門:「メモリアルゲート
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⑩船橋法典駅・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・競馬場を出て、船橋法典駅に向け、木下街道を歩く
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・・・・・・・・・・・・船橋法典駅、、、、、、、昭和53年(1978)、国鉄の武蔵野線の駅として開業した。 ホームは掘割の下にあり、駅舎は掘割の上に在る。 島式ホーム1面2線。
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