山口の二日目は、旅立つ一週間前まで、萩から津和野に出て一泊し、三日目に東京へ帰るつもりでいた。 津和野のホテルを予約するにあたり、地図を見て気が変わった。 津和野に行かず、萩から西隣の長門に行きたくなったのだ。 理由は簡単、長門市駅から日本海に向かって伸びてる盲腸線の仙崎線と、長門市から山陽新幹線の厚狭駅までを結ぶ美祢線に乗りたくなった。 そこで、二日目の宿は長門湯本温泉に泊まることにした。、、、、ということで、二日目は午前中に婿どのお母さんの実家がある、藩の経済の中心地として栄えた「浜崎」の町を見て、午後に長門へ向かうことにした。
● 朝8時半に宿を出て、まずは「萩城跡」に向かう、、、、萩城は慶長9年(1604)に毛利輝元が指月山麓に築城したことに始まる。 明治7年(1874)に、天守閣、矢倉などの建物は全て解体され、現在は石垣と堀の一部を残すのみとなった。 現在は指月公園として600本のソメイヨシノが咲く公園になってる。 今は「城(白)がなく ピンクで彩る 指月城」 、、、、綺麗に整備された公園だ!
・・・・・・・・・・ 城跡を見たら「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋」も見て行こう!、、、、厚狭毛利家は、毛利元就の5男元秋を祖とし、毛利氏の萩移封後、厚狭(現山陽小野田市)に知行地を与えられたことから、このように呼称され、8371石余りを受領した。 萩屋敷は約15,500㎡の広大な敷地を誇っていたが、主屋などは明治維新後に解体され、安政3年(1856)に建てられたこの長屋のみが残っている。 梁間5m、桁行51.5mの長大な入母屋造り本瓦葺きの建物は、萩に現存する武家屋敷のなかでも最大の規模を誇り、国の重要文化財に指定されている。、、、、“長屋”と言っても、ここで居住したわけではなく、役人の詰所であったらしい。 冬は寒そうだ!
・・・・・・・・・・ 天守閣から上級武家の城下町を抜けると「北の総門」がある、、、、上級武家の屋敷は、どの屋敷も長が~い塀が続き、広そうだ!(我家の敷地の何十倍もありそうだ!)、、、、北の総門は城下から三の丸に入る城門として設置された。 北の総門は城下町から萩城三の丸に入るために設けられた大手三つの門のひとつで,他の二つは中の総門、平安古の総門があります。 現在の門は、平成16年(2004)に「萩開府400年」を記念して復元されもの。
● 江戸時代、港町として栄えた「浜崎」エリア。 江戸・明治・大正・昭和とと続いた伝統的建物が、一本の道沿いに約130棟残されている「浜崎伝統的建造物群保存地区」を見る。 家並みが続く通りは、ちょうど「浜崎伝建おたから博物館」と銘うって、まつりが開かれていた。、、、、街の入口近くにある網元であった婿どののお母さんの実家では、家の造り、家具、調度どれもこれも歴史ある貴重なものを拝見した。 ここで、婿どのの御一家、娘夫婦と別れ、私たち夫婦の二人旅となる。
● 浜崎エリアから夫婦二人旅となり、妻が見たい松陰神社・松下村塾と、私が見たい明倫学舎と萩駅舎へ向かう。
・・・・・・・・・・ 萩まで来たら、吉田松陰を祀った「松陰神社」と、境内にある「松下村塾」を見る。
・・・・・・・・・・ 私好みの建物は、日本最大級の木造校舎「萩・明倫学舎本館」、、、、萩・明倫学舎本館は文化庁登録有形文化財山口県第1号である。 藩校明倫館跡地に昭和10年(1935)10月10日に建てられた木造2階建の小学校舎。 東西両端と中央玄関の棟に藩校明倫館の聖廟せいびうと同じように鴟尾しびが置かれ、外壁は1階部分は簓子下見板張ささらこしたみいたばり、2階部分は白漆喰しっくい塗りである。屋根のフランス瓦や連続する窓の意匠が特徴的だ! 平成29年(2017)に改修し「萩・明倫学舎」としてオープンした。、、、、木造校舎は平成に至るまで明倫小学校の校舎として使用されていたそうだ。 私の娘婿も、歴史のあるこの校舎で学ぶことのできたそうで、チョイトうらやましいね。 明倫小学校は昭和30年代に3000人を数える児童数がいたそうで、4棟の校舎から構成される大きな木造小学校であった。
・・・・・・・・・・ 木造校舎の次は木造駅舎「萩駅」、、、、萩駅は、大正14年(1925)の現:山陰本線の開業に合わせ建てられた、現存する数少ない鉄道開通時の駅舎。 平成8年(1996)駅舎が登録有形文化財に登録された。 現在は無人駅で、白く美しい外観が目を引くレトロな萩駅舎の中には展示室が整備され、萩市出身で日本の「鉄道の父」と称される井上勝(駅舎前に銅像あり)に関する資料をはじめ、萩の美しい自然や歴史を紹介している。、、、、「萩駅」を名乗っているが、萩市役所へは隣の東萩駅のほうが近く、またかつてこの区間に運行されていた特急・急行列車も東萩駅に停車し、ごく一部の急行を除いて当駅は通過していた。 萩市の中心駅は、実質上、当駅ではなく東萩駅である。 ちなみに令和元年(2019)の両駅における一日当たりの平均乗車人員は、萩駅が50人、東萩駅が217人である。、、、、大正ロマンの香りたっぷり、ノスタルジックな郷愁を誘い、静かに佇む木造駅舎、いいね!
● 東萩駅で、山陰本線の列車に乗り遅れ、バスで長門へ移動。 バスは長門市駅前、仙崎駅前を経由青海大橋行きだった。 私達は終点の青海大橋で下車し、仙崎駅まで歩くことにした。
・・・・・・・・・・ 私がバスの終点:青海大橋バス停まで来たのには理由がある。 バス停前の「海外引揚げ上陸跡地」を見たかったのだ、碑が立っているだけである。、、、、昭和20年8月15日、太平洋戦争は日本の降伏で終わった。 当時、外地にいた日本人は、600万人以上といわれ、これらの人々を帰国させるため、国は博多、下関、舞鶴など数ヶ所の引揚港を決めた。 ところが、下関港の場合、関門海峡に沈没船や米軍が投下した機雷が残っていて危険なため、これに代わる仙崎港が選ばれた。 引揚船としては、最初、関釜連絡線の興安丸(7079トン)が当てられた。 敗戦の翌月から、外地で悲惨な終戦をむかえた復員の軍人や一般の人々7千人が、第一次の引揚者として仙崎港に上陸した。 仙崎では、寺や学校が、引揚援護の事務所や救護所、宿泊所に当てられ、応急のバラック住宅も建てられたが対応しきれず、仙崎や正明市駅(現長門市駅)付近の民家にも多くの引揚者を泊めまたそうだ。 また一方、ここ仙崎港から故国朝鮮に帰る人々も多くいたそうだ。 昭和21年末、仙崎が引揚港の役割を終えるまで、この港に上陸した人々は約41万人、ここから朝鮮に帰った人々が約34万人。、、、、戦後の昭和21年生まれの私には、仙崎港の様子は知る由もなし。 しかし、遠く満州、シベリアから引き上げる人の情報を、当時数年間、毎日、ラジオで放送されていたのは子守歌を聞くように覚えてる。 『出身地〇〇の×××雄、×××子は〇月〇日、××丸にて〇〇港に上陸する』と言う内容を、毎日アナウンサーが読み上げるのだ、大勢の引揚者の情報が延々と読み上げられ忘れられない独特の放送であった。 私は20数年前から、この放送を再び聞きたくて録音されたものを探し歩いたが、“個人情報”に該当するので公開されていないらしい。 以来、引揚船のことに興味を持つことになった。
・・・・・・・・・・ 青海大橋もバス停前から遠望できる。 橋の向こうは青海島
・・・・・・・・・・ バス停から仙崎駅に向かう「みすず通り」を歩く。 通り名の“みすず”は、童謡詩人:金子みすゞに由来する。、、、、平成15年(2003)、みすゞが幼少期を過ごした仙崎の書店:金子文英堂跡地に「金子みすゞ記念館」がオープンした。 チョイトお立ち寄り。、、、、記念館は、みすゞ通りに面したおもてに金子文英堂の建物や庭を復元し、その奥の本館棟は、遺稿集や着物などの遺品を展示した常設展示室、パソコンによる資料の検索室、みすゞの詩の世界を音と光で体感できるみすゞギャラリーなどを備え、みすゞの生涯や生きてきた時代を偲ぶことができる。、、、、私の知る金子みすゞは、ドミノ倒しのコマーシャルで有名な非破壊検査株式会社のもう一つのコマーシャルで流れる詩「星とたんぽぽ」だけだ、不勉強で申し訳ない、ゴメン!
● みすず通りの突き当りに仙崎線(=山陰本線支線)の「仙崎駅」がある、、、、仙崎駅(せんざきえき)は、昭和5年(1930)5月15日に鉄道省美禰線の貨物専用の支線として正明市駅(現:長門市駅)~仙崎駅間が開通した。 昭和8年(1933)2月、山陰本線全通に伴い、正明市駅 ~ 仙崎駅間が山陰本線支線に編入され、山陰本線支線の駅となり、さらに同年7月、旅客営業を開始する。、、、、列車はキハ120形気動車により1日6往復が運転されている。 仙崎駅 ~ 長門市駅間の1駅間(仙崎線として2.2㎞)運転の系統と、美祢線厚狭駅まで乗り入れる系統がある。
・・・・・・・・・・ 線路の先は雑草が茂る行き止まり
・・・・・・・・・・ 私が乗ってる列車は長門市駅から美祢線に入り、終点の厚狭駅まで向かう。 私達夫婦は仙崎から3駅目の長門湯本駅で下車する。 長門湯本駅で降りた乗客は、たった2名、我が夫婦だけ!、、、、駅前にお宿の迎えの車が待っていた!
● 今日の歩数は、1万5千歩!