500棟の伝統建築
今回の旅の予定は、一日目に長谷寺へ、二日目に橿原神宮と神武天皇陵へ行くことに決めていた。 そのため、宿泊先に橿原神宮駅前のホテルを予約しておいた。 しかし昨日、長谷寺と橿原神宮に参拝したので、二日目の今日は時間に余裕ができ妻と相談して、畝傍御陵前駅から神武天皇陵、綏靖天皇陵を見て、重要伝統的建造物群保存地区の今井町を歩き、大和八木駅から大阪経由(妻がグリコの看板を見たい!)で東京へ帰ることにした。
● 宿泊した橿原神宮前駅の北隣にある、近鉄の畝傍御陵前駅(うねびごりょうまええき)から今日の旅は始まる。、、、、、畝傍御陵前駅は、近鉄橿原線の駅で、大正12年(1923)3月21日に大阪電気軌道畝傍線(現在の橿原線)の平端~橿原神宮前間の開通時に「畝火山駅(うねびやまえき)」として開業した。 大正13年(1924)には、一字違いの「畝傍山駅(うねびやまえき)」に改称。 昭和12年(1937)には「神武御陵前駅」に改称。 昭和14年(1939)には、駅を現在地に移動し「畝傍御陵前駅」と改称した。 『開業から現在まで4回、名を変えてご奉公』 駅名のごとく、畝傍山が駅の正面に見え、その裾に神武天皇陵(御陵)がある。 現駅舎は橿原神宮前駅に似た大和棟風の重厚なデザインだ!

● 国の創始者である神武天皇の御陵は、畝傍山の東側の森に位置する、即位したとされる橿原神宮の北隣である。 畝傍御陵前駅から500m程歩くと、宮内庁が管理する御料の入り口(参道)がある。 参道は緩やかに右カーブし、曲がると正面に拝所が見える。 参道両側は高い木立に囲まれ、神聖な空気が漂う中を拝所に進む。、、、、、神武天皇陵の陵(みささぎ)の名は「畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)」で、遺跡名・俗称は「四条ミサンザイ」と呼ぶそうだ。 陵の形式は円丘。、、、、、神武天皇がこの地に生まれ、ここ四条ミサンザイに葬られているかは、確たる証拠もないらしい。 中世には陵墓の位置はわからなくなっていたそうだ。 江戸時代になり、水戸光圀が「大日本史」の編纂を始めた頃に幕府も天皇陵を立派にすることで幕府権威をより一層高めようとして、元禄時代に陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われた。 その時に神武天皇陵に治定されたのは、畝傍山から東北へ約700 mの所にあった小さな円墳であった(現在は第2代綏靖天皇陵に治定されている)。 しかし畝傍山からいかにも遠く、山上ではなく平地にあるため、もう少し畝傍山に少し近い「四条ミサンザイ」という小さな塚を神武天皇陵としたという説がある。 神話の時代のことで、私には真実が何かは別にして、神武天皇の実在とこの地が天皇陵であったことを信じ、崇敬し拝むこと自体に意味があると思われる。、、、、、拝所の脇に管理事務所のような建物があるが、お守り、神武天皇饅頭などの土産物は売ってない。 飲料水の自販機も無し、「さすが宮内庁!」



● 神武天皇陵の北側徒歩10分程で、第2代綏靖天皇(すいぜいてんのう)の陵墓がある。 こちらも、鬱蒼とした樹木に囲まれているが、神武天皇御陵と違い訪れる方も少ないようだ。 御陵は約30mの円墳状と推測され宮内庁が管理してる。 陵の名は、桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)です。 天皇名、陵名ともに難読だ、私には読めない、書けない、情けない!

● 奈良県橿原市の中央(近鉄:八木西口駅の南西)に「今井町(いまいちょう)」がある。 今井町は、戦国時代天文年間(1532~1555)この地に一向宗の門徒が自衛上武力を養い、濠をめぐらせ、御坊(称念寺)を中心とした町づくりをしたことに始まる。 江戸時代には、東西約600m、南北約310m、戸数1,100軒、人口約4000人強の町に成長した。 現在も今井町は1丁目から4丁目まであり、1,500棟程の建物があり、そのうち約500棟が江戸時代以来の伝統様式による建物が残っている。 伝統的建造物が全国で最も多い地区となっており、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。 また、国の重要文化財が9件、県指定文化財が3件、市指定文化財が5件あり、平成29年(2017)に日本遺産に認定された。
・・・・・・・・・・ 神武天皇陵から歩いて今井町に来ると、町の入口に「今井まちなみ交流センター:華甍」がある。 ここで、情報を仕入れてから町歩きすることにした。 センターでは、案内の女性が親切に『今日、内部を見学できる建物は、こちらとこちら、さらにこちらも』と、地図に10か所ほどマークして教えてくれた。 ありがとう!、、、、、センターの建物は、明治36年(1903)高市郡教育博物館として建てられ、昭和4年から今井町役場として使用されていた。 現在は資料館として公開されている。

・・・・・・・・・・ 今井町は堀(環濠)に囲まれた中に、道が格子状に作られているが、敵の侵入を防ぐため堀の外からは見通せないように、道の一部を屈折させている。 道幅は狭く、現在も一車線の道路である。







・・・・・・・・・・ どこの家も重要文化財に見えてしまう今井町の住宅。 どこの家も、愛情込めて皆さん住んでます、商売もしてます。





・・・・・・・・・・ 称念寺は、浄土真宗本願寺派に属し、今井御坊とも南之御堂とも呼ばれている。 現在の今井町は、この寺の境内地を中心として発達した武装宗教都市:寺内町である。 寺の草創は室町末期の天文年間織田信長が誕生したあたりで、本願寺の一家衆今井兵部卿豊寿がここに本願寺の道場を建てたのに始まる。、、、、、称念寺の本堂(重要文化財)は、入母屋造・本瓦葺・向拝付で浄土真宗初期の建築様式を残している。 創建年代は不明だが寛文11年(1671)に修理された記録が残っており、江戸時代初期の建立と推定される。 東を正面とし、桁行20m、梁間21m。 表門(山門)は多武峰談山神社(妙楽寺)より移築された門である。 廃仏毀釈の折、年代ははっきりしないが、明治2年から9年頃である。それ以前は長屋門であったと言われている。 山門脇の太鼓楼は弘化2年(1845)の建築。


● 今井町を歩き回り、食事も済ませて『イザ・大阪へ!』、、、、、近鉄「大和八木駅」まで歩き疲れて、大阪難波までは特急で30分。
・・・・・・・・・・ 道頓堀は凄い人・人・人 グリコの看板を見てると、聞こえる会話は中国語、韓国語、英語、ドイツ語、解らん言葉!
・・・・・・・・・・ 人込みを避けたつもりが法善寺 水掛地蔵に手を合わせ『長生きできますように! ついでに宝くじ一等当選もよろしく!!』



























































































